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清渓川で発見された銃筒、1592年製だった

清渓川で見つかった鉄柵の一部、宣祖代の銃筒であることが明らかに

ソウル歴史博物館の関係者が1日、清渓川の五間水門から発見された「万暦十九年銘別銃筒」を掲げて見せている。/写真=イ・ジンハン記者
 「朝鮮時代のある日、ソウルの市場通りを、上官の目を避けこっそりと昼間から酒を飲んでいた一人の兵卒がふらふら歩いていた。清渓川を渡ろうとしたところ、持っていた銃筒を誤って川に落としてしまった。東大門の近くまで流されていった銃筒は、数百年間、清渓川に沈んだままだった…」。実際にこうしたことが起きていたのかもしれない。清渓川復元工事の最中、2004年に五間水門付近で鉄柵の部材100点余りが収拾されたが、後になってこのうちの1点が、壬辰倭乱(文禄慶長の役)の前年に当たる1592年(宣祖24年)に製作された銃筒の遺物だったことが明らかになった。

 興仁之門(東大門)南側の五間水門は、清渓川の流れが都城の外へ向かうようソウルの城郭の下に作られた、五つの流路を持つ水門だ。ここは義賊・林巨正(イム・コクチョン)をはじめ大勢の人物がひそかに都城へ出入りする「犬潜り」のような役割も果たし、2004年には19世紀初めの常平通宝(朝鮮時代の貨幣)が600枚発見された。1日に遺物の銃筒を公開したソウル歴史博物館側は、「ほかの場所にあった銃筒が洪水などにより流されてきて、五間水門に設置された鉄柵に引っかかり、歳月が経過し、鉄柵の破片などと混じり合ったものと見られる」と語った。

 「万暦十九年銘別十筒」という名前が付けられたこの銃筒は、18カ月かけて保存処理が施された結果、朝鮮時代の銃筒としては今まで全く知られていなかった新たな形態のものであることが明らかになった。博物館側は「現在、韓国に残っている銃筒のうち唯一、断面が八角形になるように作られている」と語った。現在の長さは74.2センチだが、本来は120センチ程度だったと推定される。長い銃身と広い薬室による強力な爆発力から銃身を保護するため、ややがっちりした八角形に作られた、というのが博物館側の説明だ。

 この銃筒に陰刻により刻まれた銘文は、「万暦十九年三月○日、別造重十七斤六両、匠富己、中丸一小丸二十」というものだ。解釈すると、「万暦19年(1591)3月○日に重さ17斤6両で別に作った。職人の名前は富己。中くらいの弾丸1個と、小さな弾丸20個を込めることができる」という意味になる。博物館側は「銘文があることから見て、実戦で使用された銃筒だと見られる。朝鮮中期の火器技術発達史を研究するのに貴重な資料となるだろう」と語った。この銃筒は今月末までソウル歴史博物館1階のロビーで展示されている。

兪碩在(ユ・ソクジェ)記者

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
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