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一言メッセージ :宇宙市民第*号(1号は石川三四郎):本籍は宇宙、寄留地は日本

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「国民的人気」という陥穽

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<「国民的人気」という陥穽>

                1  

福田首相辞任後に行われる自民党総裁選の候補に、麻生太郎と小池百合子が名乗りを上げている。ゲッソリした。

麻生太郎は失言の多いお調子者タイプの政治家だし、小池百合子は恥も外聞もなくパトロンを取り替える花魁型政治家だからだ。二人に共通するのは権力への露骨なすり寄りと、それにつづく掌を返すような裏切りと変節であり、これほどいかがわしい政治家はちょっと類を見ないのである。

麻生太郎は、小泉純一郎や安倍晋三に取り入って小泉・安倍の両内閣では枢要なポストを与えられている。だが、内閣が変わると小泉政治からの転換を唱えて、小泉純一郎を激怒させ、安倍前首相に対しても裏切りを働いて、その寝首をかいたと噂されている。

小池百合子も、その時々の実力者に取り入ることでは負けていない。なかでも有名なのは、小沢一郎のゴルフのお相手をするために金魚の糞のようにゴルフ場について回ったことであり、小泉純一郎に家庭料理を届けるため首相官邸に日参したことだった。

この二人は権力者にすり寄るだけでなく、マスコミを利用して売名に精を出すことでも似ている。その努力の甲斐あって、麻生太郎は若者文化の理解者ということになり、小池百合子は首相候補の一人になった。

こういう薄っぺらな政治家が、「国民的な人気」を博することほど奇妙な話はない。誰が次期首相にふさわしいかという調査では、麻生太郎がダントツの一位であり、小池百合子もその調査なかで一定の票を得て首相候補の一人に数えられているのである。

日本では、一度評判になると、油紙を燃やしたようにその人物の人気が燃え広がって話題を独占することが多い。日本人を「自立型」と「世評追随型」に分類すると、世評追随型が圧倒的に多いのである。


               2

幕府末期の横浜にやってきた外国人は、「日本人には二種類ある。彼らは、ほとんど人種が違うように見える」と言っていた(「翔ぶが如く」司馬遼太郎)。

その二種類とは、武士と武士以外の一般庶民を指している。武士たちはそれなりに自尊心を持って毅然として外国人に対していたが、それ以外の日本人は日頃傍若無人な行動をしている癖に、西洋人の前に出ると、人が変わったように卑屈になっていたのである。

<かれらは商館の表通りに蝿のようにたかって小利を得ようとしてい
たし、路傍で群れてしゃがんでは小さな投機をやってい
た。

江戸期の日本では自尊心は武士階級の独占精神のよ
うなもので、庶民にはもたされなかった。自然、別の人
種かと思われるほどの差ができてしまっていたし、西洋
人の目からみれば横浜の路傍にしゃがんでいる、体全休
に自尊心のかけらももっていない連中がひどくアジア的
にみえた。

アジアのどこでもこの連中はいた。(「翔ぶが如く」)>

明治維新後になっても、旧幕時代の武士対庶民という対立構造は形を変えて残存した。官対民という対立構造がそれで、これは明治・大正・昭和を通して敗戦に至るまで、「官尊民卑」という形で存続して来た。

維新後の日本では、庶民から身を起こして「立身出世」をするためには、役人か学者・医者になるしか手はなかった(軍国主義の傾向が強まると、軍人がこれに加わる)。天皇制絶対主義の体制下にあっては国内の産業が未熟だったから、商工業部門に仕事口を求め、その中で高収入を得ることは不可能だったのだ。

それで、栄達を夢見る学生達は、「高文」(高等文官試験)をパスして官僚になるか、博士号を取得して学者や医者になることを目指した。有望な学生を褒めそやすのに「末は博士か大臣か」という言葉が使われたのは、このためだった。


                3  

産業の発達した戦後になっても、この流れは続いている。日本を動かしているのは官僚であり、経済人も政治家も一国のリーダーとしての体面を整えてはいるけれども、国政を丸投げに近い形で官僚に委ねている。先頃、自民党の有力者が、「政策は官僚が決め、政治家はそれらに自民党というブランド名を貼り付けているに過ぎない」と語っていた。政策立案に必要な資料を握っているのも官僚、これを活用して法案化する頭脳を持っているのも官僚。これだから、大企業経営者も与党幹部も官僚の前では頭が上がらないのだ。

