リミット

ペンネーム:cvwith

■あらすじ

昭和五十九年の夏休み。
圭一は両親不在の二週間、園崎家に泊り込むことになる。
圭一、魅音、そして詩音、楽しい毎日を過ごす三人。
だがある日の夕方、診療所から帰って来た詩音の様子が一変した。
昨日までとは打って変わり、俯き塞ぎ込む詩音は謎めいた言葉を残し姿を消した。
「そうですよ……圭ちゃんなら……きっと、キット……」
その言葉の意味する所は何なのか?
必至な捜索を行う圭一と魅音は詩音が地下祭具殿にいるかもしれないとうい情報を得る。不吉な予感に囚われながら地下に潜る二人。果たして詩音は……。

 
   
   
   
 

リミット

ペンネーム:cvwith

【夏の日差し】

 昭和五十九年七月末。
  透き通る青空を天高く突き抜け、それでも尚ひぐらしの自己主張は留まる所を知らず、蒼穹に響き渡る。
  カナカナと賑やかな大合唱は真夏の太陽を応援している。
  そんな暑い夏休みの真っ最中、俺は園崎家に泊り込んでいた。
  事の発端は両親の急な出張だ。二週間ほどの間、俺は独りぼっち決定となった。
  自他共に認める自活能力ゼロの男を哀れみ、魅音が救いの手を差し伸べてくれたと言う訳だ。
  勘違いしないでくれよ? 詩音も一緒だから別に二人きりって訳じゃない。
  俺が自宅に部活メンバーを集めて、相談を持ち掛けた時の話だ。
  園崎家に泊まる事に話がまとまり掛けていた時、詩音が変な事を言ったんだ。
「それにしても、猫に鰹節の番をさせているようなものですねー。危ない危ない」
  沙都子がキョトンとして聞き返した。
「猫に鰹節? どういう意味ですの詩音さん」
「大好物って事なのかな。かな? 魅ぃちゃんの大好物は鰹節君なんだよ! は〜う〜っ」
  魅音の両手をとってブンブン振り回すレナ。目を丸くする魅音は訳が分からず混乱しているようだ。
「あはは。当たらずとも遠からず、という所です。猫に木天蓼(マタタビ)だとその通りなんですけどね。鰹節だと『過ちをおこしやすい、危険な状況である事』の例えなんですって。守らなくてはいけない物の一番近くに、それを狙っている人が居る……って事の例えなんです」
  皆が『ああ、なるほど』と頷き魅音を見る。魅音の顔が何故か見る見る内に真っ赤に染まって行く。
「だだだ誰が過ちを犯すかー! ってか過ちって何よーっ」
「にゃーにゃーは守るべき鰹節をペロリと食べちゃうのですよ。にぱー」
「わわ、私達はまだここっ子供なんだから、いいっ、いけないと思うな。思うなっ」
  言うなり真っ赤になったレナが高速のパンチを打ち出した。
  俺に。
「ぐほぁっ。な、何で俺……ガクッ」
  まあそんな感じで保護者役? の詩音を含めて三人の共同生活が始まったって訳だ。

