断章、あの四季
ペンネーム:菜の花。
夏の章 「あした、野薔薇」
世の中には「ろくでもないこと」の原因が二つある。
一つは圭一さんの不用意なひとことであり、もう一つは圭一さんのもっと不用意なひとことである、とわたし、北条沙都子は思います。
「興宮の夏祭りぃ?」
圭一さんが素っ頓狂な声をあげました。相変わらず大袈裟でうるさいひとですこと。
「そうなんですよ。監督からですね、雛見沢ファイターズと興宮タイタンズの親善試合の終了後、雛見沢と興宮の交流を兼ねて興宮の夏祭りに飛び入り参加しよう、とのお話がありまして」
「面白そうな話じゃないの、詩音」
横からお祭り好きの魅音さんが、喜色満面で口をはさみます。魅音さんらしいですわね。
「交流はとてもいいことなのですよ。ボクは賛成なのです」
梨花はいつも通りと言えばいつも通りの優等生的な答え。でも、仲良く楽しみたい、という梨花の気持ちは掛け値なしにホンモノ。
「さすがは梨花ちゃま、わかってらっしゃいますね。夜店やのど自慢大会もあるとかで、面白そうですよー。圭ちゃんはどうされますー?」
「よっしゃぁぁぁぁぁ! 」
意味もない掛け声と緊張感を漲らせて、圭一さんが気張ります。だからやかましいですわ!
「もちろん参加だぜ! ここらで一発、雛見沢の気合いを見せ付けて、興宮の連中の度肝を抜いてやろうじゃないか! 我が精鋭諸君、盛装だ! ドレスアップだ! フル装備で興宮に乗り込むぞ! 連中に雛見沢魂を教育してやろうではないか!」
この無駄に高いテンションはいったいドコから来るのでしょうか。激しく疑問です。
「圭一くん、そんな教育は間違っているんじゃないかな? かな?」
良識派のレナさんがやれやれまたか、といった風で穏やかに苦笑しています。
圭一さんが興味なさ気に、ちろりとわたしを見ました。
「沙都子、お前のドレスアップ姿が楽しみだぜ。せいぜいめかし込んで来いよ」
イヤミなセリフにカチンと来たわたしですが、意外にも圭一さんの声には棘がありません。単に言ってみただけなのでしょう、わたしは圭一さんにとって最初っから員数外扱いなのです。それが余計にムカつきます。
むっがぁぁぁぁぁぁ! 見てらっしゃいませ!
わたしはレナさんとは別の意味で、やれやれまたか、といった風でとことん呆れているのです――本当に困ったひと、ですこと。前原圭一さんという方は。
今度は「盛装」、と来たもんです。圭一さんと一緒にいる限り、わたしの悩みは尽きることがないと思うのですわ、多分。
清貧を旨とする聖フランチェスコ修道会士のごとき生活を送るわたしには、「盛装」と言うに相応しい服なぞ所有しているハズはございません。同居している梨花はまだいいのです。梨花には切り札の「巫女装束」があります。一部の特定層を完膚なきまでにノックアウトする恐るべき切り札。では、わたしも梨花の服を借りればいいか、というとそうはいかないワケですわ。服の似合う似合わない、はまた別の問題。
圭一さんに悪気がないのは重々承知しています。もし悪気があるのなら、それ相応の報い――主に金ダライ――が圭一さんの頭上に鉄槌を下すまで。しかし今回は、単にその場のノリで「盛装」と言っただけのこと。だからこそ余計に始末が悪いのです。
どうにかして圭一さんの破天荒ぶりを、トラップ抜きでやり込めてみたいと思うわたし。それにはまず、盛装の調達が必要です。わたしは考えうる最善の手と最悪の手を両天秤にかけてみました。
夕刻、入江診療所。
「おや、こんな時間にどうされました、沙都子ちゃんに詩音さん」
医師として勤勉で誠実な監督は、書類から目を放して来訪者のわたしたちに向き合いました。
