2007年06月16日 00:30 [Edit]
書評 - とてつもない日本
本書「とてつもない日本」は、日本国現外務大臣の麻生太郎が、日本人について書いた本。そして彼は、日本人について書く事が日本について書く事だと本気で信じている。少なくとも私をそう思い込ませることに成功している。
「日本について書くなら日本人について書くのと同義に決まっているじゃないか」と思われるかも知れないが、日本論に限らず各国論に関してこれは必ずしも自明ではない。なぜなら、その国の形を決めているのが、必ずしも国民であるとは限らないからだ。また、国とは国民のみならず地域を指し示す言葉でもある。だから地勢と偉人を書けば、その国のことを書いたという体裁は繕えるのである。
「美しい国へ」が、まさにそういう本であった。
「美しい国へ」がP.228わたしたちの国日本は、美しい自然に恵まれた、長い歴史と独自の文化を持つ国だ。
この言葉から、今を生きる日本人が美しいことは読み取れるだろうか。逆に日本とは日本人とは別に存在する何かのような印象を受けるのではないか。理系コトバで言えば、日本と日本人は直交しているようにも受け取れる。むしろ「あなたたちは、この美しい国土を彩るにふさわしい美しい国民となりなさい」と叱責されているようにすら感じる。
麻生太郎は、違う。
はっきりと、現在の日本人は、現在のままで美しいと言っている。
インドに地下鉄を作った技術者も、小中学校時代に学校から「外れた」ことがきっかけで、大人の社会に戻れなくなったニートも、熟年離婚の憂き目にあって図らずもやもめになった定年男も、普通名詞ではあるけれども、「日本」のように抽象的なものではなく、具体的に思い描ける者達ばかりである。
そういった人々に、「あなたたちは間違っていません。少なくとも国としてそれを咎めるつもりはありません」というのが、本書の第一のメッセージだ。
そして、こうした日本における「ふつうの人々」がいかに世界ではふつうでないかということを示したのが、第二のメッセージ。単体の日本人というのは確かに単体の中国人や単体のインド人に比べて見劣りすることが多い。もちろん日本人とて一億2700万人もいるのだから、見劣りしない人の絶対数も少なくないのだが、しかし日本はそういう人々が率いている国ではない。しかしこの普通の人々が普通に仕事し生活してきた結果生み出されたものは、世界的には普通にすごいということを著者は改めて説いている。これは外国で少しでも生活してみればとてもよくわかるのだが、日本国内にいてもなかなか見えない特長だ。お菓子の家にひきこもっていては、そこがお菓子の家であることには気づかないものである。
しかし、この二点だけでは、「あなたは今のままでいいのだから、何もしなくてもいいのよ」という自己憐憫に終わってしまう。本書がそれに留まっていないのは、第三のメッセージがあるからである。
「この『普通にすごい』を普通に世界に売り込もう」。
p. 187柄にもなく、美辞を弄しすぎたかもしれない。日本人が過度に肩に力を入れる必要はない。明日からできることは、今日までやってきたことと、少しも違いがない。
それはすなわち、賢明に働くこと。知識や経験を分かち合うこと。成功と失敗の体験を共有するため、機会をとらえて対話を重ねていくこと。その中から、政治でも経済でも、ベストプラクティスを互いに学びあっていくこと--
麻生太郎の面目躍如は、この直後だ。
これらがアジアを今日のアジアにしたのであれば、明日から私たちにできることも、これらと変わるところはないのである。
そう。このメッセージは日本人にだけではなくアジア人に向けられているのだ。「君たちの行き先は間違ってはいない。そのまま進んでいい。ただしゆっくりと。間違ったら、引き返してそのことを友人に知らせればいい」というわけだ。
なぜ
p.189育ちも選挙区も福岡の炭坑町、男臭い土地柄である。そこでセメント会社の社長という、これまたあまり色気のない仕事をしていた。およそ若者とは縁が薄かったように思う。
という人が、
私自身の話す内容が変わったわけではないのだが、私の演説が、若い人たちにもウケてしまったのである。
という理由がここにある。
「失われた10ウン年」で日本から失われたもの、それは自信というより「共信」だった。バブルが崩壊したとき、日本人はお互いを指差し合い、犯人さがしに狂奔した。「悪者」を設定し、その「悪者」を倒せという、後ろ向きだがわかりやすい負のエネルギーがこの国を支えてきた。それを一番効果的にやってのけたのは、言うまでもなく小泉純一郎だった。
