2008年09月02日
露草
うつり行く色をばしらず言の葉の名さへあだなる露草の花
露草は、花の色からアオバナ（青花）、包葉の形からボウシバナ（帽子花）とも言われる。また古名のツキクサ（月草・鴨跖草）は、露草を臼でついて染料として用いたことに由来する。『万葉集』に以下の歌ある。
月草に衣ぞ染むる君がため斑の衣摺らむと思ひて
露草には、青色色素のコンメリニンがふくまれており、花弁を使って作られた天然染料は、水に触れると色が消えるという性質を利用して、友禅の下絵に使われる。水に浸すと消えることから、露草色は、儚い消えやすいものの象徴とされる。
月草に衣はすらむあさつゆにぬれてののちはうつろひぬとも
宮沢賢治の『蛙のゴム靴』にも露草が出てくる。
松の木や楢の木の林の下を、深い堰が流れて居りました。岸には茨やつゆ草やたでが一杯にしげり、そのつゆくさの十本ばかり集った下のあたりに、カン蛙のうちがありました。
2008年09月01日
赤とんぼ
あんまり晴れてる 秋の空
赤い蜻蛉（とんぼ）が 飛んでゐる
淡（あは）い夕陽を 浴びながら
僕は野原に 立つてゐる
赤とんぼ（赤蜻蛉）は、トンボ目トンボ科アカネ属 Sympetrum に含まれる蜻蛉の総称である。日本には、約20種が生息しており、代表的なアカネとしては、ナツアカネとアキアカネがいる。最も代表的な赤とんぼはアキアカネで、初夏に羽化すると、山地に移動し、気温が下がると平地に移動するといわれている。
子規の句に以下のようなものがある。
赤とんぼ地蔵の顔の夕日かな 子規
ぼやけていて分かりにくいが、ちょうど子規の句のように、この赤とんぼの背後にも地蔵があった。赤とんぼは、蜻蛉の中でも最も親しまれており、この句の他にも沢山詠まれている。
うろたえな寒くなるとて赤蜻蛉 一茶
赤とんぼ筑波に雲もなかりけり 子規
肩に来て人なつかしき赤とんぼ 漱石
砂風の後に浮かぶや赤蜻蛉 百間
赤とんぼというと誰もが、 三木露風作詞、山田耕筰作曲の童謡「赤とんぼ」を連想するであろう。
夕焼け、小焼の、
赤とんぼ、
負われて見たのは、
いつの日か。
山の畑の、
桑の實を、
小籠に摘んだは、
まぼろしか。
十五で姐やは、
嫁に行き、
お里のたよりも、
絶えはてた。
夕焼け、小焼の、
赤とんぼ、
とまっているよ、
竿の先。
三木露風は、「赤とんぼのこと」という文章のなかで、この詩は小さいときの思い出を詠ったものだと語っている。
赤とんぼは、泉鏡花の遺作 『縷紅新草』において、重要なモチーフとなっている。この作品を書き終えた二ヶ月後に鏡花は永眠している。ちなみに縷紅草（ルコウソウ）とは、ヒルガオ科の蔓草で、葉は糸状に深く裂け、夏、濃紅色の美しい花を咲かせる。
話にききとれていたせいではあるまい、お米の顔は緋葉（もみじ）の蔭にほんのりしていた。
「……もう晩（おそ）いんでしょう、今日は一つも見えませんわ。前の月の命日に参詣（おまいり）をしました時、山門を出て……あら、このいい日和にむら雨かと思いました。赤蜻蛉の羽がまるで銀の雨の降るように見えたんです。」
「一ツずつかね。」
「ひとツずつ？」
「ニツずつではなかったかい。」
「さあ、それはどうですか、ちょっと私気がつきません。」
三島由紀夫は、『縷紅新草』について、「鏡花の一生の仕事はこのやうな淡い白昼夢にすぎなかつたかもしれないが、白昼夢が現実よりも永く生きのこるとはどういふことなのか」と問いかけたうえで、「私は世阿弥が理想としたあの真の花を思い出すのである。」と述べている。
これ真に得たりし花なるが故に、能は、枝葉も少なく、老木になるまで、花は散らで残りしなり。これ眼のあたり、老骨に残りし花の証拠なり。
2008年08月31日
サギソウ
サギソウは、花の形が鷺の飛ぶ姿に似ていることからこの名がつけられた。もともと湿地に自生していた植物だが、観賞用としてよく栽培されている。最近は、育成地が破壊され、野生のものは減っているそうだ。
こうしてみると、本当に、鷺が飛んでいるような形をしている。僕は、鷺というと宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の以下の場面を思い出す。
「あすこへ行ってる。ずいぶん奇体（きたい）だねえ。きっとまた鳥をつかまえるとこだねえ。汽車が走って行かないうちに、早く鳥がおりるといいな。」と云った途端、がらんとした桔梗いろの空から、さっき見たような鷺が、まるで雪の降るように、ぎゃあぎゃあ叫びながら、いっぱいに舞いおりて来ました。するとあの鳥捕りは、すっかり注文通りだというようにほくほくして、両足をかっきり六十度に開いて立って、鷺のちぢめて降りて来る黒い脚を両手で片っ端から押えて、布の袋の中に入れるのでした。すると鷺は、蛍のように、袋の中でしばらく、青くぺかぺか光ったり消えたりしていましたが、おしまいとうとう、みんなぼんやり白くなって、眼をつぶるのでした。ところが、つかまえられる鳥よりは、つかまえられないで無事に天の川の砂の上に降りるものの方が多かったのです。それは見ていると、足が砂へつくや否や、まるで雪の融けるように、縮まって扁べったくなって、間もなく熔鉱炉から出た銅の汁のように、砂や砂利の上にひろがり、しばらくは鳥の形が、砂についているのでしたが、それも二三度明るくなったり暗くなったりしているうちに、もうすっかりまわりと同じいろになってしまうのでした。
『銀河鉄道の夜』の世界では、この鷺は、「チョコレートよりも、もっとおいしい」お菓子なのである。鳥取りが、ジョバンニ達に分けてやるために、扁べたくなった鷺の足をかるくひっぱると「チョコレートででもできているように、すっときれいに」離れてしまうという場面も印象的だった。
2008年08月29日
山田正紀 『イノセンス After The Long Goodbye』
山田正紀による押井守監督『イノセンス』のノベライゼーションである。僕は、文庫本が出ているのを知らなかったので単行本を買ったのだが、現在では絶版である。Ａｍａｚｏｎのユーズド商品では、文庫本で読めるのに、何故かプレミアがついている。『イノセンス』は、95年に公開された『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』の続編であり、2004年に劇場公開されている。『GHOST IN THE SHELL』は、士郎正宗の原作を映画化したもので、米ビルボード誌のビデオチャートで一位を獲得し、一躍、押井守の名を世界的なものにした。この作品が、ウォシャウスキー兄弟にインスピレーションを与え、映画『マトリックス』が生まれたのは有名な話である。
山田正紀は、押井守とほぼ同世代の作家で、ＳＦをはじめ冒険小説、ミステリーなど幅広いジャンルで活躍している。代表作は、『神狩り』、『弥勒戦争』、『神々の埋葬 』、『宝石泥棒』、『ミステリ・オペラ 』等がある。また最近、『神狩り』の続編、『神狩り 2 リッパー』が出版され話題となった
一般的知名度は、今一つかもしれないが、実力的には申し分のない、日本を代表するＳＦ作家である。学生時代、ＳＦ作家になりたかったという押井守は、山田正紀のデビュー作『神狩り』を読んで、衝撃をうけ、その夢を諦めたという。
この作品は、従来のノベライゼーションとは異なり、映画『イノセンス』の前日譚となっている。巻末の対談で、山田は、「押井さんが、自由に書いてもかまわないと言ってくれたので、ひさしぶりに照れずにハードボイルドが書けたと思います。」と語っている。夢ではじまり、夢で終わるという洒落た構成になっている。
おれには家族はいない。友人もいなければ女もいない。相棒だった少佐もいまはもういない。おれにはバセットハウンドのガブリエル（ガブ）しかいない。それなのに夢のなかでは息子がいた。おれは夢のなかの息子が好きだった。ガブや少佐と同じぐらいの好きだった。夢から覚めれば消えてしまう息子のはずなのに。
僕は、この出だしを読んでこの本を買った。この物語は、2032年の日本を舞台にしている。人々は、電脳化され、直接ネットワークに繋がっている。主人公のバトーは、公安九課に所属する刑事で、義体（サイボーグ）化されている。バトーは孤独な存在で、 少佐（素子）が去ってしまった後、彼にとって大切な存在は、愛犬のガブだけであった。しかし、ある時、ガブは消え失せてしまう。ガブを求めて、バトーの孤独な捜査がはじまる。突如出現する所属不明の戦車、愛されている犬だけが大量にさらわれているという街の噂、そして謎のテロリスト、、、。
前半の説明が少し長いが、次第にテンポアップしていく。『GHOST IN THE SHELL』を見ていないと分かりにくいところが欠点だが、面白く読めた。ストーリー的には、シンプルな構造だが、「魂」をめぐる興味深い対話が、挿入されている。バトーは、犬の魂を感じることができる不思議な少女キリに語りかける。
「おれはガブという名前のバセットハウンドを飼っていた。そのガブがどこかに行ってしまった。ある人が、おれの電脳が初期化されたために、ガブはおれの魂を見失ってしまったのだろうと言った。おれにはそれが真実かどうか判断できない。そもそも魂などいうものがあるのかどうか、そのこと自体がわからない。だが、おれは・・・・・」
「いいよ」そのとき少女がおれの言葉をさえぎったのだった。目に見えない空に向かって小鳥が羽ばたくようにすばやく──「わたし、そのガブというイヌを探すのを手伝ってあげる。」
少女は、バトーに言う。
「ありがとう」唐突にキリが礼を言った。
「なにが」おれは面食らう。
「あなたはガブのことを愛している。おかげでわたしはガブの魂を抱くことができた。わたしのなかの霧が晴れた」
おれはあいかわらず面食らっていた。面くらいながらも言った。「礼を言うのはおれのほうさ」
「その人にも会えるといいね」
「え？」
「あなたの魂のなかにはガブ以外にもう一人いる。あなたはその人に会いたいと希っている」
「その人に・・・・・」
「大丈夫、きっと会えるよ」
─（中略）─
「大丈夫だよ、きっと会えるよ。だってあなたはそんなにもイノセンスなんだから」
このおれがイノセンス？まさか・・・・・
キリは、少ししか出てこないが、印象的な少女である。イノセンスな少女キリは、犬の魂とふれあうと、それまで、彼女の中で曇っていた霧が晴れるのだという。巻末対談によると「この小説では魂をもっているのは犬、それも愛情を受けて飼われた犬」だけで、人間は魂を持っていないという。また、山田は、士郎正宗の原作では、「魂らしき生命固有のものを『ゴースト』というタームで表記しているので、ぼくはそれに敬意を表して、あえて魂、『ソール』と別な表現をしました」と語っている。 この作品は、未来の電脳社会を舞台にしたＳＦアクションであるが、ある意味、魂をめぐる物語でもある。
山田正紀は、押井守とほぼ同世代の作家で、ＳＦをはじめ冒険小説、ミステリーなど幅広いジャンルで活躍している。代表作は、『神狩り』、『弥勒戦争』、『神々の埋葬 』、『宝石泥棒』、『ミステリ・オペラ 』等がある。また最近、『神狩り』の続編、『神狩り 2 リッパー』が出版され話題となった
一般的知名度は、今一つかもしれないが、実力的には申し分のない、日本を代表するＳＦ作家である。学生時代、ＳＦ作家になりたかったという押井守は、山田正紀のデビュー作『神狩り』を読んで、衝撃をうけ、その夢を諦めたという。
この作品は、従来のノベライゼーションとは異なり、映画『イノセンス』の前日譚となっている。巻末の対談で、山田は、「押井さんが、自由に書いてもかまわないと言ってくれたので、ひさしぶりに照れずにハードボイルドが書けたと思います。」と語っている。夢ではじまり、夢で終わるという洒落た構成になっている。
おれには家族はいない。友人もいなければ女もいない。相棒だった少佐もいまはもういない。おれにはバセットハウンドのガブリエル（ガブ）しかいない。それなのに夢のなかでは息子がいた。おれは夢のなかの息子が好きだった。ガブや少佐と同じぐらいの好きだった。夢から覚めれば消えてしまう息子のはずなのに。
僕は、この出だしを読んでこの本を買った。この物語は、2032年の日本を舞台にしている。人々は、電脳化され、直接ネットワークに繋がっている。主人公のバトーは、公安九課に所属する刑事で、義体（サイボーグ）化されている。バトーは孤独な存在で、 少佐（素子）が去ってしまった後、彼にとって大切な存在は、愛犬のガブだけであった。しかし、ある時、ガブは消え失せてしまう。ガブを求めて、バトーの孤独な捜査がはじまる。突如出現する所属不明の戦車、愛されている犬だけが大量にさらわれているという街の噂、そして謎のテロリスト、、、。
前半の説明が少し長いが、次第にテンポアップしていく。『GHOST IN THE SHELL』を見ていないと分かりにくいところが欠点だが、面白く読めた。ストーリー的には、シンプルな構造だが、「魂」をめぐる興味深い対話が、挿入されている。バトーは、犬の魂を感じることができる不思議な少女キリに語りかける。
「おれはガブという名前のバセットハウンドを飼っていた。そのガブがどこかに行ってしまった。ある人が、おれの電脳が初期化されたために、ガブはおれの魂を見失ってしまったのだろうと言った。おれにはそれが真実かどうか判断できない。そもそも魂などいうものがあるのかどうか、そのこと自体がわからない。だが、おれは・・・・・」
「いいよ」そのとき少女がおれの言葉をさえぎったのだった。目に見えない空に向かって小鳥が羽ばたくようにすばやく──「わたし、そのガブというイヌを探すのを手伝ってあげる。」
少女は、バトーに言う。
「ありがとう」唐突にキリが礼を言った。
「なにが」おれは面食らう。
「あなたはガブのことを愛している。おかげでわたしはガブの魂を抱くことができた。わたしのなかの霧が晴れた」
おれはあいかわらず面食らっていた。面くらいながらも言った。「礼を言うのはおれのほうさ」
「その人にも会えるといいね」
「え？」
「あなたの魂のなかにはガブ以外にもう一人いる。あなたはその人に会いたいと希っている」
「その人に・・・・・」
「大丈夫、きっと会えるよ」
─（中略）─
「大丈夫だよ、きっと会えるよ。だってあなたはそんなにもイノセンスなんだから」
このおれがイノセンス？まさか・・・・・
キリは、少ししか出てこないが、印象的な少女である。イノセンスな少女キリは、犬の魂とふれあうと、それまで、彼女の中で曇っていた霧が晴れるのだという。巻末対談によると「この小説では魂をもっているのは犬、それも愛情を受けて飼われた犬」だけで、人間は魂を持っていないという。また、山田は、士郎正宗の原作では、「魂らしき生命固有のものを『ゴースト』というタームで表記しているので、ぼくはそれに敬意を表して、あえて魂、『ソール』と別な表現をしました」と語っている。 この作品は、未来の電脳社会を舞台にしたＳＦアクションであるが、ある意味、魂をめぐる物語でもある。
2008年08月28日
朝顔
朝顔を何は悲しと思ひけむ人をも花はさこそ見るらめ
僕は、青い花が好きである。宮沢賢治の「オホーツク挽歌」に以下のような印象的な一節がある。
海面は朝の炭酸のためにすつかり銹びた
緑青（ろくしやう）のとこもあれば藍銅鉱（アズライト）のとこもある
むかふの波のちゞれたあたりはずゐぶんひどい瑠璃液（るりえき）だ
チモシイの穂がこんなにみじかくなつて
かはるがはるかぜにふかれてゐる
（それは青いいろのピアノの鍵で
かはるがはる風に押されてゐる）
あるいはみじかい変種だらう
しづくのなかに朝顔が咲いてゐる
モーニンググローリのそのグローリ
雫のなかに咲く朝顔という美しいイメージが詠われている。英語で、朝顔のことを“morning glory”と呼ぶが、賢治が「モーニンググローリのそのグローリ」と表現しているように、朝顔には、“glory”というイメージがふさわしい。特に青い朝顔には。
朝顔から話題が外れるが、青い花というと、 ノヴァーリスの『青い花』を連想する。ノヴァーリスの青い花は、現実には到達できない永遠の理想を象徴している。また、ミランダ ブルース‐ミットフォード の『サイン・シンボル事典』によると、「空と水の色である青は、平静・塾考・知性を象徴」し、「無限を表し、全生命の生まれる空間」でもある。また、ラピスラズリについては、以下のように書かれている。
メソポタミアでは天国を象徴し、神殿の天井装飾に、エジプトでは神々像を飾るために使われた。一方西洋では、メランコリア（憂欝質）と熱の治療剤とみなされた。中国では、視覚を象徴し眼病の治療に用いられた。
このように、青には聖なるイメージが存在する。
青い朝顔ではないが、朝顔の変わった夢を見たことがある。その夢では、朝顔の杯というイメージが出てきた。 下から朝顔を見上げてみると、そのイメージも満更でもないような気がしてくる。与謝野晶子に「朝顔の花」という詩がある。
朝顔の花、めでたくも
百千（もゝち）の色のさかづきに
夏より秋を注（つ）ぎながら、
飽くこと知らで日にぞ酔（ゑ）ふ。
2008年08月20日
思想心理学教育講座 第十回 「できるだけ自惚れよ」
自惚れというものがまるでなかったら、この世に対して楽しみはありますまい。自分が日本一の美男子だと思っていれば、毎日が幸福でたまらないし、日本一の美女だと思っていれば毎日をウキウキした気持ちで送れるでしょう。顔のほうで自惚れをあきらめた人は、知能やら名声やら、別の方へ自惚れを移すわけで、病人は病人なりに自惚れをもち、サナトリウムでは重症患者が幅を利かせ、犯罪者も自惚れの塊であって、大罪を犯した者の悔悟のお芝居には、すぐ裏に自惚れがまつわりついています。
昔の人は自惚れ効果、自惚れの利用法についてよく知っていました。「葉隠」というのは有名な武士道を説いた堅苦しい本ですが、
