歴史には流れがある
革命と言う出来事は、社会にとって大きな変化がおこることであり、それは後から見ると何か突発的な急変が起きているように見える。しかし、時間の流れの中で、以前の出来事と関係なく新しいことが生じてくるのはフィクションの中だけの話で、現実には、どんなに衝撃的なことが起ころうとそれはすでに準備されていたことであることが発見される。
明治維新という革命は、それがその以前の日本社会をまったく変えてしまったものだった。だが、その後の日本の軍国主義化と天皇制による絶対主義的な支配があったせいだろうか、近代的な市民革命とは見られていない面があるようだ。歴史に流れがあるのなら、市民革命として成功したと見られる明治維新が、大衆を解放し市民を育成しなかったはずはないと考えなければならない。
大衆を解放することなく、市民を育てなかったと言うのは、その後の日本の敗戦までの姿や、現在の政治状況などを見ると妥当な解釈のようにも感じる。そういう意味では、日本の歴史の流れで、明治維新は真の革命ではなかったと言う羽仁五郎さんの言い方が正しいようにも思えてくる。
だが、先駆的なフランス革命でも、反動的な大衆弾圧が見られたり、ヨーロッパのファシズム体制の中での市民性の否定などを見ると、そのような現象が明治維新に見られたとしても、必ずしも歴史の流れに従っていないとは言えないような気もする。人間の進歩と言うのはまっすぐ進むものではなく、曲がりくねって失敗を繰り返しながらも、らせん状に発展していくのが歴史だと解釈したほうがいいような気がする。
そのような歴史の流れを見る目で明治維新を眺めてみると、明治維新における改革のいくつかが、実は江戸時代にすでに準備されていたのを見ることが出来る。江戸は、明治によってすべて否定されるほど遅れていた時代ではなかったのだ。むしろ、江戸時代に危機感を鋭く感じた人々が、その末期には先駆者となって引導を渡したことが、明治維新が世界にまれに見るほど見事な革命として成功したと解釈することも出来るようだ。
板倉聖宣さんが書いた『勝海舟と明治維新』(仮説社)を読むと、勝海舟と言う人が、幕府の側にいながらも、時代の変わり目を鋭く感じて改革に乗り出した人だと言うことがよく分かる。同時代の西郷隆盛と比べても、勝海舟のほうが偉いのではないかと板倉さんは語っているが、この本を読むと僕もそう思う。偉いというのは定義が明確にはならないが、自らの立場を否定することが正しいと言う認識に達することが出来る人は、新しい勃興する立場から古い立場を否定する人よりも賢くなければならないと思う。自らの立場を越えた客観的視点を持たなければ、自らの利益を否定するような判断は下せない。それが出来た勝海舟と言う人の優秀さが、板倉さんの本を読むとよく分かる。
明治維新というのは、江戸時代の末期に、このように優秀な人をその権力の中に抱えた幕府内の先見の明のある人々の功績によって、見事な革命として成功したのではないだろうか。この革命の見事さは、勝海舟が広い視野を持つ人であったからこそだと思うが、そのような広い視野を持つことがなぜ出来たのかも、この本からよく分かる。
江戸時代というのは鎖国という政策がとられ、日本では諸外国の影響を受けることなく自給自足の生活を営んでいた。鎖国というのは特殊な政策のように見えるが、当時の世界ではごく普通に行われていたらしい。それは、進んだ外国の影響を受けると、権力者としては対抗勢力が起こってくるのを心配しなければならないし、支配と言う点では難しさが出てくるからだ。権力者にとっては鎖国という政策は利益をもたらす。だから、国が進歩しなくてもそれはそれで合理的だっただろう。
また、この時代は、自分の国を出て外国を支配下において利益を得ようと言うだけの余裕は、まだ先進国といえどもなかった。だから、江戸時代の前半期は鎖国政策に問題も生じなかっただろう。しかし、江戸時代の末期になってくると、アジアはヨーロッパの植民地主義によって、利益を求める先進国の餌食となるようになってきた。これは、日本にも伝えられていたようだ。
