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【群馬】冬は氷点下十数度にも 15人が“獄死”した2008年8月28日
まるで忌まわしい記憶を消し去ろうとでもするかのように破壊されたコンクリートの礎石が残っていた。 この光景は、記者が学生時代に訪れた二カ所の戦争遺跡にあまりにも似ていた。ユダヤ人が大量虐殺されたポーランドのアウシュビッツ強制収容所跡、日本人が中国人を生体実験した中国・ハルビンの収容所跡。 礎石に立っていたのは「重監房」。草津町の国立ハンセン病療養所「栗生(くりう)楽泉園」の敷地内に存在した。重監房があったのは全国の療養所の中で唯一だった。 当時の記録によると、ここに一九三八(昭和十三)年から四七(同二十二)年まで、各地の療養所からも含めて九十三人が送り込まれ、うち十五人が“獄死”。八人は出所後に死亡したという。 「冬は氷点下十数度に下がるのに布切れみたいな布団だったから凍死が相次いだ。『態度が悪い』など不条理な理由で収容された人も少なくなく、収容者や獄死者はもっと多かったのでは」 同園のハンセン病回復者、鈴木幸次さん(84)は礎石に鋭い視線を向けた。鈴木さんは重監房で作業経験のある全国で二人という「生き証人」の一人だ。二十歳ごろ、収容者に数カ月間食事を運んだ。 ある朝−。一日でにぎり飯一つほどだけ、という食事を運んでいた時のことだ。独房の食器を出し入れする小さな扉から、収容者の手が伸び出た。 がい骨のようにやせ細った手。鈴木さんが「手を引っ込めないと渡せないよ」と繰り返しても、その手はもがき続ける。鈴木さんは気付いた。「狂っている」と。翌朝、看守から「その独房に食事を運ぶ必要がなくなった」と告げられた。 「人間扱いされておらず、自分もここに入れられたら狂い死ぬと実感した。ハンセン病患者として、そして重監房の収容者という“二重の差別”だ。ここで差別の重みを体感してほしい」 鈴木さんはこけむした礎石を踏み締めながら力を込めた。 ◇ 全国の国立ハンセン病療養所が持つ医療施設などを地域社会へ開放する「ハンセン病問題基本法」が六月に成立した。同法は「歴史的建造物の保存」と「歴史に関する正しい知識の普及啓発」も掲げ、開放の際に重要な前提も示している。この機会に、ハンセン病差別の象徴ともいえる重監房の歴史を問い直した。 (菅原洋) <重監房> 栗生楽泉園にあった監禁施設。同園の患者50年史「風雪の紋」などによると、当初は「特別病室」と呼ばれ、園内の隔絶した林の中に建てられた。広さ約108平方メートル。高さ約4メートルのコンクリートが覆い、独房は8室。一室の広さは、穴を開けただけで、ふたのない便所も含めて4畳半。出入り口は厚さ約15センチの鉄扉で閉じ、鍵は4重だった。
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