ハト時計と自愛の家の夢

ペンネーム:きょー

■あらすじ

滅菌作戦発動後――、鷹野はもはや生きることに未練はなかった。
高野一二三の学説は認められず、
雛見沢症候群もオカルトな面が注目されるのみに終わり、
また自らの学説をも信じることができなくなってきた。
そんな辛い毎日を過ごす鷹野のもとに、
L5治療中である北条兄妹の身柄の引き渡しを『東京』が求めている、という報告が入る。
軽くからかわれて戸惑う仕官を見て、今は亡き富竹のことを鷹野は思い出した。
孤独に生きていた自分の、唯一の理解者だったことを知りながら彼を殺した。
それは彼女の歪み、破綻した愛情でもあったのだ。
夜な夜な夢に見る富竹の幻影はなにも言わない。
いっそ罵ったり責めたりしてほしいと願うが、
彼はじっと寂しそうな目で鷹野を見つめているだけ。
それはなにより彼女を苦しめたのだった。
自ら命を絶つ勇気もなく、誰かに殺されることを望む日々。
自分が『東京』によって近いうちに消されることを悟っていた鷹野は、
ある行動に出ることを決意する。

 
   
   
   
 

ハト時計と自愛の家の夢

ペンネーム:きょー

「鷹野三佐、滅菌作戦発動2時間前になりました。指揮車の方へお移り下さい」
  鷹野三四は自分を呼びに来た長身の若い士官を椅子に座ったまま気だるそうに見上げていた。
「そう、わかったわ。この試験管の調合が終わったら行くわ」
  しかし彼女はすぐに無色透明な液体へと視線を戻してしまった。
「それから、雛見沢症候群感染者の北条悟史、並びに先ほど確保致しました北条沙都子の身柄の引渡しを『東京』は求めております。いかがなさいましょうか?」
  試験管を振っていた鷹野の手が止まった。そして、恋愛経験に乏しく女性慣れしていない仕官には妖艶すぎる大人の女の笑みを見せて返した。
「フフッ。あの2人ならばっちりL5状態よ。あなたも感染して発症したいのなら勝手に連れて行ってちょうだい」
「はっ?」
  しばらくの間、鷹野の色気に見惚れていた仕官だったが、言葉の意味を理解すると急速に顔を青ざめさせた。
  この反応、あの人に似ていると鷹野は思った。もういない、自分の手で殺めてしまったあの人の驚き方にそっくりだと。
  鷹野は仕官の表情の変化に満足すると、笑いながら続きを語った。
「2人をこのまま連れて行けば、首都東京で雛見沢症候群が大発生なんてことになるかもしれないわね。この世に地獄絵図が見られるなんてちょっと素敵だと思わない? クスクスクス」
  自分の言葉に怯え、無意識に後ずさって行く仕官が可愛いと思った。この反応の仕方、雛見沢にまつわる猟奇伝説の話をした時のあの人の反応にますますそっくりだと。
「心配しなくても、処置を施してから私が直接送り届けるわよ。どう、安心した?」
  人を怖がらせて喜ぶのは自分の悪い癖だと思いながら止められない。困ったものねと思いながらも、鷹野はこの状況を少し楽しんでいた。メガネの自称フリーカメラマンと一緒にいるような、そんな心地良い錯覚に浸ることができた。
「りょ、了解しました。上官には三佐が直接引き渡しに向かうと報告しておきます」
  雨に濡れた仔猫のように震えながら生真面目に敬礼を行う士官。きっと彼の中では自分は殺人と混沌を楽しむ猟奇殺人者として映っているのだろうなと思い鷹野は苦笑する。
「そう、ありがとう。こんな地下研究所まで来ちゃって、あなたも感染していないことを祈るわ」
  大げさに十字を切って仕官の為に祈ってみせる。その仕草により、士官の精神は限界を迎えた。
「そ、それでは失礼致しますッ!」
  仕官は大慌てで駆けながら入江機関地下研究所を後にして行った。
「からかい過ぎちゃったかしらね。クスクス」
  せっかく良いおもちゃを見つけたというのにちょっと残念だと鷹野は思った。

