*これは以下の関連スレです。
【INDEX】「既出用語の用例一覧」
日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1964252)
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1964252)
「両班階層」・・・朝鮮士族が形成した実態だが、その範囲さえ曖昧模糊としている。さらに派生語として「残班(官位についてない両班だが実業に就くと両班認定を取り消されるので働けない。乞食が良く詐称していた様だが実物も相当混じっていたという話もある)」や「郷班(地方有力者だが政府からの任官は別に受けてない)」などがあるが、ここまでくるともはや実像の完全把握は不可能に近い。
【設問】韓国に「貧国弱兵論」に相当する理論はありますか?
【結論】あります。日本統治下の朝鮮地区でも屈指の有識者だった洪命憙の唱えた「両班階層レミング論」がそれです。
- 朝鮮王朝が平和だった時代、両班階層にとって最大にして唯一の関心事は「閥族の就任するポストが十分確保されている事」だけだった。
- 彼らを危機意識に目覚めるのは「ライバルが増えすぎる事で、閥族の就任するポストが十分に確保出来なくなった時」だけだったと考えられている。
- その時取る行動は概ね「党争」、すなわちレミングの集団自殺やアメリカン・ネイティブのポトラッチ(注)に似た「お互いの大量粛清合戦」に限られていた様である。
注「ポトラッチ」・・・「自殺的贈与合戦」というニュアンスだが、ここでいう「贈与」は「自らが相手より強精である事を誇示する為、相手の目の前で自らの財産を相手より大量に放棄してみせる行為」を指す。より具体的には所有する財宝を相手より少しでも多く河や湖に大量投棄しようとしたり、所有奴隷を相手より一人でも多く殺戮しようとするのである。
- そしてこうした党争は、両班階層の総人口が就任可能なポストに対しそれほど不満のないレベルに減るまで続くのが常だった様である。
- この時身についた社会的慣習は、その後朝鮮王朝がそれほど平和でなくなった時代を迎えると社会的危機感の高まりを契機として毎回護発動する様になった。
すなわち、隣国である日本や中国から侵攻を受ける危険が高まったり経済的破綻が近づいたりして社会不安が増大すると必ずやそれを好機として党争が激化し、肝腎なときに限って必ず的確に必要な措置を取る事が不可能になるといった悪循環が常態化したのである。
おそらくは当時流行していた社会進化論を両班亡国論に取り入れようとする試みの一つとして現れてきたものと推測される社会モデルであろう。
ところで「外的環境と物的状況の変化が人間性に影響を与える」は韓非子にもある概念。
- 物資が多くて人が少なければ人々は平和的である。
- 逆に物資が少なくて人が多いと闘争的になる。
- 韓非が生きた戦国時代は人が増えた結果生じた闘争的社会なので、平和的な環境にあった法や罰は意味が無く、時代に合わせて法も罰も変えなければいけない。
- ただ罰の軽重だけを見て、罰が少なければ慈愛であるといい、罰が厳しければ残酷だという人がいるが、罰は世間の動向に合わせるものであるから、この批判は当たらない。
これを「貧国弱兵」論と表裏一体を為すメカニズムとして考えると「危険が迫るとパニックから却ってサバイバルに適した行動を一切取らなくなり、自滅行為の繰り返しで見る見るうちに凋落して侵攻意義さえ失わせる捨て身戦法」ゆえに朝鮮王朝が隣国からまともに相手にされなくなり、それゆえに却って長寿を誇るという図式が全体像として浮かび上がってくる次第。
【参考】洪命憙の未完の遺稿「両班階級史的研究」*ここでは両班を朝鮮王朝中央官僚と規定しており、残りの朝鮮士族全てを郷班や在野学者等別枠で扱う事が提唱されている。これは日本の官民概念の官に相当する用法で、私も基本的にはこれに従っている。
「両班根性」とは何か?