わたしは、何か急病でも、と言いかけた監督を制するように言いました。
「監督、実は折り入ってご相談、いえ、お願いがございますの。監督でなければお願いできない事態なんですの」
わたしの声が上ずっているのは仕方ございません。これから大恥を掻こう、というのですから。逃げたい、でも逃げられない。哀れな小動物のわたし。圭一さん、恨みますわよ。
医師として勤勉で誠実な監督は、患者の訴えに聞き入るかのように背をかがめ、視線をわたしの位置にまで下げてくださいました。
「なんですか、沙都子ちゃん。できる限り力になりますから、わたしに話してみてください」
わたしはうつむき、もじもじと両指を重ね、意を決するように、上目遣いでようやく重い口を開くのです。
「お、お願いいたします。か、監督の、お、お洋服のコレクションを、この、わ、わたくしに、お、お貸しくださいませ!」
一瞬の後。
にぃぃぃぃぃぃ〜〜〜〜〜〜ぱぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜★
監督に悪徳の笑みが浮かび、診療所はさながらソドムとゴモラの市の様相を呈しました。やっぱり今からでも逃げる準備をしましょうかしら。
「そうですかそうですかそりゃもうこの入江京介が万難を排し一命を賭して築き上げたわたしのコレクション、すべて沙都子ちゃんのために捧げ奉りますとも! どれでもお好きな服を持っていってください! いや〜良かった良かった沙都子ちゃんがわたしの高尚な耽美とデカダン渦巻くメイド帝国にようやく理解を示してくださるとは! ああ、男子の本懐、ここに成就す! 栄光まさに極まれり! わが生涯一片の悔いなし! さぁさぁ、あちらのお部屋に参りましょう! この不肖入江京介めが沙都子ちゃんに最高のコーディネートを――」
「監督は黙って服を貸してくださるだけで結構です。コーディネートはわたしがしますから。さぁ、沙都子、わたしについてきなさい。圭ちゃん達が腰抜かすような素敵なレディにしてあげますよ」
冷酷に神が裁くが如く、冷たく詩音さんはおっしゃいます。こんなときの詩音さんは本気で怖いのです。ガクブルですわ。
医師として勤勉で誠実な監督は、しかし、人としてかなりいかがなものでしょうか? な部類であるのは、すでにわたしにも周知の事実。
振り向きもせずに詩音さんは歩き出します。真っ白な塩の柱と化した監督を残して、わたしは詩音さんの後を追いました。
――圭一さんをやり込めるために、お祭りの話を振ってきた詩音さんに相談をする、という選択。
最善の手を打ったと思ったが逆でしたか、とわたしは後悔します。
誰か助けてください。でも無理。もう、遅いです。きっと。
興宮の夏祭り、当日。
詩音さんの部屋で、わたしは着せ替え遊びの人形になっていました。
「ほんっとーに監督のシュミは偏っていますねぇ。沙都子、苦しくないですか?」
「あ、足が……かかとが高くて……た、倒れそうですわ〜」
着慣れない服に履きなれない靴。わたしはよろよろと歩き回るだけです。
「沙都子のバランス感覚ならすぐに慣れますよ。……まぁ、服の方はこんなモンでしょうかねぇ。次はメイク、メイク、っと……」
「あの……詩音さん……」
それは尋ねるべき質問ではないことくらい、わたしは存じていました。ですが、その答えを聞かずに、このまま詩音さんと一緒にいることはわたしにはできません。
「詩音さん、どうしてわたくしに親切にしてくださいますの……にーにーのことで怒ってらっしゃるんじゃございませんの……?」
詩音さんは何も答えず、バニティケースを漁っています。