 鷹野は試験管の調合を終えると、内容物を特殊な金属製保存ケースに入れ、仕掛け時計の裏蓋の中にそっと隠した。
「ジロウさんからの贈り物の時計、ありがたく使わせてもらうわね」
  ハトが飛び出し時間を教えてくれる壁掛け時計は富竹ジロウが鷹野にプレゼントしたものだった。
「最初にプレゼントされた時は、大人の女のプレゼントにハト時計なのって思ったけど、今じゃ、とても愛着があるのだから不思議よね」
  鷹野はハト時計に触りながら追憶に浸っていた。
「あの人、女性とお付き合いしたことなさそうだったから、センスが磨かれてなかったのよね。だからこんな悪い女に引っ掛かって惨めな最期を遂げちゃったのよ」
鷹野は独り呟いて苦笑した。
「でも、私の幼稚な面を一番理解してくれた人だった……」
  知らず、視界が滲んでいた。

 手で目を拭いながら隣室へと入る。そこには先ほど仕官から名前が挙がった北条悟史がベッドに寝ていた。少年の全身には到る所に機械とチューブが繋がれおり、一方では幾重にも拘束用のロープで縛り付けられていた。重度の雛見沢症候群の患者である少年は、起きる度に叔母の幻影を見ては錯乱し、手の付けられない位に暴れ出すが故の措置だった。
  鷹野は少年の顔を撫でながら言った。
「悟史くん、貴方は雛見沢が許せないわよね。憎んでいるわよね。だって、貴方をこんなにまで追い詰めたのは雛見沢の人間達ですものね。だから、私が仇を討ってあげるわ。私が貴方の代わりにこの村の人間に神罰を下してあげる」
  無論、眠っている少年から返事が来ることはない。
「なんてね。悟史くんがそんな事を考えられる人間なら、こんな状態に陥ってはいないわよね。貴方の仇討ちというのは嘘。私がやりたいからやるの」
  返事のない相手へ話し掛けるのは独り言と変わらないなと苦笑しながら鷹野は続けた。
「雛見沢の最期、ここで沙都子ちゃんと一緒に眺めていてね」
  鷹野は悟史に背を向け、ゆっくりと歩き出した。
  もしここで悟史が目覚めて鷹野を止めていれば、歴史は大きく変わったかもしれない。この村に、地獄が訪れることはなかったかもしれない。
  だが少年は起きず、この地に悪夢は舞い降りた。

 昭和58年6月2×日深夜
  滅菌作戦は、実行、された。

 ××県鹿骨市雛見沢村及びその周辺で火山性ガスによる広域災害が発生
  犠牲者2千余名
  行方不明者20余名
  周辺自治体では約60万人が避難する史上空前の大災害が起きた
 
  人々が知るのは政府報告によるこの発表のみであった。
  大災害の実態である滅菌作戦について知る者は皆無だった。

 

 鷹野は滅菌作戦の発動後に自分が密かに始末されるであろうことを予想していた。
  鷹野は滅菌作戦の真の提案者である野村のことはよく知らなかったが、この作戦にはあまりにも多くの矛盾が含まれ過ぎていたことは勘付いていた。研究の打ち切りを伝達され正常な精神状態ではなかったとはいえ、この矛盾だらけの作戦が実行されれば誰かが究極的な責任を取らされるであろうことは簡単に予測できた。それが作戦の名目上の進言者であり、現場の指揮官でもあった自分に廻って来るであろうことは国立大学を主席で卒業した聡明な彼女にはあまりにも簡単な推理だった。
「死人に口なしとは上手い事を言ったものよね」
  そして自分の死によって、真相究明に蓋がなされるのであろうことを鷹野は予見していた。
  雛見沢症候群、および滅菌作戦の効果と正当性について唯一知っているとされる自分が死ねば丸く収まる。他に真相を知る者がいないのだから追及のしようがない。少なくとも政府とか『東京』とか呼ばれている利潤追求者集団はそう考える筈だと鷹野は睨んでいた。従って自分が生き残ることは不可能であろうことは鷹野には容易に予測できた。

