勿忘草

ペンネーム:筏桂

■あらすじ

入江診療所が騒然とした空気に包まれていた。
圭一が崖から転落し、意識を失ってしまったのだ。
診療室からでてきた入江に、レナ、魅音、沙都子、梨花、羽入が詰め寄る。
かなり高いところから落ちたにしては外傷も脳の異常もない、
という入江の言葉に安堵する一同だった。
しかし、目覚めた圭一を診察した入江は、彼の状態を言いよどむ。
もどかしく思いつつも面会に訪れた5人は、
迎えてくれた圭一の様子がどこかいつもと違うことに気づく。
ベッドの上の彼には普段の快活なイメージはなく、
ぼんやりと皆を見つめているだけなのだった。
そして、自身の名前を呼び掛けられた圭一が初めて発した言葉は、
思いがけないものだった。
「それは僕の名前なのか? それに、あなたたちは、誰……?」 
彼はこれまでの自分という存在についてや雛見沢の思い出、
またそれにまつわる記憶を失ってしまっていたのだ。

 
   
   
   
 

勿忘草

ペンネーム:筏桂

 ――彼は、私たちにとっての太陽だ。
  彼の力の輝きは、私を運命から解き放ってくれた。
  彼の言葉の輝きは、私の心を救ってくれた。
  彼の光の元でなら、私たちはきっといつまでも輝ける。
  そう思わせる力が、彼にはあった。
  だから今、私はこんなことを考えている。
  もし、太陽が消えてしまったならば、私たちは果たしてどうすればいいのか、と。
  崖下で倒れた彼の姿と、慌てて崖を下っていく皆の後姿を眺めながら、私はそんなことを考えていた――

 

「監督ッ!」
  治療室から出てきた入江に、魅音が詰め寄るように近づく。
「圭ちゃんは、圭ちゃんは大丈夫なんだよねッ!?」
  震える手で入江の白衣の襟元を掴み、このまま入江の首を締め上げそうな様子の魅音を、慌ててレナが止めた。
「魅ぃちゃん、落ち着いて! ……それで、監督。圭一くんは大丈夫なんですか?」
  私と羽入は、震える沙都子を抱きしめるので精一杯なので、こういう状況下ではレナの存在が非常にありがたい。レナに言われて若干落ち着きを取り戻したのか、魅音は入江の白衣を掴む手から力が抜ける。
「かなり高いところから落ちたことを考えれば、奇跡と言って良いほど外傷がありません。頭も打っているようですが、精密検査の結果では脳にも異常は見られませんでした」
  そういって微笑む入江。こういうのを大人の対応、というのだろうか。噛み付かれんばかりの勢いで詰め寄ってきた魅音を安心させ、未だ自身の首元に添えられていた魅音の手を取った。安心させるように、その手をそっと両手で包んで続ける。
「治療処置のために麻酔を使ったので、まだしばらくは眠っているでしょうが、目を覚ますのにそれほどの時間はかからないと思います」
  そこまで聞いてようやく安心したのか、魅音はその場にへたり込み、安堵のため息を漏らした。沙都子の震えも次第に静まり、ようやく落ち着きを取り戻してきた。目の前を、圭一を乗せた担架が横切っていくが、一瞬のことだったのでよく見えなかった。おそらく、どこかの病室のベッドに連れて行かれるのだろう。
「それなら、何か僕たちに出来ることってないのですか?」
  沙都子が落ち着きを取り戻してきたことで少し余裕が出てきたのか、入江に羽入が聞く。 
「そうですね……。それなら、皆さんにお願いがあるのです」
  入江の顔が、治療室から出てきたときのような真剣なものに変わる。
「前原さんのご両親に説明をしたいのですが、お留守なのか電話に出ていただけません。これから前原さんのお宅へ伺おうと思いますので、前原さんが目を覚ましたときのために、しばらくここにいていただけませんか?」
  なるほど、怪我をした子供の親に連絡をするのも仕事のうちか。だけど……。
「監督。圭一くんのご両親は、お仕事で東京なんだよ。確か三日間って言ってたかな、かな」
  そうなのだ。レナの言うように、圭一の両親はもう雛見沢を発ってしまった。どうにか連絡をつけて呼び戻すにしても、彼らが東京に着くまではどうにもならない。
「参りましたね……。入院の手続きやその他の説明がしたかったのですが……」
  頭を打っていることから、入院してしばらく様子を見る必要があるとの判断だろう。そう呟いて入江はしばらく考え込んでいたが、すぐに顔を上げた。
「まぁ、考え込んでも仕方がありません。ひとまず入院については事後承諾とするしかないでしょう。さて、それでは行きましょうか」
  そう言って、踵を返して歩いていく入江。圭一の両親が留守だと分かった手前、前原宅へ向かうということではないだろう。何のことか分からない私たちは立ち尽くすだけだ。
「ど、どこへ行くんですの?」
  恐る恐る尋ねる沙都子の声に振り返ると、入江はわざとらしいほどの驚愕の表情を浮かべた。
「何を言っているのですか! 前原さんは現在、眠っているのですよ!? つまり、あのすべすべお肌にあんなことやこんなこと……ふふふふ……」
  怪しい笑みを浮かべてから三秒足らずで、入江の頭上にタライが落下。何もないところからでも制裁を加えることの出来る沙都子のトラップは、もはや四次元をも制圧しているのではないだろうか。
「容赦ありませんねぇ……まぁ、冗談はこの辺にして、そろそろ麻酔も切れるころでしょうし、様子を見に行くべきなんですよ」
  先ほどの発言は、場を和ませるためのジョークだったのだろうか。それにしては、握り締めたメイド用カチューシャが気になるのだが。
「レナたちも行っていいですか?」
  カチューシャは無視することにしたのか、それとも圭一の身の危険を考えてか、レナが入江に尋ねた。
「そうですね……。前原さんも、目が覚めたときに皆さんがいれば嬉しいでしょう。構いませんよ」
  入江の快諾を受けて、私たちは入江の後ろを付いて行った。