社会の上層部は官僚に追随、一般国民はTVに登場するタレントに追随しているのだから、わが国に自立型の人間が育たないのも当然かもしれない。おまけに、近頃の高級官僚は劣化してきている。彼らは受験戦争を勝ち抜いて行く過程で、ヒューマンな感情を摩滅させ、自分の所属する役所の利害しか目に入らないようになってしまったのだ。

わが国民の識字率は高く、国民教育の普及している点では、北欧諸国と肩を並べるレベルに達している。にもかかわらず、自民党による一党支配がつづいて政治的には後進国の状態にある。このアンバランスは、結局日本に自立型の人間が少ないところから来ている。

目下の急務は、追随型日本人の横行を一人でも減らすことではあるまいか。

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星野仙一の弁明

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<星野仙一の弁明>


先日、NHKは、「星野監督が語る敗戦の裏側」という番組を放映した。これを見ていいるうちに、星野仙一・山本浩二・田淵孝一の三首脳が実戦から遠ざかっていたことに敗戦の原因があるのではないかと思った。

星野はこんな反省をしている──「指揮官は、選手らの力がオリンピック期間中にトップになるように計らってやるべきなのに、自分はそれに失敗した、これが敗戦の原因だ」と。

監督が、選手たちを傷つけずに試合の結果を総括するとしたら、こんな風にいうしかないだろう。だが、これは公式的な見解であって、彼の本音は別の所にあるらしいのだ。彼は、主審の誤った判定に加えて、自軍の選手らがデータ無視の野球をしたから負けたと考えているのである。

審判員の誤審をあげつらっても、弁解にはならない。誤審による被害は、相手方にも及んでいるからだ。となると、星野監督が一番問題にしたいのは、自軍選手のデータを無視した行動だということになる。

NHKの番組は、スコアラーの活躍に多くの力を注いで報じている。スコアラーは、韓国チームとキューバチームに的を絞り、詳細なデータを集めて来ていたのだ。星野は選手がそのデータをキチンと頭に入れて戦っていれば、あれほど無惨な敗北を喫しなかったはずだと考えているのである。

NHKのスタッフは、星野のこうした判断にそって番組を制作している。

番組は、まず、初戦のキューバとの試合で、主審が如何にでたらめな判定をしていたか、そのため日本チームのダルビッシュ投手が如何に苦しんだかを紹介する。それから、データの問題に移り、テレビは「相手チームについては、全くデータ通りだった。選手たちが、そのスコアラーの努力を無にしてしまった」と無念そうに語る星野の表情を映し出す。そして、データがいかに正しかったかを映像付きで証明して行くのだ。

スコアラーはオリンピック前にキューバチームに付きっきりで、主力バッターの特徴を洗い出していた。そして最も警戒すべき某打者は高めの球に強いから要注意と警告していたのだった。それなのに、ダルビッシュ・里崎のバッテリーはその打者に高めの球を投げて点を取られている。反対に、データを頭に入れて打席に立った日本チームの四番打者新井は、韓国戦で2点ホームランを打っている。相手投手が、インコースを意識させておいてアウトコースにスライダーを投げることをデータによって予測していたからだ。

確かに、選手にも問題はあったかもしれない。しかし、やはり現場から離れていた星野の采配ミスが、大きいのである。

彼はテレビで岩瀬をストッパーとして繰り返し使った理由を、こう説明していた。

「岩瀬は一イニングだけなら、確実に抑えてくれるからだ」

一イニングだけなら大丈夫だというのは、星野が過去に受けた印象に過ぎない。しかし今年の岩瀬が調子を落としていることは、多くの関係者の知るところだったのである。

星野は又、故障者を入れ替えなかったことについても苦しい弁解をしている。規約では、登録選手の変更を自由に行えるようになっているのに、彼は、「選手を信じてやらなきゃダメだ」という理由で、問題のある選手をそのまま北京に連れて行ってしまったのだ。彼はアジア予選で活躍した選手のイメージを忘れることが出来なかったのである。