 鷹野は滅菌作戦後の世界での生に未練があった訳ではない。むしろ死に場所を求めていた。だから殺してくれるならそれはある意味ではありがたいことだった。鷹野の生への執着は、富竹に雛見沢症候群を強制発症する薬を自ら注射し、彼が喉を掻き毟って死亡した時点でなくなっていた。
「ジロウさんに追い駆けられていた時は、ちょっと煩わしいとさえ思っていたのに。今ではこんなにもあの日々が懐かしいなんてね。私が壊してしまったあの日々が……」
  鷹野は自分でもよく気付いてはいなかったが富竹を深く愛していた。いつも富竹を振り回すようにして連れ回していた彼女。傍目からは主人と下僕のように見えるその関係は鷹野なりの稚拙な愛情表現の一環だった。
  富竹と出会う以前、恋愛すらも鷹野にとっては自身をステップアップさせる道具でしかなかった。恋愛を重ねて男の操心術を磨くことも、社会的なステータスが高い男と付き合いその趣向を知ることも彼女がのし上がっていく為に必要なスキルアップでしかなかった。彼女は、人と心を通わせる事に何ら価値を見出さなかった。彼女にとっての恋愛とは、雛見沢症候群解明に向けての損得勘定でしかなかった。
  雛見沢に自身の研究機関の建設が決まり、研究に打ち込める体制が整い、『東京』への機嫌伺がそれほど必要なくなった時に鷹野の前に現われたのが富竹だった。
「その……鷹野さん。僕と一緒に野鳥の撮影に行ってくれません、か?」
  富竹を前にして打算以外の恋愛を知らなかった鷹野は大いに戸惑った。
「ジロウさんが雛見沢の猟奇伝説を一緒に研究してくれるのなら付き合ってあげても良いわよ」
  戸惑った末に彼女が選んだ道は、好きな子をつい苛めてしまうという幼稚園児か小学生の愛情表現だった。鷹野は稚拙な愛情表現しかできない自分に苦笑し、一方で本質的には幼稚な面を持つ自分を受け入れてくれる富竹を好ましく思っていた。
「誕生日にハト時計をくれるような人の好みの女になるって、どうすればいいのよ? 全然、分からないじゃない」
  鷹野は自分の恋愛スタイルを変えたいと常々考えていたが、相談できる友人もいないことにまた苦笑するしかなかった。
  鷹野は恋愛関係だけでなく、交友関係も結局損得勘定でしか見ていなかった。学生時代、才色兼備で社交家の彼女の元には毎日同性・異性の友人が輪をなしていたが、卒業後も連絡を取り合っていた者は皆無だった。入江機関が完成したことで彼女は全ての交友関係を断ち切って研究に打ち込んだ。
  幼稚であり、孤独を好む鷹野の性向は、後の滅菌作戦実行において野村に彼女が目を付けられる要因の1つとなった。