 

「あ、入江先生!」
  歩き始めてすぐのこと、一つの病室から出てきたスタッフが、入江を呼んだ。
「前原君が、目を覚ましたようです」
  入江から心配はないと聞かされてはいたが、やはり実際に目が覚めたと聞かされたら、安心の度合いが違う。
「ですが……」
  そう言って、妙に視線をはぐらかそうとする。どうも様子がおかしい。
「何か問題でもありましたか?」
  そう言って医者の表情に戻る入江。何かしら予期せぬ事態が起こっているらしい。私たちを制止してスタッフの側に駆け寄った入江は、いくらか言葉を交わした後、真剣な顔つきのまま戻ってきた。
「困ったことになりました。身体も問題なく、意識も戻ったのですが……」
  そう言いよどむ入江。しかし、回りくどいことが嫌いで空気の読めない我らが初代部長、園崎魅音は自分を抑えたりはしなかった。
「圭ちゃんの身体は大丈夫、意識も戻ったんでしょ? 何の問題もないじゃない。それとも何? 女の子にでもなっちゃったワケぇ?」
  そう言って意地の悪い笑みを浮かべた魅音は、入江の制止の声も聞かずに進んでいく。その先にあるのは、圭一の病室。
「圭ちゃーん、入るよー?」
  数回ノックして、声をかけてから扉に手をかける。私たちも慌てて駆けていった。
「……」
  ベッドの上には、目を覚ましたばかりなのか虚ろな瞳を中空にさまよわせる少年が一人。その目がこちらを向いたが、表情には何の変化もない。頭に巻いた包帯やたくさんの擦り傷、それと青白い患者衣が相まって、いつもの快活な彼とは別人のように思えてしまう。
「え、えっと……。お、おはよう圭ちゃん! 皆心配したんだよー?」
  自分が思っていた反応と違ったからか、若干戸惑い気味の魅音は、なるべく平静を装いつつ圭一に話しかける。
「そうだよ圭一くん。でも、大事にならなくてよかったんだよ、だよ」
「まったくですわ〜! 雛見沢に来たばかりの頃に比べたら、少しは体力的にも成長されたと思ってましたのに、まだまだですわねぇ」
「とっても心配したのです。本当にもう大丈夫なのですか?」
  レナ、沙都子、次いで羽入が圭一に言葉をかける。そのいずれも聞こえているはずなのだが、どうも圭一の反応が鈍い。というか、何の反応も示さない。
「……圭一? まだどこか具合でも悪いのですか?」
  何か言いようのない不安を覚えて、私は圭一に尋ねてみた。皆が一通り喋ったところで、ようやく圭一が口を開いた。
「圭、一……?」
  自分の名前を、まるで初めて聞いた単語のように呟く圭一。その仕草が、私たちの不安をさらに煽った。
「それは、僕の名前なのか……? それに、あなたたちは、誰……?」
  その言葉の意味が、しばらく分からなかった。いや、理解したくなかった。だけど、ようやく現実を受け入れ、状況の整理が付き始めた頃。
「皆さん、ショックでしょうが、ご覧のとおりです。前原さんは、記憶を喪失しています。自分のことも、そして、皆さんのことも」
  いつの間に病室の中に入ってきていたのか、入江が私たちにそう告げた。勘違いでもなんでもなく、この事実を私たちは、受け止めるしかない。
  前原圭一は、これまでの自分という存在についての記憶を、失ってしまったのだ。