『蘆山酔筆(金春澤)』によれば概ね以下の3ヶ条に要約される。
- その心に宿るのは官僚主義的生存本能と増殖意欲と派閥闘争意識ばかりである。
- 「儒教の熱狂的信者」と主張するが、実は「仁義礼智」の四徳のうち「仁智」の概念は最初から習得しておらず、「礼節」は「周囲に自分への威儀を守らせて圧勝させ続けてくれるもの」、「義理」は「闘争を始める為に方便として設ける標的」としか把握してない。
- 陰謀を企む際に群れを為すが、五人集まると五人全員が何らかの形で密告者と化す。
その形成史
その原型は一応「士大夫階層」に求められる。
【朝鮮】「士大夫とは何か?」日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1964099)
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1964099)
- 両班出現前史(高麗朝末から宣祖時代に東西の党論が起きるまでの約2百年間)
他階級との区別がさほど厳格でないうえに総数も多くなかったので外部からも人材を受け入れる余裕があった。もちろん当時から科挙合格といった階級障壁は厳然と存在していたが、それゆえに出身身分が参入障壁とならない事が保証されていた社会でもあったのである。
* 根拠として以下のような人物の経歴を紹介している。
- 中宗時代に高い官職についた賤人出身の碩枰(宰相の屋敷の奴隷であったが主人の斡旋で息子のいない裕福な家の息子となり文科を経て刑曹判書まで歴任)
- 明宗時代に贖良して科挙を受け及第した姜文佑(『宣祖実録』に徐敬徳の弟子として名前が見える人物)
- 宣祖時代に奴の子でありながら朝紳と交わり学者になった徐起(徐敬徳・李之函に師事し李之函とは全国を遊覧して民俗と学問を研究した後で智異山や鶏龍山にて後学の養成に力を注いだ人物)
- 士大夫階層の両班化進行期(宣祖時代から英祖時代に蕩平碑が立つまでの160~70年間)
こうして「立身出世」を保証された事により、科挙受験者といった予備軍を含む.士大夫階層の人数は増大の一途を辿る。その結果官職の数に対して明らかに過剰となり、政権争奪が激化した。
そしてやがて「政争に勝つ事」と「総数を一定に保つ事」そのものが目的化し「庶子の身分相続禁止」等によって参入障壁を強化する一方で「官位を得る為の手段を選ばぬ陰謀と粛清」が常態化し「個人的傲岸さゆえに半永久的に分裂しながら内紛を続ける」独特の身分意識が形成されていったのである。これが所謂「両班階層」の出現経緯である。
* 以下を根拠に「銓官(人事権を掌握する官職)」が党争の主要目標だったとする。
- 仁祖時代の崔鳴吉 の上訴文(堂下官の人事権をもつ銓郎の権限が強すぎるうえに偏っており、名門の子弟たちが官職を争って互いに中傷し排斥するようになったことが党論の根となったと訴えている)
- 粛宗時代の金春澤の『蘆山酔筆』(「王は老少の朋党を打破しようという意思をもっているが、どちらも銓郎の地位ばかりを争い、その職位を得た後は私利を求めるのみで、朋党はますます強まり、弊害はますます悪化した」とある)
- 両班階層衰退期(英祖時代から甲午改革までの150~60年間)
清国からの文化流入と貨幣経済の浸透を背景として「禄を貪る為に朝廷に出仕する道」を選んだ蕩平論者達は体制に従順となっていった。
その一方で在野に留まり、彼らを「宦族」と呼んで軽蔑し抜く道を選んだ「清族」が出現したが、彼らもまた治国平天下の為の学問を放棄して無為の談論に耽じただけだった。
こうして士風と官紀が大幅に堕落した結果勢道政治への移行が不可避となり、さらに「何もかも縁故か賄賂で片付けられる」風潮が広がって「中央は外戚が専横し、僻村は土豪が武断する様になった結果、各地で民擾が絶えなくなる」有様が現出する事になる。
* この時期に実事求是する学者が輩出するが、それは政局が老論中心で安定した為に長い間勢力を回復できずにいた南人の不平不満と、両班階級の自己反省の結果とする。
その実例として洪大容の『林下経綸』にある「農民であれ商人であれ才能と学識があれば登用し、無能ならば両班でも輿かつぎ人足になるべきだ」と主張する一節を引用する。
- 両班階層終焉期(甲午改革以後)
先進国の社会制度の導入により旧文化が崩壊するとついにこの階層は有名無実の存在と成り果てたが「伝統的偏色意識」だけは身分制度廃止後も消失せず、今も子孫達を争わせ続けている。
*関連概念
【朝鮮】「郷約とは?」 *「勝ち組」の中央ポスト独占が却って「朝鮮全土の両班化」を促進。日(http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1964344)
韓(http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1964344)