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おかえりとさよならと



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     二「策略」

 劇的な悟史の帰郷から、沙都子の毎日は変わった。毎日部活に参加することもなく、病院へ足しげく通い、北条家の手入れにも、今まで以上にぬかりがない。
「みぃ沙都子。今日の晩御飯は沙都子の好きなプリンがデザートなのですよ。だから早く帰ってくるのです、にぱ〜」
「ごめんあそばせ、梨花。今日は病院にねーねー……し、詩音さんがお弁当を持ってきてくれるのでございます。だから夕飯はにーにーと三人で食べてまいりますわ。わたくしの分のプリンは梨花にさしあげますわよ」
 たまに顔をあわせる時間が出来ても、そんなやりとりが積み重なっていった。
 その鬱積を晴らすように、梨花は日増しに夕食で激辛キムチを食べる分量を増やし、ついに今日はご飯一膳で一カップ全てを食べきるという暴挙に達した。
「あぅあぅあぅ、梨花。付き合わされる僕の身にもなってほしいのですよぉ」
「黙りなさい。あんたはあぅあぅ言うヒマがあったら、せっせと口に詰め込んで、ノルマを食べきりなさい」
 梨花は行儀のことなど忘れて、羽入を手にした箸で指す。
「あひゅ、からいのでひゅよ、梨花ぁ〜あぅあぅ。もう許してほひぃのでふよ、あぅ」
 それでも必死に水をあおりながら、胃におさめていく健気な羽入。しかし、それさえも梨花はまだ足りないと言うように、羽入のカップへと、キムチを追加する。
「まったく、賞味期限が今日までだから、半額だったのを、沙都子の分も考えて買ってきたんだから、キリキリ食べなさい。先はまだまだ長いわよ。ったく、恨むならここにいない沙都子を恨むのね」
「あぅあぅあぅ」
 涙を溜めながらも、羽入は梨花のよこしたキムチを、腫れ上がった唇の囲む口へと入れていく。
「あぅ……梨花。近頃、沙都子がお留守がちなので、おかしいのですよ……」
「うるさいわね」
 梨花は羽入の言葉を、キムチと一緒に噛み砕く。梨花自身、このじっとしていても沸々と腹の底から立ち上ってくる、いらいらの正体がつかめないのだ。梨花は百年の魔女を卒業してからは、とっておきを口にすることも羽入に止められて、やめてしまった。こんな時こそ、それを思い切り胃に流し込みたい気分だったが、すでに貯蔵もない。
「ああ、イライラするわ!」
「梨花……それは」
 羽入は告げかけて、口ごもる。梨花は原因不明のように言っているが、羽入はその感情がなんという名称で扱われているかを、知っている。しかし、それを告げてしまうことは、なぜかよくないことを起こすように思えてしまうのだ。
 しかし、このまま梨花を放って置いたら、そのうちかんしゃくを起こして、そこいらの物にまで当り始めるかもしれないと、羽入は額に汗を溜める。
「ぁぅぁぅ……り、梨花……」
「何よ……今どうやってこのイライラを排除してやろうかって思案で忙しいんだから、手短にしなさいよ」
「あぅ……梨花のそのイライラはきっと沙都子がいなくなるという予感がさせているのですよ……」
「沙都子がいなくなる?」
 梨花はその意見が、いかにも自分の考えの及ぶ範疇外から降りてきたもののように、目を丸くする。
「いなくなる? バカなこと言うんじゃないわよ、このあぅあぅ神! また祟りだのなんだのでも起きるっていうのっ!」
「ち、違うのですよ、梨花……そういういなくなるではないのです、あぅあぅ」
