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神隠し編(かみかくしへん)



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aksk
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島田圭司
DADA SEIDEN
チェルヲ
遠野江河
フジノン
惑居狼
夕輝秋葉
藤本和明

一週間ほどして、入江は業務に復帰した。そこで入江は、診療所の明らかに雰囲気が変化している事に気付かざる得なかった。
職員達の表情が明るくなり、業務中にも笑顔が絶えない職場に変わっていた。診療所を訪れる村人達にも、この変化は好評だった。
小此木を始めとする山狗達もそうだった。入江の中で、小此木はどちらかと言うとダーティなイメージがする忌避すべき存在だった。しかし、鷹野がいなくなってから頻繁にやり取りをする中で、入江の小此木のイメージが一八〇度変転していく。話してみれば、ユーモアセンス溢れる面白い男だったのだ。親交を重ねるうちにいつしか意気投合し、二人で連れ立ってエンジェルモートに行ったこともあった。
入江にとって最大の懸念は監査役である富竹の存在であった。転落事故当初は、明日にでも訪れるであろう富竹の難詰に怯えて暮していたものだが、秋の定期監査の際にその懸念も払拭されたのだった。
富竹の厳しい問責を覚悟していた入江の前に現われたのは、富竹とは違う見知らぬ男だった。呆然とする入江に対して突如入江機関の三年後の研究終結と、規模の段階的縮小を宣告したのだ。突然の終結宣言に驚き異論を唱えた入江に対して、監査役の男は丁寧だが少し業務的にも感じる態度で研究終結に向けた指針を示した。

 鷹野が主体となって行っていた雛見沢症候群の生物兵器化研究の即時停止し研究資料も破棄する。兵器化研究に回していた予算を入江の治療薬研究に回すので、入江一佐は雛見沢症候群の撲滅に向けた三ヵ年計画を立案し、実行して欲しい、と。
鷹野の研究を忌避し距離を置いていた入江にとって、兵器化研究の停止は望むべき事態であった。クライアントの意向である、という一点で、止むを得ず従っていたに過ぎない。むしろ、最終的な治療撲滅を研究の目標とする入江は、永続的な研究の継続を望む鷹野との意見の食い違いにジレンマさえ感じていた。監査役の男が示したプランは、本来なら入江が目指していた姿への回帰を容認してくれているのだ。
しかし鷹野との転落事故から、激流のように訪れる状況の変転に、入江は監査会議が終わった後も狐につままれた様な顔をしていた。恐れていた富竹とも顔を合わさずに済む。しかし、この状況の好転を腑に落ちないと感じる部分もあった。それを、解消してくれたのが小此木だった。
「どうやら、上の方も随分とゴタゴタ揉めているらしいですぜい」
 小此木が言う『上の方』とは、当然入江機関のクライアントにあたる『東京』の事だ。小此木が言うには、転落事故の少し後に、東京の中で大規模な派閥争いがあったらしい。一派閥の首領にあたる男が亡くなり、その派閥は瓦解。どうやらその派閥が鷹野と入江機関の後ろ盾であったらしく、後ろ盾と設立の立役者を同時に失った入江機関の縮小が図られたのだ。
「こんな状況になってしまうと、うちの姫さんも、ちょうどいい時に死んじまったもんですなぁ」
 小此木のあまりに無遠慮な言葉に、入江は眉を曇らせた。回避しようが無い事故だと言われても、転落事故を思い出す度に心の痛覚が疼きをを覚える。入江の表情を見て失言を悟った小此木が、すんません、と小さく頭を掻いた。しかし、鷹野が生存していたら今回の事態にどのような反応を示しただろうか? 憤激のあまり『東京』幹部に喰って掛かるか、それでも覆らなければ暴発して何か事を起こすかもしれない。小此木の指摘もあながち間違いではないのかもしれなかった。
「そういえば、富竹さんは一体どうしたのですか? 彼がいたら、研究継続の為に奔走してくれたかもしれないのに」
 入江は、胸の中にわだかまっていた疑問を口にした。ああ、と小此木も思い出したように笑うと、少し口元を歪ませながら答える。
「入江機関の研究終了には、富竹二尉が相当反対したらしいですぜ。しかし、派閥争いの結果ですから、奴さんがいくら騒いだ所でどうにもならんかったみたいです。むしろ邪魔物扱いされてどっかに飛ばされちまったらしいですわ」
小此木の返答に、入江はようやく事情を飲み込めた。確かに、小此木のいう派閥争いの結果であれば一監査役に過ぎない富竹がいくら反対した所で状況が覆る訳がない。しかし、死んでしまった鷹野との関係を考えると、富竹も愚直なまでに研究継続を訴えたに違いない。そんな富竹を上層部は持て余し、監査役の解任に踏み切ったのは充分有り得る話だった。
「入江所長。あまり考えこむのは体に毒です。所長は、研究終了に向けたプランの作成に必要なお人なんですから」
 考え込む入江の顔を、心配そうに覗き込みながら小此木が言った。
ありがとう、と入江は穏やかに言うとそのまま手を振り小此木と別れる。向かった先は、悟史のいる治療室だ。
悟史の症状は依然として回復には至らない。しかし、悟史の体を得る事は皮肉にも沙都子の治療に劇的な効果をもたらした。
悟史という検体から得たデータを元にした入江の懸命な治療と、梨花の温かい励ましもあって沙都子の状況は日毎に良くなってきている。
ひょっとしたら、これは悟史が望んでいた事なのかもしれない。今度は、沙都子の治療で得たデータを元に、悟史の治療が成功すれば全て上手く行く。やはり、鷹野の意向に逆らってまでも悟史を生存させていて正解だった。その過程で悲劇が起こってしまったが、その後の状況の好転は転落事故の時からは想像がつかなかった。
悟史の治療も、予算の増加があればきっと上手く行くに違いない。入江は、このまま幸運が続く事を祈った。

