0 雛見沢にて
「高野先生、ダム工事の中止が決まりましたんね」
部屋に入ってきた男がそう報告した。
小此木二尉。この診療所には全く必要のないはずの人間だ。
私、高野一二三が雛見沢に開いた診療所だが、既に美代子、いや、三四と小泉大佐の手によって全く別物として生まれ変わっていた。地下の秘密研究室。現代医療の最先端をいく研究設備。それを運営するスタッフ。表の診療所の医師であり裏の研究所の研究員としてなくてはならない存在となった入江くん。
そこまでは雛見沢症候群の研究と治療を目的とした診療所として必要なものであり、三四の熱意や大佐の心遣いには感謝するものだろう。
そして、このプロジェクトが国の主導となった今は、富竹くんのような監査役が必要なことも分かる。
しかし、それらと同時にやってきた小此木を中心とした山狗。国家機密を守るためとはいえ、この者たちのような荒事師が必要なことがあるのか。そう思いつつも、今回雛見沢を巻き込んだダム工事を巡る一連の事件に於いて、綺麗事では済まない事となったのも事実だ。私は命令系統から外れた名誉職のような者だから実際に行われたことの詳細は分からないが、少なくとも彼の浮かべている薄ら笑いが彼らの仕事の成果であることを物語っていると見て間違いはあるまい。
所詮は政治家同士の利権争いの果ての出来事……などと片づけていいものか。
なんにせよ、医療という崇高な名の目的の下でも、軍人が介入しなければ進められないような後ろめたいことに正義はあるのだろうか。
三十年以上前の大陸での過ちを繰り返すことになるのではないのだろうか……。
1 撤退
「爆破用意」
「爆破用意」
木下少尉のかけ声に田沼曹長の復唱が続く。
「爆破」
「爆破」
その声と共に施設に仕掛けられた爆薬が着火し、轟音と共に火柱が上がる。あらかじめガソリンが撒かれていただけあって、炎の勢いは通常の火事と比べて桁違いに強い。じきに、ここは単なる廃墟と化すだろう。
高野一二三軍医少佐。後に雛見沢という日本の寒村に大きな影響を与えることになる医師である。
彼は大学卒業後の兵役義務の期間に軍医を経験、大陸に派遣されていた。そのため、予備役として大学勤務中に招集された際の階級は一般の在野軍医に比べて高いものになっており、その研究の分野もあって東京新宿の陸軍軍医学校に本部を置く防疫給水部に勤務することとなった。
そして、最大の現地研究支部であるハルビンの関東軍防疫給水部に籍を置いて研究に努めていたが。その間に発見した雛見沢症候群の研究と患者の治療にあたって郊外療養を行うために、新設された南方**部の支部長を買って出たのである。他の支部に比べれば小指の先のように小さな機関であったが、それゆえ地域の防疫・給水に関する管理・教育以外には「ちょっと高級な療養施設」程度の役割を果たせばよかった。
おかげで、誰彼はばかることなく研究と治療に励めたのだが。そのようなこととは関係なく戦争の行方には暗雲が立ちこめ、内地では新型爆弾による未曾有の悲劇が起こっていた。
そして、ソ連の参戦。ヤルタ会談で参戦を決定していたソ連は、日本が降伏寸前と見て急遽戦争を仕掛けてきたのである。日ソ不可侵条約を信じていた陸軍は主力を南方に振り分けた挙げ句大半を失っており、本来の仮想敵国であったソ連を迎え撃つのは既に困難であった。このため、秘密研究を行っていたハルビンの実験部隊は直ちに撤退を開始。その支部に対しても、早急な撤退と施設の破壊を指示してきたのであった。
そのため、命令により高野は急ぎ研究資料と共に本国へ戻らねばならなかったのだが。本来連絡用にあった飛行場が破壊され、北方、より危険な地域に残されていた仮設飛行場へ行かねばならなくなった。むろん鉄道のない辺境であり、他の脱出方法では時間が掛かるため一気に危険は増大する。これは防疫給水部の情報伝達ルートが非常にしっかりしたものだったというだけではない。終戦間際の混乱時に貴重な飛行機を回せたのは高野の友人でもある小泉大佐による尽力も忘れてはならないものだった。
更に高野は部隊全体の撤退についても大きな責任を負っていた。友好国であったドイツ降伏の際にあったソ連共産党軍の非道の数々は高野ら士官の知るところとなっている。既にソ連が攻め込んでいる以上、満州国国境線では民間人を含めて酷いことになっているのではないかという予想が頭を占める。専門の軍人ではないといえ、部隊の指揮官である高野は研究の成果を無事持ち帰るだけでなく、彼の部下たちを生きて本国に帰還させなければならなかった。情報漏洩を防ぐために彼の上官達は関係者が捕虜になることを恐れているらしく、一時は自決命令も検討されたらしい。ともかく、迷っている暇はなかった。
