サチへ
前の飼い主の都合で、初めて 我が家に来た夜、
お前は不安でずっとないていたね。
最初、お前が我が家に慣れてくれるか心配だったけど、
少しずつ心を開いてくれたね。
小学生の時、空き地でお前とよく追いかけっこしたよね。
速かったなぁ。全然追いつけなかったよ。
買い物に行った時なんかは、柱に紐をくくりつけておけば、
きちんとお座りして待っていてくれたね。
利口なお前が本当に大好きだったよ。
可愛かったなぁ。俺もお前をよく可愛がったと思うが、
お前もよく俺になついてくれたね。
でも、年をとるにつれ、少しずつ元気がなくなっていったね。
家から五分の公園に行ってベンチにチョコンと座ったまま動かないんだもんね。
しょうがないから二人でボーっとしてたね。
なんか日向ぼっこしてるみたいだったな。
最期のほう、散歩つれて行かなくてゴメンよ。
前は庭に出るだけで駆け寄ってきたお前が、
小屋から出るのも大変そうにしてるの、つらくて見てられなかったんだ。
でもあの時、サチは死なない。死なない。
って、何の根拠もなく勝手に思い込んでいたんだ。
だからお前が死んでしまったって母親が言ったとき、
とてもじゃないけど信じられなかったよ。
冬の寒い朝だったね。小屋からでて、口を少し開けて、
本当、寝てるような感じだったよ。
あの時、頭をちょっと撫でただけですぐに二階に行ったのは、
あのままずっとお前を見ていたら
涙が止まらなくなってしまいそうだったからだよ。
もうお前がいなくなってから犬は飼っていません。
飼う気もおきません。
頭を撫でてやると耳をずらし目を細めるお前の顔は、一生忘れません。
最期の方、お前をかまってやらなくて、ゴメン。
本当にゴメン。
今でも後悔してるよ。
お前は、他人から見ればただの雑種ですが、
俺にとっては家族であり、親友であり、
そして何よりかけがえのない大切な存在でした。
高校時代からの親友、悪く言えば腐れ縁というのはよくあると思う。
そんな友達がS、W、Mの 3人だった。
年中一緒に遊んだり、バカなことやったりした奴等だった。
バカだから揃って浪人もした。
1浪後、仲間は地元の、私は一人都内の大学に進学した。
距離も離れ、また各々の大学で友達もできたりして、
以前ほど遊ばなくなってしまった。
たまに帰郷したときに連絡を取る程度だった。
大学三年の冬、当時つきあっていた私の彼女が事故にあった。
バイト先から駆けつけた時にはもう息を引き取っていた。
彼女の父親に罵倒され、彼女の母親には逆に謝られた。
私はショックで2ヶ月くらい引きこもり、体重も一気に15kgぐらいやせた。
やっとまともな生活ができるようになった頃、
Sから『久しぶりに皆で旅行にでも』と誘われた。
あいつらには彼女の事は言ってない。
今の状態で行こうか迷っていたが、
私もこのままではいけないと思い、参加することにした。
北海道に行った。
綺麗な雪景色を見て、美味い物をたくさん食べたが、
私はいまいち盛り上がれなかった。
3泊4日の最後の夜、WとMは買い物に出かけ、私はSとビールを飲んでいた。
雑談の切れ間、ちょっとした沈黙の後に、Sが気まずそうに話し始めた。
『俺らバカだから、こんなことしか思いつかなかったよ。
ごめんなぁ。
お前が一番つらいときに、力になってやれなくてごめんなぁ。』
Sは泣いていた。『いいって。いいって。』と言いながら私も泣いた。
悲しさが蘇ってきたのと、
目の前で私を気遣い泣く友人を見て涙が止まらなかった。
お互い見ていられずそっぽを向き、顔を隠しながら泣いた。
Sの話だと、地元で偶然会った私の母から聞いたのだという。
SはWとMに相談し、今回の旅行を計画したそうだ。
その後、帰ってきたWとMを交え、私達は朝まで飲み明かした。
今は私も結婚し、WとMには子供もいる。
そして今年の6月、最後まで独身だったSがついに結婚する 。
S、ありがとな。スピーチはまかせろよ。
これからもW、Mと一緒に酒を飲もう。