短期決戦で勝利をしめるためには、現在時点で調子のいい選手を選び、要所要所で彼らを惜しみなく投入しなければならない。ソフトボールの監督は、上野投手に三連投を命じているのだ。だが、星野はダルビッシュを出し惜しむかと思えば、エラーの多い選手を使いつづけ、選手起用に一貫性がなかった。

これらは彼が実戦から遠ざかり、勝負カンに衰えが来ていたためと思われる。そして、同じような弱点を盟友の山本浩二、田淵幸一も抱えていたのである。

スポーツ紙記者によると、選手の不満はコーチ陣にも向けられていたという。田淵コーチに対しては、次のような批判が集中した。

「ミーティングで低目を振
るな、高めもボール球に手
を出すなとあれもダメ、こ
れもダメと消極的な指示ば
かりを出すので、選手が思
い切ってバットを振れなく
なっていった。打線が湿っ
た大きな要因は田淵コーチ
のこのネガティブ指示にあ
った」

山本コーチに対しても厳しい批判が寄せられている。

「守備位置の指示やシフトの変更などはほとんど宮本慎也主将(37)に任せきりで、三塁コーチに立ってもサインを出すタイミングが遅いために選手がイライラする場面が何度もあった」(以上は「週刊文春」の記事から)

田淵も山本も、コーチ、監督時代にはそれなりの実績を残している。だが、現場から離れていれば、カンが鈍り、危機への対応も鈍くなるのは致し方のないことなのだ。そして、こうしたカンの鈍った三名が「お友達内閣」を作って日本代表チームを率いたのである。

仲良しの友人というものは、あたりさわりのない欠点については互いに助言することがあっても、相手の急所に触れるような批判はしない。友情が永続するのは、相手に致命傷を与えるような批判を互いに慎んでいるからなのだ。

球界にあっては既に長老格になり、実戦から遠ざかっている星野らは、総監督というようなポストに退いて現場の指揮は別の人間に任すべきではなかろうか。星野仙一は、若い選手たちに一目置かれているというから、総監督として、例えばダルビッシュが同じホテルに愛妻を泊まらせているのを知ったら、「こらっ」と一喝するような役回りを引き受ければいいのである。

アメリカチームとの対戦中、日本チームの首脳陣は相手から三つのアウトを取っていることに気づかず、田中将大投手に投球を続けさせるという前代未聞の椿事を引き起こしている。

星野監督は、お友達内閣という批判に対して「お友達で何が悪い。仲がいいから、言いたいことを言い合えるんだ」と反論している。三人が、あわや「4アウトゲーム」をやりかけたことを考えると、星野監督の言葉もあまり説得力がないのである。

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星野仙一へのバッシング

<星野仙一へのバッシング>


金メダルを取ってくるとか、日本野球のレベルの高さを見せてくるとか豪語してオリンピックに臨んだ「星野ジャパン」は、思うような成績を上げられずに帰国した。すると、それを待っていたように星野仙一へのバッシングが始まった。

楽天の野村監督は、星野が山本浩二らの仲間をコーチに選んだときから、日本チームの敗北を予想していたと語り、投手出身の監督は一般に視野が狭いと付け加えている。某週刊誌は、星野らを「三バカ首脳」と呼び、「週刊朝日」は五輪で株を上げた人・下げた人の特集を行って、下げた人の筆頭に星野仙一をあげている。

だが、メダルを取れなかった責任が首脳部にあるのか、あるいは緊張のあまりガチガチになった選手にあるのか、ハッキリしていない。それで真相を確かめるべく、「週刊朝日」の関連記事を読んでみた。この週刊誌の見出しは、相当過激で、「ストップ安──星野はもう辞めろ!」となっている。

同誌によると、「週刊朝日」はすでに8月1日号で、このメンバーで勝てるのかと疑問を提出していたそうである。その理由として、同誌は次の理由をあげていたという。

(1)代表メンバーに負傷者が多いこと

(2)投手陣に先発タイプが多すぎること

(3)メンバーに星野の門下生である中日・阪神の選手が多いこと

(4)星野監督は短期決戦に弱く、日本シリーズに勝っていないこと

「週刊朝日」は、ほかにも専門家のあげる敗因を引用している。中日時代、星野監督の下で投手コーチをつとめた山田久志は、「中継ぎ専門の投手が、1〜2名は必要だった」と語り、中日OBの谷沢健一は、「星野さんは、自分のいうことを聞く選手を選んでいる。彼の意のままに選手が動いてくれるという傲慢な考えがある」と指摘している。

