ガラスの向こうに見える誰もいない待合室にノックの音が空しく響く。
隣には急患用のチャイムが設けられているが、緊急を要する来院ではなかったのでそれを押すのには躊躇いがある。
――中の電気は点いているから誰かいるはずだけど、もうだいぶ遅い時間だし気付いてくれるまでまだ時間がかかるかも。……それに、もし監督が不在だったら面会を申し入れるのは気が引けるし、どうしよう……
ふと、空を見上げると満天に輝く星の輝きを動きの早い雲が所々遮っている。
――この様子だと一雨ならぬ一雪きそうだなぁ……。
怪しい雲行きに軽く漏らした溜息すらはっきりと白く見えるほど夜になって冷え込んできた。
今夜の来院は事前に連絡もしていない私の気紛れだった。
園崎本家で開かれた、お姉とその愉快な仲間達のクリスマスパーティーが思っていたよりも長引き、葛西を呼ぶのも気が引ける時間になってしまったので私は園崎本家に泊まることになり、今は沙都子と梨花ちゃまを家まで送り届けた帰りだった。
そして、本家までの帰り道にまだ明かりが灯っていた診療所を目にしてしまった私は、まだ熱が冷めない内に楽しかったパーティーのことを悟史君に話したくなってしまい、こうして突発的に来てしまったのだ。
もう何度目かになるこのノックで誰も気付かなかったら帰ろうか、と寒風に身を縮め込ませながらコートから手を取り出そうをした時にやっと来院に気付いたらしく、慌てて奥から監督が飛び出してきた。
「すいません詩音さん、奥の部屋にいたので気付くのに遅れてしまいました」
「いえ、悪いのはいきなり来た私ですから。こんな時間に本当にすいません」
「いえいえ、問題ありません。確か今日は園崎本家でみんなとクリスマスパーティーと聞いていましたが?」
「ええ、さっきまで皆と一緒にいて、今は沙都子と梨花ちゃまを送った帰りです」
「そうでしたか。外で待たせてしまい体が冷えているでしょう。今、温かい物を用意します」
「いえ、お気遣いなく監督。それより監督、患者さんもいないみたいですしパーティーに来ればよかったじゃないですか」
監督はさも残念そうな表情を作り、行けなかったそれらしい理由を説明するが私はその言葉を額面通りには受け取れなかった。
なぜなら、悟史君のお見舞いで診療所に来る機会が増えた私は、声を掛けるのも躊躇われるほど研究に集中している監督を何度も目にしているからだ。
“あの日”以来、監督は以前にも増して雛見沢症候群撲滅に文字通り心血を注いでいる様子だ。
だから、どんなにおどけた様子を見せようとも最初からパーティーに参加する気はなく、診療所の業務が終わってから私が来るまでも研究室に籠もっていたのだろう。
「……お邪魔、しちゃいましたね」
「……え?」
所長室に通された私に紅茶を持ってきてくれた監督は何のことか本当に分からない様子で、真顔で聞き返してきた。
「……そんなだから、いい歳しても監督にはお嫁に来る人がいないって言ったんです」
「いえいえ、この入江京介が未だ独身なのは沙都子ちゃんが結婚できる年齢になるまでの ……そう、言わば予定通りの行動です」
「残念ですが姉としては監督みたいな軽い人に大事な妹はあげれませんね」
そんな軽い会話を交わしながら淹れてくれた紅茶を口にする。
冷え切っていた体に流し込まれる紅茶の温もりは、内側からゆっくりと指の先まで温かさが伝わるようだった。
思いがけない来客が詩音だと分かった時から、来院の目的はおおよその見当はついていた。
なので、詩音が少し気まずそうに話を切り出してくるのも予測済みだった。
「……あのぉ、監督。こんな時間に押しかけてご迷惑をお掛けしてなんですが、ちょっとだけでも良いので悟史君の顔を見ても良いですか?」