 それからの毎日は信じられない位に賑やかで、それ以上に楽しくて、忘れられない日々だった!
  昼間はレナや沙都子、梨花ちゃんに羽入達が遊びに来てくれた。
  全員が揃った時は、久しぶりにフルメンバーでの部活が勃発!
  園崎邸を使っての恐ろしい鬼ごっこが展開されたりした。
  一日として『退屈』なんて言葉を思いつく暇も無い、最高の日々が過ぎて行った。
  ここで一つだけ言い訳をさせて貰う。俺だって遊び呆けてばかりいた訳じゃない。きちんと家事の手伝いもしてたんだぜ?
  庭の掃除は俺の仕事だった。園崎邸は大きかったから大変だったけれど、人の家の庭って言うのは物珍しくて、面白かった。
  洗濯機も使えるようになったし、料理だって玉子焼き程度なら作れるようになった。全部魅音のおかげだ。
  そうそう。俺はこの数日間でかなり魅音を見直した。
  いや見直したと言うか、見方が変ったって言うか。
  前から「あたしは家事全般も何でもこなすからねぇ」なんて言ってはいたが、それが本当だって分かった。
  並んで台所に立って料理を教えて貰っていると、妙に魅音が女の子らしく見えてひどく照れた。
  照れ隠しに「お前もレナと同じで良いお嫁さんになれそうだな」なんて言ったら、今度は魅音が激しく照れて包丁を振り回し始めたので*にかけた。
  良い思い出だ。
  詩音は昼間に毎日出掛けていた。何でも監督の診療所に通っているのだそうだ。
  どこか悪いのかと聞いたけれど、魅音も詩音も「病気じゃないから心配しないで」と言うだけで詳しくは教えてくれなかった。
  教えて貰えないと逆に好奇心が沸いたが、女の子だからな。色々有るのかも知れないと思いそれ以上は聞かなかった。
  夜は……やっぱり最初はかなり緊張してしまっていたが、薗崎姉妹の賑やかさですぐにそれもほぐれた。
  テレビを見ている時もこの姉妹はアイドルに対してあーだこーだと言ってみたり、お笑い芸人に突っ込みを入れたりと凄く楽しそうだった。
  自宅でリラックスしている友達の姿ってのは、とても新鮮だった。
  何て言うのかな。その姿を見ている俺は、以前よりももっとこの二人と深く仲良くなっている。そんな気がしたんだ。
  他の奴らが知らない、素顔の姿を俺に見せてくれている。そんな気がして凄く嬉しかった。
  魅音と詩音は本当に仲が良かった。本気で喧嘩が出来るのも、仲の良さの証明だと思う。
  月夜の中、一つ屋根の下で和やかに過ごしていると、俺も姉弟の一員になれた気がしてとても嬉しかった。
  不謹慎かもしれないけれど――俺は、親父や母さんが帰ってくるのが遅くなれば良いのにと思った。
  父さんや母さんが居なくても、いつまでもこの世界が続けば良いと願った。
  それが……そんなにも罪深い事だったのだろうか?

 些細な異変が起きたのは一週間たった夕方の事だ。
  診療所から帰って来た詩音が、どう言う訳かすっかりと落ち込んでしまっていたんだ。
  挨拶をしても上の空。理由を聞いてもまるで魂が抜けてしまった様な抜け殻の瞳で「何でもないですよ」の一点張り。
  どうにも手の付けられない状態のまま、夕飯になっても詩音は沈んでいた。
  俺と魅音はすっかり困り果ててしまった。
  双子の姉に原因が分らないのなら、俺に分かる由も無し。兎に角元気付けようと思い俺は言ったんだ。
「何だか良く分らないけどさ詩音。協力できる事があるなら言ってくれよ。何でも協力する。俺達仲間だろ?」
  そう言った時、不意に詩音が顔をあげた。反応が有るとは思っていなかったので、ドキリとした。
「…………そっか。圭ちゃんが居たんですね……そうですよ。圭ちゃんが居るじゃないですか……そうですよ圭ちゃんなら……きっと、キット……」
「お、おい詩音?」
  空っぽの瞳の奥に、形容し難い、醜く歪んだ焔が灯って行く様に思えて――体がぶるりと震えて、声を掛けずにはいられなかった。
「あ、あんたどうしたの?」
  一瞬の出来事だった。魅音が声を掛けるとその焔は消え、いつもの詩音に戻っていた。
「ごっごめんなさい私……あはは。ちょっと疲れちゃってるみたいですね。……今日は先に寝させてもらいます」
  そう言って詩音は寝室へと消えて行った。
  言い様のない、気味の悪さが俺の心にしこりを作っていくのを感じ、俺はブンブンと頭を振った。
  何でもないさ。きっと明日になれば、元気な詩音に戻ってる。あいつの言う通り、ちょっと疲れてるだけなんだ。最近ずっと暑かったしな。
  うん、大丈夫。明日になればきっと元通り。そうさ、明日になれば。
  だけど翌朝……詩音の姿は消えていた。

