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広島市で開かれたG8下院議長会議(議長サミット)で、一行が原爆慰霊碑への献花を終えて戻ろうとしたときのことだ。米国のナンシー・ペロシ議長はもう一度慰霊碑に向かい、胸の前で小さく十字を切った。
議長は、被爆地・広島を訪れた最も高位の米政治家だ。その胸に去来したものは何だったのだろう。一瞬の閃光(せんこう)に命を奪われた14万人への鎮魂への念だったのか。原爆を投下した自国にどんな思いを抱いたのだろうか。
広島と長崎への原爆投下をどう評価するか。これは日米間に深い亀裂のある問題だ。安保条約を結び、「価値観を共有する同盟」をたたえ合う両国だが、戦争と歴史の問題になると、繕いがたい傷口が開いている。
原爆により日本の降伏が早まり、双方で多くの人命が救われたというのが米政府の見解だ。一方、日本では、原爆がなくても早晩降伏したろうし、一般市民を無差別に殺し、生き残った人々にも深刻な放射線障害をもたらす兵器は人道上許されない、というのが国民感情である。
ただし、同盟関係に配慮する日本政府は「核兵器使用は国際法に違反するとまでは言えない」というあいまいな態度に終始している。
日米のねじれを露呈させたのが昨夏、当時の久間章生防衛相の「原爆投下はしょうがない」発言だった。それは米国の見解を中途半端に代弁し、被爆者の痛みを踏みにじるものだった。
それから1年後。G8議長サミットを広島に誘致した河野洋平衆院議長の思いは、どの国が悪いという責任論ではなく、「人類が同じ人類に対して非人道的な兵器を使用した事実」を直視することから、核軍縮を議論しようということだった。
ペロシ氏は会議終了後、短い声明を発表した。「広島訪問を通じて戦争の持つ破壊力をありありと思い起こし、すべての国が平和を促進してよりよい世界をつくることが喫緊の課題だと思いました」。彼女なりに、河野氏の問題提起に応えようとしたものだろう。
被爆者の間には不満もある。原爆投下への謝罪はなかった。米の核政策を転換し、核廃絶へ踏み出すわけでもない。だが、原爆正当化論が米国の多数派である中、この訪問の意義は大きいと考えたい。
ペロシ氏は民主党でもリベラルな立場で核軍縮にも積極的だが、下院を代表する議長としての訪問だ。米世論の批判を浴びるかもしれない。断行した勇気と見識に敬意を表する。
歴史評価はナショナリズムも絡み、不毛な言い合いに陥りやすい。正邪の二元論ではなく、少しでも互いの痛みを理解し合うことが必要だ。ペロシ議長が切った小さな十字を、その思いの証しとして記憶したい。
開催中のベネチア国際映画祭に多くの日本映画と映画人が参加している。
コンペティションには、北野武監督「アキレスと亀」と、2本のアニメーションが招かれた。ポーニョ、ポーニョ、ポニョ……の主題歌も楽しい宮崎駿監督「崖(がけ)の上のポニョ」と、押井守監督「スカイ・クロラ」だ。
宮崎監督は、子供たちを祝福することが混沌(こんとん)とした時代のよりどころになると考え、この映画を作ったという。押井監督は、「ショーとしての戦争」に駆り出される少年少女を通して、生きる実感が希薄な若者たちに、真実の希望とは何か、と問いかける。
現代日本文化の象徴ともいわれるアニメである。その代表的な監督2人の作品は海外の観客にも大きな刺激を与えることだろう。
今回のベネチアに限らず、このところ日本映画や映画人の海外での活躍が目立つ。共同製作や外国映画への出演のほか、日本映画がハリウッド映画にリメークされることも多くなった。
映画や音楽などの「コンテンツ産業」を振興するため、政府もこうした動きを後押ししている。映画祭に出品するための字幕の作成、国際的な見本市での作品紹介、海外との共同製作への援助、国際性を備えたプロデューサー育成など、様々な支援事業が始まっている。
世界に売り込める輸出産業として、政府が映画に力を入れるのはいいことだ。だが、気がかりなのは、映画のビジネス面ばかりに目を奪われて、芸術性や創造性を持った作り手を育てることが軽視されていないか、ということである。
映画を作る現場はいま、厳しい状況に置かれている。
日本映画の黄金時代といわれる1950〜60年代には、撮影所が監督や脚本家らを育てていた。おびただしい数の映画が作られ、産業として余裕があったから芸術的な実験もできた。そこから突出した才能を持った監督や腕のいい職人監督が生み出された。アニメでもそうで、若き日の宮崎監督は大手の東映動画で腕を磨いた一人だ。
だが、作り手を組織的に育てる場はどんどんやせている。それならば、一人ひとりの作り手を育てることに助成していく必要がある。
その際、大切なことは、監督や脚本家らが構想を十分に練ったり熟成させたりできる環境をどうやってつくるかだ。企画の検討・調査、脚本作りなどの地味な作業にこそ、長い目で見た公的な支援の仕組みがほしい。成果が測りにくいため、助成の公正さを点検する工夫が要るが、それをいとわないことだ。
そうしたきめ細かい支援で、今こそ映画作りの土壌を耕す手を打ちたい。それがいつか大きな果実に結びつく。