「武勇ということは、我は日本一と大高慢にてなければならず」
とか、
「武士たるものは、武勇に大高慢をなし、死に狂いの覚悟が肝要なり」
とかのべています。
謙遜というのは実りのない果実である場合が多く、また世間で謙遜な人とほめられているのはたいてい偽善者です。ある大学教授は文章の中で、自分のことを、「私ごとき一介の老書生」とか、「哀れな一語学教師」とか書く趣味がありますが、誰がこれを本当の謙遜だと思うのでしょうか。
「実るほど頭の垂るる稲穂かな」などという偽善的格言がありますが、実れば実るほど頭が重くなるから垂れてくるのが当たり前で、これは本当は、「実る故頭の垂るる稲穂かな」と直した方がよい。高い地位に満足した人は、安心して謙遜を装うことができます。
自惚れとは、ひとつの楽しい幻想、生きるための幻想なのですから、実質なんぞ何もいりません。あくまでも主観的問題ですから、他人の評価など別に要りません。もちろんそれがあれば、自惚れの裏付けを得ることになって、それに越したことはないが。
自惚れ屋にとっては、他人は皆、自分の自惚れのための餌なのであります。
恋愛から自惚れを差し引いたら、どんなに味気のないものになってしまうことでしょう。「恋人どうしが一緒にいて少しも退屈しないのは、始終自分たちのことばかり話しているからだ」とラ・ロッシュフコウが言っているのはもっともで、恋人以外の他人に向かって、自分の話をしたって、うるさがられるに決まっている。そしてどんな恋人どうしも、自分たちのことをロミオとジュリエットみたいだと思いこそすれ、夢にも、「破れ鍋に綴蓋」だなどとは思っていません。
自惚れ屋の長所は、見えん坊に比べて、ずっと哀れっぽくないことです。たとえば、見えん坊は、絶えずウソをつき、ありもしない別荘の自慢をしたり、高校しか出ていないのに早稲田大学を出たという顔をしたがり、もってもいない自動車をもっているふりをしたりします。こんなウソはすぐばれるもので、ばれた時のみじめさはひとしおである。なぜなら、見えん坊は、いつも自分の持っていないものを意識して、それを糊塗として、背伸びをしているわけですから、自惚れ屋のようにからっと行かず、じめじめしているのです。
自惚れ屋は、何でもかんでも自分が持っていると信じているんだから、陽性です。仕様のない自惚れ屋というものはどこか痛快で、憎めません。彼はうそつきではないのです。これに反して、謙遜な人というのはたいていうそつきです。私はこの陰性の自惚れ屋が嫌いです。陽性の自惚れ屋のぴか一で痛快なのは、何といっても今は亡き岡本太郎氏でしょう。彼の自惚れには、全く人を楽しませる要素があります。岡本氏はだれにでも、「俺はピカソ以上の画家だ」と公言していました。
しかしセンスのない人たちは、依然、謙遜家の猫かぶりに傾倒するものです。
代議士は、センスのない人たちを大勢相手にする商売ですから、謙遜という猫をかぶってペコペコしますが、同じペコペコでも、女優や俳優の愛嬌にかなわないのは是非もない。
しかし私はこういう処世術のことを言っているのではないのです。精神衛生の問題として、何か自惚れをもっていれば、滅多に病気にもかからない、ということを言いたいのである。
女性のたいていの病気は、街であった見知らぬ女が、自分と同じ洋服を着ていて、しかもそれが自分より似合っており、自分より美人だった、などという発見から生まれる。女性がこういう目に続けて二、三度会えば、寝ついてしまうに決まっています。その時、
「何だ。私のまねをしているわ。似合いもしないくせに」
と本気で言える自惚れがあれば、病気にかかる心配もありません。
男の病気もまた、会社であいつは確かに俺よりできる、俺より出世が早そうだ、課長に先になるのはあいつに決まっている、などという僻みから生まれ、肝臓を悪くしたりするのです。
「何だ、あの野郎、俺の爪の垢でも煎じて飲みやがれ」
と本気で思える自惚れがあれば、へっちゃらです。何も自信を持てというのではない。自信は実質を伴う厄介な資格である。誰でもなかなか本当の自信など持てるものではない。しかし自惚れなら、気持ちの持ちよう次第で、今日からでも持てるのです。
「あたしの鼻はどうしてこう低いんでしょう」
と思うより、
「あたしの鼻はなんてかわいらしい形をしているんでしょう。アメリカの整形美容って、みんな高すぎる鼻を削ってるんだってね」
と思う方がいい。しかしこの自惚れにもやはり他人のご追従が、裏付けとして必要になり、他人という社会というものが、我々の必需品である理由はそこにあります。
昔の人は自惚れ効果、自惚れの利用法についてよく知っていました。「葉隠」というのは有名な武士道を説いた堅苦しい本ですが、
「武勇ということは、我は日本一と大高慢にてなければならず」
とか、
「武士たるものは、武勇に大高慢をなし、死に狂いの覚悟が肝要なり」
とかのべています。
謙遜というのは実りのない果実である場合が多く、また世間で謙遜な人とほめられているのはたいてい偽善者です。ある大学教授は文章の中で、自分のことを、「私ごとき一介の老書生」とか、「哀れな一語学教師」とか書く趣味がありますが、誰がこれを本当の謙遜だと思うのでしょうか。
「実るほど頭の垂るる稲穂かな」などという偽善的格言がありますが、実れば実るほど頭が重くなるから垂れてくるのが当たり前で、これは本当は、「実る故頭の垂るる稲穂かな」と直した方がよい。高い地位に満足した人は、安心して謙遜を装うことができます。
自惚れとは、ひとつの楽しい幻想、生きるための幻想なのですから、実質なんぞ何もいりません。あくまでも主観的問題ですから、他人の評価など別に要りません。もちろんそれがあれば、自惚れの裏付けを得ることになって、それに越したことはないが。
自惚れ屋にとっては、他人は皆、自分の自惚れのための餌なのであります。
恋愛から自惚れを差し引いたら、どんなに味気のないものになってしまうことでしょう。「恋人どうしが一緒にいて少しも退屈しないのは、始終自分たちのことばかり話しているからだ」とラ・ロッシュフコウが言っているのはもっともで、恋人以外の他人に向かって、自分の話をしたって、うるさがられるに決まっている。そしてどんな恋人どうしも、自分たちのことをロミオとジュリエットみたいだと思いこそすれ、夢にも、「破れ鍋に綴蓋」だなどとは思っていません。
自惚れ屋の長所は、見えん坊に比べて、ずっと哀れっぽくないことです。たとえば、見えん坊は、絶えずウソをつき、ありもしない別荘の自慢をしたり、高校しか出ていないのに早稲田大学を出たという顔をしたがり、もってもいない自動車をもっているふりをしたりします。こんなウソはすぐばれるもので、ばれた時のみじめさはひとしおである。なぜなら、見えん坊は、いつも自分の持っていないものを意識して、それを糊塗として、背伸びをしているわけですから、自惚れ屋のようにからっと行かず、じめじめしているのです。
自惚れ屋は、何でもかんでも自分が持っていると信じているんだから、陽性です。仕様のない自惚れ屋というものはどこか痛快で、憎めません。彼はうそつきではないのです。これに反して、謙遜な人というのはたいていうそつきです。私はこの陰性の自惚れ屋が嫌いです。陽性の自惚れ屋のぴか一で痛快なのは、何といっても今は亡き岡本太郎氏でしょう。彼の自惚れには、全く人を楽しませる要素があります。岡本氏はだれにでも、「俺はピカソ以上の画家だ」と公言していました。
しかしセンスのない人たちは、依然、謙遜家の猫かぶりに傾倒するものです。
代議士は、センスのない人たちを大勢相手にする商売ですから、謙遜という猫をかぶってペコペコしますが、同じペコペコでも、女優や俳優の愛嬌にかなわないのは是非もない。
しかし私はこういう処世術のことを言っているのではないのです。精神衛生の問題として、何か自惚れをもっていれば、滅多に病気にもかからない、ということを言いたいのである。
女性のたいていの病気は、街であった見知らぬ女が、自分と同じ洋服を着ていて、しかもそれが自分より似合っており、自分より美人だった、などという発見から生まれる。女性がこういう目に続けて二、三度会えば、寝ついてしまうに決まっています。その時、
「何だ。私のまねをしているわ。似合いもしないくせに」
と本気で言える自惚れがあれば、病気にかかる心配もありません。
男の病気もまた、会社であいつは確かに俺よりできる、俺より出世が早そうだ、課長に先になるのはあいつに決まっている、などという僻みから生まれ、肝臓を悪くしたりするのです。
「何だ、あの野郎、俺の爪の垢でも煎じて飲みやがれ」
と本気で思える自惚れがあれば、へっちゃらです。何も自信を持てというのではない。自信は実質を伴う厄介な資格である。誰でもなかなか本当の自信など持てるものではない。しかし自惚れなら、気持ちの持ちよう次第で、今日からでも持てるのです。
「あたしの鼻はどうしてこう低いんでしょう」
と思うより、
「あたしの鼻はなんてかわいらしい形をしているんでしょう。アメリカの整形美容って、みんな高すぎる鼻を削ってるんだってね」
と思う方がいい。しかしこの自惚れにもやはり他人のご追従が、裏付けとして必要になり、他人という社会というものが、我々の必需品である理由はそこにあります。
2008年08月16日
韓国の歴史は五千年かぁ（嘆息）
昨日の東亜日報の社説を見ていたら「高句麗が消えた」とあり、「高句麗」という呼び名は変だなと思って読んでみた。変だなというのは、高句麗という呼称は日本史の用語ではないかと思っていたからだ。もちろん、翻訳の彩かもしれないのだが。
話を読んで、正直なところぶったまげた。うっ、これがマジなのかぁという感じだ。ことの説明は私がヘンテコにまとめるより引用から進めよう。
世界の有名インターネットサイトが、韓国の歴史の起源を、新羅が三国を統一した時点にあたる、西暦６６８年として紹介しているというニュースだ。民族的な憤りとともに恥ずかしさを覚えずにはいられない。檀君王倹（タングンワンゴム）から始まった５０００年の歴史が、僅かに１３００年あまりに縮小され、歴史上、我が民族の最も誇らしい国家だった高句麗が、一瞬にして「消え去った王国」となったわけだ。
率直にいってそのサイトがどこなのか知らない。しかし、韓国の歴史の起源を新羅による統一とすることはそれほど間違った見解だとは私は思わない。ただ、そういうためには、日本の起源を近江朝に置くとしなければフェアではないが。と、いいつつ余談だが昭和天皇は天皇家の成立を七世紀と認識していたし、今上天皇も同じように考えているようだ。天皇家に「と」が入っていないというのは国民として助かりますですぅ。
ぶったまげたのは「檀君王倹五千年」である。え？マジ？東亜日報って北朝鮮の報道機関？それって確かに「紀元は二千六百年（歌ってしまいそ）」より古いですなぁ、って洒落にもならん。なんか、そんな話を新聞社説に載せるようだと、およそ対話の前提もありません。すごすごと引き下がる耳っていう感じだ。まぁ、韓国の国定教科書にも檀君が歴史のように記載されているのは知っているのだが、それってマジとは思ってなかったのですがねぇ。
というわけで、檀君に至っては議論の余地もないのだが、話は別展開で面白い。
中国は最近、高句麗史を中国史の一部に編入するため「東北工程」というプロジェクトを進めている。５年間莫大な予算をかけて、高句麗が中国辺境の少数民族が建てた地方政権であり、中原の政府に代ってその地域を委譲、統治した割拠政権であったということを立証するというのだ。中国は、昨年ユネスコが北朝鮮の高句麗古墳を世界文化遺産に指定するのを妨害し、高句麗が満州一円を掌握したことを立証する決め手となる「物証」の、広開土王（好太王）碑と、集安一円の高句麗古墳に対する大掛かりな整備に乗り出したのも、この事と無関係ではないだろう。
ほほぉっていう感じだ。「高句麗が中国辺境の少数民族が建てた地方政権」のどこがいけないのだとかツッコミそうなるが、ヤバイのだろうか。って、ヤバイってことになったら学問の自由は無いぜ。中国側の歴史解釈なんか別にほっとけばいいじゃないかと思うが、檀君が許さないのか。高句麗史を明確にすることは中国に恥かかせることなんで、そのあたりにキリ入れたほうがいいと思うのだが…。
他にも知らなかったことがある。
学界もまた、この２０年間１０００本を超える論文を通じて高麗と渤海史を中国史と主張してきた中国に対応して、十分な史料の発掘と対応論理の開発を急がなければならない。
そりゃ中国がむちゃくちゃ。
古代史なんて日本だと「と」と無能な学者のたまり場だと思ったけど、いやぁ日本ばかりじゃありませんねぇとくさしてどうする。
話を読んで、正直なところぶったまげた。うっ、これがマジなのかぁという感じだ。ことの説明は私がヘンテコにまとめるより引用から進めよう。
世界の有名インターネットサイトが、韓国の歴史の起源を、新羅が三国を統一した時点にあたる、西暦６６８年として紹介しているというニュースだ。民族的な憤りとともに恥ずかしさを覚えずにはいられない。檀君王倹（タングンワンゴム）から始まった５０００年の歴史が、僅かに１３００年あまりに縮小され、歴史上、我が民族の最も誇らしい国家だった高句麗が、一瞬にして「消え去った王国」となったわけだ。
率直にいってそのサイトがどこなのか知らない。しかし、韓国の歴史の起源を新羅による統一とすることはそれほど間違った見解だとは私は思わない。ただ、そういうためには、日本の起源を近江朝に置くとしなければフェアではないが。と、いいつつ余談だが昭和天皇は天皇家の成立を七世紀と認識していたし、今上天皇も同じように考えているようだ。天皇家に「と」が入っていないというのは国民として助かりますですぅ。
ぶったまげたのは「檀君王倹五千年」である。え？マジ？東亜日報って北朝鮮の報道機関？それって確かに「紀元は二千六百年（歌ってしまいそ）」より古いですなぁ、って洒落にもならん。なんか、そんな話を新聞社説に載せるようだと、およそ対話の前提もありません。すごすごと引き下がる耳っていう感じだ。まぁ、韓国の国定教科書にも檀君が歴史のように記載されているのは知っているのだが、それってマジとは思ってなかったのですがねぇ。
というわけで、檀君に至っては議論の余地もないのだが、話は別展開で面白い。
中国は最近、高句麗史を中国史の一部に編入するため「東北工程」というプロジェクトを進めている。５年間莫大な予算をかけて、高句麗が中国辺境の少数民族が建てた地方政権であり、中原の政府に代ってその地域を委譲、統治した割拠政権であったということを立証するというのだ。中国は、昨年ユネスコが北朝鮮の高句麗古墳を世界文化遺産に指定するのを妨害し、高句麗が満州一円を掌握したことを立証する決め手となる「物証」の、広開土王（好太王）碑と、集安一円の高句麗古墳に対する大掛かりな整備に乗り出したのも、この事と無関係ではないだろう。
ほほぉっていう感じだ。「高句麗が中国辺境の少数民族が建てた地方政権」のどこがいけないのだとかツッコミそうなるが、ヤバイのだろうか。って、ヤバイってことになったら学問の自由は無いぜ。中国側の歴史解釈なんか別にほっとけばいいじゃないかと思うが、檀君が許さないのか。高句麗史を明確にすることは中国に恥かかせることなんで、そのあたりにキリ入れたほうがいいと思うのだが…。
他にも知らなかったことがある。
学界もまた、この２０年間１０００本を超える論文を通じて高麗と渤海史を中国史と主張してきた中国に対応して、十分な史料の発掘と対応論理の開発を急がなければならない。
そりゃ中国がむちゃくちゃ。
古代史なんて日本だと「と」と無能な学者のたまり場だと思ったけど、いやぁ日本ばかりじゃありませんねぇとくさしてどうする。
2008年08月15日
こんな夢を見た。 その３ 〜朝顔〜
こんな夢を見た。
何故か僕の体は小さくなっていた。あたりを見回すと、家の庭に似ているような気がしたが、何処か違っていた。普段は見おろしている草花を見上げながら彷徨った。すると見たことのないベランダが現れ、そこに朝顔が這っていた。僕は、朝顔をつたって上へと昇りはじめる。登っても、登っても、なかなか上にたどり着かない。ようやく、登り切ると、かなりの時間が経過していた。
上から見おろしてみると、登ってきた朝顔が地面にも這っており、一面に花を咲かせていた。すると突然、近くに咲いていた朝顔の花が近づいてきた。綺麗な赤紫の花だった。何故か、花の意志が理解できた。ここにたどり着いたご褒美に、花にたまった露をくれるのだという。巨大な花の杯を両手でささえながら、露を飲んだ。飲み終わってから、花の杯を置こうとしたら、手が滑った。花は、ゆっくりと地面へ、音楽にあわせて、舞ながら降りていった。まるで、スローモーションのように、ゆっくりと、ゆっくりと。その間、頭の中で音楽が鳴り響いていた。やがて、地面につくと花は、パシャというはじけるような音と共に水になってしまった。
夢の中で、音楽が鳴り響くという経験は初めてだった。夢の中で聞いた曲は、映画『オペラ座の怪人』で、ヒロインのクリスティーヌが歌っていた曲であった。ＤＶＤを見たばかりだったので、曲が耳に残っていたらしい。
何故か僕の体は小さくなっていた。あたりを見回すと、家の庭に似ているような気がしたが、何処か違っていた。普段は見おろしている草花を見上げながら彷徨った。すると見たことのないベランダが現れ、そこに朝顔が這っていた。僕は、朝顔をつたって上へと昇りはじめる。登っても、登っても、なかなか上にたどり着かない。ようやく、登り切ると、かなりの時間が経過していた。
