鬼ノ墓標
ペンネーム:館内瑛治
一、
――昭和五十四年六月二十五日。二年目となる『綿流し』の翌日だった。
私は、ある事件の捜査に駆り出され、この雛見沢村へと足を踏み入れていた。私にとって初めての、この村での事件だった。
捜査は昨日の深夜から続いている。見渡す限りの砂漠に落とされた一粒の宝石を探し出すような作業とでもたとえれば適切だろうか。広大な山々に囲まれたこの村に残る犯人の痕跡を探し出す作業は、労力に見合わず、まったくといって良いほど功を奏していなかった。
陽が傾き、赤みを帯び始める。甲高く鳴き続けるひぐらしの物悲しい声が、村を包んでいた。
その日、私はまったく眠っていなかった。疲労感の蓄積も、そろそろ限界だ。弱音も吐きたかった。
私は、休息を取るため、事件の捜査本部を置く興宮署へと帰還することにする。ぼんやりとした意識の中、村から少し外れた山道をただ歩いていた。
すると、私の行く道を防ぐように、地面に横たわる者がいた。
作業服の男が一人、道端に倒れていた。薄暗い山道からやや外れた草むらの中に頭を突っ込む形で、倒れこんでいた。
介抱するべく男のそばに駆け寄り、声を掛けようとして、私は口をつぐんだ。すでに息がないことが明らかだったのだ。その男には、首から上がなかった。
生まれてはじめて目の当たりにした殺人事件だった。しかし、極度の疲労が幸いしたのか、私は思考を停止させたまま、傍観者のように死体を眺めていた。
次第に目の前の光景が尋常ではないことが飲み込めてくると、無意識のうちに、背筋が伸びてくる。私の意識は、ようやくクリアな状態で死体の有り様を分析していた。
「なんてことだ――またかよ」
私は思わずつぶやいた。
まだ熱がある。死後間もない、真新しい死体だ。
その死体は、五つに切断されていた。切断面からは、固まりきらない血液がまだ流れ出している。右腕と左腕、右足と左足、それに胴体。それぞれが切り離された状態で、彼の体は山道に横たわっていた。バラバラに散ってしまわなかったのは、全身を覆う作業着が完全には切り離されず、両手と両足を胴体のすぐ傍に保持していたからに過ぎなかった。自由を許された頭部は、どこかへ転がって行ってしまったようだ。
前日には全く同じ手口の殺人事件が発生したばかりだった。事件の発生場所は雛見沢ダム建設現場内。被害者はダム工事現場監督。加害者は建設作業員六名。
加害者の自供を信用するならば、事件の全容はこうだ。現場監督と主犯格の男が口論になった。『ダム戦争』の渦中にあり、日々の過酷な作業に対する不満とあいまって現場監督が激昂した。現場監督は作業用のシャベルで加害者らに殴りかかった。やむを得ず、加害者らは現場監督に反撃、衝動的に彼を撲殺した。加害者らは現場監督を殺害すると、その五肢を切断、胴体を含めて死体を六つに分解し、それぞれを六名で分担して破棄することとした。
その日のうちに加害者の一人が興宮署へと出頭し、事件の存在を自供したことで、同日深夜のうちに速やかな捜査が開始された。
翌日未明、残る加害者五名のうち四名を逮捕したが、主犯格はなおも逃走中。バラバラにされた現場監督の右腕も見つかっていない。
現在、興宮署は総力を挙げて犯人を追跡している。私はこの村を捜査していたのは、こういった経緯からだった。
その矢先の新たな事件だった。
私は、黙って彼の冥福を祈り、死体を覆いまとめる作業着のポケットを探った。
持ち物から身元を確認することができたのは、不幸中の幸いだった。
『小此木造園 社員証』
そう記された手帳から、この男が近隣の住人であることが明らかとなった。小此木造園は、興宮に本拠を構える会社の一つだ。
さらなる手掛かりを捜索する。逆側のポケットからは、それなりにまとまった紙幣を入れたままの財布が発見された。
どうやら、物取りによる犯行ではなさそうだ。私怨による線が濃いだろうか。
そんなことを考えながら周囲に目を走らせれば、道の先でも土に真っ赤な液体が付着しているのが見えた。血の跡だ。まだ固まりきらぬ下手人の足跡は、細い山道を奥へ奥へと上っている。