「わたくしがにーにーの妹だから? にーにーに頼まれたからですの? それとも……」
「沙都子、口を閉じなさい」ぴしり、と詩音さんはおっしゃいました。
びくっ。思わず、わたしは口だけではなく、眼をも閉じて。
その唇に何かが触れました。それは、口紅。
「沙都子、女の子には綺麗になる権利があるんですよ。わたしはそれを教えているだけです。――綺麗になる、という意味はもちろん外見だけではないんですけどね」
わたしはゆっくりと眼を開きました。詩音さんが花開くように微笑んでいます。
「子供にはね、いっぱいいっぱい親に甘えなければならない時期があるんですよ。沙都子にはそれがなかった」
でも、と詩音さんは続けます。
「悟史くんにもそれはなかった。それだけは覚えておいてくださいね」
ふいにわたしの心が痛みます。小さな棘が心臓へと向って。
「やっぱり……やっぱりわたくしがにーにーに甘えすぎていたから……」
「そうですよ」
詩音さんは言い切ります。しかし、その声は冷たいものではなく。むしろ、厳しいけれど暖かい感情に溢れていて。そして。
「でも、それを自覚し、向き合えるようになった、というのは沙都子が成長した証拠です。わたしにはそれが嬉しいですね」
「詩音さん……」
「最初の問いに戻りましょうか、沙都子」
紅筆でわたしの口元を整えながら、詩音さんはおっしゃいました。
「わたしはあなたが気に入ったからですよ、北条沙都子」
クルマに揺られて夏祭り会場へ向かいます。わたしの座る後部座席は革でできたふかふかのソファのようで。ゆったり揺られて、眠くなります。
詩音さんは助手席からあれこれと話しかけて来ました。聖ルチーア学園の生活はひどかった、と笑っていました。金輪際帰るものか、と笑っていました。
クルマを運転する葛西さんという人は、随分と詩音さんのことを気に掛けているようにわたしには思えます。なんだか詩音さんがとっても威張っているようですが、それは葛西さんとの厚い信頼があってこそなのでしょう。こんな雰囲気っていいな、と素直にわたしは感じます。
――子供にはね、いっぱいいっぱい親に甘えなければならない時期があるんですよ。
不意にわたしは理解します。
……詩音さんも親にいっぱいいっぱい甘えることができなかったのかもしれない、と。
多分、詩音さんにとっては葛西さんが「甘えられるひと」なのかもしれません。
こうやって、少しずつ少しずつ詩音さんのことを理解して、少しずつ少しずつ詩音さんのことを好きになっていけるのなら嬉しいですわ。そして、いつの日か詩音さんを「ねーねー」と呼んで、お互い一緒に笑い合えたなら、それはきっと素敵ですわね。
「葛西、会場が近いです。着いたら駐車場に止めてもらえますか」
詩音さんの指示に、はい、と短く葛西さんは答えました。
「沙都子、準備はいいですか」
助手席から振り向きざま詩音さんが言います。クルマに乗り込む前、何度も何度も鏡の前でチェックしたのですが、着慣れない服に少々わたしは戸惑っているのです。
「詩音さん、わたくし、本当に似合っていますでしょうか……」
「おやぁ? 沙都子、まだわたしのコーディネートに疑問を持っているんですかぁ? ねぇ、似合ってますよねぇ、葛西」
詩音さんが悪笑をたたえます。お似合いですよ、と不器用に葛西さんがわたしを褒めてくださいます。
クルマが止まりました。
「さぁ、行きますよ。沙都子」と詩音さんが言います。
わたしは口元を引き締め、真剣な眼差しでうなずくのです。
「はろろ〜ん、お姉。うわー、皆さんキメてますねー」
圭一さんはスーツ。魅音さんは和服。レナさんはツーピース。梨花は……やはり巫女装束ですわ!