小学生にもわかる星野采配の過ちは、岩瀬投手を二度抑えに起用してその都度失敗したこと、エラーを続ける外野手を交代させず、結局彼に致命的な失策をさせてしまったことの二つだろう。これについて星野は、あれが自分の野球の方程式だったから仕方がないという意味の弁明をしている。

彼は韓国メディアが岩瀬の起用について質問したときにも、「それが私のやり方ですから」と答えている。星野監督が自分のスタイル、自分の方程式を大事にするのは結構なことである。だが、それらが通用しないと分かってからも、なお、星野方式に固執したとしたら、それは信念ではなく単なるわがままに過ぎない。

大体、コーチにその道の専門家ではなく、自分の友人や子飼いの選手を選ぶのは自信のない証拠なのだ。その事例は星野監督だけにとどまらない。「長嶋ジャパン」のコーチは巨人軍時代の長嶋の配下達だった。もう少し、古い話では、巨人軍監督だった水原茂は、友人をコーチに選び、以後、東映、中日に移籍するときにもこの仲間を引き連れて動いている。

プロ野球の監督として本当に実力のあったのは、水原に巨人軍監督の地位を奪われて九州の弱小チーム西鉄ライオンズの監督になった三原脩だった。彼はコーチに頼ることなく、作戦から選手管理まで、いっさいを独力で行った。西武ライオンズの広岡達朗も実力派の監督だったが、彼もお仲間や配下を作らず、自分ひとりの判断でチームを動かしていた。
政界を見ても、政治家には二つのタイプがある。

安倍前首相は、仲間に囲まれていないと安心できないタイプの政治家だった。それで閣僚を任命するに当たって忠実な仲間を選び、「お友達内閣」にしたため大臣のスキャンダルが相継ぎ、結局失脚してしまった。これに反し、小泉純一郎は仲間や同志を持たない一匹狼の気楽さから、一本釣りで閣僚を選び、その閣僚が問題を起こせば即刻別の人間に入れ替えた。

自分のまわりに取り巻きや仲間からなる小グループを作るのは、外社会の厳しい批判に耐えられない弱さがあるからなのだ。いわば、グループは外圧から身を守るシェルターであり、この中で仲間は相互の欠点や失策は許し合って居心地のよい小世界を形成しているのである。そして、その結果は外の世界が見えなくなるという悲劇に帰着する。

シェルターの中で身を守り、外の世界に盲目になれば、世間での自分の評判が気になる。安倍晋三は少しでも自分に不利なニュースが流れると、マスコミに抗議して名誉毀損の訴訟を起こすと脅しをかけていたという。「週刊朝日」には、星野仙一に関する次のような記事が載っている。

大手スポーツ紙のある記
者はため息交じりで、こう
話す。
「週刊誌に星野批判が
出ると、『誰が情報を漏
らしているんや』と番
記者相手に犯人捜しを
始めるんです」

とはいえ、大相撲の世界と同じように、人材不足という点ではプロ野球の世界も同様である。星野仙一には、いましばらく球界を背負って活躍してもらわなければならないだろう。そのためには、党派性を捨て、仲良しグループから踏み出て、球界を無私の目で眺める必要がある。今回の失敗は、星野仙一にとっていい薬になることを希望する。

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かわいそうな中国人

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<かわいそうな中国人>


月刊誌「文藝春秋」は、新たに芥川賞の受賞者が決まると、その受賞作品を掲載している。今回の受賞者は楊逸という中国人女性だということなので、文藝春秋を買ってきて読んでみた。

まず最初に、受賞作品「時が滲む朝」を読んだ。それから選評に目を通してみる。

選評欄の最初に石原慎太郎の名前の出ている。石原慎太郎は作家として休業状態にあるし、専業作家だった頃にも大した作品を残していない。こうした人物を芥川賞の選者にして、彼の批評を選評欄の筆頭に置いているところに(「到着順」ということになっている)、雑誌社としての計算があるように思われる。あざとい話である。

そして中国人女性の作品を受賞作に選んだこともまた、雑誌社の販売戦略と無縁ではないという気がするのだ。もし選者たちに、それとなく雑誌社の希望が伝えられていたとしたら、これもあざとい話である。