上から見おろしてみると、登ってきた朝顔が地面にも這っており、一面に花を咲かせていた。すると突然、近くに咲いていた朝顔の花が近づいてきた。綺麗な赤紫の花だった。何故か、花の意志が理解できた。ここにたどり着いたご褒美に、花にたまった露をくれるのだという。巨大な花の杯を両手でささえながら、露を飲んだ。飲み終わってから、花の杯を置こうとしたら、手が滑った。花は、ゆっくりと地面へ、音楽にあわせて、舞ながら降りていった。まるで、スローモーションのように、ゆっくりと、ゆっくりと。その間、頭の中で音楽が鳴り響いていた。やがて、地面につくと花は、パシャというはじけるような音と共に水になってしまった。
夢の中で、音楽が鳴り響くという経験は初めてだった。夢の中で聞いた曲は、映画『オペラ座の怪人』で、ヒロインのクリスティーヌが歌っていた曲であった。ＤＶＤを見たばかりだったので、曲が耳に残っていたらしい。
2008年08月14日
シャルル・レジェ『バラの画家ルドゥテ』
『バラ図譜』で有名なバラの画家ピエール＝ジョゼフ・ルドゥテの生涯が美しい図版とともに綴られている。この本の魅力は、何と言っても１００点以上の美しい図版である。値段も￥2,730 とカラーページが多いわりには、手頃である。本書は、１９８４年に出版された『バラの画家ルドゥテとその時代』改訂版で、改訂にあたっては、図版の差し替えを中心に行い、カラーページを増やしたそうである。旧版にあった『バラ図譜』の目録は割愛されているのは残念である。
ルドゥテは、マリー・アントワネットの博物蒐集室付素描画家であり、フランス革命後はナポレオンの妃ジョゼフィーヌの寵愛を受けるようになる。ナポレオンとの面白いエピソードがあるので紹介する。
ある日、ナポレオンがルドゥテにたずねる。君の花好きはどうにかならぬものか。こちらは無邪気に答えて、「花好きなのは花の絵を描いてきたからです。広い範囲の基礎教育を受けておらず、とうてい著名な歴史画家にはなれないので、カエサルのごとく、高貴さにおいて劣る一つのジャンルで第一人者となる道を選んだのです。」
なかなか、面白い人物だったようである。シャルル・レジェ によるとルドゥテは、「生来陽気で、快活で、いばるでもなく、卑下する」こともなく、ベルギーなまりのフランス語で、率直に語る人物であった。彼の語り口には独特の味わいがあり、花の事になると雄弁になったという。まさに花の画家だったのである。
ルドゥテの仕事で最も名高いのが、『バラ図譜』である。発表当時、これは、かなり斬新な本であったらしい。
バラの図について、当時、描きようが新しいと見られていた。というのは、これに先立ったさまざまの作品にあっては、真実が、ことさら絵画らしい形のために無視されていたからである。彩色は絵描きの空想に委ねられ、博物学者とバラの多数の変種を求める愛好家たちを満足させなかった。そこへ、綿密な仕事が出たのだ。
『バラ図譜』は、現在でも愛好家に人気があり、学研から復刊された『バラ図譜』全２冊は、各29,400 円という高価にもかかわらず、売り切れてしまっている。
ルドゥテは、古典派でも、ロマン派でもない独自の芸術家であった。彼の残した水彩画やデッサンは約四千といわれている。レジェが言うように「ルドゥテの例のごとく、花の絵画に生活のすべてを捧げた人はいない」のである。
2008年08月13日
朝顔
朝顔の花の朝咲いて
まだ午前（ひるまへ）にしぼむとも、
わたしの知つたことで無い。
あなたの恋が尽きたとて、
わたしが何んで泣きませう。
わたしの泣くのはいつも一人で。
朝顔は、奈良時代に遣唐使によってもたらされたという説があるが、本当のところは良く分からない。中国から渡来し、平安時代には観賞用として栽培されていたらしい。江戸期に入ると、庶民の間で大流行し園芸植物として改良され様々な種類の花が生まれたという。現在では見ることの出来ない黄色い朝顔が出現し、滝沢馬琴はそのことを『玄同放言（げんどうほうげん）』に書き記している。高山宏は、黄色い朝顔について以下のように述べている。
同時代のドイツロマン派の夢みた青い薔薇同様、黄の朝顔など天然界には、存在しない。それを文化文政ないし、その後の嘉永年間に江戸園芸は現実化してみせた。実存のゼロ度を絢爛の表層へと丹精して開花させる江戸というエポックそのもの、フローラルな夢想。それが黄の朝顔ではなかろうか。それは、存在しないものにさえいきつく逸脱のパトスとも読みとれる。
─（中略）─
黄の朝顔。
それは、〈見る〉ことの驚異にめざめた一文化の象徴である。〈見る〉者の根なしぶりをそっくり滋養として狂い咲くその〈造化のいたずら〉には、とりあえずピクチャレスクといい博物誌という〈見る〉文化の夢の形態学がすべてこめられているように感じられる。
曾禰好忠の歌に朝顔を詠ったものがある。澁澤龍彦はその歌を偏愛していたらしく、『フローラ逍遥』の中で以下のように述べている。
私の好きな新古今の歌人曾禰好忠の詠に、
起きて見んと思ひしほどに枯れにけり露よりけなる朝顔の花
「けなる」は「異なる」の意。江戸期の『天野政徳随筆』の作者は、この歌について「朝顔のしぼみたるを枯れると詠める歌、いとめずらし」などと驚いているが、私にいわせれば、かえってそこに、なにがしかユーモラスな感じが出ていて、おもしろいような気がしている。好忠だって、まさか本当に枯れたと思っているわけではないだろう。
朝顔の漢名は牽牛（けんご）である。これは、牛と朝顔が取引されたという故事によるという。織女星を朝顔姫とも呼ぶが、これもこの「牽牛」に由来している。牽牛星の妻なので、朝顔姫というのである。また朝顔は、源氏物語のヒロインの名前でもある。
不満足な気持ちで帰って行った源氏はましてその夜が眠れなかった。早く格子を上げさせて源氏は庭の朝霧をながめていた。枯れた花の中に朝顔が左右の草にまつわりながらあるかないかに咲いて、しかも香さえも放つ花を折らせた源氏は、前斎院へそれを贈るのであった。
あまりに他人らしくお扱いになりましたから、きまりも悪くなって帰りましたが、哀れな私の後ろ姿をどうお笑いになったことかと口惜しい気もしますが、しかし、
見し折りのつゆ忘られぬ朝顔の花の盛りは過ぎやしぬらん
どんなに長い年月の間あなたをお思いしているかということだけは知っていてくださるはずだと思いまして、私は歎きながらも希望を持っております。
という手紙を源氏は書いたのである。真正面から恋ばかりを言われているのでもない中年の源氏のおとなしい手紙に対して、返事をせぬことも感情の乏しい女と思われることであろうと女王もお思いになり、女房たちもそう思って硯（すずり）の用意などしたのでお書きになった。
秋はてて霧の籬（まがき）にむすぼほれあるかなきかにうつる朝顔
秋にふさわしい花をお送りくださいましたことででももの哀れな気持ちになっております。
とだけ書かれた手紙はたいしておもしろいものでもないはずであるが、源氏はそれを手から放すのも惜しいようにじっとながめていた。青鈍（あおにび）色の柔らかい紙に書かれた字は美しいようであった。
さて、夏には、怪談がふさわしい。朝顔にも朝顔屋敷という怪談があったようだ。
朝顔屋敷――その名を聞いて半七は思い出した。それは杉野の屋敷であるかどうかは知らなかったが、四番町辺に朝顔屋敷という怪談の伝えられていることは、彼もかねて聞いていた。皿屋敷、朝顔屋敷、とかくに番町に化け物屋敷のようなものの多いのは、この時代の名物であった。世間の噂によると、朝顔屋敷の遠い先代の主人がなにかの仔細で妾を手討ちにした。それは盛夏（まなつ）のことで、その妾は朝顔の模様を染めた浴衣を着ていたとかというので、その以来、朝顔が不思議にこの屋敷に祟（たた）るのであった。広い屋敷内に朝顔の花が咲くと、必ずその家に何かの凶事があるというので、夏から秋にかけては中間どもが屋敷の庭から裏手の空地まで毎日油断なく見まわって、朝顔夕顔のたぐい、仮りにも花の咲きそうな蔓をみると片っ端から引き抜いてしまうことになっている。朝顔の絵をかいた団扇（うちわ）を暑中見舞に持って来たために、出入りを差し止められた商人（あきんど）もあるという。そんな話は半七もとうに知っていたが、それが杉野の屋敷であることは初耳であった。
「そうか。あすこが朝顔屋敷か」
2008年08月12日
こんな夢を見た。 その２ 〜前世〜
こんな夢を見た。
ある人に誘われて、塔に登った。古い石造と、近代的な高層建築が融合したような奇妙な塔であった。連れの男は、痩せ形で、髪が少し薄くなりかけた中年男だった。ひどく影が薄い男で、初対面のような、それでいて以前会ったことがあるような感じのする不思議な男だった。ふと、足下を見ると本当に影がなかった。その男は、突然、僕の足にしがみつくと、手すりの向こうへ飛び降りようとした。塔から落ちるのは、まっぴらだったので、思いっきり蹴り飛ばした。
場面が暗転する。
すると、「正体がわかった。お前の前世は、青い紋章だ。やっと捕まえた」という奇妙な声が、頭の中に響いた。すると、僕は二つに分裂した。僕自身と、僕の体を上から見おろしている僕とに。いつの間にか、僕の体は、白い紙の上に描かれた青く丸い小さな紋章になっていた。紙の上部が固定され、塔の上で、風になびいていた。成る程これが、僕の前世だったのかと、妙に納得する自分がいた。その青く丸いものを紋章と認識しているが、正確には、白地の紙に青い線で顔が描かれており、それを青の二重円で囲んだ奇妙な記号であった。面積としては、青よりは白が多く、とても青い紋章には見えない。ふと、上を見上げると、風に揺れる紙を監視しているカメラがあった。その傍らにゆらゆらと、綺麗な蝶が舞っていた。この紋章には、見覚えがある。「笑い男」のマークだと思ったとたん、人の形を取り戻していた。
後は面白くないので省略する。「笑い男」のマークとは、『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX 』の「笑い男事件」の犯人である天才ハッカーが、リアルタイムで、視覚情報を書き換え、犯人の映像の顔の部分に表示させたマークのことである。イメージとしては、こんな感じである。 マークには、「I thought what I'd do was, I'd pretend I was one of those deaf-mutes.(僕は耳と目を閉じ、口を噤んだ人間になろうと考えたんだ。）」とサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』が引用されている。また、「笑い男」という言葉は、サリンジャーの短編集『ナイン・ストーリーズ』に収録されている短編の題名に由来する。ちなみに、作中には、白水社のＵブックス版『ライ麦畑でつかまえて』が登場する。
ある人に誘われて、塔に登った。古い石造と、近代的な高層建築が融合したような奇妙な塔であった。連れの男は、痩せ形で、髪が少し薄くなりかけた中年男だった。ひどく影が薄い男で、初対面のような、それでいて以前会ったことがあるような感じのする不思議な男だった。ふと、足下を見ると本当に影がなかった。その男は、突然、僕の足にしがみつくと、手すりの向こうへ飛び降りようとした。塔から落ちるのは、まっぴらだったので、思いっきり蹴り飛ばした。
場面が暗転する。
すると、「正体がわかった。お前の前世は、青い紋章だ。やっと捕まえた」という奇妙な声が、頭の中に響いた。すると、僕は二つに分裂した。僕自身と、僕の体を上から見おろしている僕とに。いつの間にか、僕の体は、白い紙の上に描かれた青く丸い小さな紋章になっていた。紙の上部が固定され、塔の上で、風になびいていた。成る程これが、僕の前世だったのかと、妙に納得する自分がいた。その青く丸いものを紋章と認識しているが、正確には、白地の紙に青い線で顔が描かれており、それを青の二重円で囲んだ奇妙な記号であった。面積としては、青よりは白が多く、とても青い紋章には見えない。ふと、上を見上げると、風に揺れる紙を監視しているカメラがあった。その傍らにゆらゆらと、綺麗な蝶が舞っていた。この紋章には、見覚えがある。「笑い男」のマークだと思ったとたん、人の形を取り戻していた。
後は面白くないので省略する。「笑い男」のマークとは、『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX 』の「笑い男事件」の犯人である天才ハッカーが、リアルタイムで、視覚情報を書き換え、犯人の映像の顔の部分に表示させたマークのことである。イメージとしては、こんな感じである。 マークには、「I thought what I'd do was, I'd pretend I was one of those deaf-mutes.(僕は耳と目を閉じ、口を噤んだ人間になろうと考えたんだ。）」とサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』が引用されている。また、「笑い男」という言葉は、サリンジャーの短編集『ナイン・ストーリーズ』に収録されている短編の題名に由来する。ちなみに、作中には、白水社のＵブックス版『ライ麦畑でつかまえて』が登場する。
2008年08月10日
イネ
今朝の空はコバルトに
少し白を交ぜて濡れ、
その下の稲田（いなだ）は
黄金の総で埋まり、
何処にも広がる太陽の笑顔。
イネは代表的な穀物で、世界の人口のおよそ半分の人間の主食となっている。中村元編著『仏教植物散策』によると、イネの栽培の歴史は古く、「タイのコラト、ノンナクタの遺跡からは紀元前四千年の栽培の様子が窺われ、ビルマ国境の紀元前一万年と思われる古墳からも栽培の証拠が見つかっている」という。
イネは豊饒の象徴であり、それは多く国で共通している。インドでは、豊饒の女神ラクシュミーの象徴であるという。中村元編著『仏教植物散策』に面白い記述があったので引用する。
おスシ屋さんのスシ米はとくに「シャリ」と呼ばれているのを思い出される読者もおられよう。一説によれば、この語はサンスクリット語で「米」を意味するシャーリに由来するという。また、釈尊の遺骨はシャリーラと呼ばれ、「舎利（しゃり）」と音写されるが、これに由来するという俗説もある。けだし、釈尊のお舎利は、白くて、きめが細かく、つやつやと光っているからである。
2008年08月09日
崇徳上皇
瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ
慶応四年八月、明治天皇の勅使が、崇徳上皇の御神霊を京都に迎えるために讃岐の白峰へと向かった。 谷川健一『魔の系譜』によると、この慶応四年という年は、戊辰戦争の年であり、朝廷側は、崇徳上皇の霊が、官軍を悩ますことを恐れたのである。崇徳上皇の命日である八月二十六日に、勅使によって明治天皇の宣命（せんみょう）が崇徳上皇の御神霊の前で読みあげられた。
それはまるで、恐れる人間をなだめるときの言葉とそっくりである、まかりまちがって、疎略にあつかえば、それがかえって上皇の怒りを招くことをひたすらおそれているのである。しかし、考えてもみよ。それは上皇の死後すでに七百余年を経ているのである。しかもこのように、生きた人に面とむかってなだめ、すかし、ご機嫌をとるような態度はいったい何を意味するか。それほど崇徳上皇のたたりが、歴代の朝廷や貴族や武士におそれられてきたからではないか。
崇徳上皇は、鳥羽上皇の第一皇子であるが、実父は、白河院であり、実母は鳥羽上皇の妃璋子だと言われている。白河院が、孫の妃に生ませた不義の子なのである。戸籍上の父である鳥羽上皇はこのことを知っていたらしく、『古事談』によると息子である崇徳上皇のことを「叔父子(おじご)」と呼んでいたという。崇徳上皇は、五歳で天皇となるが、二十二歳の時に父上皇により譲位させられ、新院と呼ばれるようになる。このへんの事情は、上田秋成の「白峯」に登場する崇徳上皇の怨霊に語ってもらうことにする。
そも永治のむかし、わが身に犯せる罪もないのに、父のみかど鳥羽院の仰せをかしこみ、三歳の弟体仁（としひと）に王位をばゆずったぞ。このこころ、人慾ふかしとは申せまい。体仁（近衛院）はやく世を去ってのちは、わが子の重仁（しげひと）こそ王統をつぐべきものと、われもひとも望をかけておったに、体仁の母美福門院のねたみにさまたげられて、これも弟の雅仁（まさひと）に世をうばわれたは、遺恨ここにきわまった。重仁は国の王たるべき才あり。雅仁（後白河院）何のうつわぞ。
その後、保元の乱に敗れ、讃岐国に配流されてしまう。現世での望みをたたれた崇徳上皇は、せめて後世のためにと五部の大乗教を写し、都へ送ろうとするが、呪詛と疑われ、拒絶されてしまう。
「後世のためにと書きたてまつれる大乗経の敷地をだに惜しまれんには、後世までの敵ござんなれ。さらにおいては、われ生きても無益（むやく）なり」とて、その後は髪もくしけずらず、爪も切らず、ながながとのばし放題にしたまま、顔色は黄ばみ、目はくぼみやせおとろえていった。
「吾がふかき罪におこなわれ、愁鬱あさからず。すみやかにこの功力をもって、かの科（とが）を救わんとおもう莫大の行業を、しかしながら三悪逆になげこみ、その力をもって、日本国の大魔縁となり、皇（おう）を取って民となし、民を皇となさん」と、自分の舌先をくい切って流れる血潮で大乗経の奥に呪文を書きつけ、海の底にしずめた。
『保元物語』には、「生きながら天狗の姿にならせたもうぞあさましき」と書かれている。崇徳上皇が、四十六歳で亡くなった時、その遺骸をどこに葬るか都にお伺いをたてたという。暑い時期なので、上皇の遺体の腐敗を防ぐため泉の水に浸して、勅命をまった。二十日目に、都からの使いが到着し、白峰山に葬れとの命令を伝えた。遺体を柩の中に納め出発した。ちょうど、白峰の山すその高屋の阿気（あけ）というところにさしかかった時、にわかに、雷鳴を伴う激しい風雨になったという。人々は、柩をおろし、雨が晴れるのを待ったという。