「おっそーい、詩音! ……ってお連れの方はどなた?」
思い浮かべるのは、さっきまで見ていた鏡の中の私の姿。
淡雪のようなフリルの付いたブラウスに、クマさんのパッチワークをあしらったアースカラーのティアードスカート。胸元にはそれに合わせた野薔薇のコサージュ。足もとは9センチのヒール。
いつもより9センチ高い視点から見る景色は何もかもが目新しくて。見知らぬ景色。見知らぬ自分。これが本当にわたくしなんでしょうか、と。
アーリーアメリカン風味のレイヤードファッションにハイヒールにメイク。薄く引かれたピンクのルージュが、自分でもオトナっぽく感じたのです。綺麗、と思ったのです。
さぁ、今こそ。自信を持って。詩音さんのお墨付きなのですから。
わたしはスカートの裾をつい、と持ち上げ片足をわずかに交差させながら見事なお辞儀をしてみせます。
「遅くなってごめんあそばせ。北条沙都子でございますわ」
途端、ギャラリーの口がぽかーんと開きっぱなしになりました。
「どーですか、お姉。沙都子の新しい魅力は? わたしの見立てなんですよー?」
藁色の髪が冠のように陽に輝くのをわたしは眩しく感じます。
「んー、沙都子のドレスアップ作戦大成功! お姉の鼻を明かせたのは痛快でした」
帰りのクルマの中で詩音さんが大笑いしていました。お姉と圭ちゃんのポカン口が一番面白かった、と大笑いしていました。してやったり、のご機嫌です。
わたしも、圭一さんのアゴがカクンと地面に落ちたのには大爆笑でしたわ。
「沙都子は将来、きっと魅力的になりますよ。男の人を手玉に取るのも自由自在ですねー」
詩音さん。同じトラップでも、色仕掛け、ハニートラップの類はわたしの管轄外です。
でも、わたしにはこんなお洒落はちょっと早すぎる気がするのも事実。裏山を駆け回っている、いつもの服装がわたしらしいのでしょうか。まぁ、圭一さんをやり込めることができたのですから結果オーライですわね。
「沙都子、デートのときには、またわたしに相談してくださいね。思いっ切りドレスアップさせてあげますよ。あ、手始めに圭ちゃんなんてどうです? 圭ちゃん、沙都子に惚れちゃうかも」
いや、そのシチュエーションはあり得ませんわ。わたしと圭一さんが二人っきりなんて、絶対口ゲンカの結末しか予想がつきません。
「わたしも沙都子も、きっと窮屈な環境には耐えられないタチなんですよねぇ。根が野育ち、っていうか。多分似たもの同士、同じ土に咲く花なんですよ」
それが、詩音さんがわたしを気に入ったという理由ですか。詩音さんが「にーにーの妹」としてではなく、「北条沙都子」として自分に接してくれるのが、わたしにはたまらなく嬉しいのですわ。
「だからこそ、もっともっと綺麗を目指さなくてはならないんですよ。バラみたいなデリケートな綺麗ではなく、ずっとしたたかな綺麗をね。分かりますか、沙都子」
はい、とわたしは答えます。
「このお召し物は、わたくしには少々早すぎるようでございましたわね。でも……」
この服が似合うくらい、そう、あと身長が9センチくらい伸びて、もっともっと綺麗になった日には――。
「また喜んで、袖を通させていただきますわ」
それまでは、今しかできない綺麗を精一杯やろう、と迷わないわたしです。
夏空。入道雲。いつか見た夕立。地面を穿つ大粒の雨。それでもなお。
温室に俯く薔薇よりも、荒地に笑う野薔薇であれ。
わたしにとって、それが真実。あした、きっとわたしは野薔薇になる。
秋の章 「いつかは冷たい雨も」
「走れぇ沙都子! 力の限りペダルを踏めぇ!」
「そ、そんなこと言われましても……こ、この雨では……け、圭一さん、待って下さいまし〜!」
今日は一日秋晴れの予報、のはずでした。日直でケンケンガクガクと口ゲンカをしながら学校に居残っていた圭一さんとわたしは、夕刻から突然降り始めた雨に愕然。……甘かったですわ。天気予報の守護天使など存じ上げていませんもの。
もとより雨具の用意などあるハズもなく、わたしと圭一さんは、勢いを増す雨の中を自転車で強行突破する決意を固めます。
「沙都子! お前の家より俺の家が近い! 退避するぞ!」
「りょ、了解しましたわ! 圭一さん!」
幸か不幸か、圭一さんのご両親は旅行中とのこと。闖入者の一人や二人、構わないでしょう。……構いませんわよね?