今日は兄の誕生日だ。私より10才年上の兄は、
私が10才の時に両親を事故で失って以来ずっと私を育ててくれた。
兄は私を育てるために大学をやめ、働きながら私を育ててくれた。
口癖は
「お前は俺の半分しか父さんや母さんとの思い出がないんだから」
だった。
授業参観にも学校 祭にも体育祭にも三者面談にも、いつも兄が来てくれた。
周囲のおばさま方の中で、明らかに兄は浮いていたが
それでもいつも兄は会社で休みをもらって学校に来てくれた。
初めて作った料理とも言えないようなものを、
美味しいと言って全部食べてくれた。
仕事で疲れているだろうに、家に帰ってきてから
私の学校での話を聞いてくれたり宿題を見てくれたり、
学校への連絡ノートも毎日欠かさず書いてくれた。
土日も私と遊んでくれて、色々なところへ連れて行ってくれた。
そんな兄には自分の時間なんてなかったように思う。
友達のを見て、お団子ヘアにして欲しい、
友達のお母さんならやってくれたとわがままを言った時
慣れない手つきで一生懸命作ってくれたのに
こんなんじゃない、お母さんに会いたいとと兄をなじってしまっ た。
兄はそれを聞いてごめんと泣き出してしまった。あの姿を思い出すたびに、
兄も両親を事故で失った子供だったんだと今でも泣きそうになる。
その兄が、一年前両親と同じように事故で突然この世を去った。
兄が死んだ時、私は兄が両親を失った時より一才年上だった。
兄はこの状態でまだ小学生の私を育ててくれたのかと思うと
それがどれだけ大変だったかと思って涙が出る。
兄は私がいたせいで友達と遊びにも行けなかった。
恋人も、出逢う暇さえ私が奪ってしまったんだ。
たくさんたくさんごめんなさいとありがとうも言えないままだった。
「ちゃんと幸せになれ」っていつも言ってくれたけど、
兄の幸せはどこにあったのだろう。今も考えてる。
もう兄に何も返すこともできないけど、兄のおかげでここまで来れた人生、
恥ずかしくないように生きられるように頑張ろうと思う。
お兄ちゃん、天国で見ててね。
今からでもお父さんとお母さんに甘えてるといいな。


Last updated September 07, 2008 0:55:21 PM
「沖縄に行かない?」
いきなり母が電話で聞いてきた。
当時、大学三年生で就活で大変な頃だった。
「忙しいから駄目」と言ったのだが母はなかなか諦めない。
「どうしても駄目?」「今大事な時期だから。就職決まったらね」
「そう・・・」母は残念そうに電話を切った。
急になんだろうと思ったが気にしないでおいた。
それから半年後に母が死んだ。癌だった。
医者からは余命半年と言われてたらしい。
医者や親戚には息子が今大事な時期で、
心配するから連絡しないでくれと念を押していたらしい。
父母俺と三人家族で中学の頃、父が交通事故で死に、
パートをして大学まで行かせてくれた母。
沖縄に行きたいというのは今まで俺のためだけに生きてきた
母の最初で最後のワガママだった。
叔母から母が病院で最後まで持っていた
小学生の頃の自分の絵日記を渡された。
パラパラとめくると写真が挟んであるページがあった。
絵日記には
「今日は沖縄に遊びにきた。
海がきれいで雲がきれいですごく楽しい。
ずっと遊んでいたら
旅館に帰ってから全身がやけてむちゃくちゃ痛かった。」
・・・というような事が書いてあった。
すっかり忘れていた記憶を思い出す事が出来た。
自分は大きくなったらお金を貯めて父母を沖縄に連れていってあげる。
というようなことをこの旅行の後、言ったと思う。
母はそれをずっと覚えていたのだ。
そして挟んである写真には
自分を真ん中に砂浜での三人が楽しそうに映っていた。
自分は母が電話をしてきた時、
どうして母の唯一のワガママを聞いてやれなかったのか。
もう恩返しする事が出来ない・・・
涙がぶわっと溢れてきて止められなかった。
Last updated August 24, 2008 10:42:26 PM