昭和58年6月17日、初夏の午後。
ビュン――と、鼻先に熱い衝撃が駆け抜ける。
「……わ、わわわわわッ!?」
母さんが横に薙ぎ払った木刀の鋭い剣先を、私は瞬発的に右足を後退させて咄嗟に避けていた。
間一髪、剃刀の切れ味に似た真空を切り裂くような風圧が、私の鼻先をギリギリに掠め通った。あと1センチも前に出ていれば、私は構えていた木刀を投げだして、赤く腫れ上がった団子鼻を両手で押えながら床を転げまわっていたに違いない。
「……ちょ……ッ!? ……か、母さんッ!? ……ほ、本気出し過ぎぃぃぃッッッ!!」
嫁入り前の娘の顔のことなど気にも留めず、容赦なく眼前に剣を繰り出してくる母親に、私はたまらず抗議の悲鳴を上げた。なんとか顔だけは無事を保ってきたけれど、母さんの激しいしごきに体中が既に青痣だらけだった。実戦主義のうちの母親は防具の類を一切着けさせない。互いに素足で稽古着を身に着けただけの軽装だ。しかも得物は竹刀じゃなくて木刀ときている。打たれたら、痛いどころの騒ぎじゃない。
「……なんだい、詩音。もう息が上がっちまったのかい?」
すっと姿勢を正すように剣を正眼に構え直すと、母さんは呆れたような眼差しを私に向けた。私は肩で荒く息を吐きながら、生成色の上衣と藍色の袴を涼しげに身に着けた母さんを恨めし気に睨んでいた。同じ稽古着を着ている私は全身汗だくだというのに、母さんは汗一つかいていなかったからだ。
その日の午後――私は興宮の実家にいた。此処は実家の敷地内にある、主に母さんが剣術の稽古に使っている私有の道場だ。この道場は稽古に専念できるように本宅とは離れた場所に位置している。だから道場を使用する者以外、訪れる者はほとんどいない。
することもなくごろごろと自分の部屋で時間を潰していた私を、母さんが強引に此処へ連れてきて打ち合いを始めてから、早一時間は軽く経過している。反撃の隙を与えない母さんの容赦ない攻撃に、防戦一方だった私の足は千鳥足のようにふらふらと覚束なくなっていた。
「若い者がまったく情けないねぇ。以前のお前なら、これくらいで根を上げたりしなかったじゃないか?」
私と違って母さんは息一つ乱れていない。それだけでも格の違いを思い知らされるのに、小馬鹿にしたような母さんの言葉は、棘を刺したように私のプライドをいたく傷つけた。
「そ、そんなこと言ったって、……剣術の稽古なんて随分ご無沙汰ぶりなんだから、少しくらい手加減してよ、母さん!」
実を言うと、私は幼い頃から母さんに剣術を叩きこまれていた。うんと小さい頃には、魅音と一緒に本宅からよくこの道場に通っていたものだ。魅音が園崎本家に移ってからも、私はこの道場で母さんの指導を受け続けていた。だからそれなりに自分の剣才には自信を持っていたのだ。――が、園崎本家頭首である鬼婆様の命令で、遥か遠くの聖ルチーア学園に放り込まれて以来、全く剣術に触れる機会がなかった。再び母さんからほとんど強制的に剣術を習うことになったのは、ここ最近のことなのだ。つまりその間、私には2年程のブランクがあったわけで……。
「……たく、情けないことをお言いでないよ。お嬢様学校に通っている間に腕が鈍っちまったってわけかい?」
鼻で笑いながら見下げたように言い放った母さんの言葉が、更に私のプライドを傷つけた。例えブランクがあったとしても、その辺の同い年の輩には負けないくらいの技量は持っている自信はあるのだ。ダム戦争時代に習得させられた機関銃の扱いよりも、こっちの方が得意なくらいだ。鬼婆様の元で武芸を学んでいるだろう魅音にだって、剣術で負ける気なぞしない。……しないけど、興宮で婦人剣友会の副会長までやっている母さんには流石に敵わない。若かりし頃に『鹿骨の鬼姫』と恐れられた異名は伊達じゃない。親父との結婚を反対され、鬼婆様と真剣勝負で決着を着けたという実しやかな武勇伝まであるくらいだ。
「ミッション系お嬢様スクールの聖ルチに、日本剣術の授業や部活があるわけないじゃないですか! 相手も無しに何処で練習しろって言うんです!? 寮で木刀を振り回していたら、生活指導のシスター達が血相変えて飛んできちゃいますよ! とにかく私の腕が落ちたのは私のせいじゃないんですから、文句があるなら私じゃなくて、私を無理やり聖ルチに幽閉した鬼婆様に言ってくださいよ!」
かっと頭に血が上った私は、腹の底に溜めに溜めていた不平不満を一気にぶち撒けた。多少は耳が痛いと思っているのか、母さんは渋い顔になって舌打ちした。
「だから私はせめて仏教系の学校に入れろと反対したのに、鬼婆様も考えなしだねぇ……」