文字通りの濡れネズミと化したわたし達二人は、泥水を跳ね上げながら圭一さんの家へと自転車でひた走ります。
秋の雨は冷たすぎるから。
「沙都子、風呂沸かしてやるから先に入れ。熱いシャワーでも浴びろ」
乾いたタオルで水滴を拭いながら圭一さんが言いました。
「圭一さんこそお先に。お邪魔しているのはわたしでございますし……」
「莫迦、泥だらけのお前にうろつかれると迷惑なのはこっちだ。いいから先に入れ」
むぅ、とタオルを頭から被ったわたしは唸ります。そう言われたなら、人様の家にお邪魔している以上反論はできません。
「では、お言葉に甘えまして……」
「何か着替えを用意しておくからな。濡れた服は籠に入れておいてくれ、干しておくから」
「あの……圭一さん……」
わたしはおずおずと、ためらいがちに口を開きました。
「なんだ。風呂場の場所が分からないのか?」
「ノゾかないでくださいましね?」
誰が覗くかぁぁぁぁ! と、圭一さんの絶叫が聞こえます。をーほっほっほ。
「なんですの、この服?」
たっぷりと熱いシャワーを浴び、顔を上気させて居間に顔を出したわたしは聞きました。
「なにって、俺のトレーナー……だはははははははははは!」
大方の予想通り、まるでサイズが合っていません。
圭一さんも大柄な方ではありませんが、わたしが輪を掛けて小柄なのです。トレーナーの裾から顔を出している膝小僧。しかし、その景気の良すぎる笑い方はひどいのではないでしょうか。いざ口ゲンカ第二ラウンド、戦闘準備。
すると、圭一さんはわたしの気勢を削ぐようにニタリと嫌らしく笑って。
「ちょっとこっちに来い、沙都子。いーから来い」
「な、なんですの、そのわきわきと動く手は! なにをなさいますの! い、いや〜! ケダモノぉ〜!」
懸命に暴れて抗議するわたしを抑えつけて、ドライヤーを取り出す圭一さん。
「ほら、髪を乾かしてやるからアタマ出せ。そのままだと風邪引くぞ」
温風を吹きかけ、圭一さんはわしゃわしゃとわたしの髪をかき回しました。乱暴すぎますわよ、という声は聞こえなかったことにされたらしいです。冗談抜きで乱暴すぎです。
本当に、圭一さんはなにを仕出かすか分からない方ですわ。自分のことより、わたしの風邪を心配するなんて……。
「あの……圭一さんもお風呂をいただいた方が……」
「あ、俺はいいや。服も着替えたし、髪も乾かしたから」
けろっとした声で言う圭一さん。強引過ぎるとはいえ、髪まで乾かしてもらったのだから、今度はわたしが圭一さんに何かお礼をすべきでしょうか。
「では、なにか暖かい飲み物でもお作りしますわ。圭一さんはテレビでも見ながら、お待ちになってくださいまし」
勝手知ったるなんとやら、でわたしは台所に向かいます。冷蔵庫の中には……残念ながら牛乳くらいしかありません。この巨大な冷蔵庫が空っぽ、というのは問題があると思うのは気のせいでしょうか?
「ホットミルクというのも芸がありませんわね。やれやれ……あら?」
チョコレート。古くなった食べかけの板チョコが冷蔵庫の中で見捨てられていました。
「これは重畳ですわ♪」
ミルクパンに牛乳を注ぎ、コンロにかけます。沸騰しないよう、火加減には細心の注意を払って。マグカップを二つ用意。板チョコを細かく割って放り込みます。牛乳もいい頃合に温まってきました。
「さて、ここからが勝負ですわよ」
マグカップに少量の牛乳を注ぎ込みます。板チョコがゆっくりと溶けるように。
かきまぜます。牛乳を加え。さらにかき混ぜます。さらに牛乳を加え。
さらにさらにかき混ぜます。さらにさらに牛乳を加え。さらにさらにさらにかき混ぜます。
――沙都子、ゆっくりと焦らず、愛情を込めてかき混ぜるんだ。そうしたら、もっともっと美味しくなるんだよ。
そう教えてくれたのはにーにーでした。
板チョコが完全に溶けたら、ようやくマグカップを牛乳で満たします。隠し味に塩をほんの、ほんの少々。さらにかき混ぜて。そして。
わたしは会心の笑み。「沙都子風ホットチョコレート」の出来上がり!