季節は冬となり、そして春が訪れ、昭和58年の6月を迎えていた。今週の週末には綿流しの祭が開催され、鷹野の転落事故からもうすぐ一年が経とうとしていた。入江の記憶から、少しずつではあるが一年前の悪夢は薄らいでいき、精神の傷の上に出来たかさぶたが剥がれて下から再生された皮膚が顔をだしていた。
 今日は、診療所で沙都子と梨花の症候群の診察を行った後、興宮に買い物に出かけていた。夕方からは、綿流し実行委員会の打ち合わせがある。
「少し、遅くなっちゃいましたねぇ」
 買い物に時間をかけ過ぎて、打ち合わせの時間に間に合うにはギリギリの時間になってしまった。
興宮と雛見沢を結ぶ道を運転していると、少し先の道の脇に一人の男が佇んでいた。接触しないようにハンドルを切りながら、もう一度その男にちらりと視線を送る。どうやら男は、入江に向かってひらりひらりと手を振っている。その姿が視界の中で鮮明に映し出された時、入江の心臓は飛び出さんばかりの動悸を起こした。

「まさか……。なぜ? 」
 車内の空気が一瞬にして氷点下を超え、入江の体が金縛りにでもあったかのように動きが鈍くなる。手を振っている男の前に車を停めると、入江は飛び出すように車から降りた。
黒いタンクトップに包まれた筋骨逞しい体。
首元からぶら下がるカメラ。
 帽子をかぶり、眼鏡の奥から柔和そうな笑顔を浮かべるその顔。
「富竹さん……。どうして……!?  」
 そう、道端に佇んでいた男は入江機関の元監査役である富竹であった。最後に会った時と変わらない姿で入江の前に立っていた。富竹は、柔和な笑顔を崩さないまま入江に近づいてきた。
「お久し振りです、入江所長。もう一年ぶりになりますね」
「一体、どうしてこんなところにいるんですか」
「いやぁ、どうしてとはひどいなぁ。本来ならこの季節にここに来るのは、僕の仕事だったんですよ」
「しかし、あなたはすでに監査役を解任されたはずじゃなかったんですか!? 」
 突然の来訪に、気が動転していたのだろうか。富竹の詰問をもっとも恐れていたはずの入江が、富竹に対して難詰を浴びせるようになってしまった。
「入江所長、それじゃまるで、僕がここにいてはいけないように聞こえますよ」
「いやぁ……、私は、別に何も」
 狼狽する入江に、富竹はすぅっと顔を近づける。先程の柔和な笑みとは打って変わって、鋭い眼光が入江の瞳を射抜いた。
「……、鷹野さんの死について、……あなたは何を隠しているんですか? 」
「何を……、言い出すんですか? 」


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