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北京五輪の銅メダル |
☆★☆★2008年09月05日付 |
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開催前は大揺れに揺れた北京オリンピック。振り返れば、ソフトボールをはじめ、日本選手の頑張りに何度、まぶたをぬらしたことか。そして、日本の女性たちのなんと強かったことか。 単純な疑問がわいた。 「なぜ、優勝者が金メダルで、準優勝者が銀メダル、三位の選手は銅メダルなのか」 “得意”のインターネットで検索してみた。しかし、応えてくれるサイトは一つもなかった。 近代オリンピックは一八九六年に古代オリンピック発祥の地・ギリシャのアテネで第一回大会が開かれ、今日に至っている。 記念すべき第一回大会の優勝者に贈られたのは金メダルではなく、実は銀メダルだった。準優勝者が手にしたのは銅メダル。三位の選手にメダルはなかった。 「金」「銀」「銅」のメダルは第二回パリ大会(一九〇〇年)から登場。第四回ロンドン大会(一九〇八年)の前年、国際オリンピック委員会総会で三種類のメダルの贈呈が正式決定された。 メダルの大きさや材質も決められている。オリンピック憲章によると、少なくとも直径は六十ミリ、厚さは三ミリ。一位と二位のメダルは銀製で、少なくとも純度は一〇〇〇分の九二五。また、一位のメダルは少なくとも六グラムの純金で金張り(または金メッキ)が施されていなければならない。 憲章にはなぜか、銅メダルの材質規程はない。 北京オリンピックでは金メダル以上に、さまざまな銅メダルが私には強く印象に残った。 男子レスリングの外国人選手。審判の判定を不服として、表彰式の最中に銅メダルを会場に置いて去り、メダルをはく奪された。 女子柔道五二キロ級に出場した十九歳の中村美里選手。初出場で見事、銅メダルを獲得した。しかし、その後のインタビューではニコリともせず、こう答えた。 「金メダルを狙っていたので悔しい。金以外は同じです」 帰国後、早速練習を開始した。 女子レスリング五五キロ級の吉田沙保里選手。涙にむせんだ二連覇の陰に“屈辱”の銅メダルがあった。一月の国別対抗戦ワールドカップで格下の米国選手に敗れ、公式戦連勝は119でストップ。その時の銅メダルを「悔しさを忘れないように」と自室に飾り、北京にも持ち込んだ。 “無念”の銅メダルもあれば、 ““歓喜”の銅メダルもあった。 朝原宣治選手率いる陸上四百メートルリレーと、北島康介選手が率いた競泳四百メートルメドレーリレー。トラック競技で男子初、競泳は二大会連続のメダル獲得に、選手は純心な少年の如く喜びを爆発させた。 競泳二百メートルバタフライの松田丈志選手。コーチと二十年かけてつかんだ師弟悲願の銅メダルに、 「これが自分色のメダルです」 と誇らしげに胸を張った。 銅メダリストたちが垣間見せた悔しさと喜び、そして安堵感。その裏には選手だけにしか分からない決意や努力、苦しみ、苦悩があったに違いない。 そして、女子レスリング七二キロ級の浜口京子選手。三位決定戦での会心の勝利を収め、一片の陰りもない輝くような笑みを見せた。 「浜口京子の笑顔は日本の太陽のようです!」 すかさず発したアナウンサーの一言に、私もジ〜ンときた。 二大会連続の銅メダルを手に浜口選手は再び、表彰台で喜色満面の表情。すると今度はかのアナウンサー氏、こう言ったものだ。 「浜口のおかげで、銅メダルもうれしそうです!」 この台詞には、銅メダルだけでなく、私までうれしくなった。 かくして、数ある名場面の中で、浜口選手の銅メダル獲得が私のベストシーンとなった。皆さんはどの場面が心に残りましたか。 それにしても、「金」「銀」「銅」の絶妙な色分けを一体、誰が考え出したのだろうか。(下) |
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世界の帆船も見たい |
☆★☆★2008年09月04日付 |
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大船渡港で開かれた「海フェスタ」は、帆船「日本丸」と豪華客船「飛鳥2」の共演もあり、あらためて船の美しさ、偉大さというものに魅せられた。 日本丸といえば、「登檣礼(とうしょうれい)」も見所の一つ。大船渡港から出航する際、乗員が帆桁にのぼり、見送りに来た人々に対して、登檣礼の儀式で応えた。 見送る人々を感動させるという、その登檣礼を見たかったが、海フェスタ会場の別の取材現場にいて、今回見られなかったことが、唯一心残りだった。 風をエネルギーとして運行する帆船は、最近では、原油価格の高騰もあり、さらには環境にも優しい、エコな乗り物として見直されているのだそうだ。 