すると、柩のなかから血が零（こぼ）れ出して、柩をおいた大の石を染めた。崇徳上皇の霊はもちろん、その御身体にも生きた血が流れていたのである。死後二十日たってなお、まだ死に切っていなかったのである。「血の宮」の名称はここにはじまった。里人は、血のかかった石を御神体として神殿におさめ、上皇の霊をいまだに祀っている。
長島弘明の『雨月物語の世界』によると、上皇の没後十三年に、「うち続く災厄と異変に、朝廷は崇徳院の号を奉り、その数年後には、院と頼長を祭神とする粟田宮を建立」している。さらに、江戸時代になっても、『雨月物語』が書かれた数年前に崇徳院六百年祭がとり行われたという。
『雨月物語』では、怨霊となった崇徳上皇は、西行に以下のように語っている。
「なんじ知らぬな。ちかごろの世のみだれは、みなこのわしのなすわざじゃ。生きてあった日から、かねて魔道にこころざしをかたむけて、平治の乱をおこさせ、死んでもなも朝廷にたたりしてくれる。いまに身よ、やがて天下に大乱を生じしめようぞ。」
「その年の秋、わしもまた世を去ったが、うらみの火、いかりの炎、なお燃えさかって尽きざるままに、ついに大魔王となり、三百余類の巨魁とはなった。わが眷属のなすところは、ひとのさいわいを見ては転じてわざわいとし、世のおさまるを見ては乱をおこさせるのじゃ。」
このように、大魔王となった崇徳上皇によって、戦乱が引き起こされていたのである。上田秋成の「白峯」の原文では、崇徳上皇の姿は、以下のように描写されている。
朱をそゝぎたる龍顔（みおもて）に。荊（おどろ）の髪膝（ひざ）にかゝるまで乱れ。白眼を吊あげ。熱き嘘（いき）をくるしげにつがせ給ふ。御衣は柿色（かきいろ）のいたうすゝびたるに。手足の爪は獣のごとく生（おい）のびて。さながら魔王の形（かたち）あさましくもおそろし。
この場面の後、空に向かって「相模、相模」と呼ぶと化鳥が現れる。『保元物語』と同様に「白峯」でも院と天狗との関わりが示されている。平田篤胤は、『古今妖魅考』で、林羅山『神社考天狗論』から「讃岐院ハ金色大鳶ト為。長一丈余。」という記述を引用している。長島弘明は、院が天狗となった理由を以下のように述べている。
院が天狗の首魁になったのも、天狗が太平の世に乱れを起こす存在であったからである。院は復讐の成就に執着し、死後の成仏と安楽を放棄すること引き換えに大魔王となった。怨念が乱を起こし、歴史が転回してゆくのである。怨み死にした者の霊が人に祟り災いを引き起こすというのは、日本に古来から根強く存在する御霊信仰である。崇徳院は御霊の典型である。しかも、散発的に祟りをなすのではなく、復讐の展望に添いながら歴史を着々とねじまげてゆく、強力な御霊であるといってよい。
このように、崇徳上皇は、死後、七百余年が経過しても、朝廷から恐れられるような、日本最大の怨霊なのである。最後に、三島由紀夫が、この「魔道に落ちた上皇の苦悩」を描いた上田秋成の「白峯」を「完璧な傑作」と評していたことを付けくわえておく。
慶応四年八月、明治天皇の勅使が、崇徳上皇の御神霊を京都に迎えるために讃岐の白峰へと向かった。 谷川健一『魔の系譜』によると、この慶応四年という年は、戊辰戦争の年であり、朝廷側は、崇徳上皇の霊が、官軍を悩ますことを恐れたのである。崇徳上皇の命日である八月二十六日に、勅使によって明治天皇の宣命（せんみょう）が崇徳上皇の御神霊の前で読みあげられた。
それはまるで、恐れる人間をなだめるときの言葉とそっくりである、まかりまちがって、疎略にあつかえば、それがかえって上皇の怒りを招くことをひたすらおそれているのである。しかし、考えてもみよ。それは上皇の死後すでに七百余年を経ているのである。しかもこのように、生きた人に面とむかってなだめ、すかし、ご機嫌をとるような態度はいったい何を意味するか。それほど崇徳上皇のたたりが、歴代の朝廷や貴族や武士におそれられてきたからではないか。
崇徳上皇は、鳥羽上皇の第一皇子であるが、実父は、白河院であり、実母は鳥羽上皇の妃璋子だと言われている。白河院が、孫の妃に生ませた不義の子なのである。戸籍上の父である鳥羽上皇はこのことを知っていたらしく、『古事談』によると息子である崇徳上皇のことを「叔父子(おじご)」と呼んでいたという。崇徳上皇は、五歳で天皇となるが、二十二歳の時に父上皇により譲位させられ、新院と呼ばれるようになる。このへんの事情は、上田秋成の「白峯」に登場する崇徳上皇の怨霊に語ってもらうことにする。
そも永治のむかし、わが身に犯せる罪もないのに、父のみかど鳥羽院の仰せをかしこみ、三歳の弟体仁（としひと）に王位をばゆずったぞ。このこころ、人慾ふかしとは申せまい。体仁（近衛院）はやく世を去ってのちは、わが子の重仁（しげひと）こそ王統をつぐべきものと、われもひとも望をかけておったに、体仁の母美福門院のねたみにさまたげられて、これも弟の雅仁（まさひと）に世をうばわれたは、遺恨ここにきわまった。重仁は国の王たるべき才あり。雅仁（後白河院）何のうつわぞ。
その後、保元の乱に敗れ、讃岐国に配流されてしまう。現世での望みをたたれた崇徳上皇は、せめて後世のためにと五部の大乗教を写し、都へ送ろうとするが、呪詛と疑われ、拒絶されてしまう。
「後世のためにと書きたてまつれる大乗経の敷地をだに惜しまれんには、後世までの敵ござんなれ。さらにおいては、われ生きても無益（むやく）なり」とて、その後は髪もくしけずらず、爪も切らず、ながながとのばし放題にしたまま、顔色は黄ばみ、目はくぼみやせおとろえていった。
「吾がふかき罪におこなわれ、愁鬱あさからず。すみやかにこの功力をもって、かの科（とが）を救わんとおもう莫大の行業を、しかしながら三悪逆になげこみ、その力をもって、日本国の大魔縁となり、皇（おう）を取って民となし、民を皇となさん」と、自分の舌先をくい切って流れる血潮で大乗経の奥に呪文を書きつけ、海の底にしずめた。
『保元物語』には、「生きながら天狗の姿にならせたもうぞあさましき」と書かれている。崇徳上皇が、四十六歳で亡くなった時、その遺骸をどこに葬るか都にお伺いをたてたという。暑い時期なので、上皇の遺体の腐敗を防ぐため泉の水に浸して、勅命をまった。二十日目に、都からの使いが到着し、白峰山に葬れとの命令を伝えた。遺体を柩の中に納め出発した。ちょうど、白峰の山すその高屋の阿気（あけ）というところにさしかかった時、にわかに、雷鳴を伴う激しい風雨になったという。人々は、柩をおろし、雨が晴れるのを待ったという。
すると、柩のなかから血が零（こぼ）れ出して、柩をおいた大の石を染めた。崇徳上皇の霊はもちろん、その御身体にも生きた血が流れていたのである。死後二十日たってなお、まだ死に切っていなかったのである。「血の宮」の名称はここにはじまった。里人は、血のかかった石を御神体として神殿におさめ、上皇の霊をいまだに祀っている。
長島弘明の『雨月物語の世界』によると、上皇の没後十三年に、「うち続く災厄と異変に、朝廷は崇徳院の号を奉り、その数年後には、院と頼長を祭神とする粟田宮を建立」している。さらに、江戸時代になっても、『雨月物語』が書かれた数年前に崇徳院六百年祭がとり行われたという。
『雨月物語』では、怨霊となった崇徳上皇は、西行に以下のように語っている。
「なんじ知らぬな。ちかごろの世のみだれは、みなこのわしのなすわざじゃ。生きてあった日から、かねて魔道にこころざしをかたむけて、平治の乱をおこさせ、死んでもなも朝廷にたたりしてくれる。いまに身よ、やがて天下に大乱を生じしめようぞ。」
「その年の秋、わしもまた世を去ったが、うらみの火、いかりの炎、なお燃えさかって尽きざるままに、ついに大魔王となり、三百余類の巨魁とはなった。わが眷属のなすところは、ひとのさいわいを見ては転じてわざわいとし、世のおさまるを見ては乱をおこさせるのじゃ。」
このように、大魔王となった崇徳上皇によって、戦乱が引き起こされていたのである。上田秋成の「白峯」の原文では、崇徳上皇の姿は、以下のように描写されている。
朱をそゝぎたる龍顔（みおもて）に。荊（おどろ）の髪膝（ひざ）にかゝるまで乱れ。白眼を吊あげ。熱き嘘（いき）をくるしげにつがせ給ふ。御衣は柿色（かきいろ）のいたうすゝびたるに。手足の爪は獣のごとく生（おい）のびて。さながら魔王の形（かたち）あさましくもおそろし。
この場面の後、空に向かって「相模、相模」と呼ぶと化鳥が現れる。『保元物語』と同様に「白峯」でも院と天狗との関わりが示されている。平田篤胤は、『古今妖魅考』で、林羅山『神社考天狗論』から「讃岐院ハ金色大鳶ト為。長一丈余。」という記述を引用している。長島弘明は、院が天狗となった理由を以下のように述べている。
院が天狗の首魁になったのも、天狗が太平の世に乱れを起こす存在であったからである。院は復讐の成就に執着し、死後の成仏と安楽を放棄すること引き換えに大魔王となった。怨念が乱を起こし、歴史が転回してゆくのである。怨み死にした者の霊が人に祟り災いを引き起こすというのは、日本に古来から根強く存在する御霊信仰である。崇徳院は御霊の典型である。しかも、散発的に祟りをなすのではなく、復讐の展望に添いながら歴史を着々とねじまげてゆく、強力な御霊であるといってよい。
このように、崇徳上皇は、死後、七百余年が経過しても、朝廷から恐れられるような、日本最大の怨霊なのである。最後に、三島由紀夫が、この「魔道に落ちた上皇の苦悩」を描いた上田秋成の「白峯」を「完璧な傑作」と評していたことを付けくわえておく。
2008年08月08日
さかさまの幽霊
一般にお盆と言われている行事は、盂蘭盆会（うらぼんえ）のことである。盂蘭盆（うらぼん）と略したり、魂祭（たままつり）、精霊会（しようりようえ）等ともいう。山折哲雄は、『仏教民俗学』に中で、以下のように述べている。
お盆の行事は、『盂蘭盆経』によると、仏弟子の目連が亡母の餓鬼道に堕ちた苦しみを救うため、雨期の学習期間（安居）を終えた日に、仏・僧に食物を捧げたのにはじまるという。目連は釈迦の弟子のうちでも神通力が第一といわれていた。その目連が、餓鬼道で苦しんでいる母の姿を、その超自然的な透視力によって見る。そこで、釈迦のもとをたずねると、こうさとされる。雨期の学習期間が終わった七月十五日に仏と僧に供養すれば、死んだ七世の父母の苦しみを救うことができる、と。
『盂蘭盆経』では、餓鬼道に堕ちた母を目連が救うという物語が語られている。山折は、ここから、お盆と施餓鬼が混同されるようになったのではないかと推測している。盂蘭盆はサンスクリット語のウランバナullambanaの音訳と言われている。これは、「倒懸（とうけん）」を意味している。倒懸とは、逆さ吊りになったような苦しみのことである。ならば、目連が、透視した亡母も倒懸の苦しみを味わっていたのかもしれない。実際、平凡社の世界大百科事典には、「目連が餓鬼道に落ちた母の倒懸の苦しみを救おうとして」と書かれている。
逆さ吊りの死者というイメージから連想されるのは、江戸期の幽霊である。服部幸雄の『さかさまの幽霊』では、逆さまで登場する幽霊の事例が多数取り上げられている。『諸国ゐんくは物語』の「妬て殺せし女主の女房を取り殺す事」という話を服部の記述から要約し、紹介する
ある牢人が、日暮れ時に舟で川を渡ろうとしていると、さかさまの女が現れた。女は、「自分は庄屋の使用人だったが、妬みによって非業の死を遂げた。敵をとりたいので、舟に乗せてくれ」と牢人に頼む。同意すると、女はさかさまのまま舟に、乗り込んできた。庄屋の家に着くと女は、門に張ってあるお札を取ってくれと頼む。牢人が、その通りにすると、女は易々と中に入り、庄屋の女房をとり殺してしまう。あくる夜、その女は「さかさまではなく真様（まさま）の姿」で、牢人の前に姿を現し、苦患を免れた礼を述べる。もともと、この女は庄屋の妾であったが、主人の留守中に嫉妬にかられた女房によって井戸に突き落とされ、殺されたのである。
この物語を服部幸雄は、以下のように分析している。
嫉妬が原因で、本妻の命令によって古井戸の中へ突き落とされ、殺される。その怨念が「さかさまの幽霊」となって出現し、敵である庄屋の女房を取り殺し、それによって、「昨夜おもふ敵をとりて今ハ真さまに成て、身のくるしみをのがれたり」と牢人に感謝したというのだから、「さかさまの幽霊」は成仏しきれず迷っている苦患の魂の表象であることになる。亡霊みずからが、そのくるしみに堪えかねて、早く成仏したい、「常のごとく真さま」になりたいと願っているのである。
また、服部は、「さかさまの幽霊」を「底なしの無間（むけん）地獄をめざしまっさかさまに落下していく肉体の、その恐怖のイメージの表象」ととらえ、『往生要集』の絵入版本や新版絵入『十王賛嘆抄』などの影響から、『往生要集』の「足上頭下」という概念が「視覚化」されたものと説明している。また、民衆の爆発的エネルギーが、「さかさま」に具象化されることは、封建的な秩序を混乱させるのに有効だったと述べている。諏訪春雄は、服部の考察を以下のようにまとめている。
さかさまに出現する幽霊は、この世と逆の秩序が支配する他界観の基盤のうえに亡者が逆づりとなって責めさいなまれる地獄を反映したものであり、近世の足のない幽霊もまた地獄の責め苦のイメージの表現であった。
そして、このような「さかさまの幽霊」の出現に、お盆で、良く触れられる目連の物語も影響していたのではないだろうか。
お盆の行事は、『盂蘭盆経』によると、仏弟子の目連が亡母の餓鬼道に堕ちた苦しみを救うため、雨期の学習期間（安居）を終えた日に、仏・僧に食物を捧げたのにはじまるという。目連は釈迦の弟子のうちでも神通力が第一といわれていた。その目連が、餓鬼道で苦しんでいる母の姿を、その超自然的な透視力によって見る。そこで、釈迦のもとをたずねると、こうさとされる。雨期の学習期間が終わった七月十五日に仏と僧に供養すれば、死んだ七世の父母の苦しみを救うことができる、と。
『盂蘭盆経』では、餓鬼道に堕ちた母を目連が救うという物語が語られている。山折は、ここから、お盆と施餓鬼が混同されるようになったのではないかと推測している。盂蘭盆はサンスクリット語のウランバナullambanaの音訳と言われている。これは、「倒懸（とうけん）」を意味している。倒懸とは、逆さ吊りになったような苦しみのことである。ならば、目連が、透視した亡母も倒懸の苦しみを味わっていたのかもしれない。実際、平凡社の世界大百科事典には、「目連が餓鬼道に落ちた母の倒懸の苦しみを救おうとして」と書かれている。
逆さ吊りの死者というイメージから連想されるのは、江戸期の幽霊である。服部幸雄の『さかさまの幽霊』では、逆さまで登場する幽霊の事例が多数取り上げられている。『諸国ゐんくは物語』の「妬て殺せし女主の女房を取り殺す事」という話を服部の記述から要約し、紹介する
ある牢人が、日暮れ時に舟で川を渡ろうとしていると、さかさまの女が現れた。女は、「自分は庄屋の使用人だったが、妬みによって非業の死を遂げた。敵をとりたいので、舟に乗せてくれ」と牢人に頼む。同意すると、女はさかさまのまま舟に、乗り込んできた。庄屋の家に着くと女は、門に張ってあるお札を取ってくれと頼む。牢人が、その通りにすると、女は易々と中に入り、庄屋の女房をとり殺してしまう。あくる夜、その女は「さかさまではなく真様（まさま）の姿」で、牢人の前に姿を現し、苦患を免れた礼を述べる。もともと、この女は庄屋の妾であったが、主人の留守中に嫉妬にかられた女房によって井戸に突き落とされ、殺されたのである。
この物語を服部幸雄は、以下のように分析している。
嫉妬が原因で、本妻の命令によって古井戸の中へ突き落とされ、殺される。その怨念が「さかさまの幽霊」となって出現し、敵である庄屋の女房を取り殺し、それによって、「昨夜おもふ敵をとりて今ハ真さまに成て、身のくるしみをのがれたり」と牢人に感謝したというのだから、「さかさまの幽霊」は成仏しきれず迷っている苦患の魂の表象であることになる。亡霊みずからが、そのくるしみに堪えかねて、早く成仏したい、「常のごとく真さま」になりたいと願っているのである。
また、服部は、「さかさまの幽霊」を「底なしの無間（むけん）地獄をめざしまっさかさまに落下していく肉体の、その恐怖のイメージの表象」ととらえ、『往生要集』の絵入版本や新版絵入『十王賛嘆抄』などの影響から、『往生要集』の「足上頭下」という概念が「視覚化」されたものと説明している。また、民衆の爆発的エネルギーが、「さかさま」に具象化されることは、封建的な秩序を混乱させるのに有効だったと述べている。諏訪春雄は、服部の考察を以下のようにまとめている。
さかさまに出現する幽霊は、この世と逆の秩序が支配する他界観の基盤のうえに亡者が逆づりとなって責めさいなまれる地獄を反映したものであり、近世の足のない幽霊もまた地獄の責め苦のイメージの表現であった。
そして、このような「さかさまの幽霊」の出現に、お盆で、良く触れられる目連の物語も影響していたのではないだろうか。
2008年08月07日
澁澤龍子『澁澤龍彦との日々』
龍子夫人による澁澤龍彦の回想記である。内容的は、何処かで聞いたことがあるような話が多いが、年月の経過が不純物を取り除き熟成したかような、柔らか眼差しで、澁澤龍彦を描き出している。「出会いと結婚」「執筆の日々」「旅と交友」「発病」「全集刊行と没後の日々」という構成になっている。
結婚前の以下のエピソードは、澁澤のやんちゃぶりと、それを暖かく見つめる夫人の姿が読み取れ、微笑ましい。
ある日、銀座の画廊で展覧会を見る約束をしていましたが、澁澤はいくら待っても現れません。怒り心頭に発したわたしは、帰りに澁澤の家に寄りましたところ、本人は「だって眠たかったから寝ていたの」とケロッとしています。
「エッ！あなたの眠いのと龍子とどっちが大事なのよ」
「だって、この宇宙はぼくを中心に回っているから、これからもずっとそうだよ。そんなことで怒るのはおかしいよ」と、しゃあしゃあとしているではありませんか。