 

「外傷性全生活史健忘……非常に珍しい症例です」
  あの後、医療スタッフの一人を圭一のもとに向かわせ、入江は私たちを連れて会議室で説明をしてくれた。
「ラグビーなどをやっている方の場合、衝撃で一時的に記憶喪失になってしまう場合があると聞きます。その延長線上だと考えてください」
  魅音や沙都子は相当なショックを受けているようで、入江の説明が耳に入っているかも定かではない。
「先ほど様子を見てきたスタッフの話では、社会に対する情報は覚えているようです。つまり、前原さんが喪失しているのは、自分に関する記憶のみとなります」
  それを忘れているのが、彼本人にとっても私たちにとっても辛いことを理解しているのだろう。苦しそうに入江は述べる。
「そんなことよりさ……圭ちゃんは、圭ちゃんは思い出すんだよね? 私たちとの思い出も、自分のことも!」
  魅音にとって、園崎としてのしがらみや、雛見沢の悪い風習を断ち切ってくれた圭一の存在は、とてつもなく大きい。もちろんそれは私たちも同様で、彼が今までの記憶を失くす、という事実を受け入れるのは並大抵のことではない。
「はっきりしたことは言えませんが、多くの場合は少しずつ記憶は戻っていきます。もちろん、私も今日から、そのための治療を施して生きたいと考えています」
  そのために催眠療法なる治療法を用いること、しばらくは入院もしくは通院が必要になるということを述べ、入江は私たちに向き直った。
「皆さんも辛いことは分かります。ですが、前原さんのご両親がご不在の今、彼を支えてあげられるのは皆さんだけだと思うんです。一番辛いのは、不安なのは誰か。分かってあげてください」
  そう言って、入江は頭を下げる。患者や周囲に対する気配り、そして治療へ向けた熱意に、医者としてよりむしろ、人として惹かれる。それゆえ、彼は雛見沢にすぐ馴染むことができたのだろう。
「監督。……圭一くんの力になりたい、それは私たちに共通の思いです。監督が頼まなくても、私たちは圭一くんの側にいたいし、力になりたい。そう思います」
  状況を把握した、まず自分の意思を固めたのはやはりレナだった。彼女は、本当に強い。このメンバーの中で、誰が『火付け役』を担うのか、すぐに理解したのだ。
「……そうだね。監督、私たちが圭ちゃんのために出来ること、詳しく聞かせてくれない?」
「そうですわね。逆に、気をつけておかなければならないこと、やってはいけないことなど、情報が欲しいですわ」
  レナの決意に後押しされて、魅音と沙都子が続く。傍観者をやめる事ができたこの世界で、私も自分の出来ることをしなければならない。
「入江、すぐに教えて欲しいのです。ボクたちは、圭一の側にいたいのです」
  そう言った私は、真剣な目で入江を見つめる。私たちの反応を見て、入江は柔らかい笑みを浮かべた。
「皆さん、ありがとうございます。それでは、なるべく簡単に、詳しい説明をしましょう」
  入江の説明を真剣に聞く私たちだが、もちろん専門的なことは何一つ分からない。分かったことといえば、彼の今までの生活をなるべく再現させること。つまり、私たちが側にいることが何よりも大切だということだ。
  今までの自分を、圭一に思い出してもらう。そのために私たちはまず、私たち自身のことを知ってもらわなければならない。前原圭一と、もう一度友達になる。それが、今すぐに私たちがすべきことだった。