そのような世界情勢を知っているごくわずかの人間たちが、日本の国全体の危機を感じて、明治維新の準備をするという先駆的な活動をしたらしい。このごくわずかの人々と言うのは、当時世界情勢を知りえた可能性のある人々だった。それはオランダ語の学問をしていた蘭学者と呼ばれる人たちだったようだ。当時、数少ない貿易相手の国としてのオランダからの文献で世界情勢を知ったらしい。
勝海舟は、このオランダ語を学んで、日本だけの視点ではなく世界から日本を見るという広い視野を獲得したようだ。世界は植民地主義の嵐の中で、先進国が圧倒的な武力で侵略をしてくるという時代だった。だが日本では、国内での藩が国であり、世界のことはまったく知らない、藩の利益を求める人間たちが藩の権力を握っていた。しかも幕府の力が衰えてきて、国内で争いがおこりそうな気配もある。そんなことが起きたら、そのときに外国から攻撃を受けて日本はひとたまりもなく植民地になってしまうのではないかと思ったことだろう。
そのような危機感を抱いた人たちは、その当時の「攘夷」と呼ばれた雰囲気を振り払って、早く外国の進んだ面を取り入れて近代化することが必要だと考えたようだ。そのためには、封建的な当時の制度を否定する必要がある。自らの存在の基盤を否定する必要があった。日本の国全体の利益と言う大きなもののためには、自分たちの狭い範囲の藩の利益も否定しなければならないと言う、公益を求めると言っていいような意識が芽生えたようだ。
没落する勢力の中にありながら、自らその勢力に引導を渡し、新しい力に期待すると言うことが出来たのは、このような広い視野とそれを自覚させた危機意識によるのだろうと思う。勝海舟の優秀さと言う「偉さ」を感じさせてくれるエピソードとしては、勝海舟が敵である討幕側の指導者からも信頼されていたと言うことがある。その信頼がなければ、攻撃寸前の軍隊を押しとどめて江戸城攻撃を止めさせる交渉を成立させるなどと言うことは出来なかっただろう。これは、ひとえに西郷隆盛が勝を信頼していたからだと板倉さんは解釈している。僕もそのとおりだろうと思う。
西郷が勝を信頼したのは、その以前から、「幕府にはもう日本の政治の舵取りをする力がない」というのを勝が語っていたからだった。単に政治的な取引をするために江戸城を明渡したのではなく、江戸を戦争の惨禍に巻き込むことを避け、日本の国力を衰えさせるような内戦を防ぐと言う公益の観点から江戸城を明渡すと言うことを西郷が信頼したからだろうと思う。
勝は当時勃興してきた新しい勢力である大商人からの信頼も厚かったようだ。勝が、新しい時代を切り開いてくれるのではないかと言う期待をしていたようだ。当時の封建的な空気の中では、社会にとって悪いことが起きると、その原因が何か客観的な理由に求められるのではなく、世の中が悪いのにいい暮らしをしている裕福な商人などが悪いことをしていると単純に考えられたようだ。それに対して、理のある対応が出来るような、正しく状況を捉えた判断が出来る人間は一段高い視野を持っている人間でなければならない。勝にはそのような資質があると、大商人たちは思ったのだろう。
勝のように、没落する勢力の中から出てきた改革者として、僕は旧ソ連共産党のゴルバチョフを思い出す。ゴルバチョフも、勝のように広い視野を持ち、そのままの共産党では破綻するしかないと気づいた人だったのではないだろうか。勝と違う点は、最後に引導を渡す役になれなかったところかもしれない。勝は、西郷に江戸城を明渡して、最後に引導を渡すことが出来たが、ゴルバチョフは自らの力で共産党を解体することは出来なかった。エリツィンという反対勢力の力がなければそれが出来なかった。そのような意味でも、勝という人間がいかに優れた「偉い」人だったかと言うのを感じる。
勝が「偉い」人だったということから、その勝を登用した幕府の人々もまた偉かったと思う。勝は下級武士の出身で、封建時代の下では決して権力の座につけるような人間ではなかった。その勝が、江戸城明け渡しというような、幕府の最高決定にもっとも大きな影響を与える人間になったと言うことは、幕府がそこまで追い込まれていたと言うことを意味するものでもあるだろうが、自暴自棄になって玉砕を試みるのではなく、賢く未来を見つめて建設的な方向に舵を切れたと言うことがすごいことだ。