「もう許せない！」と、それまでのわたしでしたら、これで一巻の終わりになるはずが、不思議にも怒りが消えて、こういう人もいたのだと感心して、にこにこ笑っていたのです。
また、本書の面白いところは、龍子夫人が澁澤とのエピソードを紹介したあと、それに対応する澁澤の文章を引用している点である。例えば、イタリアで、「トスカーナ石」を購入した様子を書いた後に、澁澤の「パドヴァの石屋」を引用している。会津若松に立ち寄った時のエピソードを引用する。
「これ、ムクロジだ！」と澁澤はもう興奮して、「羽子板の羽子のお尻についている黒い玉だよ。話には聞いていたけど、はじめて見たよ」ともう夢中、草むらでムクロジの実を拾い集めるその姿は、いつもながら急に子どものように可愛らしく見えてきて、わたしも嬉しくなって、思わずニコニコしてしまうのでした。
それから私は夢中になってムクロジの実を拾いあつめた。私のこういう振舞いは毎度のことで、妻は笑いながら、だまって見ていた。両手で持ちきれなくなったので、ハンカチで包んだ。
二人の暖かい関係が何とも言えず好ましい。しかし、さすがに「発病」の章にくると、静かな回想の底に深い悲しみが感じられ、少し痛ましい。喪失の悲しみが伝わってくるような気がする。また、澁澤の作品に関しては以下のような記述がある。
わたしのいちばん好きな澁澤の作品を選ぶなら、フローラの宝石箱のような中島かほるさんの装幀も美しい『フローラ逍遥』でしょう。とくに悲しいことが書いてあるわけではないのですが、読んでいると涙が出てくるような作品です。短いものですが、澁澤のそれまでの蓄積から、蒸留水のようなもっともきれいなものだけが滴りおちて形になった、そんな透明感のある文章がとても好きなのです。彼の生前に出た最後の本という事情もあるのかもしれません。
確かに『フローラ逍遥』は、美しい小品であるが、上記のような感想は、苦楽を共にしたものにしか感じられないものであろう。 ハードカバー版の『フローラ逍遥』は、函入りのとても美しい本である。
結婚前の以下のエピソードは、澁澤のやんちゃぶりと、それを暖かく見つめる夫人の姿が読み取れ、微笑ましい。
ある日、銀座の画廊で展覧会を見る約束をしていましたが、澁澤はいくら待っても現れません。怒り心頭に発したわたしは、帰りに澁澤の家に寄りましたところ、本人は「だって眠たかったから寝ていたの」とケロッとしています。
「エッ！あなたの眠いのと龍子とどっちが大事なのよ」
「だって、この宇宙はぼくを中心に回っているから、これからもずっとそうだよ。そんなことで怒るのはおかしいよ」と、しゃあしゃあとしているではありませんか。
「もう許せない！」と、それまでのわたしでしたら、これで一巻の終わりになるはずが、不思議にも怒りが消えて、こういう人もいたのだと感心して、にこにこ笑っていたのです。
また、本書の面白いところは、龍子夫人が澁澤とのエピソードを紹介したあと、それに対応する澁澤の文章を引用している点である。例えば、イタリアで、「トスカーナ石」を購入した様子を書いた後に、澁澤の「パドヴァの石屋」を引用している。会津若松に立ち寄った時のエピソードを引用する。
「これ、ムクロジだ！」と澁澤はもう興奮して、「羽子板の羽子のお尻についている黒い玉だよ。話には聞いていたけど、はじめて見たよ」ともう夢中、草むらでムクロジの実を拾い集めるその姿は、いつもながら急に子どものように可愛らしく見えてきて、わたしも嬉しくなって、思わずニコニコしてしまうのでした。
それから私は夢中になってムクロジの実を拾いあつめた。私のこういう振舞いは毎度のことで、妻は笑いながら、だまって見ていた。両手で持ちきれなくなったので、ハンカチで包んだ。
二人の暖かい関係が何とも言えず好ましい。しかし、さすがに「発病」の章にくると、静かな回想の底に深い悲しみが感じられ、少し痛ましい。喪失の悲しみが伝わってくるような気がする。また、澁澤の作品に関しては以下のような記述がある。
わたしのいちばん好きな澁澤の作品を選ぶなら、フローラの宝石箱のような中島かほるさんの装幀も美しい『フローラ逍遥』でしょう。とくに悲しいことが書いてあるわけではないのですが、読んでいると涙が出てくるような作品です。短いものですが、澁澤のそれまでの蓄積から、蒸留水のようなもっともきれいなものだけが滴りおちて形になった、そんな透明感のある文章がとても好きなのです。彼の生前に出た最後の本という事情もあるのかもしれません。
確かに『フローラ逍遥』は、美しい小品であるが、上記のような感想は、苦楽を共にしたものにしか感じられないものであろう。 ハードカバー版の『フローラ逍遥』は、函入りのとても美しい本である。
2008年08月05日
こんな夢を見た。 〜虫〜
こんな夢を見た。
人差し指を虫に刺されたらしく指先が膨らんでいた。よく見ると膨らみの真ん中に黒い点があり、どうやら針が残っているらしい。親指で、膨らみの脇を押すと黒い針が、少し皮膚から出てきた。さらに、力を加えると、黒い針の後から、白いキチン質の皺のある物体がズルッと出てきた。不思議なことに其れは、白い身体をヌメヌメと光らせながら、指より太くなってしまった。さらに力を加えると、勢いよくズルッと飛び出した。腕ぐらいの太さの黒い針を持った白い芋虫のような生き物が、ヌメヌメと床で蠕動していた。口から出たのではなくて、良かったと思ったところで、目が覚めた。
たいてい、目覚めると夢の内容は忘れてしまうのだが、何故かこの夢は覚えていた。考えてみると、この虫のイメージは、映画『エイリアン』の幼虫か、荒俣宏の『帝都物語』に出てきた腹中虫のようであった。特に映画『帝都物語』で、魔人加藤保憲の放った腹中虫を辰宮由佳理が、口から吐き出す場面の印象は強烈であった。寝苦しかったので、このような悪夢を見たのであろう。僕には、夢判断はできないし、また、出来たとしても、恐ろしい結果になりそうなので、やりたくもない。
他人の夢の話を聞くほど、つまらないことはないので、ここまでお付き合いいただいた方には、感謝します。
人差し指を虫に刺されたらしく指先が膨らんでいた。よく見ると膨らみの真ん中に黒い点があり、どうやら針が残っているらしい。親指で、膨らみの脇を押すと黒い針が、少し皮膚から出てきた。さらに、力を加えると、黒い針の後から、白いキチン質の皺のある物体がズルッと出てきた。不思議なことに其れは、白い身体をヌメヌメと光らせながら、指より太くなってしまった。さらに力を加えると、勢いよくズルッと飛び出した。腕ぐらいの太さの黒い針を持った白い芋虫のような生き物が、ヌメヌメと床で蠕動していた。口から出たのではなくて、良かったと思ったところで、目が覚めた。
たいてい、目覚めると夢の内容は忘れてしまうのだが、何故かこの夢は覚えていた。考えてみると、この虫のイメージは、映画『エイリアン』の幼虫か、荒俣宏の『帝都物語』に出てきた腹中虫のようであった。特に映画『帝都物語』で、魔人加藤保憲の放った腹中虫を辰宮由佳理が、口から吐き出す場面の印象は強烈であった。寝苦しかったので、このような悪夢を見たのであろう。僕には、夢判断はできないし、また、出来たとしても、恐ろしい結果になりそうなので、やりたくもない。
他人の夢の話を聞くほど、つまらないことはないので、ここまでお付き合いいただいた方には、感謝します。
2008年08月03日
忘れ草（萓草）と紫苑 〜『今昔物語集』と『紫苑物語』〜
『広辞苑』によると、忘れ草（萓草）は、ヤブカンゾウの別称である。大伴家持は、この花の歌を以下のように詠んでいる。
忘れ草我が下紐に付けたれどしこの醜草言にしありけり
この歌は、現在では上記のように訓読され、一般的には、「忘れ草を下着の紐につけましたけれども、（少しもあなたのことを忘れられない）忘れ草とは名ばかりで、ひどい草です。」と解釈される。しかし、野口武彦によると、現在では、「しこの醜草」と訓読されている部分の原文「鬼乃志許草」を、王朝人は、「鬼の醜草」と読んだらしい。ところで、紫苑の別名も「鬼の醜草」なのである。この二つの花に関して、『今昔物語集』巻三一第二七に、「兄弟二人、萓草、紫苑を植ゑし話」という面白い話がある。
父親を亡くした二人の兄弟がいた。二人の父親を慕う心が強かったので時が流れても、忘れることが出来なかった。二人は、墓へ行っては、我が身の憂えや嘆きを、涙を流しながら、まるで生きている親に向かっているように語りかけていた。
歳月が流れ、やがてこの二人は朝廷に仕えるようになった。兄は、私を顧みて堪え難いことがあったので、それを忘れるために、その花を「見ると人は思いを忘れる」といわれている萓草（わすれぐさ）を父の墓に植えた。その後、弟が、兄を墓参り誘っても行かなくなった。弟は、このことを嘆いて、兄が親を思う心を忘れても、自分は忘れまいと決心し、紫苑を墓の辺りに植えた。紫苑は、「それを見る人は心に思うことを忘れない」と言われていた。弟は、いよいよ忘れることがなかったという。
さらに歳月が流れても、弟は墓に通っていた。ある時、墓の中から、「我は汝の親のかばねを守る鬼である。恐れることはない。我はまたお前を守ろうと思う。」という声が聞こえてきた。弟は、恐怖のため答えることも出来なかった。すると、鬼は、「汝が親を恋い慕う気持ちは、年月がたっても変わらない。兄も同じく親を恋しく思い悲しんでいたように見えたが、思いを忘れる草を植えて、その験を得た。お前は、紫苑を植えて、それを見てその験が得た。しかれば、我は、親を恋しく思う心にたいそう感心した。我は鬼の身であるが、慈悲の心を持っている。そこで我は、汝のために、その日に起こることを、夢で教えてやろう。」といって、その声は消えた。
その後、弟は、その日に起きることを、夢で見るようになったという。それゆえ、嬉しい事があった者は紫苑を植えて常にそれを見るべし、憂えがある者は萓草を植えてそれを常に見るべし、と語り伝えられているということだ。
石川淳の『紫苑物語』は、澁澤龍彦が、以下のように評す傑作である。
さて､みずから敵を欲するところの精神の運動が､ただ純粋に弁証法的に展開するだけで､そのまま一遍の美しいロマネスクを織りなしたかのような感をいだかしめるのが名作『紫苑物語』であろう｡
野口武彦が『江戸がからになる日』で、指摘しているように、上記の今昔物語集の説話が、石川淳『紫苑物語』の典拠の一つになっている。
「紫苑はものをおぼえさせる草、いつまでもわすれさせぬ草ぢゃ」と『紫苑物語』の主人公、国の守宗頼はいう。無双の弓に名手、宗頼が放つ「殺の矢」に射伏せられたむくろの夥しい血を吸った地面には、つぎつぎと紫苑が植えられて秋ごとに花をつけるだろう。紫苑。古俗の音では、しをに。
ー（中略）ー
とはいえ、宗頼がこの物語中ではじめてみる草は決して紫苑ではない。自分の前に立ちはだかる岩山に登り、おのれの分身平太に邂逅した宗頼は、あたりに茂った草の名を相手に問い、「わすれ草」であると教えられる。平太はいう。「ここに来ては、世の中のことはみなわすれなくてはならぬ」と。
また、野口は、この説話に登場する墓に住みついて「かばねを守る鬼」から、『紫苑物語』の「鬼の歌」が発想されたのではないかと指摘している。澁澤龍彦が、「石川淳氏の小説には、かように日本古典や民俗学上の故事をさりげなく散りばめたものがあって、ふとそれに気がつくと、目から鱗の落ちる思いをすることがある」と述べているように、このような典拠の一つを知ると、作品の味わいも増すような気がする。
忘れ草我が下紐に付けたれどしこの醜草言にしありけり
この歌は、現在では上記のように訓読され、一般的には、「忘れ草を下着の紐につけましたけれども、（少しもあなたのことを忘れられない）忘れ草とは名ばかりで、ひどい草です。」と解釈される。しかし、野口武彦によると、現在では、「しこの醜草」と訓読されている部分の原文「鬼乃志許草」を、王朝人は、「鬼の醜草」と読んだらしい。ところで、紫苑の別名も「鬼の醜草」なのである。この二つの花に関して、『今昔物語集』巻三一第二七に、「兄弟二人、萓草、紫苑を植ゑし話」という面白い話がある。
父親を亡くした二人の兄弟がいた。二人の父親を慕う心が強かったので時が流れても、忘れることが出来なかった。二人は、墓へ行っては、我が身の憂えや嘆きを、涙を流しながら、まるで生きている親に向かっているように語りかけていた。
歳月が流れ、やがてこの二人は朝廷に仕えるようになった。兄は、私を顧みて堪え難いことがあったので、それを忘れるために、その花を「見ると人は思いを忘れる」といわれている萓草（わすれぐさ）を父の墓に植えた。その後、弟が、兄を墓参り誘っても行かなくなった。弟は、このことを嘆いて、兄が親を思う心を忘れても、自分は忘れまいと決心し、紫苑を墓の辺りに植えた。紫苑は、「それを見る人は心に思うことを忘れない」と言われていた。弟は、いよいよ忘れることがなかったという。
さらに歳月が流れても、弟は墓に通っていた。ある時、墓の中から、「我は汝の親のかばねを守る鬼である。恐れることはない。我はまたお前を守ろうと思う。」という声が聞こえてきた。弟は、恐怖のため答えることも出来なかった。すると、鬼は、「汝が親を恋い慕う気持ちは、年月がたっても変わらない。兄も同じく親を恋しく思い悲しんでいたように見えたが、思いを忘れる草を植えて、その験を得た。お前は、紫苑を植えて、それを見てその験が得た。しかれば、我は、親を恋しく思う心にたいそう感心した。我は鬼の身であるが、慈悲の心を持っている。そこで我は、汝のために、その日に起こることを、夢で教えてやろう。」といって、その声は消えた。
その後、弟は、その日に起きることを、夢で見るようになったという。それゆえ、嬉しい事があった者は紫苑を植えて常にそれを見るべし、憂えがある者は萓草を植えてそれを常に見るべし、と語り伝えられているということだ。
石川淳の『紫苑物語』は、澁澤龍彦が、以下のように評す傑作である。
さて､みずから敵を欲するところの精神の運動が､ただ純粋に弁証法的に展開するだけで､そのまま一遍の美しいロマネスクを織りなしたかのような感をいだかしめるのが名作『紫苑物語』であろう｡
野口武彦が『江戸がからになる日』で、指摘しているように、上記の今昔物語集の説話が、石川淳『紫苑物語』の典拠の一つになっている。
「紫苑はものをおぼえさせる草、いつまでもわすれさせぬ草ぢゃ」と『紫苑物語』の主人公、国の守宗頼はいう。無双の弓に名手、宗頼が放つ「殺の矢」に射伏せられたむくろの夥しい血を吸った地面には、つぎつぎと紫苑が植えられて秋ごとに花をつけるだろう。紫苑。古俗の音では、しをに。
ー（中略）ー
とはいえ、宗頼がこの物語中ではじめてみる草は決して紫苑ではない。自分の前に立ちはだかる岩山に登り、おのれの分身平太に邂逅した宗頼は、あたりに茂った草の名を相手に問い、「わすれ草」であると教えられる。平太はいう。「ここに来ては、世の中のことはみなわすれなくてはならぬ」と。
また、野口は、この説話に登場する墓に住みついて「かばねを守る鬼」から、『紫苑物語』の「鬼の歌」が発想されたのではないかと指摘している。澁澤龍彦が、「石川淳氏の小説には、かように日本古典や民俗学上の故事をさりげなく散りばめたものがあって、ふとそれに気がつくと、目から鱗の落ちる思いをすることがある」と述べているように、このような典拠の一つを知ると、作品の味わいも増すような気がする。
2008年07月30日
思想心理学教育講座 第九回 「弱い者をいじめるべし」
どんな強者と見える人にも、人間である以上弱点があって、そこを突っつけば、もろくぶっ倒れるものですが、私がここで「弱い者」というのは、むしろ弱さをすっかり表に出して、弱さを売り物にしている人間のことです。この代表的なのが太宰治という小説家でありまして、彼は弱さを最大の財産にして、弱い青年子女の同情共感をひき、果てはその悪影響で、「強いほうが悪い」というような間違った劣等感まで人に与えて、そのために太宰の弟子の田中英光などという、お人よしの元オリンピック選手の巨漢は、自分が肉体的に強いのは文学的才能のないことだと勘違いして、太宰の後を追って自殺してしまいました。これは弱者が強者をいじめ、ついに殺してしまった恐るべき実例です。
ところで私は、こういう実例を、生物界の法則に反したデカダンな例と認めます。
一方には、又、こういう例があります。むやみと、「強きをくじき、弱気を助く」という格言を信奉して、強いものにはばかに挑発的態度をして、吹っ掛ける必要もない喧嘩を吹っ掛け、弱者に対しては、やたらに兄貴ぶって、小遣いをふんだんにやり、自己流にネコかわいがりをして相手の迷惑もかまわず、ついには皆に嫌われる人がいる。これも生物界の法則に反した、デカダンな態度であって、わざとらしいやり方です。このほうの例としては、戦後のアメリカのやり方がいい例で、グレアム・グリーンは「大人しいアメリカ人」という小説で、見事にこのアメリカ的性格をからかっています。
強者の弱者に対する態度は、生物界には一つしかないのです。それが「弱肉強食」であり、もっと上品な言い方をすれば「弱い者いじめ」であります。子供は正直ですから、不具者や病人を平気でバカにして、からかいます。
小さな例ですが、アメリカ映画には、その清教徒主義の禁令があって、小人というものが出てきません。少なくとも劇の中心で役を演ずることはありません。しかしフランス映画には平気で出てきて、コクトーの映画などでは、小人の俳優が惨めな役を演じます。これはフランスには、まだ小人をおもちゃにする残酷な中世の精神が生き生きと残っているからです。
しかし不具者や病人は、弱さを売り物にしているわけではなく、やむをえず弱さに生きなければならぬ不幸な気の毒な人たちですから、ここでは除外して、別に不具者でも病人でもないのに、むやみと、「私は弱いのです。かわいそうな人間です。私をいじめないでください」という顔をしたがる人のことに限定しましょう。
