「韓国の前方後円墳は倭人の墳墓」
韓日古代史を探る両国の考古学・歴史学者たちの視角は、大部分が自国中心的だ。西暦4世紀中盤、百済・近肖古王代に日本へ伝わった七支刀がよい例だ。全く同じ銘文を巡り、韓国の学者は「倭王に下賜したもの」と読み、日本の学者は「倭王に捧げたもの」と解釈している。
慶北大と大阪大で考古学を専攻した慶北大の朴天秀(パク・チョンス)教授(考古学)がこの本で見せている態度は、「辺境人」あるいは「灰色人」といったものだ。彼は、最大限客観的な姿勢で遺物と遺跡を探る。彼は、百済の先進文物が倭に伝播し文化水準を高めたのだとしても、6世紀前半に倭の軍事勢力が栄山江流域で活動していたという事実も認定する。とはいえ、倭が韓半島(朝鮮半島)南部の一部を支配したという「任那日本府説」を支持することもない。この本の第6章「栄山江流域の前方後円墳を通して見た百済と倭」は、同書に一貫する著者の論拠を際立たせている。前方後円墳とは、上から見る時、前は四角形で後は丸く見える、鍵穴の形をした巨大古墳のことを言う。日本では4-6世紀に集中的に出現するが、韓国では主に栄山江流域で6世紀前半に現れ、すぐに消える。この墳墓を巡り、任那日本府説を立証する遺跡だという主張が日本から起こったのは言うまでもない。しかし韓国国内の考古学会では、「ある地域で前方後円墳が出たが、(日本の学者が喜ぶかと心配で)埋め直した」という噂もあった。
著者は、前方後円墳の形態で見る時、倭人の墳墓だという事実を認定する。しかし墳墓から出土した百済の威勢品は、百済に服属した「倭系官僚」だという事実をあぶり出す。遺物や遺跡、そして歴史書などを総合すれば、こういう話になる。西暦475年、百済はソウルを高句麗に奪われた後、韓半島南部に南下した。その過程で、栄山江流域最大の土着勢力が居着いていた全羅南道羅州潘南面地域は土着勢力を首長に据えて「間接支配」し、その外郭は前方後円墳を作った倭系軍事勢力を利用し「直接支配」した、というものだ。しかし、538年に熊津(現在の公州)から泗沘(現在の扶余)への遷都と栄山江流域の直接支配、そして倭系官僚の本土帰還や「百済化」により、前方後円墳は消えた。
慎亨浚(シン・ヒョンジュン)記者
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