戦時に於いてスピードは何よりも尊ばれ、多くを救う鍵となる。高野は手早く重要な資料をまとめると共に、不要な書類や研究試料を焼却処分。研究員、補助員、警備などで駐留している部下たち(むろん、その中には雛見沢症候群の研究に治療・検体を兼ねて協力していた者たちも含まれる)に撤退の準備をさせる。幸い雛見沢症候群を発症していた兵士も今は完全に回復しており、彼の研究の成果である「高野式呼吸法」を続ける限り身体面での問題はないと考えられた。
そして、今、最後の仕上げとして全員の見守る中、研究施設の爆破が行われた。
整列した兵士達を前に、いつもの白衣ではなく軍服を着た高野一二三は語りだす。しかし非常事態という緊迫感は無く、いつもの軍人らしくない穏やかな語り口だった。
「皆さん。もうお聞きになっていると思いますが、我々には撤退命令が出されています。現在、北方からのソ連軍の侵攻により大陸は危険な状態にあります。この建物も研究資料の大半を処分しましたが、あなた方の頭の中にもこの部隊で知り得た知識が入っていると思います。今後、どのようなことが起こるかは分かりませんが、研究内容については守秘義務、つまり他の人たちに話してはなりません。それについては、捕虜になった時などでも同じですから気を付けて下さい。基本的に防疫給水部隊は戦地における飲み水の確保などを研究していた機関ですが、研究所勤務ということを知られると面倒な尋問を受ける可能性もありますから、所属に関してはここに来る前の原隊を答えておいた方がよいかもしれません。療養のためにここに居た人たちも同様です。皆さんはここまで生き抜いてきたのですから、何とかして本土に帰還して下さい。むろん、本土も大変なことになっているでしょうが、だからこそ、あなた方の力が必要なはずです。ですから、何としても生きて帰るつもりでお願いします」
目の前に整列する者たちを見る。まだ少年のような軍属の若者から歴戦の老兵……というより田舎の縁側でお茶でもすすっているのが似合いそうな者まで。多くの人間がいた。
そのほとんどは、この支部が設立された時から一緒に働いていた者たちである。
自分と木下の士官のみが別ルートで帰らねばならないことに少々後ろめたい感じを覚えると共に、同じ釜の飯を食べた仲間達が無事に帰国出来ることを願わずにはいられなかった。
そして、ハルビン時代から防疫給水部隊で仕事をしている一部の者たちは本部が裏で行っていた奇怪な実験の内容も見ているわけだから「何故守秘義務が必要か」ということについても正確な意味を見抜いているだろう。我々は医療と日本国民のために鬼となり、そして、私はそこを抜け出してきた後ろめたさもあり……。
「ともかく、生きて帰ることを優先して行動して下さい。詳しくは木下少尉から説明があります」
「敬礼」
短い言葉と共に、全員が手を掲げる。終始ニヤニヤ顔が離れないようなものも、この瞬間だけは緊張感のある顔つきになった。
そして、年若い木下少尉が眼鏡を押さえつつ今後の説明を始めると、気の緩みからか内容のためか、ざわざわと声が聞こえるようになった。
が、木下はそんなことを気にすることもなく話し続けた。
「本隊はこれより二つの班に分かれて行動に移る。まず、第一班は東進し香港より本土、への帰還、もしくは台湾への渡航を目的とする。中国国軍の動き次第では更に南進する可能性もある。指揮は橋本軍曹に全権を委ねる」
警備班の先頭に立っていた橋本が短く敬礼する。
「第二班は一端北上し、高野少佐殿と機密資料を**の仮設飛行場に護衛する。その後私も抜けるが、南進して一斑と同様に本土を目指す。こちらの指揮は飛行場までは少佐殿と私が、その後は田沼曹長が受け持つ。ただし、こちらは危険が大きい。少佐殿は、まずは志願を募るようにおっしゃられた。三十分間の猶予を与える。その間に志願者は名乗り出て欲しい。以上」
木下の言葉が終わると共に場は騒然とする。
一刻も早く本土へ帰りたいのに、わざわざ敵に近づくことになる北方へ行かなければならないのだ。たとえ、トラックで三日ほどの距離でも、戦場では十分に生死を分ける時間になりうる。如何に高野が彼らにとって良い上官だったとしても考え物である。
そんな騒ぎの中、卑屈な笑みを浮かべながら田沼が木下に近づく。
「失礼ですが、少尉殿。第一班の指揮は私では……」
木下は、その眼鏡の下の鋭い目を彼の方に向ける。
「田沼曹長、君は前の会議で何を聞いていたのかね。君は二斑で戦闘と撤退時の指揮を行うように言ったではないか」
「しかし、一斑の指揮は橋本などに任せず、私が執った方が」
「橋本軍曹は十分それに値する力を持った男だ。君も普段から彼を推していたではないか。そんなことより、志願兵が集まるかどうか、そちらを気にした方が良いぞ」
年下の木下に一言の元に却下されたが、下唇を噛んで耐える。会議の時点では既に自分が第一班の指揮官になると確信していたため、途中から撤退コースの算出と持ち出すべき荷物の算段で頭がいっぱいであった。それを、この若造が……。
|