「圭一さん、お待たせしました。ホットチョコレートですわよ」
トレイの上には甘い香りが立ちのぼるマグカップが二つ。圭一さんはソファにもたれながら、じっとテレビを見ているようです。それにしては静かすぎますが。
「……圭一さん?」
せめてお返事くらいなさってくださいまし、とわたしは圭一さんを覗き込んで。
んが。ぷぅ。それが圭一さんの返事でした。いびきが返事と仮定すればの話ですが。
「ね、眠ってますの!?」
わたしは呆れました。よくもまぁ、こんな状況で……本当に、圭一さんって方は……。
いつもの意趣返しに、眠っている圭一さんにデコピンの一発でも食らわしてたたき起こしてご覧に入れましょう、などとはチラっとも考えませんでしたわ。ええ、本当に。
仕方がないので、トレイをテーブルの上に置き、圭一さんの隣にチョコンと座ります。そのとたん。圭一さんがゆらりとわたしの肩にもたれかかりました。
「け、圭一さん! お、重たいですわ〜!」
熟睡しているのか、圭一さんは身じろぎ一つもしないのです。むぅ。無理に起こすわけにもいかないので、わたしも姿勢を崩せません。
テレビの内容は天気予報。雨は夜には止む、とのこと。
静かすぎますわ。圭一さん。絶えずやかましいのが圭一さんのウリではありませんでしたの? ワイワイガヤガヤあれやこれやと口ゲンカするのが、わたし達の流儀ではありませんでしたの? ねぇ、圭一さん、わたしを独りにしないでくださいな。
ふと、ホットチョコレートのそれとは違う、別の香り。……圭一さんの香りがします。
わたしは、そっと圭一さんの腕を抱きしめました。
――ヒトリデハ寒イカラ、
――フタリデナラ暖カイ。
そんな久しく忘れていた感触を、わたしは思い出していました。
わたしは。
優しくて、穏やかで、とても近くにいたのに今は遠いひとを想って、少し悲しくて。
いぢわるで、騒がしくて、遠くにいたのに今はとても近いひとを想って、少し笑って。
なのに。涙が止まらないのは何故なのでしょう。
にーにーの思い出の中に、密やかな波紋。ぽつりと圭一さんの笑顔が雫のように落ちて。わたしは遠く近くに揺れる小船の幻を見ました。
氷雨。ガラス窓を通して寒々とした秋の夕べ。寝顔の圭一さん。二人きりなのに、置いてきぼりのわたし。耳が痛くなる静寂。テレビの音など聞こえない。とうの昔に冷めたホットチョコレート。
いつかは冷たい雨も、必ず止む時は来る。
でも。わたしは今日の雨を忘れない。
冬の章 「胸にひとつ、星」
雪を食む靴音に人影。吐息は白く凍て、ゆるやかに融けては風に舞う。舞いながら、吐息と共にわたしは歩みを止めない。冬の雛見沢。
星が流れる。
海に落ちた流れ星はヒトデになるんだ、だから漢字で海星と書くんだよ、とにーにーが言う。
では、陸に落ちた流れ星はどうなりますの、とわたしが問う。
にーにーは「むぅ」と困った顔をする。
昔の話だ。
にーにー。あなたは今、わたしと同じ星を見ていますか。
にーにー。あなたの星はどこにあるのですか。
夜の冬は海の底に似ています。雪が星のわずかな光を反射して、大地が白く浮かび上がるのです。遠くを見渡せば、自分がどこにいるのかすら分らなくなります。
だからわたしはまっすぐ前だけを見つめ、歩むのです。
買出しの荷物を持って興宮から歩き詰めでした。冬場は自転車が使えないから歩くしかありません。バスの時刻表など、あてにはなりませんわ。
ここまで歩けば、興宮の喧騒も届きません。振り返れば興宮の空が大火のように橙色に染まっています。ネオンサインの輝きを映しているのでしょう、どんちゃん騒ぎのクリスマス商戦にはお似合いです。たかがクリスマス。