江戸時代末期と言うのは、そのようなことを解釈することによっても、明治維新を準備していた時代だったのだなと思う。歴史には流れがあり、合理的なつながりを持っているのだと思う。論理的な仮定と結論の関係を見つけて、整合的に解釈できるのだと思う。そして、仮言命題として妥当な解釈が出来るところに、因果関係というものも見えてくるのだろうと思う。
板倉さんは、「明治維新の近代化革命が「不思議な革命、矛盾した革命」であったことは、その革命の担い手だった人々のその後を見ると、よく分かります」と語っている。明治維新は、武士による革命だったが、実際に権力を握ったのは新興ブルジョアジーだったと言う市民革命としての性格をもつものとなっている。
これは、革命の指導者の中に勝のような広い視野の持ち主がいたからだと思う。たとえ武士が指導したとしても、武士の権力そのままの封建的な意識では近代化が出来ないと理解した人たちがたくさんいたのだろうと思う。そのために、職業軍人としての武士は職を失い、かえって没落したと言う。その抵抗が、維新後の西南の役を始めとする抵抗の戦いだったと板倉さんは解釈しているようだ。
明治維新は、武士が中心にやったにもかかわらず、武士が没落した。そのことをもってしても、明治維新が、結果的には市民革命となったと言うことが妥当な解釈だと言うのが出てくるのではないだろうか。明治維新に限らず、現実の出来事と言うのは矛盾に満ちているので、正反対の解釈が出来そうな事実を見つけることが出来る。明治維新にも、市民革命としての明るい面を見つけることが出来れば、そうではないことを示すような暗い面を見つけることが出来る。そのどちらが本質を捉えているのかと言うことが重要だ。本質ではない事実は捨象できると考えたほうがいい。
そのような、個別的な事実をどう受け止めるかで参考になる文章がある。これを最後に引用しておこう。
「明治以後、「若い女性たちが工場に出稼ぎに出た話」となると、何となく暗いイメージを抱く人々がいます。確かにその女性たちが、「時計に縛られ、非人間的な労働に従事させられた」といえば、とても悲惨な印象を受けます。しかし、そういう見方をするのは、それらの女性たちよりもずっといい生活をしていた上層部の人々だけです。
江戸時代にはそれらの女性たちは、各自、家の中で一人黙々として糸を紡いだり織物を織ったりする労働に従事していたのです。それが明治維新後になって、その労働から解放されて、同じ世代の人々と一緒に工場で働くようになったのです。だから、それらの人々の工場労働は、江戸時代の家内労働よりもよかったとも言えるのです。明治初期には「若い娘たちが2〜3年も工場に働きに出れば、家が建った」とも言います。
歴史の中の出来事を悪いほうにばかり解釈してはいけないのです。そのことは、その時代の女工たちの生活を暗く描いた著者自身がその女工たちから聞き書きした話でも、女工たちがその生活を<嬉しかった話>として嬉々として語っていることを見ても分かります。時代が変化するときには、その変化に不安を抱く人々が反対の声をあげます。そこで実際には、変化を歓迎する人々のほうが多数派でも、反対派の人々に遠慮して反対の声が静まるのを待っていたりすることが多いのです。」
Posted by khideaki at 12:08
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おひさしぶりです。最後の明治時代の工場で働く女性の話は初めて聞きました。義務教育では、労働者にとって暗黒の時代を迎えた、というふうに教えていますから、「こういう視点があったのか!」と思いました。新鮮ですね。どちらがホントか調べてみないと分かりませんが、一考に価しそうです。
