三「裁き」
沙都子が出て行ってからの、梨花の衰弱ぶりは目に余るものがあった。学校にも登校し始めた悟史と沙都子の姿を見るのが辛いと、部活も理由をつけて休み、教室では常に伏し目。ろくに食事もとらなくなり、炭酸飲料を胃に溜めるだけの日もあった。羽入が体を壊すと言っても、飲んでいるのがジュースなだけマシだと思えという梨花の反語。その応酬で、夜が来るというのが常になりつつあった。
梨花の変化には皆が気づいていた。だが、下手に触れられるような雰囲気でもない梨花に、圭一たちはしばらく様子をみるという決断を下し、梨花の好きなようにさせている。
羽入は、その判断が正しいと思っていた。百年ともに居た羽入でさえ、触れられない状態なのに、誰が梨花の心に触れられるというのだ。羽入自身も、しばらくすればこの状態を打破できる機会が必ず巡ってくるだろうと、せっせと食事だけを作り、静かに待っていた。
だが、その機会は望まない局面で有り得ない側面を孕んで、突然にやってきた。
梨花はその日の放課後も、部活に参加せず帰宅して、ごろごろしていた。羽入も梨花を一人にはしておけず、同じように帰宅して、今は帰宅途中に村民からもらった初物の柿を梨花のためにむいていた。
「梨花、柿さんがむけたのです。初物なので、きっと美味しいのですよ、あぅあぅ」
「いいわ……あんたが食べなさい。私はこれで十分よ」
梨花はそう言って、半分空いたジュースの瓶を振ってみせる。羽入はその様を見て、深いため息をつく。仕方なく、一口柿を頬張って、美味しいですよと梨花に告げる前に、玄関で物音がした。
「羽入、お客さんよ。あんた出なさい」
「ひゃうあぅっんぐ……」
羽入は慌てて柿を飲み込んで、玄関へと降りていった。ぺたぺたと足を鳴らして降りた先で、意外なものが羽入を待っていた。
「秋桜がいっぱいなのです、あぅ!」
目を輝かせる羽入の前に、秋桜の花束の影から、ちょっこりと沙都子が顔を覗けた。
「こんばんはですわ。元気がない梨花のお見舞いに来ましたのよ。みなさんも後で参りますわ」
「あぅあぅ、ありがとうなのです」
「これも、梨花の所へ行くといったら、知恵先生が花壇の秋桜を摘んで行ってもいいとおっしゃってくださったのですよ」
屈託なく笑う沙都子に、羽入は少しだけ心が逆立った。
「それで、今日は梨花に大事なお話があって参りましたのよ」
もじもじと、恥ずかしそうに俯く沙都子。
「あぅあぅ、お話って何なのですか……」
理由もなく、羽入の心に不安がよぎる。
「ええ、にーにーが梨花も羽入さんも寂しいだろうから、一緒に北条の家で暮らさないかと言ってくれてるのですわ。それを今日はお話に来ましたの」
曇りない笑顔が、羽入のせき止めていた感情を一息に崩壊させた。
「……らないです」
「へ、何か言いまして、羽入さん?」
沙都子は秋桜の花束から乗り出して、耳を傾ける。
「……いらないのです! 梨花は僕と一緒に二人で暮らすのです!」
羽入の叫びに、眼前の沙都子はもちろんのこと、さしもの梨花も驚いて、玄関へと降りてきた。
「どうしたの羽入。それに沙都子!」
「ああ、梨花。今わたくしが梨花も羽入さんも一緒に北条の家で暮らさないかと言いましたら、急に羽入さんが……」
「あぅあぅ! いらない、いらないのです!」
いやいやと頑なに羽入は頭を振って拒否を表す。梨花は羽入と沙都子の間に入り、双方を制止する。
「羽入、やめなさい。沙都子が一緒に暮らそうって言ってくれてるのに、何が気に入らないのっ!」
梨花はそれが自分の本心に一番近いのだと言わんばかりに、羽入を責める。
「沙都子は悟史を選んだのです! 梨花をぽいっとしたのですよ! でも僕は梨花と一緒なのです。梨花には僕がいるのです、あぅあぅ!」
羽入は、言って梨花の腕を力任せに取る。
しかし、沙都子もその羽入の言に、許せない部分をガツンと刺激された。
「言いますわね。羽入さんがそう言っても、梨花はわたくしたちと一緒に暮らしたいと思ってますわ!」
沙都子も秋桜の花束をその場に放って、梨花の空いている腕を締め上げるように取る。
「いたた、ちょっと、腕がもげるでしょ!」
梨花の苦痛をよそに、二人は互いに譲らず見事、天下に名立たる『大岡裁き』の体勢に入る。
「あぅぅ! 相手の腕がもげても離さないのが本当の愛だと、裏の神様も言ってるのですよ! だから沙都子は離すのです!」
「何をおっしゃってますの、相手が痛がる姿を見て、泣く泣く手を離すのが本当の愛でございましてよっ!」
「そういうわりに、沙都子は離さないのです、強情さんなのですよ、あぅう!」
「そういう羽入さんこそ、意外としつこいですわっ! エンジェルモートの生クリームのように、後味すっきりがよろしくてよっ!」
「あぅうう! クリームは少しくらい後引くしつこさが、幸せ持続のためには必要なのですよっ、だから僕も絶対この手は離さないのですっ!」
「いだだだだだっ! あんたたち、いい加減にしなさいっ、とれるもげるぅううう!」
梨花にしてみれば、体を両側に裂かれるような拷問に等しいものだ。確固たる敵に対する時は強情になれても、これは違う。愛と愛がぶつかり合うと、こんなに激しいものなのかと、痛みに薄れだした意識の中で考える。当の羽入と沙都子はその愛しい梨花がぐったりとどこかへ旅立とうとしているのさえ、無視して互いの愛の深さをぶつけ合う。
「あぅううっ!」
「むぐぐぐっ!」
<続く>
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