「……なに? 私の聖ルチ行きは、やっぱり鬼婆様の独断で決まったわけですか? ……キリスト教なんか縁もゆかりもないくせに、何考えてんですか、あのクソ鬼婆ぁはッ!? 仮にも地元のオヤシロ様を信仰している御三家筆頭のくせに、異教徒の学校に孫娘を放り込むなんて、どういう神経をしているってんですッ!?」
一度爆発した不満は止まるところを知らない。
母さんは片手で耳をほじりながら、至極うんざりした顔で溜息を吐いた。
「……たく、うるさい子だねぇ。済んじまったことをガタガタとお言いでないよ。そこまで文句を垂れる元気があるなら、上等上等! ――ほら、この位置から動かないで迎え撃ってやるから、今度はお前の方から打ちかかってきな!」
「……へ?」
続けて吐き出そうとした文句を、私は思わず飲み込んだ。ポカンと口を開けて目を瞬かす私に、母さんは苛ついた顔で再び急っついてきた。
「なに口を開けて呆けているんだい。この私がハンデをやるって言ってんだよ。ほら、ボサッとしてないで、さっさと打ちかかってきな!」
「打ちかかってこいって言ったって……」
向って来いと軽く言うが、母さんの間合いに踏み込むのは至難の業だ。間合いに踏み込むということは、相手の刃の攻撃範囲に自ら飛び込むということだ。下手をすれば飛んで火に入る夏の虫になりかねない。相手が母さんならば、その可能性はすこぶる高い。いくら頭の中でシミュレートしてみても、返り討ちにされるイメージしか浮かんで来ない。
木刀の柄を握り締めた両の掌がじっとりと汗ばみ、それが更に私の心を苛つかせて落ち着きを失くさせる。冷静になって活路を見出そうと、私は呼吸を整えるのに必死になった。
「……何時まで躊躇しているんだい? 日が暮れちまうじゃないか」
痺れを切らせた母さんのその一声が、タイミングを計っていた私に躊躇いを捨てさせた。
「――鋭ッ!」
私は木刀を上段に構えながら、母さんに向って気合の踏み込みを仕掛けた。相手の剣が動くよりも早く、その頭上に剣先を振り下ろす――はずだった。
正眼に構えた母さんの剣は、まるで私の剣の動きを読んでいたかのように一足早く動いていた。上段から振り下ろした私の剣を素早く下から弾き返し、鮮やかに刀を返して私の胴を瞬時に払う。
「……ッ!」
瞬間、襲い来る新たな激痛に、私は思わず目を瞑った。――が、打たれたはずの脇腹に何の痛みも感じない。
「……あれ?」
何の衝撃も来ない不思議さに私は目を開けた。母さんは私の左脇をすり抜けて、まるですれ違い様に私の胴を払ったように、両手で剣を突き出した姿勢で静止していた。
私は何が起こったのか解らず呆けていた。確かに母さんは私の胴を払ったはずなのだ。その動きたるや、私でさえも感嘆するほどの美しい剣の流れだった。なのに、何の痛みも感じないというのは、どういうことなのか――。
「くっくっくっ……馬鹿だねぇ、『抜き胴』だよ」
狐に抓まれたように呆気にとられている私に、母さんは振り返り様、にやりと得意げに笑ってみせた。
「ぬ、抜き……胴……?」
瞬間、全身から一気に力が抜け落ち、私はへたへたと崩れるようにその場に座り込んだ。
――やられた。
その言葉が瞬時に私の頭の中を過った。勿論、打たれてやられたという意味ではない。
『抜き胴』とは、剣術の技の一つではない。時代劇で使われる殺陣の技の一つだ。相手の殺陣師に怪我をさせないように、打ち込んだ相手の胴に竹光の刃を当てず、僅かな間を取りながら脇へ抜けて、いかにも相手を斬ったように見せかける高等技なのだ。母さんは打つと見せかけて、私に肩透かしを食らわせたわけである。しかも打たれるものと思い込んでいた私の精神面に、実際に打たれるよりも遥かに屈辱的な大打撃をブチかましていたのだ。
「当たってもいないのに、なんでまた無様にへたりこんでいるんだい? まったく肝が据わってないねぇ、情けない」
やれやれと腕組みしながら言い放った母さんの声音には、明らかに笑いのニュアンスが滲んでいる。
……そうなのだ。この人は昔から、こうやって人をからかうのが大好きな人なのだ。解っていたはずなのに、こうもまんまと引っ掛かると、どうしようもなく腸が煮えくり返ってくる。……ていうか、この真剣な場面で、普通、そんなことする!?
「……い……い……い……いいいいいい、……いい加減にしてよねッ、母さんッッ!!」
腸が煮えくり返りつつも足腰が立たない私は、ふるふると悔しさにうち震えながらそう言い放つのが精一杯だった。
しかし母さんはどこ吹く風である。腰が抜けて反撃出来ない我が子を涼しい顔で見下ろしながら、カラカラと愉快そうに笑っている。その様子がなんとも憎たらしく、私は歯噛みして悔しがるしかなかったのだった。
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