【兆し】

「詩音が居ないって? どういう事だよ魅音」
「それが分かんないんだよ。昨日はあの子が寝るまで一緒に居て、その後自分の部屋に戻ったんだけど……朝あの子の部屋に行ってみたら、もぬけの殻だったんだ」
  今日は診療所の休診日だから、診療所に行ったとも考えられない。
  ――単に、気分転換の早朝散歩に出掛けただけかも知れない。
  それなら良い。
  だけど昨日の、少しおかしかった詩音の様子が頭から離れない。
  不安な気持ちがドンドンと広がっていく。
「普段なら別にそんな心配する事でも無いんだけど……昨日、ちょっとおかしかったよね。詩音」
「ああ。昨日あいつ、やっぱり何かあったのか?」
「分らない。結局何も教えてくれなかったんだよ。でもあの子、何か思い詰めてたみたいだった」
「……朝飯食ったら探しに行こうぜ。あては無いけど何もしないよりはマシだろ?」
「そうだね。その前にあたし輿宮の母さん家と詩音のマンションに電話入れてみるよ」
「ああ、頼む」
  嫌な予感が頭にこびり付いて離れない。
  じっとりと粘りつくような、気持ちの悪い薄幕が体に纏わりついている。
  昨日詩音が一瞬見せた、抜け殻の瞳。
  虚空の瞳に灯っていくほの暗い焔が脳裏に焼きついて離れず、思考をどんどんと暗い方向へと誘う。
  折角魅音が用意してくれた朝飯も、味なんてさっぱり分からなかった。
  朝食の後、俺はとりあえず園崎邸の中を探し回った。
「どこ行っちまったんだよ……詩音」
  段々と強くなる真夏の日差しが俺の心をジリジリと炙る。足元から伸びる影は黒を増し、色濃く、そして短くなって行った。

「……ちゃん。圭ちゃーんっ」
  物置小屋から出た所で、砂利を蹴散らして魅音が走って来た。
  あの慌てた様子から見ると、電話で何らかしらの手応えがあったに違いない。
「魅音っ。どうだった、詩音居たか?」
  捲くし立てる俺を右手で制し、膝に手を付いてひとしきり息を整えた後、真剣な表情で魅音はこう言った。
「残念だけどマンションには帰ってないみたい――でもね圭ちゃん。詩音の居場所、分かったかも知れない」
「本当かっ? どこだよっ」
「……」
  詩音の居場所が分かったかもしれない――それなのに魅音の表情には安堵も喜びも浮かんでいない。
  暫くの沈黙を経て、言い淀むその口から紡ぎ出されたのは『地下祭具殿』と言う単語だった。
「地下……祭具殿? って、あの、去年俺達が立て篭もった場所か? 何であんな所に詩音が」
「さっきね、輿宮の実家に電話した時、母さんが言ってたの。『詩音がまたちょいとやらかしたみたいだよ』って」
「やらかしたって何をだよ? それと地下祭具殿がどう繋がるんだよ」
「詳しい事はあたしもまだ分からない。でも、どうも婆っちゃの機嫌を損ねたみたいでさ……相当に」
「っど……だ、だから、それがどうして詩音が地下に居る事に繋がるってんだよっ」
  魅音が、明らかに表情を曇らせた。
  でもここで退く訳には行かない。詩音を見つけなくちゃいけないんだ。
「幽閉されてるって事」
「な、何だって?」
「どうも詩音は昨日ね、何らかの園崎のルールを破って、それがばっちゃに知れたみたいなの。それで……」
  一瞬耳を疑った。園崎家頭首の機嫌を損ねたから、身内の者が地下に閉じ込められましたって事か?
  何だよそれ。一体どこの時代劇の話なんだよ。
  でも魅音は真剣だった。真剣で、辛そうだった。
「圭ちゃんには、にわかには信じられない事かも知れないね。でも、そういう所なんだよ。雛見沢……いや、園崎って所は」
  文字通り言葉を失った。
  もうすっかりと馴染み溶け込めたと思っていたこの優しい寒村は、まだ俺を村人として迎えてくれては居なかったのだろうか。
「で、どうする圭ちゃん。こうなると一筋縄じゃいかないかも知れない」
「な、何だよそれ。……脅しかよ」
「どう取られても良いよ。兎に角、中途半端な気持ちなら圭ちゃんはもう家に帰った方が良い」
「お前は……どうするんだよ」
「あたしは……あはは。詩音に昔、貸しがあるからね。……行くよ」
  魅音は眉を八の字にして寂しそうに笑った。
  気丈な振りをしているが、その実は不安で一杯なのがありありと浮かんでいる。
  次期頭首が現頭首に歯向かおうってんだ。不安が無い筈がない。
「これは園崎の問題だからさ、圭ちゃんは帰りな。大丈夫……うまくやるから!」
「魅音。足……震えてるぜ?」
「え? う、嘘。そ、そんな事」
  突然慌て出す魅音の様子を見て、思わず笑みが零れる。あたふたと自分の足元を見る魅音の頭を、俺はワシワシと撫でてやった。
「ふぇ――。さ……圭ちゃん?」
「へへっ嘘だよ。でも本当は不安なんだろ? 大丈夫、俺も行くよ。いや、むしろ俺について来い。行くぞ、詩音救出作戦開始だ!」
「圭ちゃん……でも」
「四の五の言うなって。軽く見えるのは照れ隠しだ。さあ行こうぜ」
「……おっけい! じゃあ行こうっ」
  右手の拳をゴツンとぶつけ合い、俺達は詩音救出の為、園崎邸の深部『地下祭具殿』に向けて走り出した。