選者の黒井千次は、この作品について、「他の候補作とは質の異なる作品である、との印象を受けた。それは古めかしいともいえそうなリアリズムの作風のためもあるが・・・・」と述べ、長編小説向きの素材を中編小説の中に押し込んでしまったところに構成上の無理があると指摘している。

他にも厳しい見方をしている選者がいる。宮本輝はこの作家の表現があまりにも陳腐で大時代的である点に難があるといい、小川洋子は主人公の苦悩が内側に深まってゆかないことを指摘している。

私の読後感もだいたいこれらと同じだった。この作家の資質が、「純文学」に向いていないらしいことは、描写が時に講談本のように粗くなることでも分かる。

今日の新聞に天安門事件の思い出を書いた辺見庸の文章が載っていた。

「眼をつぶると、まぶたに人の海原がうかぶ。50万をゆうにこす人々が天安門広場を埋めつくし、渦まき、あふれ・・・・地鳴りのような歓呼の声をあげる。大地が揺れた。空もどよめいた。・・・・無量無辺をまのあたりにして足がすくんだ」

この辺見の文章に比べると、楊逸の天安門広場についての描写は低調である。

<天安門広場は全国から集まってきた学生で埋め尽くされて
いる。自由に憧れる学生たちの思いを象徴して人民英健記念
碑の傍に自由女神が立てられた。人生の1シーンを記録しよ
うと、学生たちは貪欲に甘先生のカメラを使いまわし、教科
書の挿絵でしか見たことのない名所に自分の姿を納めようと
した。>

彼女の作品では、主人公の天安門広場での体験が重要なキーポイントになるはずだったのに、肝心の部分をこんなふうに簡単に通り過ぎて、「あっという間の二日間であった」と次の場面に移ってしまうのだ。

彼女の資質は「大地」を書いたパール・バックを思わせるから、この作品も思い切って引き延ばせば面白いものになったかもしれない。

作品そのものにはあまり感心しなかったが、受賞者インタビューの方は面白かった。

作者は日本人の友人から、「あなたのような経験をしたら、もうとっくに自殺しているよ」といわれるような苦難に満ちた人生を歩んできたのである。そして、こうした苦難は彼女だけのものではなく、中国人全体が共有して来たものなのだ。

中国の近・現代史を少しでも読めば、思わず、「なんと言うことだ」と歎声をもらさざるを得なくなる。それほどに中国の民衆が味わってきた苦難は、深刻だったのである。

──私の中国に関する最初の記憶は、「支那という国は、馬賊の横行している国なんだな」ということだった。当時小学生だった私の頭にも、馬賊の頭目、馬占山・張作霖などの名前はしっかり焼き付いていた。満州事変以前の中国には、これら馬賊上がりの軍閥らが割拠し、まるで日本の戦国時代のように陰惨な勢力争いを繰り返していたのだ。

そこに蒋介石が登場する。

蒋介石は各地の軍閥を次々に撃破していって、中国統一の最終段階で二つの敵にぶつかる。一つは、中国東北部に進出して満州国を作り上げた日本軍部であり、もう一つは中国西北の延安地区に拠点を設けた毛沢東率いる共産党政権だった。

蒋介石の国民党は日本軍部と対抗するために共産党と手を結び(「国共合作」)、日本の敗北後はその共産党と熾烈な内戦を展開することになる。そして、国民党は共産党に敗れて台湾に逃れるのだ。

長い間分裂状態にあった中国は、中国共産党の手でようやく統一される。数十年にわたって民衆を苦しめてきた戦争は終わった。しかし、中国の民衆は、中国共産党の支配下で、新たな苦難の道を歩むことになる。

毛沢東の展開した大躍進政策は無惨な失敗に終わり、2000万人から5000万人の餓死者を出したといわれる。そして文化大革命では、下放政策によって学生や知識人がすべて農村に追いやられた。文化大革命が始まった時には、「時が滲む朝」の作者は、それまで住んでいたハルピンの家から追い出され黒竜江省の片田舎に下放されている。父が大学で文学を教えていたからだった。

一家が下放されたのは厳寒の一月だった。が、現地に着いてみると与えられた家にはドアも窓もなかった。一家はこのバラック同然の吹きさらしの家で、零下30度の寒さに耐えねばならなかった。