研究が煮詰まり思考も堂々巡りになってしまい、小休止でも取ろうかと思っていた矢先の訪問だったので何も迷惑などなかった。
「ええ、構いませんよ。…ですが詩音さん、今夜はお一人で来られていますよね?」
「はい。葛西も忙しかった様子でしたし今夜は一人寂しく歩きです」
「……私の方は構わないのですが、もう遅い時間ですし、あまり帰りが遅くなりますとご家族の方たちが心配されるといけませんので、いつもより短い時間しか許可できませんがよろしいですか?」
「はい、ありがとうございます!」
突然の訪問だったので、もしかしたら断られるかもと不安げな表情の詩音だったが、受諾の返事を得ると顔を綻ばせて礼を述べた。
すでに悟史の眠る部屋に気持ちが飛んで、そわそわしている詩音に促されながら部屋を出る。
…以前の詩音はどこか皮肉さを帯びた笑いをすることが多かったが、いつからこんなにも素直な笑い方をするようになったのだろう。
嬉しさで目を輝かせている詩音を横目に映しながら以前の表情を思い浮かべようとしたが、上手く思い出すことが出来なかった。
静まり返った診療所地下室。機材が発する重々しい無機質な音が余計に静けさを強調している。そんな静寂を二人の音が引き裂くようだった。
「……ねぇ、監督。今夜はやけに人が少ない気がするんですが、この時間はいつもこんな感じなんですか?」
「いえ、今夜はクリスマスですので若い人たちは優先してシフトから外しています。ですので、気のせいではなく事実今夜は勤務している者は少ないですし、地下室には誰もいません」
最近のクリスマスに恋人同士で過ごす風潮は都会だけでなく、こんな寒村の雛見沢にまで伝わっていた。
日頃、忙しくさせている若い研究員にはせめてこんな日ぐらいは、と優先してシフトから外した結果、夜勤に入っている者は自分を除くと全員既婚者で、院内には急患に対応できる最低限の人数しかいなかった。
「……研究で忙しいのは分かりますけど、監督もたまには息抜きしないと体に毒ですよ」
労わりの言葉に無言の笑顔で答える。
雛見沢症候群の研究には期限が設けられていた。残された時間はあと2年。
目の前に積まれた課題の量を考えると、不安で押し潰されそうな猶予しか許されていなかった。
悟史の病状は劇的と言っていい程に回復傾向を見せているが、必ずしも目を覚ます保障もない。
いや、悟史だけではない。もう二度とあのようなことを繰り返さないためにも根本からの撲滅を。
それが自分に託された必ずや成し遂げなければならない物であったが、課せられた事の重要さに疲れを感じるのも事実だった。
これを乗り越えるには“彼女”が見せていた絶対の意思が自分にも必要だ。
近頃は弱まっている気持ちに気がつくと、ありし日の研究に熱中していた彼女の姿を思い浮かべるのが鼓舞する際の密かな儀式であった。
歩みを止めると、また耳が痛くなるような静寂が二人を包む。
IDカードで最終セキュリティを解除すると電子音が静かな通路に響き、自動的に点った部屋の照明が闇の中で眠り続けていた彼の姿を浮かび上がらせた。
「……それでは、どうぞ」
詩音は会釈で答えると、部屋に足を踏み入れていった。
普段の面会時は部屋の掃除や持ち込んだ花の水を入れ替えたりしていたが、今夜は許された時間が短かったのでベッドの脇に置かれた椅子に腰を下ろすと、いつもするように両手で悟史の手を握り顔を見つめるのであった。
ガラス越しに見える彼の姿は残酷なほど全く変化がない。
ここからでは詩音がどんな表情をしているのか見えなかったが、きっと見かけることが増えた柔らかな笑顔をしているのだろうと思い浮かべたところで、やっと自分が野暮であることに気付き少し離れた彼女達の姿が見えなくなる場所まで移った。
|