 一方で鷹野は愛する人物を壊してしまうことに躊躇を感じない女性でもあった。富竹を自分の手で発症させて死に追いやったのが端的にそのことを表していた。鷹野は富竹を愛していなかったから殺したのではなく、愛しているからこそ自ら殺した。
  鷹野はまた、雛見沢症候群研究で長い間接して来た古手梨花や北条沙都子に対して自分が考えていた以上の深い愛情を注いでいた。また、研究方針を巡って対立しても、優れた研究成果を挙げて来た入江京介を所員の誰よりも好ましく考えていた。だが滅菌作戦発動を前にした鷹野にとって愛情や好感というものは殺害を押し留める理由にはならなかった。それどころか好ましいと考える相手だからこそ、自らの手で、または自らの眼前でその人物が生を終えねば納得出来なかった。作戦発動前に自分の眼前で死んでいった、梨花、入江を見ながら彼女は心のどこかで安堵していた。自分と深く接した彼らが自分の預かり知らぬ所で毒ガスや銃弾によって殺されるなど鷹野には我慢できなかった。
  鷹野の破綻した愛情と破壊の両立は彼女の元来の性質によるものなのか、幼き日の不遇の連続によって精神が何らか歪められた結果であるのか因果関係ははっきりしない。梨花両親殺害により殺人快楽に目覚めただけのことかもしれない。ただ一つ言える事は、彼女は自分が愛した対象を容易に破壊してしまうことが可能であり、そのような破綻した心を抱えていることを彼女自身が理解していないことだった。

「ジロウさんは私と一緒に来てくれるの? それとも……」
  昭和58年の綿流しの日、鷹野は滅菌作戦決行に当たって富竹に自分と同じ道を歩んでくれるか訊ねた。
「止めるんだ、三四さん。君はしてはならない事をしようとしている」
  取り押さえられ、命の危機を感じ取っていた筈なのに富竹が選んだ答えはノーだった。その答えを聞いた瞬間に彼女はある面で安堵し、ある面で失望した。
  安堵したのは富竹が自分の予想通りの正義の徒であったから。即ち村人を千人単位で殺害しようという計画に命欲しさに乗って来たりしなかったから。富竹が計画に乗って来るような男であれば鷹野は富竹を好きになったりしなかった。
「ジロウさんて、本当に不器用だけど真っ直ぐで人の温かみを捨てられない人なのね」
  富竹が自分の予想通りの好漢であったことに鷹野は安堵した。
  失望したのは富竹が自分を選んでくれなかったから。そして富竹が不器用過ぎたから。富竹は万人の正義の味方だった。
「ジロウさんは私だけの正義の味方にはなってくれないのね」
  鷹野にとって富竹は、この世界において赦されない罪を犯そうとする自分を優しく包み込んでくれる存在とはなり得なかった。富竹が自分を選んでくれないことは倫理的に好ましい選択であったが、同時に女として悔しい選択でもあった。自分が富竹の全てを手に入れられた訳ではないことが悲しかった。
「三四さん、ごめんよ。君の言う事は、聞けない……」
「そう……」
  鷹野は、稚拙な独占欲だとわかっていても富竹を手に入れられなかった虚しさに取り囲まれていた。彼女が異性に振られたのは初めてのことだった。自分から別れを告げるばかりの彼女の初めての失恋だった。
  そして富竹はあまりにも純粋で無力な正義の徒たり過ぎた。鷹野には、それが愚かしく哀しかった。
  一度自分の誘いに乗るふりだけすれば良かった。そうすれば隙を突いて『東京』や政府に自分達の陰謀を通報することも出来た。背中から自分を撃ってくれても構わなかった。富竹にだったら構わなかった。そうすれば滅菌作戦は発動されなかったかもしれない。そうすれば村人達は犠牲にならずに済んだ。富竹は自分に嘘を付かないという小さな正義を貫いた為に村人が2千人以上殺害されるという大きな災厄を招いた。不器用なあの人らしい結末だと鷹野は思わざるを得なかった。泣きたかったが涙が出て来なかった。そもそも 何に対して泣きたかったのか彼女には分からなくなっていた。