 羽入は目を引き剥いて、言葉を投げつけてくる梨花に、ぱたぱたと両手を振ってみせる。
「じゃあ、なんだって言うの! 百字以内できっぱり説明してみせなさいよ!」
「ひゃ、百字って、僕はお勉強ニガテなのですよ、あぅあぅ……つ、つまりなのですね」
 羽入はもったいぶっているわけではないが、梨花には言葉を選んでいる姿さえ、イライラするの原因のように、こらえきれない。
「早く言いなさい! さっさとしないと、その角引っこ抜いて、中にチョコ詰めて食べるわよ!」
「あぅぅ、僕の角はチョココロネではないのですよ、はぅあぅ……梨花は忘れてるかもなのですが、過去に訪れた欠片の世界では、ごく稀だとはいえ、悟史が帰郷してきた世界もあったのです。その時、必ず沙都子はここから出て行って、悟史と暮らしますです。それは沙都子の想いならば仕方ないことなのですよ、あうあう」
 羽入はできるだけ柔らかな言葉で、包んだつもりだった。ただ、過去に片手で足りるほどの数であるにせよ、梨花はそれを受け入れたし、乗り越えもしたことを思い出して欲しかったのだ。
「……要するにあんたは、沙都子がいなくなることを私が受け入れられなくって、お菓子が欲しいだのってみたいに、駄々をこねてるだけだって言いたいの?」
 梨花は静かにキムチをつまんでいた箸を置き、目を閉じた。そして、小刻みに肩を振るわせ始める。
「くくくくく……」
 地を這ってくるような笑い声。
 それは梨花が何かよくないことを企んだ時の合図だと、羽入は唇を震わせる。
「これが、喪失感ってやつなのね……くく、そうなら、話は簡単よ」
「な、何が簡単なのですか、あぅあぅ」
 梨花は羽入の問いが耳に入らないかのように、自己完結して立ち上がる。
「要するに、沙都子がこの家から出て行けないようにすればいいのよ!」
 梨花はポーカーの初手が、ロイヤルストレートフラッシュだったように、天井へと腕を突き上げる。
「あぅぅ何をするつもりなのですか、梨花……顔が怖いのですよ、あぅあぅ」
「くく、あんたにも手伝ってもらうわよ、羽入……」
 こうして、不気味な笑みを合図に、梨花の沙都子引止め作戦がはじまった。
「作戦を寝かせてる暇なんてないわ。早速、今夜から行動を開始するわよ」
「こ、今夜からなのですか?」
 沙都子は放課後や休日に病院や北条家に入り浸っているとはいえ、夜は今まで通り、この家に帰ってきて就寝する。梨花が立案したのは、そこを上手く利用する作戦だった。
「……以上が概要よ。沙都子は私が誘導するから、あんたはいつも通りあぅあぅ言ってればいいわ。その代わり、与えた任務はきちんとこなすのよ」
「あぅう、わかったですが、本当にそんなことしていいのですか梨花……どう考えても、よくないことなのですよ」
 羽入のしぼんでいく意思を無視して、階下にある玄関で物音がした。ついで、沙都子の帰宅のあいさつが聞こえる。
「ぶつぶつ言わないで、沙都子が帰ってきたわ。キリキリやんなさいよ!」
 梨花のとどめが終わると同時に、ドアが開き、沙都子が入ってきた。
「ただいま帰りましたわ。梨花、羽入さん」
 沙都子は掃除でもしてきて、余程疲れたのか、自分で自分の小さな肩をさすっている。
「みぃ! おつとめご苦労様なのですよ」
「ええもう、すぐにでも、にーにーと一緒に暮らせそうですから、これくらいはへっちゃらですことよ、を〜ほっほほほ」
「沙都子は頑張りやさんなのです。そんな沙都子の喉が渇いてると思って、美味しいジュースを用意しておいたのですよ、にぱ〜」