 

 再び彼の病室の前。扉の前に立つ私たちの間には、妙な緊張感が漂っていた。
「そ、それじゃあ、行くよ?」
  魅音の声とともに、扉が開かれた。その先のベッドの上には、先ほどよりも幾分はっきりした表情の圭一が、上体を起こしてこちらを見ていた。
「あぁ、さっきの人たちですね。……事情は先ほど伺いました。僕が記憶を失くす前、あなたたちと親しい関係にあったことも。すみません」
  そう言って、圭一は自信なさ気に頭を下げる。どこから訂正していけば良いのか分からないくらい違和感バッチリなその言動に、私たちは唖然とする他なかった。
「え、えーっと……、とにかく! 私たちは仲間だってことは聞いたんでしょ? なら、そんな堅苦しいのはナシナシ!」
  頭を掻きながら、魅音が喚きたてる。確かに、私たちの知ってる圭一の顔と声で、このようにかしこまられては、私たちも背中がむず痒い。
「そうなんだよ。でも、圭一くんからしたら、今は私たちのことを知らないでしょ? だからもう一度、自己紹介しようと思うんだ」
  そう言って、レナは優しい笑顔を圭一に向ける。
「そーゆーわけで! おじさんは園崎魅音。雛見沢分校の卒業生にして、我ら部活メンバーの初代部長だよ。時々皆と会いながら、今は家の手伝いをしてる」
  古く悪いしきたりが、目の前の少年の手によって変えられたといっても、そこは園崎家。たくさんの問題や、しがらみがある。魅音は現在、その手伝いをしながら時期園崎家党首としての教育を受けていると聞く。
「私は竜宮レナ! 魅ぃちゃんが卒業したあと、雛見沢分校の委員長をしてるんだよ、だよ。圭一くんとはお家が近いから、学校にも一緒に行ったりしてるよ」
  魅音を継いでクラスの委員長になったレナは、まるで母親のような優しさと厳しさで、クラスをまとめている。圭一と同様、特定の場合にやや暴走するきらいがあるが、それでもクラスの皆が彼女の力を認めている。
「わたくしは、北条沙都子ですわ。本当なら挨拶がわりにトラップの一つや二つお見せしているところですが、圭一さんが本調子になるまで、それはやめてあげますことよー!」
  今もなお、強くあろうとする沙都子。彼女は今日も、健気に悟史が帰ってくるのを……いや、目覚めるのを待ち続けている。
「ボクは、古手梨花と言いますです。よろしくなのですよ」
  私も昔と変わらない。ただ、今までの私が知らなかった「未来」に、一年経とうという今も心躍らせる毎日である。
「僕は古手羽入なのです。梨花の親戚で、梨花と沙都子と三人で暮らしているのですよ。あぅあぅ」
  羽入も、今は部活メンバーの一員として完全に定着している。これから先のことをどうするのか、彼女とそういう類の話をするのも、遠い未来ではないかもしれない。
「あ、えっと……はい。こちらこそよろしくお願いします」
  そう言って私たちに向ける曖昧な笑顔は、本来の圭一のそれとはかけ離れていて、圭一との間に生まれてしまった距離感に歯痒さを感じる。
「ほらほら、そんなにかしこまるなって言ったじゃん! 圭ちゃんは私たちの友達で、仲間なんだ。そういう態度のほうが失礼なんだよ?」
  言いながら魅音は拗ねたように唇を尖らせ、頬を膨らませる。
「それでね、監督……入江先生に許可をもらったから、村を回ってみようと思うんだけど、どうかな。そうすれば、圭一くんも何か思い出せるかもしれないでしょ?」
  レナの提案は、さっきこの部屋に入る前に私たちで決めたことだ。監督も、近くにスタッフを配備しつつ様子を見るということで、了承してくれた。
「このままベッドの上にいても、気が滅入るだけでございましょう? 圭一さんの家に言ってみたり、よく言った場所を回ってみたりしたほうが、よっぽど建設的と思いますわ」
  快活な笑顔を浮かべながら、沙都子が圭一の腕を引く。その手に引きずられるようにして、圭一はベッドの上から降りた。
「圭一が着ていた服は、レナと二人できれいにしておいたのです。これに着替えて、お出かけするのですよ」
  患者衣のまま外に出るのも嫌だろう。かなり高いところから落ちたにも関わらず、服が裂けていたり、ひどく汚れていたりしなかったのは幸いだった。レナと私で軽く砂をはたくだけで、普通に着る分には何の問題もない。
「それじゃあ圭一くん、部屋の外で待ってるから。着替えたら出てきてね?」
  私が圭一に服を手渡した後にレナがそう告げ、私たちは病室を出た。かなり強引な気もするが、私たちの日常はこういうものだ。こういう些細なことの積み重ねが、圭一が大切なことを思い出すことに繋がるかもしれない。
「えっと、おまたせ」
  しばらくして扉を開け顔を覗かせた圭一は、いつもの服装だからか少しだけ「いつもの前原圭一」に近付いたような気がした。