 鷹野は滅菌後の世界において生に未練はなかった。だが生きていなければならなかった。滅菌後の世界を見守らなければならなかった。世界の変化をその目で見届ける必要があった。その為に起こした滅菌作戦だった。
  しかし結果から言えば、滅菌後の世界は鷹野にとって無価値であり地獄に等しい苦しみを味わわなくてはならないものであった。
  鷹野が何故滅菌作戦発動に同意したのか問い詰めていけば、養祖父に当たる高野一二三絡みの話となる。鷹野にとって滅菌作戦を起こして雛見沢症候群が世間に広く認知されることは、認知させることに失敗して失意の内に自殺を遂げた一二三の悲願であり同時に仇討ちになる。少なくとも鷹野はそう考えた。
  しかし結局の所、滅菌作戦を通して一二三の名を挙げるという目的は果たすことができなかった。それどころか、これだけの事件が起きたのにも関わらず高野一二三の名が世間に出回ることはなかった。テレビのコメディー番組で唯一登場したことがあったが、知性を感じさせないお笑いコメンテーターにより世紀末に地球が滅びるという予言家の言説と同列に扱われすぐに流された。その場面を放映したテレビ受像機は激高した鷹野の手により無残に破壊された。
  雛見沢症候群にしても、医学的な問題として扱われるのではなく猟奇的な傷害事件を引き起こす変質的な行動ばかりがクローズアップされた。一二三や鷹野が考えたように寄生虫による脳支配を唱えたマスメディアは存在しなかった。代わりに閉鎖的村落におけるオヤシロ信仰と結びついた悪しき風習の残滓という側面でのみ語られた。結局、雛見沢出身者は元々おかしいのだという認識で異常行動の説明は片付けられてしまった。雛見沢と無縁の人々にとってはラベリングさえしてしまえば原因究明はそれで十分だった。
  雛見沢症候群に対して鷹野が望むような扱われ方は遂にされなかった。有力者達による権力獲得競争の力学ベクトルの発生と変化、一般大衆の無関心と娯楽追及体質を理解するには鷹野は純粋過ぎ、また研究家肌であり過ぎた。鷹野は滅菌後という世界を完全に読み違えていた。マスメディア報道は鷹野の思惑を貶めるだけの作用しか果たさなかった。彼女にすればあまりにも低能に見えるこの世界は存在すること自体が苦痛だった。そして、その低能を生み出した根源が自分であることが更に苦痛を呼び寄せていた。彼女は自分を心底憎んだ。

 鷹野は滅菌作戦後から毎夜、しばらく経ってからは昼間でも滅菌作戦に関連して死んだ者達の幻影に悩まされるようになっていた。その中で最も多く浮かんで来たのは富竹の顔だった。富竹は何も言わず寂しそうな目で鷹野を見つめていた。
「……ジロウさん、私を責めてよ。罵ってよ。罵倒してよ。お願いだから、何か答えてよ」
  鷹野が何を言っても富竹は答えてくれなかった。富竹の冷たい沈黙こそが鷹野を最も苦しめる要素となった。
  富竹の次に多く出て来たのは、入江、梨花といった入江機関と関係が深い者達だった。彼女達は口々に鷹野の背信を罵った。自分を殺害したことに対する恨みを述べた。罵りや恨みの言は鷹野の精神を磨耗させた。だが入江達の幻影は憎悪であっても鷹野とのコンタクトを求めてくれる分まだましだった。入江診療所を脚気の治療の為によく訪れた老婆が浮かんで来ることもあった。老婆は鷹野の愚痴に何一つ文句も言わず耳を傾けてくれた人物だった。特定の友人を持たない鷹野にとって老婆は一方的とはいえ悩みを表出することができる貴重な存在だった。だが幻影の中で老婆は常に鷹野に背中を向けていた。老婆もまた富竹と同様に鷹野とのコミュニケーションを拒絶していた。鷹野は孤独を愛していたが、孤独でいることに耐えられない人間だった。