ところで、登檣礼だが、日本丸を所有する独立行政法人航海訓練所のホームページに、その起源についての記述がある。それによると、登檣礼のはっきりとした起源は明らかではないらしいが、十六世紀のイギリス海軍の記録に見られ、かなり古い歴史があるという。皇族の送迎、司令官や艦長の交代の際や出征、遠洋航海などに就く船に、敬意を表する礼式だった。 日本で最初に登檣礼が採用されたのは、昭和二十八年。日本丸が帆装復帰し、戦後初めての遠洋航海が企画された時に、各国の海軍礼式令や国際的慣習を調べ、これに準拠して初めて登檣礼も採用された。 訓練航海に出航する際の訓練生による登檣礼は、日本丸や、同じく帆船の海王丸での慣例となった。やり方は、安全を考えて、ヤード上に立つ方式からフートロープに立つ方式に、少し変えているのだそうだ。 帆船への興味がわいてくる。フランスのルーアンという港町では、世界各国の帆船を集めて開かれる「帆船まつり」があるという。 五年に一度開かれる、そのアルマダ・フェスティバルが、今夏、十日間にわたって開催され、期間中、一千万人以上の見物客が訪れたらしい。 その一大イベントを週刊誌が取り上げ写真グラフで紹介していたが、今から七十年以上前にムッソリーニの命で造られたというイタリア海軍の練習船「アメリゴ・ヴェスプッチ号」や、白鳥の異名があるブラジル海軍の練習船「シズネ・ブランコ号」など、四十隻もの帆船が集結したという。 写真で見ると美しい帆船が並び、ゴージャス感いっぱい。見物客でぎっしり埋まった港町のにぎわい。すごいことをやっている。記事によると、ルーアンの港町は、セーヌ川の水運を利用して発展したそうで、アルマダ・フェスティバルは一九八九年に始まり、今年で五回目。アルマダの名前は、十六世紀の帆船を主体とするスペインの無敵艦隊に由来し、大航海時代を思わせる帆船が世界中から集まるため、人気を呼んでいるのだそうだ。 帆船は、エコな乗り物としても見直されており、そのため今回の帆船まつりはエコ・アルマダと呼ばれるようになった――とか。 日本では、九州の長崎県で、二〇〇三年から長崎帆船まつりを開催しているそうで、六回目の今年も春に開かれた。「日本丸」「海王丸」など四隻ほどが参加し、期間中は五日間で二十五万六千人の来場者があったという。 海フェスタでは、港町の良さを実感した。大船渡港をアピールする方法として、帆船まつりの開催ということも、今後考えられるのでは。世界中の帆船も見てみたい。もし、実現したなら、世界中の帆船の登檣礼も見られるかもしれない。(ゆ) |
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「岩手型」の食育に期待 |
☆★☆★2008年09月03日付 |
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食育が、知育、徳育、体育と同等に教育の中核を占めるようになって久しい。先月、大船渡市で開かれた食育講演会を取材する機会があり、食育の大切さに思いを新たにした。 「食育基本法」(平成十七年六月成立)が施行されて三年が経つ。この法律は、食育によって国民が生涯にわたって健康な心身を培い、豊かな人間性を育むことを目的としている。 食育基本法の制定は、裏を返せば「一億総飽食」がもたらした「危険で貧しい食生活」が、日本人の心と身体を蝕んできたことに対する国の危機感の表れであり、食育推進計画はいわば健全な心身を取り戻すための“処方箋”とも言えよう。 では、食育への関心は国民の間でどれくらい高まっているのだろうか。内閣府が毎年行っている食育に関する意識調査の結果を見ると、「食育という言葉を知っていた人」は74%で前回より8・8%アップしている。 ただし、74%のうち「意味も知っている」と答えた人は41%に過ぎない。「言葉は知っているが、意味は知らない」「言葉も意味も知らない」を合わせると59%。ところが、食育に関心がある人の割合は75・1%と、全体の七割を超えているから、関心は高まっていると見ていい。 近年、国民の「食」をめぐる状況が変化し、その影響が顕在化している。例えば、日本の食料自給率は40%以下と、先進国中最下位であるにもかかわらず、宴会や買いすぎなどで廃棄する残飯の量は、一人年間百七十一キロ。日本全体では国連が飢餓に苦しむ国々に支援する食料に匹敵する量だという。 このように飽食は、平気でモノを無駄にし、欠食や偏食、不規則な食事などのわがままを募らせ、安全や栄養への無関心による健康障害を増幅させている。さらに、マナーや食文化を無視し、食卓での家族団らんを忘れさせたりと、数え切れない弊害をもたらしていることは確かだ。 食育の重要性がここにある。しかし、いくら国や自治体が躍起となっても、長い間飽食に慣れた日本人が一片の法律や推進計画で食習慣を変え、食に感謝するようになるとは思えない。