 

 圭一を外に連れ出した私たちは、彼をいろいろな場所に連れて行った。彼の記憶を呼び覚ます助けにならないかと、その先々で説明を加える。
「ここは、レナがかぁいいものを探しに来る場所。宝の山なんだよ! 圭一くんにはここで、ケンタ君人形を助けてもらったの!」
  例のゴミ山では、レナが瞳を輝かせながら言葉を紡ぐ。時折、圭一はレナに付き合って二人でここに来ていたらしいから、二人だけの記憶もあるのだろう。その記憶を呼び覚まそうと、懸命にレナが呼びかける。
「ここは、古手神社ですわ。ここからの景色は、雛見沢で一番のすばらしさだと思いますわ! 裏手のほうには、私と梨花と羽入さんが住んでいる家がありますの」
  古手神社と、その境内では沙都子が張り切った。沙都子の野菜炒めを食べに、圭一は時々我が家を訪れている。圭一を加えることで生まれる、明るい食卓。その思い出を取り戻したくて、沙都子は必死に語る。
「ここは、雛見沢唯一の学校ね。私はもう卒業しちゃったけど、圭ちゃんたちは今もここに通ってるってわけ。まぁ、私もたまに部活に加わりに来るんだけどね」
  分校では、最年長者の魅音が説明の役を買って出た。既に卒業した魅音は、私たちと会う機会が確実に減っている。だからこそ、この場所での出来事を忘れて欲しくない。その思いを込めて、魅音は圭一に語りかける。
  村の中を一通り案内して、圭一が何かを思い出してくれればと思っていた。少なからず、私たちは期待していた。しかし、圭一の反応は芳しくなかった。
「皆が一生懸命説明してくれたのに…ごめんね」
  私たちの落胆は、口に出さずとも圭一に気取られてしまったのだろう。
「ほ、ほら! 次行くよ次!」
  慌てて魅音が声を上げ、それにつられて皆も元気を取り戻した。
  その後も、裏山や綿流しをする河原も回ってみたが手ごたえは得られず、ならばと圭一の家へ向かうことになった。
「家の鍵は、圭一の荷物の中にあるはずなのです。両親は今は居なくても、中の様子を見れば何か思い出すかもしれないのですよ。にぱ〜☆」
  どこを見ても何も思い出せず、不安そうな表情の圭一を励ますように、なるべく明るい調子で話しかける。
「とりあえず、帰ろう? 今日は、レナたちが一緒に居るから」
  村中を見回っている間に、時間を見つけてレナと魅音は自宅へ電話していた。事情を説明して、今夜は圭一の家に泊まることを許可してもらったらしい。診療所のスタッフも同行すると言ったら、意外にあっさりと許可が下りたと魅音は笑った。
「うん……分かりました。道が分からないので、案内をお願いします」
  圭一の妙に丁寧な口調は、結局直らなかった。それでもなるべく歩み寄ろうとする姿勢が感じられるので、私たちも次第に何も言わなくなったのだ。このことについては、私たちが違和感を感じるからといって焦りすぎていたような気もするからだ。
「それじゃ、こっちだよ」
  魅音が告げ、レナと二人で先導する。ここは分校から近いので、まるで下校するときのような光景。もっとも、その場合私たちは逆方向なのだが。
  夕日が地面に影を落とす中、当たり障りのない会話をしながら私たちは歩いた。
「いやぁ、最近のゲームはすごいよ! ぁ……。っとごめん、何でもない! それでさー」
  楽しそうに話しながら、魅音が一瞬だけ浮かべた寂しそうな表情。しかし、それを気取られないように、平静を装って話し続ける。
