しばらく前のある新聞の投書欄で、印象に残る意見があった。その投書をした方は、ハイキングのガイドブック(山登りだったこもしれない)を見て出かけたが、どうもそのガイドブックの記述が間違っているらしいので、そのことを出版社に問い合わせた。そうすると担当の編集者から、「近いうちに執筆者といっしょに現地に行って調べます」という返事があったという。投書した人は、出版社がただちに「反応」してくれたことに喜んだのである。。
東京新聞8月12日の「発言欄」に、「理屈っぽい劇評は苦手」という女性の意見が載った。自分が観た舞台と、それについての劇評の差がありすぎ、また劇評そのものが難解でわからないという批判である。すると8月16日の東京新聞には、その劇評を担当している中村義裕氏の「発言」が掲載された。これは読者の批判的な意見に対して、新聞の編集者と演劇評論家がただちに「反応」したケースである。
別のところにも書いたことがあるが、私のひそかな楽しみは、辞書・事典をていねいに読んで、その誤りを出版社に知らせることである。川本三郎氏は、そういう手紙を「鬼首レター」と呼ぶのだと教えてくれたが、かつて私はかなりの「鬼首レター」の筆者であった。しかしこの「鬼首レター」によって私は、辞書・事典の編者の方々や編集者と知り合い、時には「執筆協力者」として私の名前を辞書に記して下さった編者の方もいる。少なくとも10年前まではそうした「反応」は当然のことであった。
ところが、最近になってどうもそういう「反応」がにぶくなってきたように思える。ピーター・ゲイは、アーネスト・ジョーンズの『フロイト伝』に代わる価値があるとされる『フロイト』(鈴木晶訳、みすず書房)の著者であり、四巻から成る『ブルジョアジーの経験』も重要な著作である。そのうちの一冊『快楽戦争』(富山太佳夫他訳、青土社)が訳出されたとき、私はすぐに買い求めて読んだが、その途中いくつかの誤記や誤訳ではないかと思われるところがあったので、青土社の編集者で、「旧知の」(私がそう思っているだけかもしれない)N氏あてに、少なくとも10回にわたって手紙・葉書を出したが、何の返事もなかった。訳者の富山氏からも連絡がなかったが、一度会ったことのある富山氏はきわめて礼儀正しい方であり、これはN氏から富山氏に連絡がなされていないと推測するほかはなかった。
それ以上に納得がいかないのは岩波書店のばあいである。大澤真幸氏の『不可能性の時代』(岩波新書)はたいへん面白い本であった。現代のさまざまなテクストを読み解いていくその方法にはたいへん感心した。その「あとがき」で著者が「ミネルヴァのふくろうは夕暮に鳴く」と書いているところで、私はこれはおかしいなと感じた。私はこういうこまかいところが気になる。「ミネルヴァのふくろうは夕暮に飛ぶ」ではないのか。私はその「愚問」を岩波新書編集部に送ったが、「ナシノツブテ」であった。
以前はそんなことはなかった。かなり前のことになるが、岩波文庫のベルクソンの訳について愚問を呈したところ、編集部のTさんという女性からていねいなお返事をいただいたことがある。岩波書店もかなり忙しく、人手不足になったのであろう。私といっしょに研究会のメンバーであったCさんは、切手を貼った返信用の封筒を添えて岩波書店に質問状を出したが返事がなかったという。いまや「無反応の時代」が来たのである。(2008年9月1日)
東京新聞8月12日の「発言欄」に、「理屈っぽい劇評は苦手」という女性の意見が載った。自分が観た舞台と、それについての劇評の差がありすぎ、また劇評そのものが難解でわからないという批判である。すると8月16日の東京新聞には、その劇評を担当している中村義裕氏の「発言」が掲載された。これは読者の批判的な意見に対して、新聞の編集者と演劇評論家がただちに「反応」したケースである。
別のところにも書いたことがあるが、私のひそかな楽しみは、辞書・事典をていねいに読んで、その誤りを出版社に知らせることである。川本三郎氏は、そういう手紙を「鬼首レター」と呼ぶのだと教えてくれたが、かつて私はかなりの「鬼首レター」の筆者であった。しかしこの「鬼首レター」によって私は、辞書・事典の編者の方々や編集者と知り合い、時には「執筆協力者」として私の名前を辞書に記して下さった編者の方もいる。少なくとも10年前まではそうした「反応」は当然のことであった。
ところが、最近になってどうもそういう「反応」がにぶくなってきたように思える。ピーター・ゲイは、アーネスト・ジョーンズの『フロイト伝』に代わる価値があるとされる『フロイト』(鈴木晶訳、みすず書房)の著者であり、四巻から成る『ブルジョアジーの経験』も重要な著作である。そのうちの一冊『快楽戦争』(富山太佳夫他訳、青土社)が訳出されたとき、私はすぐに買い求めて読んだが、その途中いくつかの誤記や誤訳ではないかと思われるところがあったので、青土社の編集者で、「旧知の」(私がそう思っているだけかもしれない)N氏あてに、少なくとも10回にわたって手紙・葉書を出したが、何の返事もなかった。訳者の富山氏からも連絡がなかったが、一度会ったことのある富山氏はきわめて礼儀正しい方であり、これはN氏から富山氏に連絡がなされていないと推測するほかはなかった。
それ以上に納得がいかないのは岩波書店のばあいである。大澤真幸氏の『不可能性の時代』(岩波新書)はたいへん面白い本であった。現代のさまざまなテクストを読み解いていくその方法にはたいへん感心した。その「あとがき」で著者が「ミネルヴァのふくろうは夕暮に鳴く」と書いているところで、私はこれはおかしいなと感じた。私はこういうこまかいところが気になる。「ミネルヴァのふくろうは夕暮に飛ぶ」ではないのか。私はその「愚問」を岩波新書編集部に送ったが、「ナシノツブテ」であった。
以前はそんなことはなかった。かなり前のことになるが、岩波文庫のベルクソンの訳について愚問を呈したところ、編集部のTさんという女性からていねいなお返事をいただいたことがある。岩波書店もかなり忙しく、人手不足になったのであろう。私といっしょに研究会のメンバーであったCさんは、切手を貼った返信用の封筒を添えて岩波書店に質問状を出したが返事がなかったという。いまや「無反応の時代」が来たのである。(2008年9月1日)
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