三年半の下放を終えてハルピンに戻ってきたが、以前の住居に住むことは出来ず、一家は高校の教室で暮らすことになる。早朝、一家が急いで食事してそれぞれ職場や学校に出かけると、その教室で登校してきた高校生が授業を受けるのだ。そして高校生が下校するのを待って、家族は教室に戻り、夕食を食べ就寝するのである。

そんななかで楊逸は高校を卒業してハルピン大学に入学する。大学4年の時、留学ビザの申請をすると許可が下りた。日本には、母方の伯父が家族を連れて渡航していたので、そこから日本の学校に通うことになる。伯父の家に行ってみると、家族は皆働いていた。楊逸は到着した翌日から三人の従姉妹の働いているプラスティック工場で勤務することになる。昼間は日本語学校に通うので、工場勤務は夕方5時からだった。彼女は朝の8時まで働いていたから労働時間は一日15時間になった。

日本語が使えるようになると、楊逸は中華料理店や焼肉店、歯医者や会社に雇ってもらえるようになった。

中国で学生達を主体に民主化運動が始まったのは、日本に来てから二年目のことだった。彼女はテレビで天安門広場が学生達の解放区のようになっていることを知ると、どうしても一度北京に行きたくなった。思い立つと、実行しないではいられないのが彼女の性格であった。北京に飛んだ彼女は、目指す広場で数日を過ごしたが、軍による武力鎮圧の現場には居合わせていない。楊逸が一旦、ハルピンの実家に戻り、それから中国を旅行している間に天安門広場での流血事件が起きたからだった。

日本に戻った楊逸は、勤めている会社で知り合った日本人男性と結婚している。そのすぐ後でお茶の水大学を受験して合格しているのだから、結婚するとしても、もう少し慎重に考えて行動した方がよかったのだ。だが、彼女は親に、「何にも考えないで行動するから怖い」と言われ、自分でもそのことを認めているような娘だった。彼女は学生の身で、間もなく二人の子供を産むことになる。

大学を卒業した彼女は、中国語新聞社に就職する。新聞社では文芸欄を担当し、投稿を手直ししたり、自らの作品を新聞に載せたりしていた。この頃から、夫との関係がうまく行かなくなり、相手が離婚に応じてくれないので家を飛び出し、公団住宅の抽選に当たって住まいを確保してから二人の子供を引き取っている。

楊逸が日本語で小説を書くようになったのは、自分が会社勤めに向かないと感じるようになったからだった。小さな子供もいることだし、家で出来る仕事をしたい。となると、作家になって小説を書いて暮らすのがベターだということになったのである。

小説を書くとしたら、日本人の読者に受けるような作品にしなければならない。そこで彼女は日本人男性と中国人女性の集団見合いの話を思いついて、二週間で、「ワンちゃん」という作品を書き上げる。それを「文学界新人賞」に応募すると入選して、芥川賞の候補作にもなるのだ。

二作目の「時が滲む朝」は、三ヶ月かけて書いた。前作は日本人読者を面白がらせる意図をもって書いたが、今度は自分の本当に書きたいことを書いたのだった。

楊逸は「受賞者インタビュー」の中で、日本人と中国人の違いを問われて、「日本人はみな真面目で、何でも重く受け止めすぎる」と答えている。そして、自分を含めて中国人は神経が太いというのか、無神経というのか、日本人が自殺するような場面でも平気でいるという。確かに、近・現代の中国史を読めば、中国人はタフであり、楊逸の経歴を見れば彼女もまたタフである。中国人をかわいそうだと思うのは、日本人の考えすぎであり、重く受け止めすぎるためなのだろうか。

しかし、作家として「神経が太かったり、無神経だったりすること」はどんなものだろうか。彼女の作品には筆力の強さや構成の確かさがあるけれども、デリケートなもの、ユニークなものが欠けているように思われる。それも国民性の違いだろうか。

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吠える外人、泣く邦人

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                       (石井慧選手)

<吠える外人、泣く邦人>


この年になると、オリンピックも慣れっこになって、TVでオリンピック放送を見るのも食事時だけになる。それも、日本選手が優勢に戦っているときだけに限られ、日本が負けているときには、すぐチャンネルを変えてしまうのだ。