「最近始まったドラマも、なかなか面白そうだったんだよ、だよ。 ……ッ! ペットのわんちゃんが、とってもかぁいいんだよー」
  表情はいつもと変わらないまま、レナが皮膚に食い込むほど拳を握り締めたことに気付く。それでも、笑顔で彼女は話し続けた。
  私たちが何気なく歩いた場所。そして圭一が何の反応も示さずに通り過ぎた場所は、登校するときに魅音とレナ、それぞれと待ち合わせをする場所。そして、下校時に別れる場所。何日も「おはよう」と「また明日」を繰り返した場所。その場所ですら、今の圭一にはその辺りの風景と変わらない。
  そうして何事もなかったかのように家に着くことは出来たが、私の脳裏には、魅音の哀しい笑顔や握りすぎて白くなったレナの指先が、焼きついて離れなかった。

 

「……ふぅ」
  目が覚めてしまった。壁に掛かった時計を見上げると、朝食を作る当番の日と比べても一時間以上早かった。
「寝直すような時間っってわけでもないし……さて、どうしようかしら」
  両隣には沙都子と羽入。少しはなれたところに、魅音とレナが眠っている。四人ともよく眠っていて、自分だけ先に目が覚めてしまったのが少し悔しく感じる。
  まだ目が覚めたばかりで、頭がうまく働かない。このままボーっとしてるのも悪くないかもしれない。
  結局、家の中を見て回ったことで圭一が何かを思い出す、ということはなかった。それでも、たくさん話をすることはできたので、それなりに圭一と打ち解けることは出来た気がする。
「……ハッ!」
  などと考えながらぼんやりと周囲を見回していると、隣に寝ていた羽入が急に起き上がる。
「ど、どうしたのよ? いきなりびっくりするじゃない!」
  私の言葉にも反応せず、羽入は周囲を見回した後、いつになく真剣な表情で呟いた。
「……シュー……」
  寝ぼけているのか。頭を二・三発叩けば、目も覚めるだろうか? そう思って、手を振りかざしながら近づく私だったが、ものすごい勢いで首だけこちらを向けた羽入の不気味さに硬直してしまった。
「梨花……」
  ゾンビよろしく両手をこちらに伸ばしてくる羽入。逃げるべきか、立ち向かうべきか。そんなひと時の逡巡の間に、羽入はものすごいスピードで私の肩を掴んだ。
「シューの匂いがするのです! 誰かがシューを食べてるのですよ!」
  ……この甘党神。一瞬でもこんなのに怯んでしまった自分が情けない。
「羽入の主張なんかどうでもいいけれど、こんな時間にシュークリーム?」
  昨夜、皆でご飯を作ったときには冷蔵庫の中にシュークリームなんてなかった。こんな時間に開いてる店もないだろう。
「間違いないのです! シュークリームが僕を待っているのですよ!」
  鼻息荒く、羽入がそう主張する。
「……はいはい。とりあえず一階に降りてみましょう」
  このままだと、他の皆も起こしてしまう可能性がある。とりあえず、騒ぎ出しそうな羽入をなだめながら部屋を出ることにした。
「匂いの元は……リビングなのです!」
  部屋を出たところで、私も気が付いた。シュークリームかどうかは別にするが、確かにカスタードの甘い匂いが漂っている。
「こんな時間に誰かしら……? って羽入!?」
  いつの間にか階段を駆け下りてる羽入を追って、私も慌てて一階のリビングに向かった。