国や自治体の努力とともに、家庭の自覚と学校、地域の協力が不可欠だ。 つい最近まで、食にかかわるしつけは、どこの家庭でも厳しかった。「米は、八十八の手がかかるのだから一粒でも無駄にするな」とか「食という字は、人に良いと書く。滋養が多いのだからよく噛んで食べろ」とか、「いただきますは、食材の命をいただくことへの感謝の言葉」など、こうした家庭での地道で長い努力が必要なことは言うまでもない。 ところが、昨今、生活時間の多様化や核家族世帯の増加などもあって、家族が楽しく食卓を囲むコミュニケーションの場が希薄になっている。先の食育講演会で講師を務めた岩手大学教育学部の菅原悦子教授は、「食育は家庭の問題と言うが、地域と学校が支援しないと家庭の食育は危ない」と言い切る。 食育の法制化を機に、今、全国の都道府県や市町村は、独自の食育推進計画を立てている。岩手県では、平成十八年六月に計画を策定。食育推進ネットワーク会議を設立し、岩手の特性を生かした「岩手型食育活動」を実践しているという。 「岩手型」と言うからには、他にはない独自の食育環境があるということ。菅原教授は▽全国有数の総合食料供給基地▽食の匠の県認定▽全国一多い食生活改善推進員―といった岩手の特性を生かした食育の推進を強調した。 このほかにも、本県では全県的な地産地消運動やグリーンツーリズムに代表される活発な農林水産業体験など、食育にかかわるさまざまな取り組みが行われている。飽食ならぬ「豊食」、豊富な食材と優れた人材を生かした岩手型の食育の展開に今後も期待したい。(孝) |
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引っ込んだ道理が戻った
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☆★☆★2008年09月02日付 |
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朝目覚めると雨の音。それが毎日のように続いている。梅雨の時期でもないのに、こんな長雨のロングランはわが人生に以前あったかどうか記憶にない。これはやはり異常気象の一つだろうか。 景気の方も不況のロングランで、日本だけではなく世界中がインフレ、デフレ、スタグフレーション(不況下におけるインフレ)などに悩んでいる。成長著しいブリックス(ブラジル、ロシア、インド、中国)も中休み状態で、それは株価に正直に表れている。 日経新聞によれば、一月〜八月の株式市場下落率は、上海の55・4%を筆頭に、インド、ロシアが28%台、ドイツ、フランスが20%台と主要二十市場ですべて下落した。 日本は14・6%で、米国とならんでまずまずのところだが、春頃までは主要市場全体が上り調子だっただけに、七月頃を頂点に下降傾向に転じたその原因を同紙は「世界的な景気減速への警戒感が高まり、投資マネーが株式市場から引き揚げはじめた」と分析している。 株式投資というものは元々元気なところへ向かう性質のものである。対象となる勢いのある国、市場、商品とはつまり儲かる可能性がそれだけ大というわけである。しかしサブプライムローン問題でケチのついた国々が元気を失い、これが悪い意味での相乗作用を働かせたことが投資マネーの行き場を失わせたというところだろうか。 あれほど過熱した原油先物市場も、やはり先行きに対する警戒感が生まれて引き揚げが始まった。これを受けて石油元売り各社も値下げに踏み切り、店頭価格も久しぶりに引き下げられてきている。 需給のバランスによらず先物市場に群がるハイエナたちによって原油価格が決まる異常さに泣かされ続けてきた消費国にとって、これは暗雲が晴れたようなものである。いずれこんな無茶がいつまでも続くわけがないと素人なりに考えていたらやはり一度引っ込んだ道理が元に戻った。 投資の経済アナリストの森永卓郎氏はこれを「原油バブル崩壊の兆し」と見て、その根拠に三つの兆候があるとしている。その一つとして同氏は、常識で考えられないような値段がついてもそれが長続きするわけがないと、いわば常識論でこのバブルが収束へ向かうことを予測している。実際その通りで、一バレル三ドルで生産される石油が百五十ドルになること自体が実体経済からあまりにも離れ過ぎているのである。その揺り戻しが出てきたと見るべきだろう。 原油高に泣かされ続けてきた日本の各産業も愁眉を開く時がきた。なにせデフレ基調が続き物が売れないという状態の中で、今度は原材料や光熱費が上がり、これが物価を押し上げて家計費を圧迫すれば物はいよいよ売れなくなるという二重苦を日本経済は強いられてきたのである。コストアップの一方の原因である原油価格が安定すれば、同じ土俵で相撲をとれる日本の真価が発揮されるようになるだろう。 こうして世界経済の流れを見ると、やはり実体経済を大事にすることが大事だなと痛感する。日本は周囲からの雑音など気にせず、ただひたすら、黙々と「ものづくり日本」の本道を歩むことだろう。「この道以外に我を生かす道なし」それが本当の日本の姿であろう。(英)
