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茜雲 〜祭囃し編 墓参りの前日に〜
(あかねぐも 〜まつりばやしへん はかまいりのぜんじつに〜)



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 その数分後、精も根も尽き果てた私は、大の字になって道場の床板の上にぶっ倒れていた。床板のひんやりとした感触が熱った肌に気持ち良い。最後のオチはともかく、休みなしで稽古に付き合わされた体はくたくたに疲れきっていた。お腹が空腹を訴えて「ぐ〜ぐ〜」と悲鳴を上げている。
「いつまでそんな所でだらしなく寝転がっているつもりだい? ほら、遅くなったけど、おやつを用意しておいたから縁側の方に来な!」
 何時の間にか道場から姿を消していた母さんが、不意に隣の縁側から声を掛けてきた。ちらりと道場の壁に掛けてある時計を見る。おやつの3時はとうに過ぎ、午後4時を少し過ぎていた。
「……お、気がききますねぇ。ありがたく頂戴いたしま〜す!」
 すっかりお腹が空き切っていた私はぴょこんと起き上がり、飛ぶようにして縁側に駆けて行った。
 夕暮れ前のやわらかな日差しが、縁側に面した中庭に降り注いでいる。母さんは縁側に腰をかけて、庭先に群れるように咲いている青い紫陽花を眺めていた。母さんの隣に置かれた漆塗りの丸い盆の上には、小豆色のおはぎが山盛りに盛られた菓子皿と、氷が浮かんだ麦茶のグラスが二つ載っていた。
「ほほぉ、美味しそうなおはぎですねぇ」
 盆を間に置く形で隣に腰掛けると、母さんは私の鼻先におしぼりを差し出した。
「ほら、ちゃんと手を拭いてから頂きな。鬼婆様お手製のおはぎだよ」
「鬼婆様が作ったおはぎですかぁ? そりゃまた豪勢なことですねぇ。……嫌がらせに、針とか毒とか仕込んであるんじゃないですかぁ?」
 わざと疑わしそうな目でおはぎの山を覗き込むと、母さんは苦笑を零しながら割り箸を私の手に押し付けてきた。
「馬鹿な減らず口を叩いてないで、ありがたく頂きな。嫌ならさっさっと片付けちまうよ」
「あわわわわ、ありがたく頂かせてもらいますぅ。もう、お腹ぺこぺこで、口に入るものなら鬼婆様の作った怪しげな料理でもお菓子でも何でもOKですよ〜!」
 私は急いで割り箸を二つに割ると、早速おはぎを一つ摘まんで口一杯に頬張った。粒餡のほどよい甘味が、稽古で疲れた体を包み込むように癒してくれる。勿論、針も毒も仕込まれてはいない。あからさまに私を疎んじている鬼婆様は天敵ではあるけれど、昔から時折食べる機会があった、このおはぎの味だけは、何故か今も好きだった。……小さな頃に好きになった味は一生忘れないという。それはきっと、私がまだ『魅音』だった幼い頃に、本家でよく食べた懐かしい味だからなのかもしれない……。
 不意に浮かんだ嫌な思い出を飲み込むように、残りのおはぎを口の中に押し込んだ。喉を鳴らしてぐびぐびと麦茶を飲み干し、私はようやく人心地がついたように大きく息を吐き出した。
「ぷあ〜〜、五臓六腑に染み渡る〜〜ッ! 稽古の後の冷えた麦茶は格別ですねぇ、生き返ります〜〜!」
「麦茶くらいで大げさな子だねぇ。……でも、汗をかいたら気持ちがスッキリしただろう? いつまでも部屋に引き籠もっていたら、梅雨時のカビみたいに気分までじめじめと湿って腐っちまうよ。たまには思い切り体を動かして、身も心もリフレッシュさせるのが一番いいのさ」
 言われた私はグッと息を詰まらせた。
 ……私が自室に閉じ籠りがちになるのには理由がある。私は両親とあまり顔を合わせたくなかったのだ。バイトや図書館に出かけて時間を潰したり、お姉や沙都子のいる雛見沢にしょっちゅう遊びに行ったり、隠れ家のマンションに何度も泊まり込んだりして自宅を留守がちにするのも、そういった理由からだった。だから自宅に居る時は、能天気に振舞いながらも自室に引き籠もることが多かった。その理由を家族の誰にも話すつもりはなかった。守役の葛西にも外泊の理由を「家の中にいると親がうるさくて窮屈だから」と誤魔化していた。……けど、私が意識して避け続けていたことを、母さんはとうに気付いていたみたいだ。だから稽古に託けて、私を何度も此処に引っ張り出していたんだ……。
「……お前、明後日の綿流しの日には、本家に顔を出すのかい?」
 返事に困った私を追及することなく、母さんは何気なく私にそう聞いてきた。
 そういえば、今日はもう6月17日だ。明後日の6月19日が、年に一度の綿流しの祭りの日――。
 左手の歪に生え揃った三本の指の爪が、不意に疼いた気がした。一年前の綿流しの記憶を呼び起こすかのように……。