 

「あれ? 古手さ……梨花ちゃんたち、早いんだね。おはよう」
  リビングの扉の向こうには、圭一がいた。手の上には大きめのお皿、その上にはいくつかのシュークリームが乗っている。
「おはようなのですよ、圭一。それで、何をしているのですか?」
  と聞いては見たものの、言われなくても分かっている。
  おそらく圭一の母のものであろう、落ち着いたデザインのエプロンを身に纏い、手にはシュークリーム。匂いが漂うということは、そのシュークリームは温かいということで……。
「あぁ。台所にお菓子作りの本があったから、簡単そうなお菓子を作ってみたんだよ」
  ここにきてまた違和感を追加してくれるか。私の知る圭一は、意地を張って一人で料理をしようとして、危うく火事を引き起こすような人間だったはずだ。
「うまく出来てるか自信はないんだけど、よかったら味見してみる?」
  その言葉とともに差し出されるお皿。その上のシュークリームはまだ仄かに熱を持っていて、作りたてであろうことが分かる。
「いただくのですよ!」
  何のためらいもなく手を伸ばしたのは、我らが甘党神。そのまま口に運び、まず一口。
「……」
  三人の間に沈黙が流れる。元の圭一の料理の腕前を知っている私からすれば、いくら形が整っていても味が心配。圭一からすれば、自分の作ったものの出来栄えが気になる。二つの視線が、羽入に注がれる。
「……ッ!」
  一つ食べ終えたところで、羽入の目がカッと見開かれる。続いて、小さい震え。
「すごいのです! 今まで食べたシュークリームの中でも、三本の指に入るのですよ!」
  そして下された高評価。その評価に驚きつつ、恐る恐る私も一つ。
「お、美味しいのです」
  羽入と私の評価を聞いて、ようやく安心できたと言わんばかりに圭一の表情が崩れた。
「よかった。うまく出来てなかったらどうしようかと思ったよ。だけど、そこまで嬉しいことを言ってもらえて、驚いたよ」
  驚いたのはこっちだ、とつい素の表情で返しそうになる。
「もっと! もっと欲しいのですよ!」
  羽入がねだるのを見て、圭一が少し困ったような顔をする。
「うーん……。構わないけど、朝ごはんがまだでしょ? 朝ごはんを先にしたほうがいいと思うよ」
  圭一の言葉はもっともなので、羽入も渋りながらも引き下がる。
「朝ごはんの後あたりに、皆と一緒に食べればいいよ。あぁ、それと」
  そう言って、少しいたずらっぽい笑みを浮かべて圭一は続ける。
「先に味見してもらったことは、内緒だよ?」
  その表情に、少しだけ元の圭一らしさを見た気がした。

<続く>