 梨花が沙都子の前にドンと取り出したのは、瓶入り炭酸飲料。オレンジ、グレープ、メロンの三本だった。全てを摂取すれば、内容量は一リットルの半分を超える。沙都子のお腹に対しては、明らかに限界超過だ。しかし、これは梨花の作戦の第一段階である。
「り、梨花……嬉しいのですが、さすがにわたくし一人には多過ぎましてよ。ちょうど三本ございますし、みんなで頂きませんこと?」
「みぃ〜ボクと羽入は先に飲んじゃったのです。だからいいのですよ、にぱ〜」
「あぅあぅ」
「それに沙都子はお掃除とかでいっぱい汗をかいているので、水分をいっぱいとらないと、大変なことになってしまうのですよ」
 梨花に言われて、沙都子は服の肩口に鼻をよせる。
「ジュースよりも、お風呂が先な気もしてきましたわ……」
「みぃ! それはもっとよくないのです! 水分が足りていないのに、お風呂でまた汗をかいたら、頭がくらくらでぱたりで、ぴーぽーぴーぽーなのですよ!」
 梨花はのぼせて卒倒するような身振りをしてみせて、栓抜きで次々と瓶を開けていく。それは言外の「全部飲め」という圧力に他ならない。少々行き過ぎた感のある行動に、羽入は冷や汗を垂らしながらも、あうあうと言い続ける。
「そ、そうですわね。もう開けてしまったものは飲みませんと、もったいないですわ」
 そう、しぶしぶで口をつけた沙都子だったが、飲みはじめて止まらなくなった。乾いた喉に染み渡る炭酸の心地よさに加えて、水分が全身に行き渡る感覚に、それ以上の御託は並ばなかった。そもそも、滅多に口に出来ない炭酸飲料が、目の前に飲み放題のように用意されていて、沙都子はそれに流されても仕方のないお年頃なのだ。
 ぐいぐいと飲み干されて、次々と並べられる透明の瓶を見て、梨花はほくそえむ。
「みぃ〜空瓶は明日、羽入が引き換えてきてくれるので、またお金がもらえるのですよ」
「はぅあぅ、僕が行くのですね……」
 うな垂れる羽入を無視して、梨花は満足そうにお腹をさする沙都子をお風呂へと促した。
「さぁて、第一段階は完璧よ。後はお風呂あがりで決めるわ」
「あぅ、梨花……本当に続けてやるのですか?」
 羽入は未だ渋っている。
「もう、二度は言わないわよ。私が布団を敷くから、あんたは空瓶洗って、次の準備でもしてなさい」
 梨花はまた黒い笑みを浮かべつつ、押入れのふすまを開けて、三組の布団をせっせと敷いて、寝床の準備に勤しむ。一方、羽入も言われた通り空瓶を洗い、それに水を溜めた。
「梨花、こんなの絶対上手く行きっこないのですよ。やめようです、あぅあぅ」
「わかってないわね、羽入。結果の真贋は大した問題じゃないのよ。その結果を生む可能性がある原因さえ与えられれば、成功したも同然なのよ……くくく」
「あぅう、梨花の言ってることが難しいのですよ」
「人は、物事を順序立てて考えるわ。結果に至るまでの過程から、逆算して原因をつきとめる。人が聡明であるがゆえに、陥りやすい虚偽の罠よ」
 羽入はうーんと頭をひねってから、呟く。
「虚偽……ウソってことなのですか?」
「そう、結果がウソだとしても、それを引き起こすに値する要因を自分で『してしまった』と思うことで、十分ってことよ。そして今、沙都子は大量のジュースを飲んでしまった……それで十分なのよ」
 梨花は敷き終えた布団をぽんぽんと打って、その上に腰掛ける。そして作戦の第二段階を煮詰めなら、沙都子を待つ。まごついていた羽入も、梨花からの無言の眼力で配置につく。といっても、先に布団で寝そべり、タオルケットにくるまって、狸寝入りするだけだ。
 梨花がこれから使用する筋道を確認し終えた直後、沙都子がお風呂から上がってきた。
「いいお湯でしたわ。梨花も羽入さんも入ってくるといいですわよ」