駅前の商店街に飾ってあった大きなツリーから、天辺の星の飾りをひとつ失敬してきました。星はあんなところで光るべきではありません。今はコートの胸のポケットにひっそりと忍ばせています。右手に学校が見えます。もうしばらく歩けば診療所。その手前の道を左手に曲がれば、神社へと続く道です。
急いで帰りましょう。梨花の待つ、いや今日は仲間たちの待つ我が家へ。魅音さんの提案で、ささやかな宴が催されます。
帰りましょう、我が家へ。
「あれ、圭一さんはどうしましたの?」
家に帰り着いたわたしは言いました。
梨花、レナさん、魅音さんの三人しか集まっていません。約束は現地集合、すなわちわたしと梨花の家なのです。
「はぅ〜。レナも今さっき着いたんだよ。荷物があるからお父さんに送ってもらったんだよ」
「おじさんも興宮からクルマで直行だったからなぁ。早く着きすぎたのかねぇ」
ちゃぶ台の上にはガスコンロとすき焼き用の鍋。レナさんが用意したケンタくんフライドチキンのパーティバーレル。
冷蔵庫のそばには巨大なエンジェルモート特製クリスマスケーキが鎮座しています。なんでも魅音さんが無理と無茶を言いまくって特注したシロモノだそうです。なんてことでしょう。
「まぁ、圭ちゃんのコトだから、そのうち着くでしょ」
「じゃぁ、レナは沙都子ちゃんが買ってきたお野菜を切るね」
春菊、きのこ、おネギにしらたき〜、と鼻歌を歌いながら台所に立つレナさんの背中にしらたきは野菜じゃないよ、と魅音さんが空気の読めないツッコミを入れます。
「圭ちゃんも豪勢だねぇ。但馬牛の霜降りを食べきれないほどもらったからおすそ分けする、だなんて。おじさん、惚れちゃうよ」
圭一さん、餌付けのつもりですか?
「魅ぃの家でも霜降りは豪勢なのですか?ボクは食べたことがないのです」
「霜降りはあるけど、但馬はねぇ。一度食べたけど、思い出すだけでそりゃもう……」
うひひ、と魅音さんはよだれを拭う仕草をしました。もう少し女の子らしい表現を期待してはいけないのですか?
わたしは嘆息します。
魅音さんの家にしても圭一さんの家にしても、お金は有る所には有るんですのねぇ、と。 それがどういたしましたの? 熱い味噌汁とご飯は身体を温める。食卓の笑顔は心を温める。少なくとも、わたしと梨花は今までそうして暮らしてきました。
時計の針はコツコツと回り。圭一さんの姿はまだ見えません。
「レナさん。圭一さん、遅いとお思いになりません?」
「うん……。圭一くんにしては遅いね。どうしたのかな? かな?」
道に迷ったのですわ、とわたしは結論しました。
「ええっ?圭ちゃんが迷子になったぁ? まさかぁ……」
「魅音さん。圭一さんは、雛見沢の冬は初めてでしてよ?」
「魅ぃ。古手神社は雛見沢の奥。地元の人間でも冬の夜道では迷うのです。目印になる建物が少ないのです」
夜の冬は海の底に似ています。
雪原では方向感覚が狂いやすいのです。それも夜道ならばなおさらです。都会育ちの圭一さんには、雪道の怖さは分かりません。
「わたくしが捜してきますわ。皆さんはここで待っていてくださいまし」
「沙都子、圭ちゃんの居場所は分るのかい?」
おおよそは、と言いつつわたしはチラシの裏に地図を描き始めました。
考えるのですわ。雛見沢の人間なら通らない道は。考えるのですわ。自分が圭一さんなら。
考えるのですわ。考えるのですわ。冬道を侮る人間なら。
考えるのですわ。考えるのですわ。考えるのですわ。圭一さんの、思考を、読み解くのですわ!
<続く>
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