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神隠し編(かみかくしへん)



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ひぐらしのなく頃に 神隠し編

悟史君の命は、必ずこの私が救ってみせる。

入江の体内には、かつて無いほどの強い決意が宿っていた。
声が枯れ喉が渇きに悲鳴を上げても、彼の舌は回転することをやめなかった。目の前に広がるホワイトボードには、びっしりと隅々まで文字が書き込まれている。その一言一句まで、入江の断固たる強い意志が刻み込まれている。
「……以上の事から、悟史君の解剖実験は現段階において不要であるばかりで無く、生体サンプルの消失による研究推進への重大な損失に他なりません」
 ここまで言い終えると過重労働を強いられた舌はようやく動きを止め、手にしたボードマーカーを置いた。大きく息を吐き、額に浮かぶ汗を手の平で拭う。
ゆっくり後ろに振り返ろうとすると、一人分だけの渇いた拍手が聞こえてきた。
「くすくすくす……。入江先生の研究に掛ける熱意には、大変感銘を受けましたわ」
 拍手の主は鷹野三四だった。椅子に座り、にっこりと入江に微笑んでいる。傍らには、諜報機関の隊長である小此木。こちらは、目を閉じて沈黙を守っている。
入江は二人の方に向き直ると、一点の曇りの無い口調で言い放った。
「鷹野さんにご理解頂ければ幸いです。悟史君の解剖実験には、断固として反対します」
 厳しい表情を崩す事無く、入江は鷹野の表情を窺った。鷹野は入江の鋭い視線に臆する素振りも見せず、相変わらず人を小馬鹿にしたような冷笑を浮かべている。
「入江先生の悟史君に対する熱意……、いえ沙都子ちゃんに対してといった方が正解かしら? 」
「からかわないで下さい。私は、あなたと真剣に話をしているんです」
「あらあら。そんなに怖い顔をなさらないで下さい。それではせっかくのハンサムさんが台無しですわ」
 くすくすくす。入江の真摯な態度を嘲笑うかのように鷹野は哄笑を止めない。嘲りの波動を全身に受けながら、入江は自分が歩もうとしている道が決して平坦ではない事を改めて思い知らされるのであった。

昭和57年の6月末。入江研究所の秘密の地下ブロックの中で、秘密裏に会議が行われていた。
会議の議題は、先日入江が保護した北条悟史の処遇についてである。保護した時点で重度の雛見沢症候群を発症していた悟史は、マニュアルに従えば『秘密裏に処分』されるはずであった。
しかし悟史の発症を止める事が出来なかった入江は、悔悟の念から悟史の回復に向けた治療を決意。鷹野の反対を押し切って、今回の会議に悟史の治療を申請したのである……。

「入江先生に、こんなにまで愛されている沙都子ちゃんがうらやましい限りですわねぇ」
 哄笑の隙間に、言葉の刃を向ける鷹野に対して入江は苛立ちを覚えた。
「そんな事を言っている訳ではありません。私は研究の進行段階から……」
「もう結構ですわ」
 鷹野の心を動かすべく再度熱弁を振るおうとする入江に対して、鷹野は少しうんざりした表情で入江の言葉を遮った。
「入江先生。……私は研究云々という観点から、治療に反対している訳ではないのです」
 鷹野の意外な言葉に、入江は真意を測りかねた。雛見沢症候群に異常なまでの執心を見せる鷹野が、研究が問題では無いと言い出すとは想像する事が出来ない。
疑問を浮かべる入江に対して、鷹野は厳かに、そして淡々とした口調で告げる。
「入江先生もご存知でしょう? 北条悟史は、綿流しの晩に起こった叔母殺しの件で、警察が血眼になって捜しているんですよ」
「しっ、しかしそれは……」
 意外な方向からの反撃に、思わず入江は絶句する。鷹野の言う通り、叔母殺しの件で悟史は警察から執拗な追及を受けていた。
「山狗に隠蔽工作を指示してありますが、どうなのかしら。小此木?」
 鷹野の問いかけに、会議の間沈黙を守っていた小此木がようやく口を開く。
「現在、隊員達に北条悟史の足取りについて隠蔽工作を図らせています。犯人も別にしたて上げました。しかし、警察内部には一連の状況を不審に思う輩が少なからずいるようでして……、正直しばらくは慎重に行動した方がよろしいでしょう」
 小此木の言葉に、鷹野は満足そうに鼻を鳴らす。
「このように予断を許さない状況の中で、警察に追われている人間を保護するなどと……。機関の機密保持を預かる立場としては、到底承服出来る訳がありませんわ」
 勝ち誇ったように言う鷹野の瞳が、極彩色の輝きを帯び始めていた。やはり、鷹野は鷹野だ。研究継続の為ならいくらの犠牲も厭わない。むしろ喜んでその手を血に染めるつもりなのだろう。
――ジャマモノハ、サッサトケシテシマエバイイ。
 言葉には出さない鷹野の心の声が、入江の耳にはっきりと聞こえてくる。その瞬間、入江の胸の中で、灼熱した感情が湧き上がってきた。
「あなた達は、人の命をなんだと思っているのですか!? いくら研究継続の為とはいえ、人の命を弄ぶ様な事は許されるはずが無い」
 入江は憤激のあまり声を荒げる。しかし、鷹野はしらじらしいまでの表情でそっぽを向いていた。小此木は、再度目を閉じて沈黙を守っている。
二人の態度が入江の感情に油を注ぎ、入江は越えてはならない一線を越えてしまった。
「そこまでの犠牲を払ってまで続けなければいけない研究なのですか?雛見沢症候群を発見された高野一二三先生だって、こんな形での研究継続を望んでいるはずが無い!! 」
 言い終えぬ内に、入江は自らの失言を悟る。
鷹野は発見者の高野一二三に心酔して、入江機関を設立したはずだ。その鷹野に対して、高野一二三の言葉を代弁しようなどとは、神を冒涜する行為に違いない。
鷹野の顔が、みるみる険しい物になっていく。醜いまでに口元を歪め、瞳には憤激の炎が宿っていた。
「……すみません、鷹野さん。私が少し言い過ぎたようです。この通り謝罪します」
 入江は鷹野に対して頭を下げ、訪れるであろう反撃に身を強張らせる。
しかし、鷹野から発せられた言葉は入江の予想を裏切るものだった。
「……ふぅ。一度休憩を挟みましょう。私、少し外の空気が吸いたい気分ですわ」
 あっけに取られる入江を置き去りにして、鷹野は立ち上がると出入り口の扉へと足早に向かっていった。
「鷹野さん!! ちょっとまって下さい」
 制止する入江の言葉を背中で弾き返し、鷹野は扉に手を掛ける。
「話はまだ終わっていません。どうか私の話を聞いて……」
 入江の言葉は目的を達する事が出来なかった。鷹野の手によって開かれた扉はそのまま鷹野の姿を吸い込み、全てを拒絶するかのように閉じられてしまった。