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続・北京オリンピックあれこれ |
☆★☆★2008年08月31日付 |
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「北京五輪が閉幕して一週間、十六日間はアッという間だった。欧米が会場地だとテレビの生中継は深夜から未明になるが、今回は日本との時差が一時間。仕事を終えて帰宅したあと、ゆっくり見ることができてよかった。中にはガッカリしたのもあったけど」 「ただ、水泳など競技によって午前の決勝があり、日中仕事を持つ多くの人たちがリアルタイムで見るのは無理だった。多額の放映権料を支払った米テレビ局の意向が働いたらしい。北京の午前はアメリカでは前日の夜。視聴率が稼げるゴールデンタイムという訳だ」 「五輪を見るのもカネ次第ということか。その割に米国は金メダルレースで中国に負けちゃった。中国は五十一、米国は三十六か。中国にとっての五輪は国威発揚と国家の威信をアピールする千載一遇の好機。金メダル数が何よりも優先したんだな」 「その点、中国にとっては大成功だったろうが、期間中はもとより閉幕後も世界の各方面から批判の声がひきもきらない。デモ容認地区での不許可、非公式大会選手の五輪会場使用や選手村入村などが明らかになり、その最たるものがメディア規制。大会前、報道の自由を約束したらしいが、開幕するとインターネットの制限など、すっかり反故にされ、かえって閉鎖性を世界に知らしめたな」 「それは予想されたこと。世界もそういう国なんだと見ていよう。もっとひどかったのは観客のマナー。バドミントン女子複で、世界一位の中国ペアを破った日本のスエマエ組が出場した三位決定戦。相手の中国ペアがスマッシュを打つたびに大歓声が上がったが、あれは声援じゃなく集団恫喝。結果はすっかり委縮した日本ペアの完敗。とてもスポーツとは呼べなかった」 「これは他の競技でもあって、バレーボールの日本戦もそうだった。日中間の不幸な歴史がそうさせるのかなと思っていたら、アーチェリー女子個人決勝の韓国選手への野次もひどかった。集中力を乱された彼女は的の中心を外し、中国選手に凱歌が上がった。気の毒なこと、このうえない」 「品性が第一のテニスでは、あまりの騒がしさにたまりかねた女子選手が観客席に『黙れ!』と叫んで物議を醸したとか。偏った声援と騒々しさを恥ずかしいとコメントする一部の中国人はいたけど、相手に敬意を払わない姿はみっともない。テレビ番組でスポーツジャーナリストが『中国は金メダル大国かもしれないが、スポーツ大国とは言えない』と指摘していた。スポーツマンシップなら日本の選手や応援団は銀か銅メダルぐらいには価するかな」 「そうかも。肝心の成績をメダルでみると金九、銀六、銅十の計二十五個。四年前のアテネに比べ、それぞれ七減、三減、二減の計十二個減。前回は金メダルを取った種目が何だったか覚えきれなかったが、今回は全部言えるほどの落ち込み。でも、アテネが出来過ぎで、世界のレベルが上がっている中、ソフトボールの素晴らしい金にみられるよう、メダル二十五個は大健闘との声が多い。ボクもそう思うな」 「でも柔道男子や体操男子個人、水泳女子などはもっとメダルが欲しかった。ガッカリしたのはマラソン。ケガで出られないとか、途中で故障したとか、疲労が蓄積したとか、練習のし過ぎを思わせるアクシデントの続出。補欠選手までケガとはね」 「ケガといえば野球の星野ジャパンもそうだった。采配をどうのこうの言う以前の話。新井は六月から骨折していたというし、川崎も満足ではなく、3敗を喫した岩瀬らメンバーの多くも調整不足に見えた。それらを総括した週刊誌は戦いぶりをケチョン、ケチョンにけなしていた。五輪前『金しかいらない』と大見えを切ったが、韓国、キューバ、米国に1勝もできず、四位に甘んじたから批判はしょうがないか。あまり大口をたたかず、控えめなのが日本人の肌に合っているんだね」(野) |
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必要が発明の母なら… |
☆★☆★2008年08月30日付 |