私は、胸元から無線を取り出し、興宮署に連絡を取った。
「熊谷です。雛見沢村付近で『コロシ』です。付近に、まだ犯人が潜伏しているもようです。応援をお願いします。場所は――」
土地勘のない私は、あわてて太陽の位置から現在地を割り出そうと顔を上げた。時刻はすでに夕方。分厚い雲の端は、もう赤く染まり始めていた。その合間から除く夕日に照らされて、遠くに古出神社が見えていた。
「場所は、古出神社から、東へ数キロといった地点です」
私の名前は、熊谷勝也。今年の四月から興宮署に勤務する警察官だ。階級は巡査。下っ端中の下っ端で、現場経験はないに等しい。
功を焦る気持ちもあったのかもしれない。私は、この事件の核心へと迫ろうと思い立っていた。
このときから、私はオヤシロ様の崇りにまつわる怪事件へと足を踏み入れることになる。
二、
なぜ私が興宮署などという、言ってしまえばヘンピな土地へと派遣されたのか。この地の実情を確かめるまで、私は疑問に思っていた。そんな小さな町で私は警官としての仕事に誇りを持てるのかと不安で、納得がいかなかった。
担当者に聞けば、その近隣に存在する雛見沢村という小さな村を監視するため、人員を増やしたかったのだという。
その村は、もう数年のうちにダムの底へと沈むことが決まっていた。興宮署に移れば、田舎暮らしの緩慢な日々が続いて行くのだろうと、私は信じて疑わなかった。
しかし、実際の私はこの三ヶ月間、一日として緊張を解くことができなかった。
あちらで事件が起きたかと思えば、またこちらで事件。
それが済めばこれ。これが済めばそれ。私のような下っ端ならずとも、署内の警察官は一人残らず興宮一帯を駆けずり回されていた。
雛見沢村は、まさに紛争地帯だった。村を二分する『ダム戦争』がこの村を平和な日本から隔絶された空間へとならしめていた。
今や村全体が反ダムの決定に支配され、個人の素朴な意見などは握りつぶされてしまっている感すらあった。
『ダム戦争』は村民の一人残らずを巻き込み、今では興宮までも取り込もうとしていた。
住民と警察との衝突は絶えなかった。ダム反対派にとって、行政の手先たる警察官は憎むべき敵に他ならない。住み家を奪われる住民たちにとってみれば、死活問題。それは分かるのだが、どうもこの村の住人は血の気が多い。話し合いによる解決など眼中にないかのように、彼らは武力と威力を持って我々と対立していた。
住人に憎まれるような警官にだけはなりたくなかったものだが、この村ではそうも言っていられない。私は、粛々と与えられた任務をこなし続けていた。
「あー、あー、熊谷さん、聞こえますか。本部の大石です」
無線機から、同僚の大石蔵人氏の応答があった。この村に関することで、彼以上に詳しい者は興宮署にはいない。そんなベテラン警官と連絡を取れたことで、私は落ち着きを取り戻した。
「こちら、熊谷です。大石さん、また『バラバラ殺人』です」
端的に事件の概要を示す言葉は、これしか考えられなかった。
「おやっさんの事件とは別件で、また『バラバラ』ということですか」
おやっさんというのは前日の事件の被害者となったダム工事現場の監督のことだ。大石氏とは長い付き合いの親友だった。
「被害者の特徴は」
それでも、質問を続ける大石氏の口調に動揺は感じられなかった。
「あ、はい、えっと――」
対する私は、正直、動揺していた。口ごもりながら、報告を続ける。
「被害者は男性で、年は二十代後半でしょうか。死後、おそらく、一時間も経過していません。体格は比較的良く、作業着のような服装でした。興宮の住人と思われます。それと、遺留品に社員証が。小此木造園と書かれています」
「小此木造園、ですか。ふむ、なるほど。その名前の会社なら、確かに興宮に存在します。手口はどうでしたか、バラバラにも、色んなやり方がありますが」
「手口は――昨日の件とまったく同じです。同一犯の可能性が高いと思われます」
「そうでしょうねえ。昨日の今日でこんな殺し方、普通の人間にはとてもとても。同一犯と考えるべきでしょう。ちょっと、一服させてください」