慌てて入江は鷹野の後を追ったが、既に鷹野の姿は地上部に向かう階段へと差し掛かっている。急ぎ足で鷹野の背中を追いかけると、ようやく階段の途中で追いつくことが出来た。
「鷹野さん、さっき言い過ぎたことは謝ります。ですから僕の話を……」
「謝る?一体何の事かしら」
 ようやく立ち止まり、ゆっくりと振り返る鷹野の表情は陶器の人形のように何の温かみも感じられないものだった。しかし、その瞳の奥には、明らかに入江に対する憎悪の黒い炎がちらちらと燃え上がっている。
「あんな言い方をしてしまったのは申し訳なく思っています。しかし、これ以上研究の為に犠牲者を出す事に私は耐え難いんです」
「先生の偽善者ぶりには、吐き気すら感じますわね。既に両手を血に染めたあなたに、私を非難する資格がどこにあると言うのかしら」
「確かに私は偽善者かもしれない。しかし残された沙都子ちゃんの事を考えると、私に悟史君の解剖を承認する事など到底出来るわけがない」
「承認? 入江先生、あなたは少しご自身の立場がお分かりになっていらっしゃらないようですわね」
 鷹野の瞳に燃え上がる黒い炎が、いよいよ強く燃え上がる。鷹野にとって雛見沢は研究対象を飼う為の牧場に過ぎない。そして、入江は牧場の管理の為に飼われている牧羊犬なのだ。飼い主の手を噛む事あってはならない……。
「私は、外の空気が吸いたいんです。先生、お話はここまでにしていただきたいのですが」
 鷹野はそう言うと、踵を返して再び階段を上ろうとする。
「だから、待って下さい」
 入江は鷹野の肩に手を伸ばし、咄嗟にその歩みを止めよう試みた。しかし、鷹野が取った行動は入江にとって意外なものだった。伸ばされた手を振り払う為に、鷹野は振り返りざまに左腕を薙ぎ、入江の手を払い退けたのだ。
「うわっ、あっ」
 突然の出来事に反応できず、入江は階段の上でバランスを崩した。体を支えきれず、全体が後ろに引っ張られるように感じた。
入江の視界がスローモーションのようにゆっくりと動く。
鷹野に振り払われたその手が何かを掴もうと虚空を彷徨い、偶然にも振り払った鷹野の腕を掴む。入江の全体重のかけられた鷹野は、あがなう術もなく足が地面から離れた。
驚愕の表情を浮かべる鷹野の顔が、入江の視界一杯に広がる。
一瞬の浮遊感。鷹野という命綱を失った入江の踵も地面を離れ、二人の体は階段の下へと落下していく。
白い天井が見えた刹那、入江は背中と後頭部に強い衝撃を受けた。
「あいたたたたたぁー」
 仰向けになった体を起こすと、ずきずきと痛む後頭部に手を当てた。
外傷はない。頭蓋骨も無事なようだ。
しかし背中に強い痛みが走り、右腕も肘の辺りが痛む。骨折はしていないかと肘を見ようとした時、斜め横で鷹野が倒れているのが見えた。
「鷹野さん、大丈夫ですか!? 」
 痛む体を動かしながら、鷹野に声を掛けるが返事はなかった。ピンク色の白衣が入江の方に背中を向け、微動だにせず横たわっている。
ひょっとしたら、体を打った衝撃で昏倒しているのかもしれない。
そう考えた入江は、慌てて鷹野に近づき横向けに倒れている体を仰向けにする。
「鷹野……、さん?」
 横たわる鷹野の表情は、先程と変わらない陶器人形のようだった。しかし、あれほど憎悪にもえたぎっていた瞳は、焦点を失い輝きさえ灯っていない。口の端から、赤黒い筋が一筋だけ出来ている。
ずきずきと痛む後頭部が、入江に警鐘を鳴らす。上手く回らない脳の医学知識を総動員し、鷹野の身に起こった現象を解明しようと試みた。しかし彼が得ている知識は、明快なまでに一つの方向を指し示していた。
「そんな、馬鹿な事がある訳ない。鷹野さんに限ってそんな事……」
悪夢から逃れるように、入江は横たわる鷹野の体を抱き起こす。
入江が鷹野の体を起こすと、それを拒否するかのように鷹野の顔は後ろを向いた。
振り向くのではない。
後頭部を背中にくっつけるように、ゴロンと。
生きている者では有り得ない向きに……。
入江の耳に、階段の下に響き渡る自分の絶叫が確かに届いた。

鷹野三四は……、死んでいた。


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