まぁ日本の義務教育が如何に生徒にいろんな視点で考えさせることをしない、押し付けの教育であるか、を私たちはもっと考えたほうがいいでしょうね。秀さんもちょっと前のエントリーで、年号の丸覚えの教育の危うさを指摘してましたけど。この話は秀さんの今回のテーマではないので、このへんで。
明治維新という物語を信じている、もしくはそういう物語を信じやすい民族性故、会社の組織改革、構造改革、教育改革などではなんかいっきに変化が起きなければアウトであると私たちはいつも考えているわけですよね。逆にそれだからこそ戦前から戦後への転換もできたとも考えられるわけですけど。
私の場合ひどくて、明治維新的革命が当たり前だと思っていたため、フランス革命でみんなハッピーというあやまった認識をもちつづけてましたね。だからフランス革命後、反動と革命の寄せ手は返す波があったことも理解できませんでしたし、小説盗賊ルパンの売国奴の話も巌窟王の密書の話も理解できないままでいました。
「市民が担い手の革命」よりも、「市民社会を作り出した革命」こそが「市民革命」の名にふさわしい、といったところでしょうか。
市民社会を作り出すのはなにがなんでも市民でなければならないとか、プロレタリア独裁みたいなわかりやすすぎる社会でないと市民社会とは言わせない、というような頑なな思い込みにとらわれていなければ、別に理解しにくい話でもないと思いますが。
私自身は、武士が市民社会を生み出す「消滅する媒介者」みたいなものとして機能した、というような話として楽しく読めました。
ひよこさんへ
人間にとって疑うということはたいへん難しいことだと自覚しなければならないと思います。特に広く流通している常識を疑うことはたいへんです。これは、「すべてを疑え」という、まずは疑うことを第一に意識しないとできないことですが、これは、あまりにも一方的な思い込みで疑うと、今度は何も信じられなくなるという「不可知論」の誤りに陥ります。
信じるに値するものを信じて、疑わしいものを疑うというセンスを身につけるのは教育の課題ですが、一番難しい教育でしょう。日本の義務教育は、効率を優先させたために「疑い」というものを切り捨てたのではないかと思います。このような社会では、常識を信じるのはすぐに出来ますが、それを疑うことは難しいでしょう。そして、困ったことに常識というやつは時代によって違ってくるので、過去の常識と今の常識との矛盾に苦しんでいるのだろうと思います。
通る人さんへ
板倉さんは、明治維新は最も成功した革命だと主張していました。それは、すでに先行する革命を参考にして、その成功した面を正しく学び取ったからだとも主張していました。僕もそのとおりだと思います。
世界最初の革命であるフランス革命は、必ずしも人々に理想の実現を見せてはくれませんでした。幸せになると思っていた人々が、恐怖と不幸の中に落ち込んだことで、社会学という学問が生まれたと宮台氏が語っていました。これは、先駆者であったからこその、手本がないことによる試行錯誤の結果の失敗だと思います。これは不幸なことですが、失敗を経た人の方がより賢くなるという点では、どちらがいいのかは分かりません。日本人は、明治維新があまりにもうまくいったために、敗戦という大きな失敗を招いたとも解釈できるかもしれません。失敗は成功の元であり、成功は失敗の元なんだろうと思います。
igelさんへ
「革命」という言葉の概念をどう定義するかで、ある社会現象を「革命」と呼ぶかどうかが決まるのではないかと思います。そして、「市民が担い手の革命」よりも、「市民社会を作り出した革命」こそが「市民革命」の名にふさわしい」という定義は、「革命」の本質を捉えた概念だと思います。
武士が、自らを否定するような革命の担い手になれたというのは、明治維新で活躍した武士が、ほとんど下級武士という、その当時では不遇な境遇にいた人たちだったからではないかと感じます。武士階級を滅ぼしたほうが、むしろ彼らには活躍の場が広がるということがあったので、彼らは歴史的な役割を果たせたのだろうと思います。彼らは武士でありながら、その資質はすでに「市民」だったのではないかと解釈できるのではないでしょうか。