こういう弱者こそ、皆さん、我々は積極的にいじめるべきなのであります。さあ、奴らを笑い、バカにし、徹底的にいじめてやりましょう。弱者を笑うというのは、もっとも健康的な精神です。
諸兄諸姉の友達に一人、自殺志願者がいるとします。彼がある日、青い顔をして、ふらりとあなたを訪ねてきます。
「何だ。また自殺の話か」
「そうなんだ。ぼくはもうこの過酷な生に耐えられない」
「ばか野郎。死ぬなら早く死んでしまえ」
「そう簡単に死ねればこんなに悩まないんだが」
「死んじまえ。死んじまえ。なんなら、僕の前で毒でも飲んでみないか。僕はまだ、服毒自殺っていうのを、みたことないから、ここで一杯やりながら、ゆっくり見物するよ」
「君なんかに僕の気持ちはわからんよ」
「わからんやつのところへどうしてくるんだ」
そのうちにあなたは、こいつが、ひたすらいじめてもらいたくて、あなたのところへ姿をあらわすのに気がつきます。そこでほおげたの一つもパンと張ってやって、
「貴様みたいなひまじんと付き合う暇はねえや。出てゆけ。もう二度と来るな」
と追い出してやります。でも大丈夫。死ぬ死ぬというやつで、本当に死ぬのはめったにいない。彼は命拾いをし、あなたは弱い者いじめの楽しみを味わい、両方の得になる。しかし実際にこんな場面にぶつかると、我々はなかなか颯爽とは行かず、下手に同情して相手の自惚れを刺激し、自惚れた揚句に彼は本当に自殺し、あなたは後味の悪い思いをするという、両方損になる場合が多い。
始終めそめそしている男がある。抒情詩を読んだり、自分でも下手な抒情詩をつくったり、しかもしょっちゅう失恋して、またその愚痴を方々へふりまき、何となく伏し目がちで、何かといえばきざなセリフを吐き、冗談を言ってもどこか陰気で、「僕はどうも気が弱くて」とすぐ同情をひきたがり、自分をだめな人間と思っているくせに妙な女々しいプライドを持ち、悲しい映画を見ればすぐ泣き、昔の悲しい思い出話を何度も繰り返し、やきもち妬きのくせに善意の権化みたいにふるまい、いじらしいほど世話好きで……、こういうタイプの弱い男は、一人は必ず、諸兄諸姉の周辺にいるでしょう。こういう男をいじめるのこそ、人生最大の楽しみの一つです。
「へん、また失恋しやがったな。いい気味だ」
「そんなにいじめるなよ」
「何だ。そのボタン穴にくっつけてる鼻くそみたいなものは」
「彼女が去年くれたすみれの花だよ」
「ばかばかしい。そんなもの捨てちまえ。胸糞の悪い」
とあなたはそのすみれをむしり取って、地べたに投げ捨てて、唾をひっかけてやる。
「あっ、何をするんだ」
「悔しかったら、おれを殴って来い」
「殴るなんてそんな。君が友情で、そんなことをしたのが、僕には分かっているんだもの。僕を思い出から自由にしようと思って、花を踏んづけてくれたんだな。ありがとう（と泣く）」
「何を、このバカヤロー。ふざけたことを言うな」
いじめているのに、友情などと誤解されては迷惑至極ですから、あなたは即座にこぶしを固めて彼を殴ります。
「あっ、いたた」
「もうひとつ、ぽかり」
「あっ、いたた。……（泣きながら）でも、ありがとう」
「殴られてお礼を言うやつがあるか、阿呆」
「いや、僕にはわかるんだよ。君の友情の鉄拳が。……僕をきっぱり立ち直らせようと思って、心では泣きながら、僕を殴ってくれたんだな。その気持ちわかるんだよ。僕も何とか立ち直らなくちゃいけないと思うんだけど」
あなたはもうすっかりむしゃくしゃして、気持ちが悪くなるが、弱い者いじめの快感には替えられない。しかしもう殴っても無駄ですから、今度は言葉でいじめてやります。
「お前みたいなひょーろくだまは、何度女に惚れたって、ふられるのが関の山だよ。鏡でも見て良く研究しろよ。しょっちゅう泣きっ面をして、からっとした顔をしていたためしがない。せめて金でもあればいいが、安月給で昼飯はラーメンばっかり食ってるくせに。それに何だい、インテリ面して、読めもしないくせに、原稿なんか抱えて歩いて。週刊雑誌の方がよっぽど気が利いてらぁ。お前みたいな人間のカスは、早くガス管でも咥えてお陀仏した方が世のため人のためだよ」
「でもねえ。（としばらく考えて）それほど言われても、まだ諦められないところを見ると、あれは本当の恋だったんだねえ」
皆さん、この勝負はどちらの勝ちでしょうか。
ところで私は、こういう実例を、生物界の法則に反したデカダンな例と認めます。
一方には、又、こういう例があります。むやみと、「強きをくじき、弱気を助く」という格言を信奉して、強いものにはばかに挑発的態度をして、吹っ掛ける必要もない喧嘩を吹っ掛け、弱者に対しては、やたらに兄貴ぶって、小遣いをふんだんにやり、自己流にネコかわいがりをして相手の迷惑もかまわず、ついには皆に嫌われる人がいる。これも生物界の法則に反した、デカダンな態度であって、わざとらしいやり方です。このほうの例としては、戦後のアメリカのやり方がいい例で、グレアム・グリーンは「大人しいアメリカ人」という小説で、見事にこのアメリカ的性格をからかっています。
強者の弱者に対する態度は、生物界には一つしかないのです。それが「弱肉強食」であり、もっと上品な言い方をすれば「弱い者いじめ」であります。子供は正直ですから、不具者や病人を平気でバカにして、からかいます。
小さな例ですが、アメリカ映画には、その清教徒主義の禁令があって、小人というものが出てきません。少なくとも劇の中心で役を演ずることはありません。しかしフランス映画には平気で出てきて、コクトーの映画などでは、小人の俳優が惨めな役を演じます。これはフランスには、まだ小人をおもちゃにする残酷な中世の精神が生き生きと残っているからです。
しかし不具者や病人は、弱さを売り物にしているわけではなく、やむをえず弱さに生きなければならぬ不幸な気の毒な人たちですから、ここでは除外して、別に不具者でも病人でもないのに、むやみと、「私は弱いのです。かわいそうな人間です。私をいじめないでください」という顔をしたがる人のことに限定しましょう。
こういう弱者こそ、皆さん、我々は積極的にいじめるべきなのであります。さあ、奴らを笑い、バカにし、徹底的にいじめてやりましょう。弱者を笑うというのは、もっとも健康的な精神です。
諸兄諸姉の友達に一人、自殺志願者がいるとします。彼がある日、青い顔をして、ふらりとあなたを訪ねてきます。
「何だ。また自殺の話か」
「そうなんだ。ぼくはもうこの過酷な生に耐えられない」
「ばか野郎。死ぬなら早く死んでしまえ」
「そう簡単に死ねればこんなに悩まないんだが」
「死んじまえ。死んじまえ。なんなら、僕の前で毒でも飲んでみないか。僕はまだ、服毒自殺っていうのを、みたことないから、ここで一杯やりながら、ゆっくり見物するよ」
「君なんかに僕の気持ちはわからんよ」
「わからんやつのところへどうしてくるんだ」
そのうちにあなたは、こいつが、ひたすらいじめてもらいたくて、あなたのところへ姿をあらわすのに気がつきます。そこでほおげたの一つもパンと張ってやって、
「貴様みたいなひまじんと付き合う暇はねえや。出てゆけ。もう二度と来るな」
と追い出してやります。でも大丈夫。死ぬ死ぬというやつで、本当に死ぬのはめったにいない。彼は命拾いをし、あなたは弱い者いじめの楽しみを味わい、両方の得になる。しかし実際にこんな場面にぶつかると、我々はなかなか颯爽とは行かず、下手に同情して相手の自惚れを刺激し、自惚れた揚句に彼は本当に自殺し、あなたは後味の悪い思いをするという、両方損になる場合が多い。
始終めそめそしている男がある。抒情詩を読んだり、自分でも下手な抒情詩をつくったり、しかもしょっちゅう失恋して、またその愚痴を方々へふりまき、何となく伏し目がちで、何かといえばきざなセリフを吐き、冗談を言ってもどこか陰気で、「僕はどうも気が弱くて」とすぐ同情をひきたがり、自分をだめな人間と思っているくせに妙な女々しいプライドを持ち、悲しい映画を見ればすぐ泣き、昔の悲しい思い出話を何度も繰り返し、やきもち妬きのくせに善意の権化みたいにふるまい、いじらしいほど世話好きで……、こういうタイプの弱い男は、一人は必ず、諸兄諸姉の周辺にいるでしょう。こういう男をいじめるのこそ、人生最大の楽しみの一つです。
「へん、また失恋しやがったな。いい気味だ」
「そんなにいじめるなよ」
「何だ。そのボタン穴にくっつけてる鼻くそみたいなものは」
「彼女が去年くれたすみれの花だよ」
「ばかばかしい。そんなもの捨てちまえ。胸糞の悪い」
とあなたはそのすみれをむしり取って、地べたに投げ捨てて、唾をひっかけてやる。
「あっ、何をするんだ」
「悔しかったら、おれを殴って来い」
「殴るなんてそんな。君が友情で、そんなことをしたのが、僕には分かっているんだもの。僕を思い出から自由にしようと思って、花を踏んづけてくれたんだな。ありがとう（と泣く）」
「何を、このバカヤロー。ふざけたことを言うな」
いじめているのに、友情などと誤解されては迷惑至極ですから、あなたは即座にこぶしを固めて彼を殴ります。
「あっ、いたた」
「もうひとつ、ぽかり」
「あっ、いたた。……（泣きながら）でも、ありがとう」
「殴られてお礼を言うやつがあるか、阿呆」
「いや、僕にはわかるんだよ。君の友情の鉄拳が。……僕をきっぱり立ち直らせようと思って、心では泣きながら、僕を殴ってくれたんだな。その気持ちわかるんだよ。僕も何とか立ち直らなくちゃいけないと思うんだけど」
あなたはもうすっかりむしゃくしゃして、気持ちが悪くなるが、弱い者いじめの快感には替えられない。しかしもう殴っても無駄ですから、今度は言葉でいじめてやります。
「お前みたいなひょーろくだまは、何度女に惚れたって、ふられるのが関の山だよ。鏡でも見て良く研究しろよ。しょっちゅう泣きっ面をして、からっとした顔をしていたためしがない。せめて金でもあればいいが、安月給で昼飯はラーメンばっかり食ってるくせに。それに何だい、インテリ面して、読めもしないくせに、原稿なんか抱えて歩いて。週刊雑誌の方がよっぽど気が利いてらぁ。お前みたいな人間のカスは、早くガス管でも咥えてお陀仏した方が世のため人のためだよ」
「でもねえ。（としばらく考えて）それほど言われても、まだ諦められないところを見ると、あれは本当の恋だったんだねえ」
皆さん、この勝負はどちらの勝ちでしょうか。
2008年07月28日
小熊英二に寄せる脱力
たまたま「小熊英二さんに聞く 戦後日本のナショナリズムと公共性 『七人の侍』をみて、『これが戦後思想だな』と思った」をざっと読んで、脱力した。最初に断っておくが、小熊英二を批判したりくさしたいわけでは毛頭ない。と、うんこ投げの防御を張っておく。
まず、このインタビューなんだろ？と思ったらブントなわけね。もうそれだけで、脱力する。が、ま、読んでみるかぁ。と読んで、さらに脱力。よくわかんないですぅ。
私は「〈日本人〉の境界」はざっと読んだが、「〈民主〉と〈愛国〉」は読んでいない。大池文雄とかに触れているのだろうか？だったら、ちと読んでみたい気もするけど、「〈日本人〉の境界」の感じだったら、なんか読むだけ無駄だなという印象がある。
インタビューを読んでさらに、小林よしのりに対抗している部分があるらしいと知ってさらに関心を失う。
意外に吉本隆明への言及が多いのに不自然というか変な感じもした。ちと引用も長くなるが、こんな感じ。
吉本隆明についていうと、彼の著作を集中的に読んだのは、今回が初めてです。理解しようとできる限り努力したつもりですが、正直なところ好きにはなれなかったですね。もしかしたら、20歳前後で読めば、もうちょっと違ったかもしれない。でも30代後半になって初めて読んだのでは、50年代から60年代の吉本さんが使う「反逆の息子」とか「壊滅的な徹底闘争」とかいうフレーズには、共鳴できないと感じた。
ピエール・ブルデューは、フーコーを批評して「青少年向きの哲学者」と言っています。フーコーはそれだけの存在だったとは思いませんが、60年代の吉本さんの影響のあり方については、ちょっとそういう印象を感じますね。ああいう戦闘的ロマンティシズムというか、「壊滅的な徹底闘争」で「擬制」を倒せみたいな思想として吉本さんの著作が若者にうけてしまったというのは、全共闘や新左翼を政治的な観点から評価すれば――文化的な観点から評価すれば別の基準があるでしょうし、「政治」と「文化」がそうはっきり分けられるのかという疑問もあるでしょうが――幸せなことではなかったと思う。
私が『〈民主〉と〈愛国〉』で述べた見方では、吉本隆明の思想が残したおもな政治的効果は、党派や社会運動、あるいは「公」の解体を促進したということだった。彼の力で解体したわけではないけれども、解体を促進する触媒としての機能を果たしたと思います。
ふーんというか、橋爪が「ひんやり」というのはわからないではないなと思う。くさしみたいに聞こえてはいけないが、「理解しようとできる限り努力したつもりですが、正直なところ好きにはなれなかったですね。」という論理破綻した独白の本音が面白いといえば面白い。理解することと好きっていうことは違うでしょと、ちとツッコミを入れたくなるが、小熊英二という人は理解する＝好きになるというのがけっこう前提なのだろう。それと、ようするにここで彼が独白していることは、「理解できなかった」ということだ。不思議なのだが、理解できなければ、理解できないとしておく、ということはできなかったのだろうか。皮肉を言いたいのではなく、そういうところに小林秀雄流の批判精神はないだろうし、彼がひんやりと扱っている吉本隆明だが、むしろ彼は表層的にパセティックに見えながら、理解できない点を強引にまとめることには禁欲的だ（ま、これには異論は多いか）。
ちとうかつだったのだが、橋爪大三郎が小熊英二をさらっと引き合いにしている背景は、小熊英二が吉本の「共同幻想論」など主要著作について「まるで読めてないよ、おまえさん」、という諭しの意味合いがあったのだろう。考えてみると、「共同幻想論」を抜きにして語れてしまう吉本隆明ってなんなのだろうという気はする。だが、当時の吉本に思いをいたすと、いずれ70年代安保には関心なかったし、あのトンマな状況に対峙するには、もっと原理的なものへの追及が必要だと感じていたのだ。吉本すらこの状況がトンマなものだ（昼寝していろと言っていた）と理解していたのだから、そういう状況性だけを小熊英二に取り上がられると、往年の吉本ならなんというだろうか。にっこり笑うだけだったりして。
こうしてみると、小熊英二が捕らえたのは吉本隆明ではなく、「60年代の吉本さんの影響のあり方」という現象なのだろう。だから、それは「吉本隆明の思想が残したおもな政治的効果」と同義なのだが、そういう認識ができるのは、ある種社会学的な装置の結果でしかなく、装置によってアウトプットは変わるのだから、その装置、つまり方法論をきちんと突っつくと小熊英二の言説というのは意外なほど簡単に壊れるのではないかという印象を持つ。
と言いつつ、そうした批判にはそれほど関心はない。また、小熊英二のこのまとめ方が妥当でないとも思わない。小林秀雄風に「青年は深く隠れる」と言ってもお笑いにしかならないだろう。
だから、次の小熊英二の言い方は、明白なパラドックスなのだ。ちと長いが引用する。
ただ吉本さんの文章は、おそらく当時から相当に誤読もされていただろうとも思います。だから吉本さんの思想が社会運動を解体したというと、反論する人もいるでしょう。あるいは『〈民主〉と〈愛国〉』で、吉本さんがじつは戦中に兵役を免れたことに罪責感をもっていて、その罪責感から「死ぬまで闘う皇国青年」みたいなイメージを作っていたことを書いたことで、自分の吉本イメージとちがって驚いたという人もいると思います。
そういう人に幾人かお会いしましたが、そのときはこういう言い方をしています。吉本という人は、要するに思想家というより詩人なんだと。吉本さんの文章は、私が書いたようにその内容をダイジェストして、要するにこういうことを言っていますみたいな形にしてしまうと、特有の魅力が発揮されなくなってしまう。詩のあらすじを書いてしまうようなものですから。だから、「確かにあらすじはそうかもしれないけれど、私のあの感動した心はどうしてくれる」みたいなことをいう人の気持は、否定しません。
だけどそれは、あくまで文学的な次元の話です。もし吉本さんや、あるいは江藤淳さんもそうですが、ずっと詩や文芸評論だけを書いていたら、私はこういう研究で彼らをとりあげる必要はなかったでしょうし、批判をすることもなかったでしょう。しかし彼らが政治評論を書いて、そういう方面で影響を与えてしまった以上は、当人も批判の俎上に乗せられることを覚悟するべきだと思います。
「吉本さんの文章」とは吉本隆明という存在を意味する、あたりまえだが。それでその存在が誤読されたというのは、装置として矛盾していて、なにも小熊英二の解読が正しいわけではない。もって回ったことを言ったが、ようするに小熊英二が理解できない余剰の部分へのある種の配慮にバイアスがかかっているだけだ。ただ、ちょっとやり口が汚いなと思うのは、「あくまで文学的な次元の話です」とするあたりだ。小熊英二はもしかすると知らないのかもしれないが、昭和天皇が訪米したころのことだ。昭和天皇が戦争責任についてマスコミで問われたことがあった。あのときの天皇の回答を想起すればいいだろう。それに「文学的な次元」こそが政治であったことなど、同じくブントの柄谷行人などが口酸っぱくなるほど言っていたではないか。と、皮肉っぽくなったか、こういう切り口はダメなんだよというのこそ、戦後思想の一つの帰結なのだ。