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「余の辞書に不可能の文字はない」の名言を残したナポレオン。三時間しか眠らなかったと伝えられる旺盛な行動力で、一時は欧州全土を飲み込む勢いだった。 一砲兵士官から身を起こし、類まれなる新戦法とフランス革命の混乱に乗じて皇帝にまで上り詰める。フランス国内では“英雄”、国外からは“侵略者”と呼ばれることになるが、後世への影響にはかなりのものがあった。 日本の民法にも反映されるほどの近代的な「ナポレオン法典」の制定をはじめ、国民軍の創設も業績の一つ。当時の軍隊は、貴族が所有する傭兵が中心とされるが、ナポレオンは徴兵制を採用。一声かければ、すぐ五十万の大軍を招集できる体制を作り上げた。 「人は右、車は左」の日本の交通ルールも、ナポレオンの影響とか。「いやぁ、映画って本当にいいもんですね〜」の名台詞を残した映画評論家の故・水野晴郎さんが、かつて大船渡市内で講演し、交通規制の由来を紹介したことがある。 人数の多いナポレオン軍の行軍に際し、大砲を積んだ車列が左側通行したことから、「砲車は左、兵は右」が交通の慣用になった。一方、ナポレオン軍と敵対したイギリスでは、盗賊の襲撃を避ける意味で馭者は馭者台の左側に乗り、馬車そのものは道路の右側を走らせていたことから「車は右、人は左」になったという。 英仏どちらの影響を受けるかで各国の交通ルールが決まっていったが、ナポレオンは隣国の圧力を受けていた立場を攻勢に回らせたことで英雄に祭り上げられたが、戦いの遂行に際してはかなりの苦心もしていた。 その気苦労のため、「三時間しか眠らなかったのではなく、三時間しか眠れなかった」という見方をするムキもあるようだが、全国に国力の充実に貢献する発明や発見を大募集していた。 実用化には至らなかったが、海戦では勝てないイギリスに対し、ドーバー海峡に海底トンネルを掘る案が出されたり、逆に空から攻撃するための案では気球兵養成のための航空学校まで設立をみた。 また、ナポレオンはエジプトなどに長期遠征したことからも、兵の食糧確保には腐心。このための保存食品開発に賞金を掛けていたところ、一八○四年になってパリの菓子職人フランソワ・アッペールが、瓶詰めの方法を発見したという。過熱したガラス瓶で密封殺菌するという発想で、見事賞金をゲットしたわけだが、まさに“必要は発明の母”となった一例だ。 ちなみに、瓶詰めに触発されて缶詰も発明され、保存食品は民間の食卓にも出回ることになる。しかし缶詰はフランスではなく、イギリスの水車大工ブライアン・ドンキンという人物による開発とされる。 必要が発明を生み出す原動力となるなら、さしずめ現代では何が要求されることになるだろう。一年足らずの間に二倍にまで高騰したガソリンの代替燃料がまず思い浮かぶが、これにはすでにさまざまな研究がなされているのでその実用化を待ちたい。 近年はまた、地球温暖化の影響によるものか、台風やサイクロン、ハリケーン、竜巻までが巨大化。国内でも、局地的なゲリラ豪雨も頻発するようになった。温暖化物質の削減に対する対策もさまざまなされているようだが、高度成長を達成した国と、これからそれを目指す途上国との思惑は必ずしも一致してはいないところに難しさがある。 医療分野においては、これまで考えられもしなかったような治療法が編み出され、国民の平均寿命の伸びに貢献しているが、地方の立場で何が必要かを考えた場合には「活性化策」という四文字になる。 これに対しては発案者に賞金を用意するだけでなく、住民も三時間睡眠生活で考えなければならない課題だと思う。もっとも、本当にそんな生活を送ったら“解決策の発明”前に倒れてしまうことになるが、気持ちだけはそのぐらいでないと…。戦時以上の人口減が進む地方衰退の荒波が生半可なものでないことだけは胆に銘じておきたい。(谷) |
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俊足になる魔法の“靴” |
☆★☆★2008年08月29日付 |
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「日本の選手でもあんなユニホームを着るのね」という母の声でテレビに目を向けてみてぎょっとした。北京オリンピックの陸上競技の中継で映し出された女子の選手たちの大胆な露出。上半身はぴっちりしたランニングシャツを胸下で切ったような形で、ヘソどころか胸囲下部のあばらもむきだしの姿に驚いた。風や空気抵抗を極力なくすためと思案したが、選手の活躍だけでなくユニホーム、身に着ける用具や備品にも目を奪われた人も多かったのではと思う。 頂点を目指すスポーツ選手たちは装備品、用具で記録が大きく左右される場合がある。選手の能力を最大限に引き出すため、各国のスポーツメーカーや企業の開発者がしのぎを削っている。より速く、強く、美しくなど、世界レベルで、その道のプロとして記録に対するこだわりの力だ。 しかし、身に着けるもので好記録を出そうとするこだわりは、今ではごく普通の子どもにまで及んでいる。