 1日の大半において消えてくれない幻影に悩まされる鷹野。検査して正式に調べたことはないが、自分が雛見沢症候群を発症させているであろうことは確信していた。だが自らの発症を考えた段階において彼女は自説に誤りがあるのではないかと不安に陥り始めた。
  鷹野の自説とは、“女王菌保有者”である古手梨花が死亡すれば、雛見沢出身の村人及びその周辺住民は48時間以内にほぼ全員が高レベル発症するというものだった。発症した者は北条悟史のように無差別に暴れ回ったり、富竹のような常軌を逸した最期を迎えたりするので雛見沢は無法地帯と化す。だからそうなる前に雛見沢出身の村人達を“滅菌”してしまおうという野村の提案に鷹野は同意した。滅菌作戦発動時において、梨花が死亡すれば雛見沢出身者が発症して狂人と化すことは鷹野にとっては“真実”だった。作戦後に全国に点在する雛見沢出身者が発症し始めたことは自分の説が正しかったのだと彼女を勇気付けた。
  しかし徐々に大きな矛盾が鷹野を飲み込むようになる。それは雛見沢からの移住者が最も多いコミュニティである興宮で発症者が比較的少ないことだった。
  興宮はそれほど大きい街ではない。加えて街の商工業関連では、強勢を誇る園崎家の一族をはじめ雛見沢出身者の方が比率的に高い。従って興宮の雛見沢出身者の比率は高い。鷹野の説が正しければ、雛見沢出身者が最も多く存在する外部コミュニティである興宮では最も多くの発症者が存在しなければならない。しかし事実は逆であり興宮では発症した者が比率的に少なく、全国に孤立した形態で点在する雛見沢出身者の発症率の方が極めて高かった。鷹野の説ではこの矛盾を説明することは出来なかった。
  鷹野の予測と違い、雛見沢症候群の発症の有無と形態は様々だった。片親が雛見沢出身の興宮在住の子供達がほとんど発症しなかったのに対して、遠隔地にて祖母、両親を殺害した興宮出身の少女がいた。
  そして鷹野自身の発症。自分が雛見沢症候群の菌を有した者ならば何故梨花の死亡後48時間以内に理性を失い狂ってしまわなかったのか、発症していながらも中途半端に理性を保つ状態を続けていられるのか。鷹野の説では何一つ証明することは出来なかった。
鷹野は優秀な医学研究者ではあったが、社会学者でもなく生態学者でもなかった。純粋種で構成された集団などというものは存在せず、雛見沢出身者・雛見沢縁者といった分類が実際には曖昧な境界上にしか成立していないことをよく理解していなかった。何をもって雛見沢出身者とするかは実際には定かではない。出生地か血統か居住年数かその他の分類により区分されるのか。視点の差異によって、同一集団として見做されたり排除されたりする、集団の境界・周縁に存在する彼らの存在こそが鷹野の説を破綻させる存在だった。雛見沢出身者は発症するという単純な鷹野の分類法では境界人たる彼らが発症するのかどうか言及できない。
  また鷹野は自分自身を雛見沢出身者であるとは考えていなかったが、雛見沢に5年以上生活拠点を置き続けた彼女は、雛見沢外部の人間から見れば立派な雛見沢住民、出身者だった。鷹野の仮説は、『東京』や政府関係者には彼女自身も含めて滅菌せよと言っている様にしか聞こえなかった。鷹野はそのことを理解していなかった。

 鷹野は自ら梨花を殺害し自説の正しさを証明しようとした。しかし、満足いく結果が出なかった為に自説と再度向き合わなければならなくなった。そして時が経つに連れ、鷹野は自説を取り下げなければならないと考えるようになった。だが自説を取り下げるということは、村人殺害を行うに当たって唯一の大義名分であった治安維持の為という名目さえ無くしてしまうことになる。2千人以上の人間をただの勘違いで殺害するように進言したと認めるには鷹野の精神はあまりにも脆弱過ぎた。
  鷹野は滅菌後の世界において自身の仮説が正しくなかったと考えつつもそれを認める勇気を持たなかった。必死になって自説が正しかった証拠を探し出そうとし、その度に逆の結果を見せ付けられた。苦悩と挫折を重ねて膝を抱えて蹲ることが増えていった。もっとも雛見沢症候群の真相を本気で考えている人物など鷹野を除いて1人も存在しなかった。雛見沢症候群の真相を知りたがっている者が数多く存在する筈だという仮定でさえ鷹野の頭の中で作り上げられた絵空事でしかなかった。
  愛する富竹を自ら手に掛け、自らの学説も信じることができなくなり、殺人者としての自分と向き合わざるを得なくなった鷹野。彼女は時間の経過と共にますます自分の死を渇望するようになった。だが彼女には自殺をする程の行動力も勇気もなく、ただ誰かが自分を楽に殺してはくれないだろうかと願っていた。

