視覚より聴覚。低く唸るような音が聞こえてくる。どこかで聞いたことがある音だ。記憶の中で探してみると、それは台所の換気扇の音に近いだろう。でもここは台所ではない。嗅覚が感じ取る匂いが、懐かしい夕方の匂いというよりも、注射の時に使うアルコールがたっぷりと染み込んだ、ガーゼの鼻をつくものだからだ。
うっすらと開いていく視界に、沢山の穴が開いた、白い天井がおぼろげに浮かんでくる。白い壁、白い床。全てが白という潔癖な構成であるほどに、それらが無機質だということが際立ってくる。
だけど、見えるもの全てが濁った色をしているので、それらが本当に白い色なのかは自信がない。世界がまるですりガラスの向こう側のようなのだ。
横になっているのか、立っているのかさえ、はっきりとしない。
混濁した意識の中で、手に入れた情報を構築して、やっと今自分が病院のような場所の、ベッドに寝ているのだと悟る。体は重く、意識に反して、手足は思うように動かない。これは寝返りを打つことさえ困難だと、むぅっと唸った矢先に、天井から、ぽつりと雨粒が落ちてきた。
随分と老朽化が進んだ建物にいるものだなと、情報を付け加える。よほど激しい雨が降っているのだろうか。後追い続け落ちてくる雨粒に疑問を投じるけれど、雨音は一向に耳へは届いてこない。代わりに聞こえてくるのは、誰かの嗚咽だ。やけに温い雨粒を受けながら、それが頬を伝い、鼻先を掠めたときに気づく。
それが夕焼けの匂いを持っていること。
嗚咽の中で、小さく何かを呟く声。名前。懐かしい、どこかで聞いた名前だった。
「ぼ……く、の……名前……」
「悟史くん!」
一際大きく、弾むように耳から伝わり、脳の裏まで突き抜けた声。それが澱みの中から、覚醒へと意識を連れ出す。
「し、おん……た、だいま……」
搾り出した声に返事はなく、頷きにつれて、ただ熱い涙が途切れることなく、降り続いていた。
おかえりとさよならと
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