【リミット】

「梨ぃ花ちゃぁーん。お待たせー」
「全然待ってないのですよ。レナはいつでも時間通りなのです」
  今日は魅ぃちゃんのお家へ遊びに行く約束の日。
  約束の時間より早く到着したつもりだったけど、梨花ちゃんはもっと早く来て待っていたみたい。
  沙都子ちゃんと羽入ちゃんはどうしたのかって?
  えへへ。実は今日は魅ぃちゃん達を驚かす秘密の計画があったりするの。二人は今、梨花ちゃんのお家でその準備の真っ最中なのだ。
「沙都子ちゃんと羽入ちゃんは頑張ってるのかな。かな?」
「とっても張り切っていますのですよ。羽入と沙都子が、お台所で大忙しなのです」
「はぅ〜。お台所で一生懸命お料理する二人……きっととってもかぁいいんだよう〜」
「レナ、鼻血を吹いている場合ではないのですよ。僕達は圭一達がお昼ご飯を食べてしまわない様に、早めに魅ぃのお家へ行かないといけないのです」
「はぅっ。そ、そうだったね。よし、じゃ行こ。梨花ちゃん」
「ハイなのです」
  私達は自転車に乗り、意気揚々と魅ぃちゃんのお家へと出発した。
  太陽は今日も元気一杯で、私達の楽しい一日の始まりを見守ってくれている。
  その時の私は、そう信じてた。
  待ち合わせ場所から数分走って、ちょっと道幅の狭い側道に入った時に正面から見覚えのある車が凄い勢いで走ってきた。
  あれは監督の車じゃないかな? あのままのスピードで来られたら、ちょ、ちょっと危ないかも。
  私達は道幅ギリギリ目一杯の所まで寄って自転車を降りた。
  この雛見沢では車が猛スピードで走っている光景なんて、滅多に見る事が無い。皆ゆっくりと生活を送っているからかな。
  だから私はこの時『轢かれちゃうっ』と言う怖さとは別に『何かあったのかな?』って言う、一抹の不安を覚えた。
  だって運転しているのはお医者さんの監督だよ? どこかで誰か大怪我でもしちゃったかな……って思ったの。
「きゃぅっ」
「み、みぃっ」
  スカートの裾が触れたんじゃないかと思う位の距離を、監督の車が通り過ぎていった。
  やっぱり乗っていたのは監督だった。
  けれど、通り過ぎる一瞬私と目が合った時、私は自分の目を疑った。
 
  え……今、監督の頭から血が……流れて、た?