運動会で少しでも速く走れるようにと開発された運動靴「瞬足(しゅんそく)」が市場に出回り大ヒットしている。減速しやすいトラックのコーナーでも強く踏み込んで走れるよう、力の掛かる左側に重点的にスパイクをつけた左右非対称の靴底が特徴。この他にも「直線勝負」という直線での走りを重視した靴もある。子ども用運動靴は千円から二千円程度で買えるが、この“足の速くなる靴”は約二千五百円。すぐ足が大きくなり頻繁な買い換えが必要な子ども用の靴、痛い出費に繋がりそうな若干高めの値段だ。 オリンピックも子どもの運動会も、国や家庭のお財布事情で記録に差が出てしまうのか?しかし足の速さだけでいえば、一足五百円未満で手に入る魔法のような“靴”がある。これを提言したら陸上競技界を揺るがす事態になるのではと妄想が膨らむが、筆者が知っている魔法の“靴”――それは足袋。運動靴の代わりに祭足袋といわれる薄いゴム底が付いた足袋を履くだけで、足が速くなるのだ!とだけ言っても説得力がないため、実体験を一つ。 小学生のとき。陸上部で定期的に記録を計測していたが、四百メートルリレーで成績が前回よりも縮まなかった際、ある『罰ゲーム』が監督の先生によって下された。 「よーし、お前ら、“カッパ”になってもう一度走れ!」 そう言われ渡されたのが薄いゴム底の付いた足袋。そんなの履いて走るなんてダサい!心底そう思ったが、監督の言うことは絶対なので、皆で履いた。半袖短パンに足袋という変てこな格好で恥ずかしかったが、不思議と高揚感がわき、再度計測にのぞんだ。 実際に走ってみると土を踏みしめる感触が足裏により伝わる上に、足がすごぶる軽く空回りしそうなくらいだった。走っている友達を見ると、足元の白い足袋が際立ち、びたびたと足音が聞こえてくる。確かにその姿はカッパだと思いながら笑いがこみ上げた。 そしてゴールするや否や、計測係に駆け寄ってタイムを見ると前回より0・8秒ほど縮んでいた。要因は足袋のほどよい拘束感と底の薄さが地面の正しい蹴り方を体に覚えさせる、そして足元の軽量化と羞恥心の相乗効果で一歩の幅が広がったためではと思い返す。 しかし足袋で走ればより速くなるのは体験していても、大会本番で足袋になる子はいなかった。自分自身も学校指定の軽い運動靴で出場。足袋は練習用でやっぱり恥ずかしい姿、本番用とは別物と思い込んでいた。だが一人だけ、本番も足袋で走った子がいた。百メートル、二百メートル走、リレーにも足袋で出場し、上位入賞を収めていた。 ピストル音とともに飛び出す白い足袋、その姿に会場も騒然となったのを覚えている。勝ちたい、好記録を出すぞという思いがずば抜けていたその子の姿は、数々のトップアスリートの歴史的瞬間以上に心の中に残っている。(夏) |
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アラサーの音楽生活 |
☆★☆★2008年08月28日付 |
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頭の中にふっと、音楽が流れてくるときがある。勝手に『脳内BGM』と呼んでいるが、それはTVドラマ水戸黄門の「あゝ人生に涙あり」であったり、「笑点」や「きょうの料理」のテーマ、アニメ「忍者ハットリくん」、NHK大河ドラマ「篤姫」のテーマだったりする。 このほかにも、サビだけ聴いた好きなアーティストの新譜、お笑い番組で見た歌ネタと、ジャンルは幅広い。頭の中をぐるぐると駆けめぐっては離れず、口ずさんでみたり、実際に聴かなければ気が済まないときもある。 子どものころはテレビのドラマや歌番組から流行曲を覚え、加えて中学から学生時代にかけてはラジオも頻繁に聴いた。耳にしたメロディーの数々は、たまに忘れつつも自らの記憶として蓄積され、脳内BGMとなっていくのだ。 数年前まではカセットテープやCDを何度も繰り返して聴き、“一曲の重み”を感じていた。時代を経て、CDやインターネットの音楽配信サイトから音源を収録できる携帯用音楽再生機を手にしてからは、形態が変わった。CDを買う機会が減り、耳にする音楽は数日から一カ月ほどで移り変わっていく。聴き込むものと、そうでないものの差が大きくなった。 さらに最近、新曲より昔の曲に魅力を感じるのが顕著になってきた。毎年、年に何度かやって来る「昔の曲ブーム」だが、今年はいつもと違う気がする。 始まりは先月、以前から聴きたかった平松愛理の曲を入手したことだった。十数年前のヒット曲を耳にして、懐かしさと当時は感じなかった歌詞のリアリティーに、時の流れを感じていた。 続いて、新曲をきっかけに徳永英明のカバーアルバムを聴いた。そこで最も気に入ったのが、「恋におちて―Fall in Love―」。歌も編曲も素晴らしいのだが、ここまでくると本家を聴かずにはいられない。さっそく音源を入手し、聴いてみた。 