通信の向こう側で大石氏が煙草に火をつける気配がした。
私は記憶をたどり、報告漏れがないかどうか考えた。大石氏も紫煙をくゆらしながら事件に思いを巡らせているはずだ。大石氏から次に意見を求められるとすれば――犯行の動機か。
犯人の一人は、昨日の事件は衝動的なものだと説明した。しかし、本当にそうだという確証はない。物証はなく、犯人の自供だけが動機を偶発的とする。そこに疑いを差し挟む余地がないわけではないのだろう。
被害者は、ダム戦争の象徴ともいうべき人物だ。私自身、大石氏に連れられて共に麻雀卓を囲んだことがある。大石氏と二人掛かりで私を散々カモにするようなところはあったが、口論になった程度のことで我を忘れて殴りかかるような愚行を犯すような人には見えなかった。大石氏が『おやっさん』と親しみをこめて呼んだその男性は、人情味にあふれた好人物だった。
殺される理由が、ダム戦争以外に考えられないわけではない。だとしても、それにまつわる計画的な犯行であったと考えた方が、心情的には納得がいくのだ。
昨日の事件が計画的であったとすれば、今日の事件にも、ダム戦争が絡んでいるのか。
私がそんな思考に至ったところで、大石氏が口を開いた。
「決して焦らないでください。このヤマは間違いなく危険です」
「ええ、分かっています」
この村には昨年、犬飼大臣の孫を誘拐した犯人が潜伏していたのだという。いや、犯人は今も、この村に潜伏している可能性すらあるのだという。
そんな危険な村で、興宮署に派遣されて間もない私が単独で捜査にあたることとなった理由は、単純に人員が不足していたからだった。
「本来であれば、新人のあなたを一人で雛見沢に向かわせるわけにはいかなかったのですが、何しろ事件続きなもので、人手不足もいいところです。本庁からもう二、三人ばかりよこしてもらえないかと打診中ですが、どうも難しそうです。上は『雛見沢村なんて、数年のうちにダムの底に沈む村だろう』程度にしか考えていません」
私にもまた、そう考えていた時期があった。その判断を非難する資格は、私にはない。
「雛見沢には、不気味な言い伝えがあります」
大石氏の話は、興宮署への赴任時に上司から聞かされた昔話へと及んだ。
「その話なら、以前、小宮山さんからお聞きしました」
雛見沢はかつて鬼の棲む村――鬼ヶ淵と呼ばれ、村人は人を食う鬼の血を引いている。何かの拍子に鬼の血が騒ぎ出せば、もはや人の心は保てない。それを抑えるためには、雛見沢村に棲み続けなければならない。
「村がなくなるという一大事に、村人の鬼の血が騒ぎ出したと」
「んっふっふ。そんなこと吹き込まれちゃったんですか」
大石氏は一笑に付した。上司の見解とはいえ、私も、小宮山氏のその意見に賛同するつもりはなかった。
「問題は、村人のほとんどが言い伝えを本当に信じちゃってることです。それが御三家の支配なんかを正当化してしまっていますねえ。もういい歳した私が言うのもあれですが、時代錯誤だと思うんですがねえ。御三家が動けば、山まで動いてしまうんです。この村では」
「つまり、動いたんですね」
私にも、大石氏の言わんとする事の検討がついた。昔話からの伝統、村の団結を重んじる古きよき風習とでも呼べば、聞こえは良いであろうか。
「どうやら、昨日のことで園崎家が動いているようです」
「園崎家――」
この地に赴任して日の浅い私でも、その名を知らぬはずがない。村の名家にして、雛見沢の影の支配者。村を二分するダム戦争における反対派の旗振り役にして総大将。裏では暴力団系組織との関係も噂される実力組織の名だ。
「それは、どういうことですか」
「さて、どういうことだと思いますかねえ。んっふっふ」
私は、持っている知識を総動員してこの村の勢力図を頭の中に描いた。
園崎家。御三家の一角。背後に暴力団を要する村の実力者。しかし、園崎が右を向けば、雛見沢村の住人は一人残らず右を向くと言われるが、私にはそれほどの影響力があるとは思えない。園崎家と同様に、北条家と古手家だって村に強い影響力を持っているはずなのだ。現に、北条家をリーダーとするダム賛成派は根強く残っている。
