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【群馬】

伝える差別の歴史 収容者の無念を忘れない

2008年8月29日

重監房の前にハンセン病回復者たちが建てた石碑=草津町で

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 「遺体は紫がかった黒っぽい色。干からびたカエルのように凍り付いて死んでいた」

 「独房の扉を開けたら、そこに頭があってびっくりした。扉に頭を押し付けて死んでいる。出たかったろう」

 「壁に頭をぶつけたように血が飛び、髪の毛を両手でつかんだまま絶命した人も。葬式も線香もなかった」

 草津町の国立ハンセン病療養所「栗生(くりう)楽泉園」に戦時中に存在した「重監房」。約十年前に同園で亡くなった高田孝さんの貴重な証言だ。ハンセン病回復者で、国家賠償訴訟全国原告団協議会長の谺(こだま)雄二さん(76)が生前に聴き取り、「日本のアウシュビッツ」と題した冊子にした。

 同園の患者五十年史「風雪の紋」も重監房の実態を伝える。収容者のうち二人が首つり自殺。五百三十三日間も監禁された人、十六歳で獄死した少年、子どもの教育不足や夫の罪を理由に収容された女性もいた。

 重監房は一九五三(昭和二十八)年、患者たちに知らされずに破壊された。谺さんは「患者は破壊を望んでおらず、相談されたら反対した」と述懐する。

 この時の悔しい記憶から、谺さんは重監房の復元を提唱。二〇〇四年、復元を求める約十万七千人の署名を厚生労働省に提出した。

 「ハンセン病問題基本法が運用され、来園者が増えると『なぜ回復者たちの生活は優遇されているのか』と新たな差別が生じる恐れがある。ここに、重監房と差別の歴史を知ってもらう意義がある」と谺さんは強調した。

 谺さんとともに重監房の復元運動に尽力し、「ハンセン病 重監房の記録」の著書がある新潟大医学部の宮坂道夫准教授(生命倫理学)は指摘する。

 「この場所で起きた事実を追体験できるような復元をそろそろ実現してほしい。歴史の重みを伝える重監房の礎石をあのまま残すのも一案だ。回復者たちは高齢者が多く、今のうちにさまざまな差別の記録も含めて進めておくべきだ」

 栗生楽泉園で取材を終え、最後に納骨堂に手を合わせた。故郷に葬られなかった千九百四十二柱の御霊。人間はどうして、同じ人間を差別するのか−。足が動かず、自問自答を重ねた。静寂の中からふと、無念の死を迎えた患者たちの叫びが聞こえてくるような気がした。 (菅原洋)

 

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