原曲の「恋におちて」は一九八五(昭和六十)年に小林明子が歌い、当時大ブームとなったドラマ主題歌としてヒットした。小学校低学年だった筆者は、この大ヒット曲がとても好きでたまらなかった。 サビ部分や二番の歌詞は英語というこの作品、まだ人生七、八年足らずの子どもには歌詞の意味が分かるはずもなく、英語ももちろん読めなかった。しかし、耳で覚えて歌うようになり、二十数年を経た今ではカラオケの十八番として欠かせなくなった。 当時、なぜ好きだったのかの理由は思い出せない。今回改めて聴いてみて、おそらくメロディーラインや歌声に魅了されていたんだと感じた。 小林明子を聴いてしまうと、「あの曲とあの曲も聴きたい」と、脳内BGMは昔大好きだった曲をどんどん流してくる。配信サイトやベスト盤、当時のヒット曲を収録したCDをチェックしては、さまざまな歌の良さをかみしめることになった。 なかでも興奮したのが、カルロス・トシキ&オメガトライブの「アクアマリンのままでいて」。ヒットした当時は関心が薄かったものの、無性に聴きたくなって耳にしてみると、メロディーラインや柔らかい歌声にすっかり圧倒されてしまった。お気に入りの一曲になり、繰り返して聴いている。 懐かしさで気分が高揚したり、落ちついてみたり。この昔の曲ブーム、もう少し、いや、ずっと続きそうな気もしてちょっと怖い。 アラサー(アラウンドサーティー、三十歳前後)の世代真っただ中。「歳をとるってこういうことなのかも…」と感じ始めたこのごろである。(佳) |
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守るべきもの、とは |
☆★☆★2008年08月27日付 |
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先日、久しぶりに会った同年代の友人と酒を飲んだ。お互い目が座り始めたころ、友人がうれしそうな表情で呟いた。 「子どもができて、守るべきものができた」 もっと上の年代が使うようなセリフのような気がしていた。あまりめでたくないが、ともに三十代として初めての夏であることを、しみじみと実感させられた。ふうん、と答えながら自分を振り返り、自宅内の光景を思い出した。 旧暦の七夕を迎えた今月上旬にかけ、居間に竹の枝を置き、飾りとともに家族一人ひとりが短冊に願いを記した。今年度における家族内での第一希望という意味もあり、大学受験成功を願った弟の短冊は、一番高い位置に吊した。 最近足でふんばるようになった七カ月の娘の分は「早く歩けるようになりますように」と、妻が代筆した。自分は娘の健康を願い、妻も似たような言葉を記した。 その時悩むことなくスラスラと書き、自分自身への願いを記さなかったことに気付いた。家に帰って残していた短冊を眺め、守るべきものがあるとは、こういうことに表れるのかな、と思った。 歌詞やドラマの一シーンなどによく使われるが、新しい挑戦を避ける言い訳に用いるような、消極的な印象もあった。失う物は何もない、と言い放つ積極的な人間の方が強いような気がしていた。 しかし、守り続けることと積極性は、変化の激しい社会において互いに共存する。例えば家電や自動車メーカーなど長年高い知名度を誇る企業は、国際化や収益性、モノの価値が変化する中、主力商品や販売スタイルを変えながら、変わらない信頼を得ている。 時代の流れに合わせて商品を開発し、その時代の消費者や社会に支持を得てきたことを重ねた結果が、何十年も変わらない確固たるブランド力として表れる。逆に今ある組織や得意とする分野を未来に残していくために、社名を変えて心機一転を図ることもある。 急速に進む社会変化への対応が求められている中で今、この地域にとって合併問題がある。住民にとって、行政組織は小さく、身近にあった方が便利である。しかし、その行政を維持するためには厳しい行財政運営、コスト増、人口減少、地域間競争といった変化にも向き合わなければならない。 合併によって新たに生み出されるものへの期待と、失われるものへの懸念の間で揺れる。地域や職域、個人によってその効果と不安はさまざまなだけに、市町の枠を越えた住民総意としての結論をまとめあげる難しさがある。 合併論議に将来へのまちづくりの姿が重要と言われるが、政治家ではない住民が明確なビジョンを描くことは簡単ではない。ならば、今ある足元を見つめ直すことも、将来を考える一歩となる。 今、地域や生活の中で未来に残し、守りたいものは何か。現状では、守りきれないものもある。守るものを守るには、それ以外の部分を変えなければならない。 合併する、しないの結論も大事だが、地域として、住民として守り、大事にしていくものを見出すことは、その地域の将来への戦略づくりにつながる。現状では、各市町同士でこうした議論を交えることが少ないように感じる。気仙、または各市町にとって、守るべきものとは何だろうか。 きっと十年、二十年が経過しても、友人や自分は守るべきものとして、我が子を挙げるのだと思う。そんな父親はいつまでも、今の姿のままでもいられない。父親らしくあるために、より責任ある行動も求められる。何より、子どもが日々成長し、変化を続ける。 守るべきものを守るとは、自分自身が変化し続けることを再確認する言葉であるのかもしれない。自ら住む地域が合併問題で揺れる中、守るとは変化への誓いであるとも悟りかけた、三十代最初の夏が過ぎようとしている。(壮) |