「村の連帯感を舐めてはいけませんよ。んっふっふ。熊谷さん、あなたは興宮に来て日も浅い。園崎家がどれだけの相手なのか、頭では分かっていてもそれを実感できていないんです。もっと具体的に考えてください。例えば、去年、ウチに来ていた新人の刑事さんにも言ったたとえ話なんですけど、こういえば分かるでしょうか。仮にあなたが、今そこで誰かに刺されたとします。後ろから、鋭利な刃物かなにかで」
「大石さん、勘弁してくださいよ。まさかそんなことが――」
ひたり。
背後から足音が聞こえた気がして、私は思わず背後を振り返った。
「あなたは真犯人の姿を目撃し、凶器も押さえています。それでも、犯人を逮捕することはおそらくできません」
私の背中には、誰もいなかった。しかし、足元には、事件現場へと続く血痕が点々と犯人の足跡を刻んでいる。もうかなりの距離を歩いてきたというのに、血液は一定の間隔で大地に染みを刻み続けていた。不気味なほどに、一定の間隔で。
大石氏は私への警告を続ける。
「なぜなら、目撃者がいないんです。村人は口裏を合わせて、狡猾に犯人をかばいます。事件は発覚せず、あなたが刺されたという事件はなかったことになってしまいます」
血痕の感覚が一向に縮まらない理由を説明するには、こんな仮説がありうるだろう。私の足もとに点々と続く血痕は、凶器に付着した被害者の血液ではなく、何者かに負わされた犯人の血液なのだ。
被害者は人に傷を負わせるような武器の類を持っていなかったはずだ。ならば、誰が犯人に傷を負わせたというのか。そんな疑問が背筋からじわりと湧き起こった。
「仮にあなたが無事に生還したとして、事件が明るみに出たとしても、あるいは犯人が百人くらい出頭してくるかもしれません。みんな取り調べるとなると、ちょっとうちの署だけでは骨ですねえ」
まだかろうじて陽は出ているものの、あたりはうす暗い。足元を見ることすら困難な中、漫然と血の跡を追ってきた私は、ここまで人の姿を一度も見ることがなかった。
なのに、この山には人の気配があった。間違いなく数時間前に存在した被害者と犯人の気配、それに、犯人に傷を負わせた何者かの気配。
大石氏の話に耳を傾けながら、私はぼんやりと、ここで私が刺されたとすれば、間違いなくその事件は薄暗い闇へと葬り去られるのであろう、などと考えていた。
「彼らなら、それくらいのことはやりかねません。我々も散々苦しめられてきましたからねえ。彼らは手段を選ばないんですよ、困ったことに。背後には暴力団です。しかも――ああ、これは噂なんですが、もっと大規模な実力部隊を持っている可能性があります。昨年の犬飼大臣のお孫さんが誘拐された事件ですが、ひょっとしたら、関与していたのかもしれません」
大石氏は、園崎家に容疑者の当たりをつけていた。ベテランとしての勘なのか、園崎家の動くタイミングがそれだけ絶妙なものだったのか。
「私はねえ、こう考えているんです。昨日の殺人が本丸で、今日のはカムフラージュ。あくまで衝動的な殺人――ダム戦争とは関係ない殺人に見せかけて、捜査の撹乱を狙っているんです」
確かに、筋の通った説明だった。しかし、事件は『コロシ』なのだ。大規模な集団は内部からの分裂に弱い。そう簡単に、動機を偽装するためだけに殺人を犯してしまうことが御三家の、ひいては村の総意として通ってしまうものなのだろうか。
私は、そんな疑問を伝えてみた。
「御三家にも力の差はあります。北条家が園崎家に突っかかってはいますが、すでに村の大勢は園崎家に傾きつつあります。古手家は日和見の様子ですしねえ。今の雛見沢を動かしているのは、園崎家なんです。園崎が動けと言えば、動かざるを得ませんよ。それこそ、手段が人の世では許されないものであったとしても、みんな動いてしまうかもしれませんねえ。まあ、そこまでやるなら我々も黙っているわけには行きませんがね」
いまだ確信には至らないとの留保を残すニュアンスを見せながらも、大石氏の疑念は、微塵も揺るがなかった。