「みぃ、ボクらはいいのですよ。沙都子が入る前に頂いてしまったのです。羽入もこの通り、もうおねんねなのですよ、にぱ〜」
「ぁぅ……」
 羽入の寝息に頷いた沙都子は、自分も敷かれた布団に腰を下ろす。
「なら明日も早いですし、もう寝ることにいたしましょう」
「みぃ、それがいいのです……けど、もうすぐ悟史と暮らせる沙都子にひとつ、ボクから大事なテストがあるのです」
「テスト?」
「みぃ、これは沙都子が立派なレディになれたかどうかを試す、最終試験なのです!」
 梨花は鼻息荒く、沙都子に伝える。沙都子も、立派なレディかを試すテストと言われては、黙っていられない。
「わかりましたわ、受けて立ちますことよ」
「よく言ったのです、沙都子! 沙都子、レディが夜しないことは、何かわかるですか?」
「レディが夜にしないこと……で、ございますか?」
 梨花の質問に、沙都子は指を唇にあて、首をかしげる。が、答えは出てこない。
「沙都子、それは『おねしょ』なのです!」
「お、おねしょですって!」
 沙都子は驚きつつも、それを否定しない。悟史が認めるレディになること、そしておねしょ。とても結びつかないこの二つの点が、沙都子という線で結ばれる。
「沙都子が、今もちょくちょくおねしょしてしまうなんて知ったら、悟史はがっかりなのですよ、みぃ」
「そ、そうですわね……」
 梨花は沙都子のまだ水分を含んだ髪を撫でながら、優しく心に浸透するように告げる。
「今夜、おねしょしなかったら、沙都子は合格なのです。でもしてしまったら、もう少し悟史と暮らすのは我慢して、おねしょを治して、立派なレディになってからにするのですよ。それまでボクが定期的にテストしてあげるのです、にぱ〜」
「た、確かにそうですわ。にーにーと一緒に寝ていて、そこでおねしょなんてしてしまったら……わたくし、嫌われてしまいますわ!」
 立派なレディが兄と添い寝をするかどうかはともかく、梨花は内心でガッツポーズを決める。
 沙都子は、見事に梨花の作戦に落ちたのだ。
 大量にジュースを飲んだ沙都子は、おねしょという単語から、布団の世界地図が仕組まれたものだとしても、それが自身のものだと思ってしまう。それが心理戦を巧みに取り込んだ、梨花の沙都子引止め作戦の内容である。
「ささ、今夜はもう寝て、テスト開始なのです。きっと沙都子なら大丈夫なのです!」
 梨花は沙都子にタオルケットをかけながら、自分も寝入る準備をする。背中を向けてタオルケットだんごになっている羽入へと、鋭い眼力を飛ばす梨花。睨まれた羽入のタオルケットがびくんっと跳ねたのを確認して、黒い髪に埋もれ、沙都子と共に眠りについた。
 寝息と虫の声が支配する、深夜とも早朝とも言えない時間。
 もぞもぞと羽入はタオルケットの中から這い出してくる。むろん、梨花たちが寝入る前から、一睡もしてはいない。
「あぅぅ……」
 羽入が梨花から受けた使令は、もちろんおねしょ工作である。羽入は水場に置いていた水が入ったジュース瓶を手に、沙都子の布団の横に静かにしゃがんだ。後は手を傾けて、瓶の中身を注げばいい。だが、瓶を持つ手が震える。
「梨花、僕は、僕は…………」
 夜が明けていくのとは逆に、羽入の心は、深く暗い井戸に落ちていくようだった。
 そして、山鳩とスズメの合唱がはじまる頃、小さな住居が揺れるほどの歓喜が起こった。
「やりましたわーっ! 梨花、わたくしおねしょしませんでしたわっ!」
「えええ、な、なんでっ!」
 梨花の賞賛よりも早く出た怪訝な声に、沙都子は首を傾げる。梨花もそれを見て、慌てて言葉をなおす。
「み、みぃ偉いのです、沙都子! こ、これで立派なレディなのですよ、にぱ〜」