しかし、その「共信」こそが日本人の「とてつもなさ」であり、それこそが日本人のコアコンピタンスだと著者は喝破した。麻生太郎にとって、日本とは富士山でもなくキョウナラでもなく、日本人のことなのだ。
本書を読んで感心するのは、仮想敵がほぼ不在なこと。国内ばかりではなく国外もである。それでいて、八方美人ではない。強いて言えば、ソ連がそうなるが、しかしすでにこの仮想敵は死んでいる。ニートも定年男も、彼にとっては普通に味方なのだ。
しかし、現代における「普通」というのは、もはや普通にステレオタイプにおさまらない。「国民」すべてに通じる共通の価値観というのはずっと希薄になっている。もはや山手線の駅を一つ超えれば、そこは別の価値観が支配する世界なのだ。新宿の「普通」は渋谷の「普通」ではない。
それこそが諸悪の根源だと考えていた者達は少なくない。実は小泉もその一人であった。仮想敵を設定するというのは、まさに価値観の共通化プロセスだ。実に古典的な手法でもある。
それに比べると、麻生太郎のやり方は、実にめんどくさそうだ。まず共通の価値観はすでに確固としてあるのだということを、それぞれ別の価値観を持っているのだと信じている人々に、それぞれのコミュニティに通じる言葉で伝えなければならない。そこでは、国民が政治家に合わせるのではなく、政治家が国民に合わせなければならない。しかも迎合する事なく。
今もなお際限なく細分化されつつある日本に、それを超えて共通する価値観は本当に存在するのだろうか?そしてそれは一体なんだのだろうか。ぜひそれを本書で確認いただきたい。
一つ確かなのは、この人は我々を信じているということ。我々が政治家を信じなくなって久しい。政治家もまた国民を、優しく騙すべき対象とは思っていても信じるべき対象とみなしていないように見受けられる。そんな中にあって、この姿勢は普通にすごいことなのではないだろうか。
Dan the Taxpayer
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○炭鉱町
あと、どうでもいいが s/見(?=方)/味/;
○仮想敵
?
自分にとっては「日本語の通じる人」ってのが一番重要で
日系とか在日とかあんまり気にしないです。
強いてあげれば高校野球で地元応援するみたいに
スポーツ、特に団体で「日本チーム」を応援するくらい。
(イギリスなんかは逆にスポーツの時大変なんです。)
「共信」というのは日本語をベースとした
文化や経済のツーカー関係、ってところ?
>仮想的がほぼ不在なこと。国内ばかりではなく国外もである。それでいて、八方美人ではない。
ここももう少し詳しく・・・って本書読めばわかる、ってことでしょうか?
ニート項目の
>全ての人が「仕事での自己実現を・・・」なんて煽られりゃ、
>世の中は失意と落胆に満ち溢れる結果しか
>生まないのではないでしょうか。
は、面白い見解かなと思います。
自分勝手で馬鹿なお上でも庶民は文句も言わずに一生懸命働いてきました。
お上もそのおかげで贅沢ができました。
しかし、それが今崩壊への道をたどろうとしている。
お上はそれが怖いのでしょう。
イメージがあったから、小泉的な人だとばかり思ってた。
イメージがあったから、小泉的な人だとばかり思ってた。
誤字指摘ありがとうございました。
Dan the Typo Generator
Forza Motorsports 2とゆうゲームの凝ったペイント車両が話題になった事例はヒントになるかも知れない…
本書を読んで感心するのは、仮想敵がほぼ不在なこと。国内ばかりではなく国外もである。それでいて、八方美人ではない。強いて言えば、ソ連がそうなるが、しかしすでにこの仮想敵は死んでいる。
リジェクトされてるのでちょっとリップサービスしたり
理解を示されるとコロっといっちゃうのね。
これってなにかっつうとヤクザと不良少年の関係です。
「オマエの存在を認めてやるからオレ(アタシ)のために働け貢げ」
とまあこういうわけですね。
> リップサービスしたり理解を示されると
視野が狭いですな。
それが一部分でしかない事は、彼の演説や本書を読めば分かる事。
日本版オバマ氏登場?
結局もうダメポという。
端から見てると大上段に構えて愚痴を言ってるようにしか見えません。
政権を奪い取るとしたら、今を於いて他は無いでしょう。
火事場泥棒?そのぐらいの誹謗を顧みぬ気概が無くて、何が出来るか。