この犯行を『普通の人間』にはできないと言った大石氏の意図が分かった。この村の人々を動かす原動力は、普通ではないのだ。
「その村は、そういうところなんです。覚悟しておいてください。出来れば、我々がそちらに行くまで、その場を動かないのが賢明かもしれません。自分の身を守ることに専念してください。こちらとしても、将来有望な新人さんを『なかった』ことにはされたくありませんから」
私は思わず黙り込んでしまった。私はこの村のことを何も知らない。そんな私が単独でこの件に首を突っ込むことがいかに軽率であったかを思い知ってしまったのだ。
カナカナと鳴き続けるひぐらしの声にさえぎられるように、無線越しの会話はしばし途切れた。
道が途切れたのも、同時だった。止む気配もなく続いてきた血痕は、すぐ目の前で途切れていた。私は足を止め、周囲へと目を走らせた。
そして、私はその男の姿を見た。凶器を手に、私の眼前へ、逃げる素振りもなく、決然と。真っ直ぐに向かってくる男がいた。
右手には斧を手にしている。鋭く尖ったその歯先には、生々しい血の跡が付着している。
「ですから、やみくもに動くのは危険です。分かる場所まで出たら、連絡をください。村民に発見されても厄介です。応援に覆面パトを向かわせます」
大石氏が沈黙を破り、私の身を案じてくれたが、もう遅いようだ。
「どうやら、そうはいかないようです」
私は答えた。
「熊谷さん?」
周囲に、人の気配を感じた。それも、一人ではない。姿を確認できたのは前方の一名だけだが、左手の草むらで土へと染み入るような小さなざわめきが沸き起こっていた。続いて、右手の木陰にも視線を伴った風が走った。きっと、背後でも闇が揺らめいていることだろう。私は四方を取り囲まれている。
ひたり。
緊張に研ぎ澄まされた感覚が、今度は背中の足音をはっきりと聞き取った。
「すでに、取り囲まれています。おそらく、犯人らに」
前方の男が両手に斧を構えながら、ゆっくりと顔を上げる。獣道と変わらない狭い山道の先に、男は立ちはだかっていた。
その顔は目出し帽に覆い隠され、人相を拝むことはできない。しかし、男の悪意ある視線が厚手の生地に空けられた小さな穴の中から差し向けられていることだけは、私の目にも確認できた。
覆面から覗く猟犬のように鋭い目つきが、私の姿を捉えていた。
三、
この事件の核心との対峙。それはまさに私が待ち望んだ局面だった。
「熊谷さん」
大石氏の声が私の耳に届いた。
「熊谷さん、応答してください。熊谷さん」
無線機が私を呼ぶ声を繰り返す。だが、それに応答している余裕はなかった。
私だって、いざというときのために、大石氏ら実力者に稽古をつけられているのだ。そして、今がいざというときなのだ。その成果を発揮するべきときなのだ。
私はそう心に念じ、気持ちを奮い立たせようとした。
だが、いざという場面になって、私は動揺していた。犯人と対峙してはじめて、この局面が訪れることを想定していなかったことに気が付いたのだ。
まずは落ち着かなければ。深く呼吸を吐き出し、跳ね上がった心臓を静める。
昂りが興じて真っ白になった思考を必死にまとめあげる。
そして、相手の姿をじっと睨みつける。
そうだ、私はこの男を取り押さえに来たのだ。
「熊谷さん、あなたには現場経験がない。それは本当に致命的なことなんです。どんな相手なのかも分かりません。決して、無茶はしないことです」
大石氏が暗に『逃げろ』と私に指示を出している。私はその声に答えなかった。犯人側から姿を現してくれるなんて、幸運以外の何物でもない。逃げるかどうかは、ケース・バイ・ケースの判断だろう、などと考えていた。
腰のベルトから警棒を取り出し、右手で素早く振り伸ばした。カチリと伸縮部が固定され、しっかりとした手ごたえが感じられた。アルミ合金製の冷たい感触を手のひらに感じ、ようやく私の意識ははっきりと形をなし、目の前の男へと向けられた。
<続く>
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