そんなTVの見方が変わったのは、「星野ジャパン」がキューバと戦うのを観戦している時だった。日本の敗色濃厚なこの試合を見ているうちに、ふと、落ち着いて勝負を見届けようという気持ちになったのだ。すると、その途端に、一喜一憂する気持ちが失せて、試合経過を審判員の目で見るようになっていた。そうやって虚心になって試合に目を向けていると、競技の本質がハッキリ見えてくるのだ。そして味方チームの弱点や作戦の誤りなども、素人にもちゃんと掴めるようになるのである。

TVを見ていて気になったのは、金メダルを取った日本人選手がほとんどすべて泣くのに対して、外人選手の多くは拳を天に突き上げて雄叫びをあげることだった。そういう場面をいくつか見ていると、一体、この違いはどこから来るのかと、考えこまずにはいられなくなる。

この謎を解くヒントは、柔道の鈴木桂治が敗れたときのコメントにあるような気がするのである。彼は記者の質問に答えて、こう言っていたのだ。

──今は何も残っていない。やり残したこともない。空っぽです。

──もう一度畳に上がっても、投げられるだけ。・・・・空っぽです。

彼は、何度も「空っぽです」という言葉を繰り返していた。

試合のあとで気持ちが空っぽになるのは、負けた選手だけではない、念願かなって金メダルを獲得した日本人選手もその後心が空虚になり、再び、やる気を出すまでに長い時間がかかるらしいのである。日本の選手は、大きな試合が終わると、勝っても負けても、心が空き家のようになってしまうのだ。

日本人選手にとって、オリンピックに出ることは相当な覚悟を要する非常事態なのである。日本人は情愛過多のウエットな社会で生きている。オリンピックに出るということになれば、周囲からの過度な激励で窒息しそうになる。人々から過剰なばかりの愛情を浴びせられていると、勝つか負けるかという試合の結果は当人の意識の中で単なる個人の問題では無くなってしまうのだ。

その点、欧米の選手たちはドライな個人主義社会に生きている。勝っても負けても、それは結局個人の問題で、基本的には周囲の人間とは無関係な問題なのである。だから、勝ったあとで、それをわが身に確認するため、併せて自分の勝利を他者に告知するため雄叫びをあげるのだ。

日本人選手は、周囲の過剰な期待に応えるために、積み木を積み上げるような努力を重ねる。毎日、少しずつ闘志を盛り上げ、ひるむ気持ちを押し殺し、血のにじむような練習を重ねて、自分を高みに追い上げて行くのである。そして選手達は積み上げた塔の頂点で競技に臨む。鈴木桂治は負けた後で、「僕は研究もしたし、体調も減量も、今日の自分は完璧だった」と語っている。だが、戦いが済めばそうやって積みあげた塔は崩れ去って、後に空き家のように空っぽになった心が残るのだ。

今日の新聞を読むと、女子レスリングで金メダルを取った伊調馨選手は、今後のことを問われて、「四年後のことは、今は考えられない。またこんな苦しい思いをするのかと思うと、目指しますとは言えない」と答えている。

日本人選手が、金メダルを手にして泣くのは、オリンピックに出るまでウエットな気分を押し殺し非日常な毎日を送っていたからだ。泣きたい気持ちを押し殺して頑張ってきた反動で、緊張がゆるんだ瞬間に思わず泣いてしまうのである。

日本人は、緊張解除・圧力回避の手段として行動に走ることをしない。顔で笑って、心で泣くというのが日本人の習性になっている。しかし柔道無差別級の石井慧だけは、日本人的な習性を持たない別格の選手と見られていた。彼は練習の虫で、両方の耳が原型を失ってしまうほどの猛練習を積んで、外国式のJUDOを身につけた選手だった。彼は一本勝ちを賛美する日本式柔道に反旗を翻して、「石井の柔道は汚い」といわれるような外国式柔道でのし上がってきたのだ。彼はこう言い放っている。

──柔道はルールのあるけんかだ。美しい技がいいなら、体操競技にいけよ。

──相手を反則に追い込んで(汚い勝ち方をしても)、勝ちは勝ちだ。

──何を言われようと、ヒールになろうと、自分の考えを貫いてきた。それが自分の強さだと思う。

こういう外人風のドライな石井選手も、優勝した瞬間には涙を流しているのである。

日本人のウエットな感情は骨の髄までしみこんでいるらしい。

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