 監督の車は私達を通り過ぎた所で急ブレーキを掛けた。
  物凄い土ぼこりと甲高いブレーキ音を立てつつ、お尻を振って急停止した車は、あと少しで田んぼに落ちる所だった。
  私と梨花ちゃんが顔を見合わせていぶかしんでいると、運転席から監督が慌しく降りてきた。
  その姿に息を呑んだ。梨花ちゃんが私の手をギュッと握る。
  監督はひどく汚れて、ボロボロだったのだ。
  白衣は泥や埃にまみれて所々が破れ、その下に着ているシャツもボタンがとび襟は肌蹴て、酷い有様になっている。
  そして何よりも私達を怯えさせたのは、監督の顔。
  左目は青く腫れ上がり、いつも掛けている眼鏡を掛けていない。
  右の頬には幾つかの裂傷があり、赤くなっている。
  額からこめかみに掛けてこびり付いている……もう半分乾いているあのどす黒くて赤い物は……血だ。
  私達は凍りついたように動けなかった。……な、何? 何が一体。
  余りに突然な出来事に思考が停止して、監督に声を掛けられるまで私達はお互いの手を握り合う事しか出来なかった。
「竜宮さん……竜宮さんですよね?! あぁ、すみませんよく見えなくて。横に居るのは古出さんですか? 良かった……二人とも無事でしたか」
  眼鏡が無いからなのか、傷の痛みのせいなのか。
  監督は目を細くして私達の顔を代わる代わる覗き込み、間違いないと分かるとホッと溜息を吐いた。
  近くで見た監督の顔は、本当に酷い有様だった。
  安堵する監督とは裏腹に、私達の不安は急激に加速する。
「――なっ、何を言ってるんですか! 無事じゃないのは監督の方ですよっ。い、一体何があったんですか?!」
「私は大丈夫です。……それより沙都子ちゃんは? 前原さんは一緒じゃないのですかっ。何故沙都子ちゃんは一緒じゃないのです?! まさか……行方が分からないなんて事は……」
「い、入江。落ち着いてくださいなのです。沙都子ならお家で羽入と一緒にお料理を作っているのです」
「ほ、本当ですか。間違いないですね? 間違いなくご自宅で二人一緒なんですね古出さんっ」
「ま、間違いないのですよ」
「そ、そうですか。良かった……」
  ほぅと大きく溜息を吐き、やっと監督の肩から力が抜けた。
「監督お願いだから落ち着いて。私達にも分かるように説明して下さい。監督の怪我と私達の無事が、何か関係あるんですか?」
「……そ、それは」
「僕にも分かるように教えて欲しいのです。 圭一も、魅音と一緒に居るので無事なのです。だから落ち着いて――」
「何ですってっ!?」
「ひっ」
  梨花ちゃんが圭一君と魅ぃちゃんの名前を出した途端、落ち着き始めていた監督がギョロリと目を剥いた。
  監督の額の血をハンカチで拭っていた私は、間近でその目を見てしまった。腫れてしまった瞼の奥の目が剥かれている。
  小さく悲鳴を上げて身を引いた私の肩を監督は両手でガッチリと捕らえ、見えない目で私を真正面から捉えて叫んだ。
「魅音さんが!? みっ……魅音さんが前原さんと一緒に居るのですか? そ、それは本当ですかっ」 
「は、はい。み、魅ぃちゃんと圭一君は、一緒に居ます」
「そんな……そんな! という事は……だとするとそれではっ。……一番危険な人が、守らなくてはいけない人の側に居る事になりますっ」
  もう何が何だか分からない。
  何で? 何で魅ぃちゃんと圭一君が一緒だと危ないの?
  危ないって……圭一君が危ないの? 魅ぃちゃんが危ないの? 何? 何がどうしてしまったって言うの?
「すみません私は先を急ぎます。――いいですか? 二人とも念の為すぐ家に帰って下さい。良いですねっ」
「待って下さいっ。私も行きます。こんな、こんな訳も分からない状態で魅ぃちゃんや圭一君が危ないって言われて……放っておける訳ないです」
「僕も同じなのです。入江、連れて行って下さいなのです」
  混乱した頭でも、何か異常が起きている事位分かる。
  それに私の大事な人達が巻き込まれようとしているなら、放ってなんておけない。
「断っても無駄ですから。置いて行くって言うのなら、私達だけで魅ぃちゃんの家に行きますっ」
  私は車の助手席のドアを開け、どっかりと座ってシートベルトを締め、絶対に降りないと意思表示をした。
  それを見て梨花ちゃんも同じように後部座席に座る。
  監督は諦めた様に首を横に振って運転席に乗り込み、交互に私達を見つめて言った。
「仕方ありません。その代わり、私の側を離れない事。これだけは絶対に守って下さい。いいですね?」
  私達は頷いた。
「詳しい話は車の中でお話します。……そうですね。もしかしたらお二人が居てくれた方が良いのかも知れません。兎に角急ぎましょう」
  監督はシートベルトを締め、車を発進させた。
  監督の言った言葉の意味……『一番危険な人が、守るべき人の側に居る』ってどういう意味なのだろう。
  ふと詩ぃちゃんの言った諺が、不意に蘇る。
『猫に鰹節』
  ……笑い飛ばした筈の諺は頭の中で重苦しく跳ね回り、私の胸を掻き毟った。

