司法分野でも国民が主役になれば、日本社会は“お任せ民主主義”から脱して大きく変わるでしょう。法律家の増員と裁判員制度が重要なカギです。
沖縄県読谷村の村長を二十三年間も務めた山内徳信さんは、住民から何か求められると、しばしば「一緒にやりましょう」と応じました。
読谷村の米軍基地はいまでも村の総面積の36%、最大時には73%でした。行政として村民のために何かしようとすれば、必ず基地問題にぶつかります。そんな時「デモでも座り込みでも何だっていいから」と村民にも行動を促したのです。
主権者として主体的に
野球場も、福祉センターも、役場さえ、そうやって行政と住民が協力して米軍用地の中につくりました。村民の間には「主権者として主体的に取り組み、皆でやるのが民主主義」という意識が浸透してゆきました。
日本国憲法の大黒柱は前文で宣言している国民主権主義です。立法府、行政府には選挙などを通じ国民の意思と行動が反映されるような仕組みになっています。
国会その他の議会議員、首相、大臣、知事や市長らの意思決定は「国民の意を体してなされるべきだ」と、ほとんどの人が考えているはずです。そのために、選挙という間接的手段にしろ、立法、行政に参画することに疑問や抵抗を感じる人はまずいないでしょう。
ところが、司法に関してはいまだに“お上意識”が抜けません。専門家に任せておくことに疑問をあまり感じないようです。来年五月から始まる、刑事裁判に一般国民が参加する裁判員制度にも消極的空気が支配的です。
実は、天皇が主権者で、「天皇の名で」裁判が行われた戦前でさえ、「陪審」という名の国民による刑事裁判がありました。
経験や知恵を生かして
一九四三年、戦争に国力を集中するため停止(廃止ではありません)されましたが、法律には「戦争が終わったら再開する」と明記されていたのです。
まして戦後は国民主権に変わったのですから「さあ自分たちでやろう」「皆でやろう」となるかと思いきや、停止されている間に多くの日本人は「裁判は専門家に任せておけばいい」と思い込んでしまったようです。
「裁判というのは自分たちとは別のものであって、そこから何か与えてもらうものだ。正義というのはおのずから実現するものだ。そういう意識が国民の間にあるのではないか」−司法制度改革審議会の会長を務めた佐藤幸治・京大名誉教授は、国会で参考人としてこう述べました。
正義は所与のものでも天から降ってくるものでもありません。他人任せでいつも好都合な結論が出るとは限りません。
主権者としての国民が知恵や経験を生かして議論し判断する。それによって司法が活性化し確かなものとなるのです。
ここで言う「好都合な結論」とは、自分に有利なという意味ではありません。裁かれる側の権利を守りながら国家、社会を構成する人たちのより多くが納得できる結論を得るということです。
先進国にはどこも司法に対する国民参加の制度があります。日本でも立法、行政に続いて司法に国民が参加することで「皆でやる民主主義」がやっと完成します。
初体験ですから不安が募るのは当然です。時間と労力を取られ、負担も決して軽くはありません。
ですから不安を和らげ、負担を減らす努力をもっとしなければなりませんが、ここへ来て野党各党が実施延期や制度見直しを言い出したのは重大な懸念材料です。
制度の根拠法である裁判員法には全会一致で賛成しながら、いまさら方向転換とは無責任です。国民の不安に乗じて総選挙を有利にしようとしているとしか思えません。本当に国民のためにと考えているのなら、制度改善に取り組む時間も機会もこれまでにいくらでもあったはずです。
日本弁護士連合会は弁護士増員の抑制を言い出しました。裁判員裁判を成功させ、司法を身近にするためには弁護士の大幅増員が欠かせません。増員による質の低下が抑止論の理由ですが、「仕事の奪い合いになるのは困る」という本音がちらつくのは残念です。
「法の支配」確立のため
身近にいる法律専門家のサポートを受けながら、幅広い市民が主権者として主体的に司法を担うことで、真の「法の支配」が確立します。裁判員制度と弁護士増員はそのための核心です。
政党の思惑や法律専門家の都合で改革が頓挫するのか、国際的にも注目されています。
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