その後の2、3あった伝達事項も滞りなく済み、皆に追い出されるように、そのくせ雪絵に甘えてこいとしっかり冷やかされながら部屋を後にした。
思いがけない休みを得て早速雪絵に伝えようと、部屋を出る前に電話に手が伸びそうになったが、室内にいる者がいくら少ないとはいえども、まだ衆人環視のこの場で雪絵にからかわれる姿を曝す愚を犯す程、気持ちは軽くなってはいなかった。
雪絵への連絡は正面玄関脇の公衆電話からで良いだろう、そんなことを考えながら下りのエレベーターに乗り込む。
腕時計に目をやるが既に零時をだいぶ過ぎたこの時間では美雪はもう寝てしまっているか。
こんな私にとっては贅沢な失望も、梨花ちゃんの思いがけない贈り物の賜物だと思うとじわりと感謝の念が押し寄せてくる。
やはり梨花ちゃんは私と家族にとって特別な存在なのだな。
すっかりと昼間の喧騒を潜めている館内に妙に響くエレベーターの起動音に耳を傾けながら、ぼんやりとそんなことを考えている内に1Fに到着したことを告げるブザーが意識を現実に引き戻す。
普段は雪絵の連絡にこの1階ロビーの公衆電話を用いており、今も習慣的にいつもの公衆電話へと足を運んでいたが、今夜はゆっくりと雪絵のからかう時間に付き合ってやろうと外の公衆電話から電話をかけようと思い直した。
外は思っていたよりも寒くはなく、コートを身にまとう自分がひどく寒がりであると思わせるほど穏やかな風は暖かく感じられた。
どこか優しく感じられる風に吹かれていると、ふと先程読んだ梨花ちゃんの文面が蘇った。冬の雛見沢か……。
私は一足早い夏の訪れを予感させるひぐらしの鳴く雛見沢しか知らなかったが、きっとこの季節も綺麗なのだろう。
梨花ちゃんと同様に奇妙な縁で巡り合った大石は、確か来年の春に退官する筈だ。大石が在職中に挨拶がてら、雪が積もる雛見沢を家族で小旅行するのも悪くない。そんなことを思いながら夜空を仰ぐ。
ネオンも消えたこんな時間だからだろうか、東京の冬夜空にもまばらながらも星の輝きがあった。
きっと、雛見沢の夜空は満天の星たちが輝いているのだろう。胸中に広がる雛見沢の冬の夜空は美しかった。
雲が晴れ、蒼く澄んだ月明かりが差し込んでくる。
彼に送ったプレゼントはもう無事に届いただろうか。星たちが瞬く夜空を見上げながらぼんやりとそんなことを考えていた。
今夜の古手家は普段よりもずいぶん大分遅い就寝となり、沙都子が寝息をたて始めたのは日付が変わる時刻のほんの僅か前であった。
日付が代わったばかりの今日はクリスマス・イブ
今日の夜、魅音の家で開かれるクリスマスパーティーには各自料理を持ち寄ることになっており、ケーキ担当になった私達はついさっきまでケーキ作りに没頭している内に、子供にとっては随分と遅い時間まで起きているはめになってしまったのだ。
今までのクリスマスでもこうした催しが開かれることはあったが、今年の5月に転校してきた圭一が参加するクリスマスパーティーは初めてだった、こんな些細な変化であっても永遠と続くと思われた昭和58年6月を乗り越えることが出来たのだと実感ができて、湧き出るような喜びに気持ちが弾んでいる自分を見つけて苦笑いするのであった。
「あうあう。梨花はなんだか嬉しそうなのです」
料理の最中、何度もつまみ食いしろとうるさかった羽入が声をかけてきた。
「そう?別に普段と変わらないけど」
ケーキを作るのに必要だからと、渋る沙都子を説き伏せて買ったリキュールをぶどうジュースで割った自家製カクテルから視線を外して答えた。どうせこいつのことだ、お酒は梨花には早いと説教するつもりなのだろう。
「わかっているのなら飲まなければいいのです。」
「うるさいな。あんたに説教されないよう、薄めているじゃない」
小煩いのがきたと、こんな露骨に嫌そうな顔をしていれば羽入じゃなくても気持ちは読めるわね。
「濃い薄いの問題じゃないのです。お酒は梨花にはまだ早いのです。子供の体には良くないのですよ」