とはいえ、話が循環するが、小熊英二の総括がそれほど、社会思想史として間違っているわけでもない。ただ、そのありかたは、彼には意外だろうが、小林よしのりの「戦争論」がそれほど間違っているわけでもないというのと同じことだ。どちらも、超時代的な装置のアウトプットに過ぎないからであり、そこに生きられた歴史存在としての自己が組み込まれていないのだ。
話は私事になる。私が吉本隆明から人生を変えるほどの影響を受けたことがたった一つある。シモーヌ・ヴェイユを論じる際、彼女の工場日記に触れたところで、吉本はこんなふうなコメントを付けた。知識人はその知識ゆえに自己滅却の衝動に駆られるがそれは間違っている。私が27歳の時だ。インテル80186の直接メモリー転送のコードを書いている時のことだ。私は私の知識の滅却にかかっていた。私は人生に失敗したし、無となった。完全に無となるのがいいのだ。生きていても死んでいても大差がなく、あとはただ宮台真司が後にいうような強度だけがあった。とはいえ、私が特別でもなんでもない。多かれ少なかれ人間なんてそんなものだ。
私はとりあえず自分の知を滅ぼすことを止めることにした。だからといって社会になんの影響があるわけでもない。だが、そうしたときから、社会は私の知の抹殺に刃をむき出したように感じた。そういえば、吉本はこうも言った。人がその存在をかけて生きるなら、たった一本の道しか残されていない。それはほとんど神学だろう。吉本隆明は私の司祭でもあったのだろう。だが、それを信仰と呼ぶにせよ、他に道がなかった。
政治思想というものがなんであるかはよくわからない。ただ、吉本に支えられて生きてきた人間たちの総括をするには、歴史はまだ成熟していないようにも思う。
まず、このインタビューなんだろ？と思ったらブントなわけね。もうそれだけで、脱力する。が、ま、読んでみるかぁ。と読んで、さらに脱力。よくわかんないですぅ。
私は「〈日本人〉の境界」はざっと読んだが、「〈民主〉と〈愛国〉」は読んでいない。大池文雄とかに触れているのだろうか？だったら、ちと読んでみたい気もするけど、「〈日本人〉の境界」の感じだったら、なんか読むだけ無駄だなという印象がある。
インタビューを読んでさらに、小林よしのりに対抗している部分があるらしいと知ってさらに関心を失う。
意外に吉本隆明への言及が多いのに不自然というか変な感じもした。ちと引用も長くなるが、こんな感じ。
吉本隆明についていうと、彼の著作を集中的に読んだのは、今回が初めてです。理解しようとできる限り努力したつもりですが、正直なところ好きにはなれなかったですね。もしかしたら、20歳前後で読めば、もうちょっと違ったかもしれない。でも30代後半になって初めて読んだのでは、50年代から60年代の吉本さんが使う「反逆の息子」とか「壊滅的な徹底闘争」とかいうフレーズには、共鳴できないと感じた。
ピエール・ブルデューは、フーコーを批評して「青少年向きの哲学者」と言っています。フーコーはそれだけの存在だったとは思いませんが、60年代の吉本さんの影響のあり方については、ちょっとそういう印象を感じますね。ああいう戦闘的ロマンティシズムというか、「壊滅的な徹底闘争」で「擬制」を倒せみたいな思想として吉本さんの著作が若者にうけてしまったというのは、全共闘や新左翼を政治的な観点から評価すれば――文化的な観点から評価すれば別の基準があるでしょうし、「政治」と「文化」がそうはっきり分けられるのかという疑問もあるでしょうが――幸せなことではなかったと思う。
私が『〈民主〉と〈愛国〉』で述べた見方では、吉本隆明の思想が残したおもな政治的効果は、党派や社会運動、あるいは「公」の解体を促進したということだった。彼の力で解体したわけではないけれども、解体を促進する触媒としての機能を果たしたと思います。
ふーんというか、橋爪が「ひんやり」というのはわからないではないなと思う。くさしみたいに聞こえてはいけないが、「理解しようとできる限り努力したつもりですが、正直なところ好きにはなれなかったですね。」という論理破綻した独白の本音が面白いといえば面白い。理解することと好きっていうことは違うでしょと、ちとツッコミを入れたくなるが、小熊英二という人は理解する＝好きになるというのがけっこう前提なのだろう。それと、ようするにここで彼が独白していることは、「理解できなかった」ということだ。不思議なのだが、理解できなければ、理解できないとしておく、ということはできなかったのだろうか。皮肉を言いたいのではなく、そういうところに小林秀雄流の批判精神はないだろうし、彼がひんやりと扱っている吉本隆明だが、むしろ彼は表層的にパセティックに見えながら、理解できない点を強引にまとめることには禁欲的だ（ま、これには異論は多いか）。
ちとうかつだったのだが、橋爪大三郎が小熊英二をさらっと引き合いにしている背景は、小熊英二が吉本の「共同幻想論」など主要著作について「まるで読めてないよ、おまえさん」、という諭しの意味合いがあったのだろう。考えてみると、「共同幻想論」を抜きにして語れてしまう吉本隆明ってなんなのだろうという気はする。だが、当時の吉本に思いをいたすと、いずれ70年代安保には関心なかったし、あのトンマな状況に対峙するには、もっと原理的なものへの追及が必要だと感じていたのだ。吉本すらこの状況がトンマなものだ（昼寝していろと言っていた）と理解していたのだから、そういう状況性だけを小熊英二に取り上がられると、往年の吉本ならなんというだろうか。にっこり笑うだけだったりして。
こうしてみると、小熊英二が捕らえたのは吉本隆明ではなく、「60年代の吉本さんの影響のあり方」という現象なのだろう。だから、それは「吉本隆明の思想が残したおもな政治的効果」と同義なのだが、そういう認識ができるのは、ある種社会学的な装置の結果でしかなく、装置によってアウトプットは変わるのだから、その装置、つまり方法論をきちんと突っつくと小熊英二の言説というのは意外なほど簡単に壊れるのではないかという印象を持つ。
と言いつつ、そうした批判にはそれほど関心はない。また、小熊英二のこのまとめ方が妥当でないとも思わない。小林秀雄風に「青年は深く隠れる」と言ってもお笑いにしかならないだろう。
だから、次の小熊英二の言い方は、明白なパラドックスなのだ。ちと長いが引用する。
ただ吉本さんの文章は、おそらく当時から相当に誤読もされていただろうとも思います。だから吉本さんの思想が社会運動を解体したというと、反論する人もいるでしょう。あるいは『〈民主〉と〈愛国〉』で、吉本さんがじつは戦中に兵役を免れたことに罪責感をもっていて、その罪責感から「死ぬまで闘う皇国青年」みたいなイメージを作っていたことを書いたことで、自分の吉本イメージとちがって驚いたという人もいると思います。
そういう人に幾人かお会いしましたが、そのときはこういう言い方をしています。吉本という人は、要するに思想家というより詩人なんだと。吉本さんの文章は、私が書いたようにその内容をダイジェストして、要するにこういうことを言っていますみたいな形にしてしまうと、特有の魅力が発揮されなくなってしまう。詩のあらすじを書いてしまうようなものですから。だから、「確かにあらすじはそうかもしれないけれど、私のあの感動した心はどうしてくれる」みたいなことをいう人の気持は、否定しません。
だけどそれは、あくまで文学的な次元の話です。もし吉本さんや、あるいは江藤淳さんもそうですが、ずっと詩や文芸評論だけを書いていたら、私はこういう研究で彼らをとりあげる必要はなかったでしょうし、批判をすることもなかったでしょう。しかし彼らが政治評論を書いて、そういう方面で影響を与えてしまった以上は、当人も批判の俎上に乗せられることを覚悟するべきだと思います。
「吉本さんの文章」とは吉本隆明という存在を意味する、あたりまえだが。それでその存在が誤読されたというのは、装置として矛盾していて、なにも小熊英二の解読が正しいわけではない。もって回ったことを言ったが、ようするに小熊英二が理解できない余剰の部分へのある種の配慮にバイアスがかかっているだけだ。ただ、ちょっとやり口が汚いなと思うのは、「あくまで文学的な次元の話です」とするあたりだ。小熊英二はもしかすると知らないのかもしれないが、昭和天皇が訪米したころのことだ。昭和天皇が戦争責任についてマスコミで問われたことがあった。あのときの天皇の回答を想起すればいいだろう。それに「文学的な次元」こそが政治であったことなど、同じくブントの柄谷行人などが口酸っぱくなるほど言っていたではないか。と、皮肉っぽくなったか、こういう切り口はダメなんだよというのこそ、戦後思想の一つの帰結なのだ。
とはいえ、話が循環するが、小熊英二の総括がそれほど、社会思想史として間違っているわけでもない。ただ、そのありかたは、彼には意外だろうが、小林よしのりの「戦争論」がそれほど間違っているわけでもないというのと同じことだ。どちらも、超時代的な装置のアウトプットに過ぎないからであり、そこに生きられた歴史存在としての自己が組み込まれていないのだ。
話は私事になる。私が吉本隆明から人生を変えるほどの影響を受けたことがたった一つある。シモーヌ・ヴェイユを論じる際、彼女の工場日記に触れたところで、吉本はこんなふうなコメントを付けた。知識人はその知識ゆえに自己滅却の衝動に駆られるがそれは間違っている。私が27歳の時だ。インテル80186の直接メモリー転送のコードを書いている時のことだ。私は私の知識の滅却にかかっていた。私は人生に失敗したし、無となった。完全に無となるのがいいのだ。生きていても死んでいても大差がなく、あとはただ宮台真司が後にいうような強度だけがあった。とはいえ、私が特別でもなんでもない。多かれ少なかれ人間なんてそんなものだ。
私はとりあえず自分の知を滅ぼすことを止めることにした。だからといって社会になんの影響があるわけでもない。だが、そうしたときから、社会は私の知の抹殺に刃をむき出したように感じた。そういえば、吉本はこうも言った。人がその存在をかけて生きるなら、たった一本の道しか残されていない。それはほとんど神学だろう。吉本隆明は私の司祭でもあったのだろう。だが、それを信仰と呼ぶにせよ、他に道がなかった。
政治思想というものがなんであるかはよくわからない。ただ、吉本に支えられて生きてきた人間たちの総括をするには、歴史はまだ成熟していないようにも思う。
2008年07月27日
百合
まことの瞳でものを見る人は、人の王のさかえの極みをも、野の百合の一つにくらべようとはしませんでした。それは、人のさかえをば、人のたくらむように、しばらくまことのちから、かぎりないいのちからはなしてみたのです。もしそのひかりの中でならば、人のおごりからあやしい雲と湧きのぼる、塵の中のただ一抹も、神の子のほめたもうた、聖なる百合に劣るものではありません。
百合は、日本では古くから愛されており、万葉集で既に詠われている。
さ百合花ゆりも逢はむと思へこそ今のまさかもうるはしみすれ
この「さゆり」は、ヤマユリをさすという説もある。また、百合は、日本において室内で飾られた記録が残る最初の花で、宴の席で、頭に巻かれたと云われている。大伴家持は、その様子を以下のように詠っている。
油火の光りに見ゆる吾がかづらさ百合の花の笑まはしきかも
夏目漱石の『それから』では、百合の花が効果的に使われている。
三千代は何にも答へずに室の中に這入て来た。セルの単衣の下に襦袢を重ねて、手に大きな白い百合の花を三本許提げてゐた。其百合をいきなり洋卓の上に投げる様に置いて、其横にある椅子へ腰を卸した。さうして、結つた許の銀杏返を、構はず、椅子の脊に押し付けて、
「あゝ苦しかつた」と云ひながら、代助の方を見て笑つた。代助は手を叩いて水を取り寄せ様とした。三千代は黙つて洋卓のを指した。其所には代助の食後の嗽をする硝子の洋盃があつた。中に水が二口許残つてゐた。
「奇麗なんでせう」と三千代が聞いた。
『それから』は、森田芳光によって映画化されている。主人公の代助は松田優作、三千代は藤谷美和子が演じていた。これを見た友人が、三千代がはきはきしないので、いらいらするといったのが何故か印象に残っている。DVD化はされていないようである。
漱石の作品の中では、『夢十夜』が一番好きである。その「第一夜」に、美しい百合が登場する。
すると石の下から斜に自分の方へ向いて青い茎が伸びて来た。見る間に長くなってちょうど自分の胸のあたりまで来て留まった。と思うと、すらりと揺ぐ茎の頂に、心持首を傾けていた細長い一輪の蕾が、ふっくらと弁を開いた。真白な百合が鼻の先で骨に徹えるほど匂った。そこへ遥の上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。
「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。
百合は、西洋では、純潔と完全さの象徴であり、平和、神性、無垢を表す。ミランダ・ブルース=ミットフォード 『サイン・シンボル事典』には以下のような記述がある。
ユリは聖母マリアと結びつけられ、その白さは罪によって汚されない聖母の純潔を表す。大天使ガブリエルが持つか、花瓶の中にあるかのどちらかで、受胎告知の絵画でよく描かれる。ユリは復活祭の花であり、時に最後の審判の剣とともに見られる。
2008年07月26日
カラスアゲハ
散りぬれば後はあくたになる花を思ひ知らずもまどふてふかな
ませにさく花にむつれて飛ぶ蝶の羨しきもはかなかりけり
羽が傷ついており、弱っているようだった。名前は、カラスだが、黒地のうえの青が美しい蝶である。日本全国に普通に生息している。
蝶と言えば誰しも荘子の「胡蝶の夢」を連想する。芭蕉も例外でなく、以下のような俳句を詠んでいる。
起きよ起きよ我が友にせん寝る胡蝶
胡蝶にもならで秋経る菜虫哉
君や蝶我や荘子が夢心
子供とは不思議な存在で、傷ついた小動物に涙を流すかと思えば、手の中の生命をもてあそびたいという衝動に駆られる場合もある。映画『ミツバチのささやき』では、主人公の姉のイザベルが、突然、抱いていた猫の首を絞める場面があった。また、北原白秋の「二人」という詩には、壊れた人形の首や、美しいちぎれた蝶の黒い羽に対する偏愛が現れている。傷ついた蝶の羽には人を引きつける不思議な魅力が存在する。
夏の日の午後…………
瓦には紫の
薊ひとりかゞやき、
そことなしに雲が浮ぶ。
酒倉の壁は
二階の女部屋にてりかへし、
痛いやうに針が動く、
印度更紗のざくろの實。
暑い日だつた。
默つて縫ふ女の髪が、
その汗が、溜息が、
奇異な切なさが…………
惱ましいひるすぎ、
人形の首はころがり、
黒い蝶の斷れた翅、
その粉の光る美くしさ、怪しさ。
たつた二人、…………
何か知らぬこころに
九歳の兒が顫へて
そつと閉めた部屋の戸。
2008年07月25日
フラ・フィリッポ・リッピ『聖母子と二天子』
僕の一番好きなマリア像である。端正な少しうつむいた横顔、繊細な筆致で描かれた髪、精密に描かれた衣装や、髪飾り、そして、何と言っても、甘美でありながら、メランコリックな感じのする瞳が素晴らしい。ルネサンス期を代表する上品で優雅な肖像画である。最も美しい聖母子像と言っても過言ではなかろう。フィリッポ・リッピが、弟子のボッティチェリに与えた影響の大きさは、この優美な表情を見れば一目瞭然である。また、背景の処理などレオナルド・ダ・ヴィンチにも影響を与えたとも言われている。
コジモ・デ・メディチ時代のフィレンツェで、フィリッポ・リッピは、フラ・アンジェリコと並ぶ人気画家であった。二人とも修道士であり、フラ・アンジェリコは、その名前のとおり、「天使のような画家」と呼ばれていたが、それとは対照的に、フィリッポ・リッピは破戒僧であった。ヴァザーリの『ルネサンス画人伝』には、以下のように書かれている。
噂によると、このフィリッポはたいへんな女好きで、自分の気に入った女を見かけると、その女をものにすることができるなら、自分の持物はすべてくれてやるような男だった。またそうした手段で女をものにすることができないときは、女の肖像を絵に描いたが、それは絵を描くことによって自分の恋の焔を消すためであった。彼は色欲に溺れることのはなはだしい男で、そうした情にとらわれた時は、自分が手がけた作品にたいしてもほとんど、あるいは全然注意を払わない始末であった。
フィリッポ・リッピの最も有名なスキャンダルが、ルクレーツィア誘拐事件である。プラートに転居したフィリッポは、サンタ・マルゲリータ女子修道院の美しい修道女ルクレーツィア・ブーティに惚れ込んでしまう。はじめは、聖母子画のモデルを頼んでいたが、しだいに二人は愛し合うようになる。五十歳の時、フィリッポは「聖帯祭」におりる修道女の外出許可を利用し、彼女を自分の家に連れ込んでしまう。続いて、同じく修道女であったルクレーツィアの妹も彼の家に逃げ込んでくる。翌年、ルクレーツィアは、後に画家となるフィリッピーノ・リッピを生む。実際は、駆け落ちであったが、世間からは誘拐と見なされてしまう。その後、教会が、修道女を連れ戻そうとしたので、ルクレーツィア達は、再度正式に修道女としての請願を立てたが、再び恋人のところへ逃げ出してしまう。この事件がフィレンツェにまで伝わり、フィリッポは、「夜間犯罪および修道院取締局」によって告発されてしまう。
また、ヴァザーリ『ルネサンス画人伝』には、真偽のほどは疑わしいが、面白い話が載っているので紹介する。フィリッポ・リッピは、ある日友人と船遊びをしていると、ムーア人の海賊に捕まってしまい、北アフリカのバルバリーへ連れて行かれてしまう。
フィリッポは、火の消えた炭を取ると、それでもって、白い壁にムーア風の服装をした親分の全身像を描いたのである。そのことは他の奴隷の口からたちまち親分の耳に伝わった。というのは、この地方ではデッサンも絵画も行われていないので、その肖像画は皆の目に奇蹟のように映じたからである。それで長い間捕われの身であったフィリッポは、それがもとで鎖を解かれて自由の身となることができた。まことにこの絵画の徳というものは大きなものである。