 ここまで、言葉と裏腹な心も珍しいだろう。梨花は顔で笑いながら、沙都子から死角である踵で、羽入が入っているタオルケットをぐりぐりと踏みつける。
「ぁぅぁぅ……」
 小さな苦悶に、沙都子はまた首を傾げる。しかし沙都子はテスト合格の喜びに浸り、自らへの勝利宣言のように、いそいそとトイレへと消えた。
「……どういうことよ、羽入!」
 沙都子が消えたと同時に、梨花は羽入のタオルケットを剥ぎ取り、詰め寄る。
「あぅあぅ、違うのです。ぼ、僕も寝てしまったのです、わざとじゃないのですよ」
 梨花の完璧に見えた作戦も、こうして失敗に終わった。梨花が、ならば次の作戦だと歯噛みしていた矢先、玄関で声がした。
 こんな早朝とも言える時間に、非常識な来客である。だが、非常識であるがゆえに、それが許される間柄というものがある。
「やぁ、おはよう梨花ちゃん、羽入ちゃん。沙都子はいるかな?」
 そこには、朝日を背負った悟史が立っていた。梨花がなぜと問う前に、奥から沙都子が飛び出してきた。
「にーにーっ!」
「沙都子。いいお知らせだよ。入江先生がもう大丈夫だって言ってくれたんだ。これで、今日から沙都子と一緒にあの家で暮らせるよ」
「にーにー、にーにー!」
 大粒の涙を滴らせ、悟史に抱きついたまま離れない沙都子。梨花と羽入はそれをどこかの絵画でも鑑賞するかのように、見ていた。
「沙都子……よ、よかったのです、にぱ〜」
 体裁を繕ってみせたところで、梨花の背中はとても寂しそうだった。
 しかし、それでも返された、沙都子の笑顔を見てしまうと、その場では何も言えなかった。羽入もそんな梨花をどうすることもできず、悟史と一緒に先立って登校して行く沙都子を見送ることが精一杯だった。
 あまりにも、何もかもが突然過ぎた。梨花には次の引止め作戦を考案する暇さえなかった。
 放課後になると、お別れパーティをする暇もなく、沙都子は荷物をまとめて、悟史のお迎えに笑いながら手を振って、梨花と羽入のもとからいなくなった。
 沙都子が出て行った夜は、二人には静か過ぎた。呟く声さえも、透き通って遮るものなく、どこまでも届いていきそうだった。
「羽入……私はね、これでも少し期待していたのよ……少し、少しでも沙都子が私たちと離れることを寂しがってくれるんじゃないかって……バカみたいね」
「あぅぅ、梨花はおバカさんではないのです。僕だって沙都子にそう思って欲しかったのです……」
「それがどうなの。このあっさりとした幕引きは……沙都子は寂しがるどころか、遊園地にでも行くみたいなはしゃぎようだったじゃない。私と過ごした時間は何だったのよ」
 梨花はぶつぶつと口の中でこぼす。
 四肢にも力なく、だらりと畳の上に投げ出している。
 羽入はそんな梨花を心配するが、いったいどんな風に言葉をかけていいかわからない。
「ねぇ羽入……沙都子にとって私は何だったの……悟史が帰ってくるまで、代わりに抱いて寝るぬいぐるみでしかなかったのかしら……私にとっての沙都子は何だったのかしら……私は沙都子の体温に随分と助けられたわ……私はただ、それがなくなったことだけが、寂しいのかしら」
 自虐を通り越した独り言は、羽入に向けられたものではない。もう居ない沙都子の後姿に投げられたものだった。
「梨花……今の僕には体があるのです……僕にだって梨花にあげられる体温があるのですよ……あぅあぅ」
 羽入の精一杯の言葉は、しなだれた梨花には届かなかった。


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