「し、しかしあれだなぁ魅音。あの時は必死だったからそう気にしなかったけどよ。や、やっぱ薄気味悪い所だなぁここ」
  俺達は地下祭具殿に忍び込んでいた。懐中電灯に照らし出された薄暗い地下室は不気味で、否応無しに不吉な想像が頭一杯に広がってしまう。
  不安を少しでも紛らそうとさっきから色々と喋っているんだが、後ろに居る筈の魅音からは何のリアクションも返ってこない。
  ――まさか魅音まで何者かにさらわれて?! 
「み、魅音っ」 
  幸いな事にネガティブな妄想は外れ、そこにはちゃんと魅音が照らす懐中電灯の明りが灯っていた。
「な、何だちゃんと居るじゃないかよ。どうしたんだよ魅音。さっきから黙りこくって」
「圭ちゃんさ。あたしの事……どう思う?」
「は?」
  突然の場違いな質問に、どう答えて良いのか分からず聞き返した。
  何を言い出すんだ一体。
  俺の問いには答えず、魅音は静かに歩み寄って来た。
  今や暗闇の中でもはっきりとその表情が読み取れる程近くに、魅音の顔があった。
  愛しげに半ば閉じた眼で俺を見つめ、僅かに開いた口から吐かれる息が俺の頬をくすぐる。
  恐怖とは別の意味で、心臓の鼓動が早まるのを感じた。
「なっ、何してんだよ。おい」
「答えてよ圭ちゃん。あたしの事……どう思ってるの?」
  するりと魅音の両腕が俺の肩を抱き、背中で組み合わされた。
  場違いな甘い声が、耳元で「答えて」と囁いた。
  な、何なんだ一体? 暗闇の密室で男と女二人っきりで……だ、抱き合って……。
  ――違う違う! そうじゃねえだろ前原圭一っ。
  俺は魅音の肩を乱暴に掴み、抱きしめられた体を無理矢理引き剥がした。
「どうしたんだよ魅音。今はそんな事やってる時じゃないだろっ? 仲間が……お前の妹がピンチなんだぜ?」
「……仲間?」
「そうだよ、詩音は俺の大切な仲間だ。お前だって俺の大切な仲間だ。二人共俺の大切な仲間じゃないかよっ」
「――なかま……か。ははは。そっか、そうだよね……。なかま、だよね」
「ああそうだ。皆掛け替えの無い、大切な仲間だよ」
「じゃあレナならどう? 圭ちゃんレナの事はどう思ってるのさ?」
「み、魅音……お前、どうしちまったんだよ……」
 
   監督は運転をしながら私達に事のあらましを説明してくれた。
   眼鏡が無くて良く見えないのか、ちょっと運転が怖い。
  「今彼女は冷静さを欠いています。とても危険な状態で、何をしでかすか分かりません」
  「そ、それはどう意味なのですか。入江?」
  「彼女は今、激しい強迫観念と被害妄想に囚われているはずです。全てが自分に対して負の影響を与えていると」
  「それってまさか……雛見沢症候群って言う、あの病気の事ですかっ? な、何で魅ぃちゃんが……もしかして監督のその怪我……」
   私の質問には答えず、監督は説明を続けた。
  「……追い詰められたんです。未来に希望が持てなくなってしまって……。今、希望を挫く様な事を言えば彼女は……。今、彼女が求めているのは前原さんなんです! 例え前原さんが拒もうとも、今の彼女は手段を選びません。非常に危険な状態なんです」

「あたし、高校に行ってから圭ちゃん達とあんまり会えなくなったよね。でもレナは圭ちゃんといつも一緒。一緒に居られる時間が違いすぎるよ。それにこれからは、あたしは家を――ううん、もっと大きな物も継ぐ。……あたしには時間が無いんだ。でも圭ちゃんとレナは自由」
  突然変ってしまった魅音の態度に、俺は今だについて行く事が出来ないでいた。
  おかしいぜ魅音。なんでいきなりそんな事を……。
  今はそんな話をしている場合じゃないってのに。
「そんなの関係ねえよ! 俺達はどんな時だって協力し合って、助け合って、楽しくやってきたんじゃないかっ。皆同じだよ。誰かが特別なんて無い。皆仲間で、親友なんじゃないかよ。……どうしちまったんだよ魅音。しっかりしろよ!」
  狭く湿った地下室の壁に、俺の声が木霊して消えていく。
  数瞬の間。無表情に俺を見つめていた魅音は、唇の片方だけを持ち上げて自嘲気味に笑った後、哀しげな色を瞳に湛えたまま俯いた。
  何が何だか分らない。分らないけど、俺は……不味い事を言ったのか?
  俯いたままの魅音の肩が揺れる。笑っていた。
「ははは……やっぱりねぇ……。まあ、今までのツケが回って来てるんだよね。いくらでもチャンスはあった。なのに、何にも出来なかった……何もしなかったんだから、仕方ないよね」
  スッと魅音が顔を上げる。とても優しげな、柔らかい表情だった。
「でも今は、圭ちゃんは私と一緒に居てくれてる。今……この瞬間を永遠にできたなら……圭ちゃんは私の物で、あり続けるんだよね?」
  魅音が更ににじり寄ってくる。優しい瞳のままにじり寄ってくる魅音に、俺は恐怖を覚え後ずさった。