 ――悟史くんが失踪してから、もう一年が経とうとしている……。

 複雑な思いが胸に去来し、私は少し返事に躊躇した。……が、すぐに気を取り直して、何時も通りに振舞ってみせた。
「ん〜〜、せっかく親戚が集まる年に一度のお祭りですから、挨拶がてら、お姉の顔を見に行こうと思ってます。お姉一人じゃ手が回らないだろうから、早めに行って鬼婆様の差障りのない程度にお祭りの準備を手伝ってあげようかなぁ〜と……」
「……そうかい。それじゃあ本家まで、葛西に車で送らせるよ」
「小さな子供じゃあるまいし、別に葛西に送ってもらわなくても大丈夫ですよ」
「お前を一人で行かせたら、変な所にふらふら寄り道しかねないからね。祭りに浮かれて馬鹿なことをしでかさないように、お目付け役も兼ねて、葛西に同行してもらうよ」
「ちぇ〜、私ってそんなに信用ないんですかぁ?」
「学園を脱走した揚句、潜伏まがいの家出をしでかした娘を、何処の親が信用するっていうんだい?」
 口を尖らせて抗議した私を、母さんは苦笑しながら一蹴した。
 母さんが言っていることは嘘ではない。紛れもない真実だ。だから私はぐぅの音も出ず、決まり悪げな顔を背けるしかなかった。逃げるように逸らした視線が、菓子皿に盛られた手付かずのおはぎの上で何気なく止まった。
「……そういえば、鬼婆様は綿流しのお祭りが近くなると、毎年必ずおはぎを作りますよね。これってやっぱりお祭り用に作ったやつなんですか? 祭りの日におはぎを振舞う意味とか謂れとかあるんですか?」
 綿流しのお祭りが近くなると毎年実家に届けられる鬼婆様のおはぎ――奇妙な符合が気になって、私は母さんに問い掛けた。母さんは庭先に咲く紫陽花を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。
「別にこれは祭り用のおはぎじゃないよ。……明日の墓参りのために作ったおはぎのおこぼれさね」
「墓参り? 誰の?」
「……大石の旦那の知人さ。4年前に亡くなった、ダム工事の現場監督をやっていた頑固親父さね」
「げ、現場監督の墓参りに行くんですかぁ!? ……ど、どうしてまた?」
「別に不思議がることでもなんでもないよ。何時ものことさ。鬼婆様のおはぎと、家の庭に咲いた紫陽花をお供え物として、毎年私が参っているんだよ。鬼婆様の名代としてね」
 母さんはそう言いながら、顎をしゃくって庭先に咲く紫陽花を指し示した。私は仰天しながら目の前の紫陽花に視線を向けた。庭の紫陽花は母さんが丹精込めて育てたものだ。
 鬼婆様のおはぎと母さんの紫陽花――毎年その二つを現場監督の墓前に供えていたとは、俄かに信じられない話だった。
 ダム工事の現場監督といえば、雛見沢の住人が村をあげて国を相手に戦ったダム戦争時代の仇敵の一人だ。反ダム抵抗組織『鬼ヶ淵死守同盟』の筆頭となって戦った園崎家にとっても、現場監督の親父は仇敵中の仇敵だったのだ。まだ小学生だった私も祭り感覚で妨害活動に参加し、それを阻止しようとする敵の親玉の現場監督に、あの手この手で反撃を試みた。手に思い切り噛みついてやったり、鳩尾に肘をくれてやったり、はたまた嫌がらせに現場監督の車に十円傷を作ったりタイヤをパンクさせてやったりもした。
 しかし4年前の綿流しの日に現場監督は連続怪死事件の最初の犠牲者となって亡くなり、その後、ダム工事は中止となってダム戦争は終結した。――終結したが、今もダム戦争時代の遺恨は様々な形で尾を引き続けている。
「現場監督の墓参りのために、鬼婆様は毎年この時期におはぎを作っていたって言うんですか?」
「そうさね。あの親父は酒飲みだったから甘いものが苦手だろうって、鬼婆様はわざわざ砂糖抜きの特製おはぎを作って、墓前のお供えに用意してなさるのさ。私らが御馳走になっているのは、そのついでに鬼婆様が作ってくれたおはぎってわけさ」
「でも、あの……なんか変じゃないですか? 現場監督は園崎家の……雛見沢村の仇敵だったじゃないですか。それに、確か現場監督が亡くなったのは、6月19日の綿流しの祭りの日だったはず……明日の墓参りは命日より一日早いんじゃ……」
「本当は命日に参るのが礼儀だけどね、その日は祭りの準備やら挨拶周りやらで忙しいから、一日前倒しに参らせてもらっているんだよ」
「綿流しの祭りの日と被っているから、それで命日の一日前に墓参りですか……」
「そういうことさ。今年も一日早い明日の早朝に墓参りに行くつもりだよ。綿流しの祭りと被ってなきゃ、19日の命日に参りたいところなんだけどねぇ……」
「……そんなこと言っちゃってぇ、本当は大石のおじさまと鉢合わせしたくないから、わざと一日早くしているんじゃないんですかぁ?」
 茶化すようにそう言ってみると、母さんは僅かに顔を顰めて苦笑した。
「あからさまに嫌なことを言うねぇ、お前は。……大石の旦那も、命日の一日前に毎年墓参りに来ているよ。何時も夕刻に来ているみたいだから、生憎出くわしたことはまだないけどね」
「えっ、大石のおじさまも一日前に墓参りに来ているんですかぁ?」
「そうさ。大石の旦那にとっちゃあ、現場監督の親父は古い付き合いの大恩人だったらしいからね。毎年欠かさず参っているみたいだよ」
「……大石のおじさまと現場監督が、そんなに親しい関係だったなんて初耳ですよ。だから大石のおじさまは、現場監督の仇打ちのために、あんなに連続怪死事件の捜査に執念を燃やしちゃっているわけですか……」
「大石の旦那は今年で定年を迎えるそうだからね、今が最後の正念場なんだよ。恩人を殺した犯人を捕まえられないまま退職するのは、刑事として無念だろうからね……」
 現場監督を殺した主犯格の男はまだ捕まっていない。バラバラに切断された体の一部もまだ見つかっていないままだ。


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