「大きな声を出さないの。折角寝付いた沙都子が起きちゃうじゃない」
「あう……」
この時間帯にしては少し大きくなっていた声を出していたことに気付いたらしく、目を覚ましていないかと心配そうに目をやったが、気持ち良さそうに寝息を立てている沙都子に安心してまた私に視線を戻してきた。
私も今年の夏に起きたあの事故以来、“魔女の古手梨花“とは決別して人間としての古手梨花の営みを過ごそうと心がけていた。
そんな密かに期する思いから出来る限り年齢相当の振る舞いにも努め、最近は随分と挙措も自然になってきたと思っていたが、どうしても100年近く繰り返してきた飲酒の癖は抜けきれず羽入に何度注意されても、こうした機嫌の良い夜はアルコールに手が伸びてしまうのであった。
「わかったわ。この一杯だけで今夜は止めるから、このぐらいは見逃してよ」
羽入も最初から説得は無駄だとわかっていたらしく、小さな溜息をつきながら本当にその一杯だけだと念を押してきた。
念を押す羽入の苦い顔に苦笑しつつ、最後の一杯ならばもう少し長く楽しもうかと再び窓の外に視線を戻した。
特に星を見るのが好きというわけではなかった。
彷徨い続けた百年もの間、孤独と絶望を癒すためにこうして空を見上げて星達に語りかける内に、いつのまにか癖になってしまっていただけだった。
その癖のおかげで意図せず星に詳しくなってしまったが、「あの星は北極星、それはカシオペア座ね」と沙都子たちに解説して隠れた特技を誉められるのはそう悪い気はしなかった。
「ねぇ羽入、クリスマスがこんなに楽しいなんて何時以来かしら?」
「僕はケーキが食べられるので、いつでもクリスマスは楽しかったですよ」
「……食い意地の張った奴ね。そうじゃなくて、圭一がいるクリスマスなんて初めてじゃない」
「そうですね。僕たちが初めて迎えるクリスマスなのです。何が起きるか楽しみなのですよ」
「ふふ。『梨花は覗かないでくださいまし』なんて沙都子が隠していたアレ、プレゼント交換に出す物なんでしょうけど上手く圭一に行くかしらね?」
本来ならば沙都子が誰よりも共に過ごしたい悟史の意識はまだ戻っていない。
そして、悟史が入江診療所地下で眠り続けている事実をまだ沙都子には伝えられず、稀ではあったが会話の端に悟史の名が出てしまう度に苦い思いをしていた。
だが、入江の話では病状は格段と回復に向かっており、意識を取り戻す希望は昨年に比べるとより確かな物になってきているそうだ。
この兄妹が再び言葉を交すことができる日もそう遠くないだろう。
「梨花は圭一に何か特別なプレゼントはあげないのですか?」
「私が?私は圭一のことなんて何とも思っていないし、変わった物をあげる理由なんてどこにもないわ」
「そんなことを言って、意地悪で魅音やレナの目の前で勿体ぶって圭一にあげたりするんじゃないのですか?」
「ああ、そう言う楽しみ方もあったわね。そんな面白いこと、今度からはもっと早く言ってちょうだい」
「あうあう、やっぱり梨花は意地悪なのです」
「ふふ。あの二人、今日の夜にはどんな感じでけん制し合うかしら。楽しみじゃない、羽入?」
「あう。梨花は赤坂がいなくて寂しいからって、人のことばかり言うのです」
「……な、赤坂なんて私には関係ないでしょ!」
「あうあう。梨花、お顔が赤いのです。そんな素直なところはまだまだ子供なのです。あう!」
普段よりも自分の顔に熱を帯びているのを、羽入の言葉ではっきりと自覚してしまい余計に顔への血の巡りが早くなるのを感じた。
こういう時はアレに限る… 楽しそうに腹を抱えて笑っている羽入を尻目に、無言で冷蔵庫に向かう。
冷蔵庫の取っ手に手をかけた時にやっと私の行動の意味がわかったらしく笑いを打ち消して何やら喚いている。
もう遅い。今夜はアレを肴に存分にカクテルを楽しむことしよう……
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