 自らの死を願っていた鷹野の元に意外な情報が舞い込んで来たのは滅菌作戦実行から2ヶ月ほど経った8月中旬のことだった。
「へぇー。野村、死んだんだ」
  テレビ報道を通じて野村の死亡が伝えられた。民放テレビ局の早朝ニュース番組の交通事故に関する報道の一幕での出来事だった。
  それは1分にも満たない短いニュースだった。鷹野が知る野村とは名前も職業も違っていたが、テレビ画面に映し出されたのは確かに野村の顔写真だった。そのニュースを見て鷹野はひどく納得がいった。
「やっぱり野村も消されたのね」
  鷹野には野村に対して哀れむ気持ちは少しも浮かんで来なかった。

 野村は今回の滅菌作戦の黒幕だった。彼女は、自らは表舞台に決して現れず、極秘裏に鷹野に接近して滅菌作戦の話を持ち掛け、その責任者に仕立て上げた。そして鷹野の研究成果を利用しながら総理に滅菌作戦の実行を迫った。全ては滅菌作戦発動による政界の混乱とその収束を通じて自己の利益を得る為に。
  野村は作戦の提案者として鷹野を、作戦の認可者として総理をそれぞれ目に見える責任者に仕立て上げ、自分を責任とは無縁の安全地帯に置いた。だが、自分が安全地帯にいるとは野村が自分でそう思い込んでいただけのものであり、政府や『東京』の全ての構成員の保証を受けたものではなかった。滅菌作戦はその実行と隠蔽により『東京』内部の勢力変動などによって利益を得た者がいる一方、損益を被った者も多かった。損失を被った者が、総理への作戦の進言者である野村に対してどのような感情を抱くかなど想像に難くない。野村は総理に直接進言できるほど強大な力を有していた為に、自身が思うよりもその存在が知れ渡っていた。大き過ぎる力が仇となった。
  野村は滅菌作戦を通じて利益を得た者からの庇護を計算に入れていた。だが、その庇護が『東京』の鷹野に対する庇護の形態と何ら変わらないものであったことまでは読み切れていなかった。即ち、用が済み処分されるまでの監視作業でしかなかったことに。
  野村は鷹野さえ処分すれば自分には害が及ばない筈だという楽観的な読み間違いをしてしまった。権力者達の間に潜む“ぬえ”はいくら権謀術数に長けているとはいえ1人の思惑通りには動いてくれない。2千人以上を殺害した滅菌作戦は何としてもその真相を歴史の闇に葬らなければならないものだった。その為ならば作戦に関わった中心人物達を何人か死亡させた所で大した問題にならないと政府も『東京』も認識していた。その結果が野村の交通事故に偽装した始末だった。
 
  鷹野にとって意外だったのは野村の死が自分よりも先にもたらされたことだった。責任追及の手順としては、まず現場の責任者である自分が消され、その次に自分の背後で暗躍していた野村が実質的な総責任者として消される順序になるだろうと予想していた。しかし野村が先に消された。それは彼女が先に死ぬことにより得をする者がいるからだろうと考えた。しかし、それが誰であり、どんな利益なのか鷹野には皆目見当が付かなかった。だが野村が消された以上自分が消されるのは時間の問題であり、自分の死が迫っているのは間違いないと感じていた。鷹野にとってはそれがわかれば十分だった。
  そして、野村の死を契機に鷹野は人生最後の行動を起こした。