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下手の考え休むに似たり |
☆★☆★2008年08月26日付 |
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地球温暖化を防ぐには、二酸化炭素の排出量を抑えるのも大事だが、二酸化炭素そのものを吸収する環境づくりが同時進行しなければなるまいと、頼まれもしないのにあれこれとない知恵を絞っていたら、そこは世の中である。頭のいい人たちが沢山いて、色々な提案をしている。思わず恥ずかしくなってメニューボタンから「思考停止」を選んだ。わがメニューボタンには「思考」と「思考停止」の二つしかない。むろん「実行」ボタンなどあるはずがない。つまり「思考」とは「夢想」と同義なのである。 その「思考」ボタンを押して始めた夢想とは、地球上の陸地の四割を占める砂漠及び乾燥地帯を緑化するにはどうしたらいいか、それが実現したらいずれ地球規模で訪れるであろう飢餓時代の到来を防ぎ、温暖化などはたちまち雲散霧消できるだろうと考えてのことである。 たとえばサハラ砂漠である。米国と同じ面積を持つこの「死の大地」を肥沃な土地に変えるだけで地球は大きく蘇生する。だからこそ、その蘇生法を考えることは地球の危機を救うことにもつながる大発明なのだ。 そのためにはまず雨を降らせる必要があるが、中国政府が北京五輪の開会式を晴れにするため、何日か前にミサイルを発射して人工降雨を施し、雨を「一掃」したというような小規模な降雨術では役に立たない。 ここはサハラ砂漠に近い大西洋か地中海からパイプラインで海水を引き砂漠を湿地化させて水蒸気を蒸発させる必要がある。それが雨雲を呼び雨を降らせ、この循環を絶やすことなく続ければやがて木も草も生えてくるのは必定。しかし塩田にして塩を生産するのならともかく、森林あるいは農耕地にするためには塩害があってはならない。その塩抜きあるいは淡水化をどのように効率的かつ安価にできるか、これが最大のポイントとなる。しかしこのメガトン級、超弩級の発明がなれば、砂漠は一転して厄介者から救世主に変じ、日本を悩ませているゴビ砂漠、タクラマカン砂漠からの黄砂などもまったく飛来しなくなるのだ。 荒唐無稽のようだが、一大発明が生まれる素地というものは本人だけそう思っていないところにあるのだ。つまり一般が不可能と考えているものを可能にするからこそ、天才も発明王も生まれる。だが、単なる妄想狂の発想はそれとも異なる。えーと、まず地下に巨大な暗渠を造り、砂上に海水を撒布してそれを地下浸透させ、濾過して淡水化する。などと考えるのは実に楽しいものである。 しかし、世の中だから同じような発想の持ち主もいるのではないかとネットで検索してみると……やはり。構想規模において小生の案は決して劣りこそしないものの、その実用性、現実性、応用発展性そして何にもまして科学的説得力において到底太刀打ちできるものではない見事な論文を発見した。それは「サハラに植林するより漁場を造る方が確実だ」という意表をつく構想で、横浜在住の石田秀人という科学者の「風美海国」と題したホームページだった。 サハラに植林すれば、維持費用と淡水の製造エネルギー消費だけで温暖化が加速するだろう。しかし視点を変えればもっとうまい方法がある―という石田さんの説に思わず頭を垂れた。やめとけばよかった。 アフリカ西海岸には寒流が流れている。砂漠の中に海を造り、砂漠を回流させれば温度を上げた海流をつくり出すことができる。ここでサンゴの生育に適した環境を作ればそこに海中林が育ち二酸化炭素を吸収してくれるだけでなく、魚介類の宝庫となる。さらに掘った砂を海に運んで沖合に漁場を作ることもできる―となんとも構想雄大。 石田さんは、海の中に森をつくる様々な構想を持ち、その具体的な進め方などの知識と先見性にはただ驚くばかり。小欄で紹介するのは到底無理だから是非ホームページを見て頂きたいと思う。目からウロコが落ちるだけではない。こんなにも真剣にしかも真っ正面から取り組んでいる人がいるということにただただ脱帽。(英) |
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