 「魅音が? そんな……今まで百年間そんな事一度だって無かったのに……何で今更っ?!」
   梨花ちゃんの様子がおかしい。いつもの梨花ちゃんからは想像の出来ない口調になってる。
  「落ち着いて梨花ちゃん。大丈夫だよ。魅ぃちゃんがそんな病気に負けるはずが無いもの。監督、何かの間違いじゃないんですか? 魅ぃちゃんがそんな――」
  「違うんです! ……違うんです。み、魅音さんは……。今、前原さんの側に居るのは……あれは、あれは!」
   土埃を濛々と上げ、暴走と呼んで良い勢いで車は疾走している。
   だけど魅ぃちゃんの家は、まだ見えてすらいなかった。

「魅音頼む正気に戻ってくれ! 今は詩音を探して助け出さなくちゃ行けないんだろっ。それが終ったら気の済むまで付き合ってやる! だから……だから今は詩音を助け出そうっ」
  俺の叫びに魅音はピタリと足を止め、そして小首を傾げた。
  その仕草は人形の首がポキリと折れる様で、まるで人間味の無い動きだった。
  首を傾ける事がスイッチだったかのように、また魅音の表情がクルリと変化した。
  恐ろしくも優しさを湛えていた笑みは消え、今やその顔は狂気すら帯びて……歪んだ笑みを浮かべていた。
  心が今にも折れそうだ。
  暗闇の中、一番の親友が壊れていく。
  何だ、何だよ――何なんだよこれはっ。
  何故こんな事になっているのかすら分からない。一体俺は何を見ているんだ?
「詩音? 圭ちゃん、詩音を探してるんだぁ……大丈夫だよ。ちゃんと、ここに居るんだから。はははハは」
「……わ、分かってるよ。地下祭具殿のどこかに居るんだろ? だから早く探してやらないと」
「あっはははははははは!! あーっはははハはははは!!」
  ――俺の言葉が終るか終らないかのタイミング。
  突然の嘲笑は地下の奥深くまで響き渡って木霊し、俺の心の支えをビリビリと揺さぶった。
「あ〜おかしい。違いますよ圭ちゃん。ほら、愛しの詩ぃちゃんは居るじゃないですか」
「な……なんだよ。……ど、どこに居るんだよっ」
「ほんとにどうしようもない鈍感男ですねぇ。詩ぃちゃんは『ここ』じゃなくて」
  言いながら右手で地面を指差す。
  地下祭具殿の事を言っているのか?
「ほら……『ここ』に居るじゃないですか」
  今度は自分の胸を指差して『ここ』と言った。
  左手がポニーテールを結っていたゴムを抜き取ると、深緑の髪がさらりとしな垂れた。
  それを纏めるように軽く頭を振った後……目の前の少女はまた、小首をかしげて笑った。
「こんにちは。圭 ち ゃ ん ♪ 一生懸命捜してもらった、詩音です♪」
「し……しおん?」
「はい。詩ぃ猫さんです。猫さんはね、ぺろりと食べちゃうんですよ? 鰹節を……ね。うふ。うふふふふ。――あはははははハはは!」
「た、食べる?」
「大丈夫! 殺したりしないから! ただその脳みそ、開けさせて貰うだけですよ。けーちゃん♪」
  ジジジと、妙な音がした。虫を殺す蛍光灯を知っているだろうか? あの蛍光灯に、虫が飛び込んだ時のあの音。その音が、詩音の手から聞えた。

<続く>