このような怪しげな話が載っているため、ヴァザーリの『画人伝』は、信憑性に問題があると言われるが、読み物としては、面白い本である。
2008年07月24日
ルリタテハ
さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでゐてくつきりとした
影を落としてゐるのでした。
腐果や樹液を好み、普通は花にはとまらない。子供の時、アゲハは捕まえたが、ルリタテハな捕まえたことがない。 敏感な蝶で、飛ぶ速さなどはアゲハ等より早いようだ。
蝶は、象徴的な昆虫なので、世界各国において様々な意味を持つ。
毛虫から変身するために、蝶は再生と復活の象徴とみなされている。サナギから現れるので、肉体を離れた魂を表す。古代ギリシャ人にとって蝶は魂を表し、中国人と日本人のとっては、不滅と喜びの両方を表す。中国美術では、桃の花と組み合わされた蝶は長寿を象徴し、２羽の蝶は幸福な結婚を意味する。
蝶は、その飛ぶという性質故に鳥と結びついている場合がある。そして、鳥も、ヤマトタケルが、死後白鳥となったという伝説が象徴するように、死者の魂と結びつく場合が多い。泉鏡花『春晝・春晝後刻』には、以下のような魅惑的な一節がある。
見た處でも、しよんぼりした脚にも氣が入つて居るやうですけれど、今しがたは、すつかり魂を拔き取られて、ふは／＼浮き上つて、あのまゝ、鳥か、蝶々にでもなりさうですね。心細いやうですね。
暖い、優しい、柔かな、すなほな風にさそはれて、鼓草の花が、ふつと、綿になつて消えるやうに魂がなりさうなんですもの。極樂と云ふものが、アノ確に目に見えて、而して死んで行くと同一心持なんでせう。
萩原朔太郎に、「恐ろしく憂鬱なる」という奇妙な詩がある。最初は白い蝶が登場するが、いつの間にか黒い蝶になっている。少し長くなるが全文引用する。
恐ろしく憂鬱なる
こんもりとした森の木立のなかで
いちめんに白い蝶類が飛んでゐる
むらがる むらがりて飛びめぐる
てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ
みどりの葉のあつぼつたい隙間から
ぴか ぴか ぴか ぴかと光る そのちひさな鋭どい翼
いつぱいに群がつてとびめぐる てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ
ああ これはなんといふ憂鬱な幻だ
このおもたい手足 おもたい心臟
かぎりなくなやましい物質と物質との重なり
ああ これはなんといふ美しい病氣だらう
つかれはてたる神經のなまめかしいたそがれどきに
私はみる ここに女たちの投げ出したおもたい手足を
つかれはてた股や乳房のなまめかしい重たさを
その鮮血のやうなくちびるはここにかしこに
私の青ざめた屍體のくちびるに
額に 髮に 髮の毛に 股に 胯に 腋の下に 足くびに 足のうらに
みぎの腕にも ひだりの腕にも 腹のうへにも押しあひて息ぐるしく重なりあふ
むらがりむらがる 物質と物質との淫猥なるかたまり
ここにかしこに追ひみだれたる蝶のまつくろの集團
ああこの恐ろしい地上の陰影
このなまめかしいまぼろしの森の中に
しだいにひろがつてゆく憂鬱の日かげをみつめる
その私の心はばたばたと羽ばたきして
小鳥の死ぬるときの醜いすがたのやうだ
ああこのたへがたく惱ましい性の感覺
あまりに恐ろしく憂鬱なる。
註。「てふ」「てふ」はチヨーチヨーと讀むべからず。蝶の原音は「て・ふ」である。蝶の翼の空氣をうつ感覺を音韻に寫したものである。
2008年07月23日
三池崇史演出『夜叉ヶ池』
『SABU~さぶ~』や『着信アリ』の三池崇史監督の舞台初演出作品。泉鏡花の原作を長塚圭史が脚色し、美術を会田誠が担当している。メインキャストは、武田真治（萩原晃）、田畑智子（百合）、松田龍平（学円）、松雪泰子（白雪）の四人。
まず目に付くのが、舞台装置のシンプルさである。舞台中央に白で川が描かれており、その左側に鐘楼、右側に庫裡があるだけである。衣装も、村人、妖怪は、それぞれ、みな同じ衣装で、無国籍なシンプルなものを基本としている。また、村人と妖怪を同じ役者が演じるなど少し変わった演出法を取っている。この単純さが、見るものに想像する余地を与えるので、役者の演技が、その場面にはまった時は、凝った舞台よりも幻想的な場面を作り出すことが出来る。そのぶん、役者の力量が問われることになるのだが。
脚本は、かなり原作に忠実で、台詞を現代風になおしたものが基本となっている。時々、くだらないギャグが入ったり、繰り返しが多いので、少し間延びした感じになっている。本編130分は長すぎであろう。役者には、期待していなかったが、武田真治と松田龍平が、軽い感じながら、意外に良い味を出していた。松田演じる学円は、原作と違い、いかにもいたずら好きなやんちゃ小僧という感じであった。役者の個性を生かした、妥当な脚色だろう。予想外だったのは、田畑智子である。キャスティングを知ったときは、明らかなミスキャストだと思ったが、意外に違和感が少なかった。少し、トロくさい感じがするので、神秘的な美女という設定には、少し無理があるが、原作よりユーモラスに脚色することによって、田畑の個性を上手に生かしていた。彼女は、TVドラマよりは、舞台の方が向いているのかもしれない。
逆に、松雪泰子は、今一つだった。まあ、責任の半分は、彼女ではなく、脚本や演出にあるのだが、松雪演じる白雪は、神秘的な魔界の姫君に見えないのである。劇中の白雪に「ずらーってのがいいの！」というセリフがある。あの原作にない場面は、松雪にはぴったりであるが、白雪には相応しくない。あれでは、せいぜい、少し柄の悪い我が儘なお嬢様といったところであろう。役者の肉体性を強調するためのシンプルな舞台と衣装が、彼女の存在感を強調するため、人間くさくなり、魔界の美女には見えないのである。逆に、凝った衣装などで、役者の個性を消去した方が、魔界の姫君らしくなったのではないだろうか。白雪の存在がこの作品の要なのだが、松雪演じる白雪では、観客を彼方へは導いてくれない。では、代わりに誰なら、演じられるのかと聞かれても、適当な女優は、思い浮かばない。異界を感じさせる演技など無茶な要求であることは、分かっているのだが、やはり、不満である。
DVDを見終わった後、久しぶりに、波津彬子の『鏡花夢幻』を読み返した。この作品集は、鏡花の戯曲を漫画化したもので、『天守物語』『夜叉ヶ池』『海神別荘』が収録されている。初読の時は、それ程感心しなかったのだが、今回は、面白かった。この百頁足らずのマンガの方が、百三十分の舞台より出来が良い。妖怪の眷属の描写に違和感があるが、波津描くところの白雪は、神秘的で、気品があり、凛としている。マンガという表現媒体の方が想像力を働かせる余地があるので、このような幻想的な作品には向いているのであろう。
まあ、だいぶ悪口を書いたが、この舞台の出来は、悪くはない。70点といったところであろう。帯にあったように「アートシーン最大の事件」というのは誇大広告であるが、お金を払って見る価値は十分にある。鏡花原作の映像化作品としては、出来の良い部類に入ると思う。
まず目に付くのが、舞台装置のシンプルさである。舞台中央に白で川が描かれており、その左側に鐘楼、右側に庫裡があるだけである。衣装も、村人、妖怪は、それぞれ、みな同じ衣装で、無国籍なシンプルなものを基本としている。また、村人と妖怪を同じ役者が演じるなど少し変わった演出法を取っている。この単純さが、見るものに想像する余地を与えるので、役者の演技が、その場面にはまった時は、凝った舞台よりも幻想的な場面を作り出すことが出来る。そのぶん、役者の力量が問われることになるのだが。
脚本は、かなり原作に忠実で、台詞を現代風になおしたものが基本となっている。時々、くだらないギャグが入ったり、繰り返しが多いので、少し間延びした感じになっている。本編130分は長すぎであろう。役者には、期待していなかったが、武田真治と松田龍平が、軽い感じながら、意外に良い味を出していた。松田演じる学円は、原作と違い、いかにもいたずら好きなやんちゃ小僧という感じであった。役者の個性を生かした、妥当な脚色だろう。予想外だったのは、田畑智子である。キャスティングを知ったときは、明らかなミスキャストだと思ったが、意外に違和感が少なかった。少し、トロくさい感じがするので、神秘的な美女という設定には、少し無理があるが、原作よりユーモラスに脚色することによって、田畑の個性を上手に生かしていた。彼女は、TVドラマよりは、舞台の方が向いているのかもしれない。
逆に、松雪泰子は、今一つだった。まあ、責任の半分は、彼女ではなく、脚本や演出にあるのだが、松雪演じる白雪は、神秘的な魔界の姫君に見えないのである。劇中の白雪に「ずらーってのがいいの！」というセリフがある。あの原作にない場面は、松雪にはぴったりであるが、白雪には相応しくない。あれでは、せいぜい、少し柄の悪い我が儘なお嬢様といったところであろう。役者の肉体性を強調するためのシンプルな舞台と衣装が、彼女の存在感を強調するため、人間くさくなり、魔界の美女には見えないのである。逆に、凝った衣装などで、役者の個性を消去した方が、魔界の姫君らしくなったのではないだろうか。白雪の存在がこの作品の要なのだが、松雪演じる白雪では、観客を彼方へは導いてくれない。では、代わりに誰なら、演じられるのかと聞かれても、適当な女優は、思い浮かばない。異界を感じさせる演技など無茶な要求であることは、分かっているのだが、やはり、不満である。
DVDを見終わった後、久しぶりに、波津彬子の『鏡花夢幻』を読み返した。この作品集は、鏡花の戯曲を漫画化したもので、『天守物語』『夜叉ヶ池』『海神別荘』が収録されている。初読の時は、それ程感心しなかったのだが、今回は、面白かった。この百頁足らずのマンガの方が、百三十分の舞台より出来が良い。妖怪の眷属の描写に違和感があるが、波津描くところの白雪は、神秘的で、気品があり、凛としている。マンガという表現媒体の方が想像力を働かせる余地があるので、このような幻想的な作品には向いているのであろう。
まあ、だいぶ悪口を書いたが、この舞台の出来は、悪くはない。70点といったところであろう。帯にあったように「アートシーン最大の事件」というのは誇大広告であるが、お金を払って見る価値は十分にある。鏡花原作の映像化作品としては、出来の良い部類に入ると思う。
2008年07月22日
宮沢賢治と中里介山
宮沢賢治は、『大菩薩峠』の大ファンであり、「大菩薩峠の歌」という作品を作っている。
大菩薩峠の歌
二十日月かざす刃は音無しの
虚空も二つきりさぐる
その竜之介
風もなき修羅のさかいを行き惑ひ
すすきすがるるいのじ原
その雲のいろ
日は沈み鳥はねぐらにかえれども
ひとはかえらぬ修羅の旅
その竜之介
『大菩薩峠』は中里介山の代表作で、「音無しの構え」を使う盲目の剣士机竜之助を主人公とした未完の長編である。一大ブームを巻き起こし、五回映画化されている。主人公の机竜之助は、大河内伝次郎、片岡千恵蔵、市川雷蔵、仲代達矢が演じている。なかでも、片岡千恵蔵、市川雷蔵が演じたものが人気があるようで、DVD化されている。残念なことに、僕は、どの作品も見たことがない。個人的には、市川雷蔵のものに少し関心がある。
賢治と介山は、一見すると何の関わりもなさそうであるが、一つ共通するものがある。それは、法華経に対する信仰である。
賢治は、大正九年ころから特に田中智学に傾倒する。田中智学は、明治から昭和にかけて活躍した法華信者で、国柱会の創設者である。幼くして父母を亡くした田中は、日蓮宗のお寺で得度を受け、日蓮宗の教学を学ぶ。しかし、やがてその教学に疑いを持ち、還俗して、在家仏教の立場から活動をはじめる。日本で最初の仏教結婚式を制定したことでも有名である。中里介山も、この田中智学に傾倒していたのである。田中は、他にも、思想家の高山樗牛、日本宗教学会を設立した姉崎正治等に影響を与えたと言われている。
賢治は田中の主宰する国柱会に入会し、父親にも日蓮宗への改宗を迫るが容れられず、突如無断上京し、国柱会を訪れる。家出同然の無名の若者が突然訪ねてきたので、国柱会側は困惑し、対応に当たった高知尾智耀は、何とかなだめようとして、賢治に得意の文才を使って法華経の精神を広めるように勧めたという。賢治はこれを切っ掛けに法華文学の創作を決意する。有名な「雨ニモマケズ手帳」には、 以下のようなメモがある。
◎高知尾師ノ奬メニヨリ、
１、法華文学ノ創作
名ヲアラハサズ、
報ヲウケズ、
貢高ノ心ヲ離レ、
その後、本郷菊坂町に下宿して筆耕をしながら、布教活動等に加わり、夜は猛然と童話を多作しはじめる。
中里介山も賢治同様に、田中智学の影響を受けており、『大菩薩峠』の背後には、仏教思想が存在する。介山自身も「大乗小説」と呼んでおり、ひたすらこの作品の完成を目指したが腸チフスのため未完に終わる。『大菩薩峠』は、多角的な面から解読できる作品で、今村仁司『「大菩薩峠」を読む―峠の旅人』という本は、面白かった。ただ、肝心の、『大菩薩峠』は、六巻で挫折してしまった。
大菩薩峠の歌
二十日月かざす刃は音無しの
虚空も二つきりさぐる
その竜之介
風もなき修羅のさかいを行き惑ひ
すすきすがるるいのじ原
その雲のいろ
日は沈み鳥はねぐらにかえれども
ひとはかえらぬ修羅の旅
その竜之介
『大菩薩峠』は中里介山の代表作で、「音無しの構え」を使う盲目の剣士机竜之助を主人公とした未完の長編である。一大ブームを巻き起こし、五回映画化されている。主人公の机竜之助は、大河内伝次郎、片岡千恵蔵、市川雷蔵、仲代達矢が演じている。なかでも、片岡千恵蔵、市川雷蔵が演じたものが人気があるようで、DVD化されている。残念なことに、僕は、どの作品も見たことがない。個人的には、市川雷蔵のものに少し関心がある。
賢治と介山は、一見すると何の関わりもなさそうであるが、一つ共通するものがある。それは、法華経に対する信仰である。
賢治は、大正九年ころから特に田中智学に傾倒する。田中智学は、明治から昭和にかけて活躍した法華信者で、国柱会の創設者である。幼くして父母を亡くした田中は、日蓮宗のお寺で得度を受け、日蓮宗の教学を学ぶ。しかし、やがてその教学に疑いを持ち、還俗して、在家仏教の立場から活動をはじめる。日本で最初の仏教結婚式を制定したことでも有名である。中里介山も、この田中智学に傾倒していたのである。田中は、他にも、思想家の高山樗牛、日本宗教学会を設立した姉崎正治等に影響を与えたと言われている。
賢治は田中の主宰する国柱会に入会し、父親にも日蓮宗への改宗を迫るが容れられず、突如無断上京し、国柱会を訪れる。家出同然の無名の若者が突然訪ねてきたので、国柱会側は困惑し、対応に当たった高知尾智耀は、何とかなだめようとして、賢治に得意の文才を使って法華経の精神を広めるように勧めたという。賢治はこれを切っ掛けに法華文学の創作を決意する。有名な「雨ニモマケズ手帳」には、 以下のようなメモがある。
◎高知尾師ノ奬メニヨリ、
１、法華文学ノ創作
名ヲアラハサズ、
報ヲウケズ、
貢高ノ心ヲ離レ、
その後、本郷菊坂町に下宿して筆耕をしながら、布教活動等に加わり、夜は猛然と童話を多作しはじめる。
中里介山も賢治同様に、田中智学の影響を受けており、『大菩薩峠』の背後には、仏教思想が存在する。介山自身も「大乗小説」と呼んでおり、ひたすらこの作品の完成を目指したが腸チフスのため未完に終わる。『大菩薩峠』は、多角的な面から解読できる作品で、今村仁司『「大菩薩峠」を読む―峠の旅人』という本は、面白かった。ただ、肝心の、『大菩薩峠』は、六巻で挫折してしまった。
2008年07月21日
倉橋由美子『偏愛文学館』
倉橋由美子の書評集である。『群像』等に連載した書評を集めたもので、漱石、鴎外、澁澤龍彦、コクトー、カフカ、宮部みゆき、杉浦日向子等、古今東西の名作からマンガまで、彼女が偏愛する39冊が紹介されている。二百数頁で、この冊数なので、当然、短い文章ばかりではある。肩の力を抜いて書いた軽めのエッセイであるが、所々で、差し込まれる、気の利いた一言が愉しい。
漱石の作品のなかでは、『明暗』に至る真面目な小説群よりも、『我が輩は猫である』に「拍手喝采」し、『夢十夜』を「愛でるべきもの」とする見解は、僕も同意見である。ただ、これで終わらないところが、倉橋由美子である。 以下のような文章を読むと嬉しくなる。
漱石は小説家としても実に多様な可能性をもっていた人でした。弟子にとりかこまれた大文豪なんかにならず、大学の先生でもしながら気楽に小説を書いていれば、もっと型破りで面白い小説を沢山書いたのではないかと思います。
また、漱石と鴎外を比較して面白いことを言っている。
鴎外の小説が読みにくいように思われて敬遠されるのは、日本人の嫌いな「理屈」があるからかもしれません。それに引き替え、漱石の小説は、「とりあえずビール」といって誰もが飲むビールのように抵抗の少ないもので、読めば一応渇きが癒やされるような気がします。鴎外の小説はお茶、それもかなり渋味の強い緑茶の類で、時にはアール・グレイのような。あるいは薬かスパイスのような癖の強い匂いもする、という厄介な代物です。晩年の史伝ものには漢方の煎じ薬といった趣があります。
このようなエスプリのきいた文章をもう読めないと思うと、とても残念である。
嬉しいことに、マルセル・シュオブ『架空の伝記』Vies imaginaires が取り上げてあった。倉橋は、「入手困難、というより不可能といった本をとりあげるのは気が引けるのですが、偏愛するものをあげる以上、これを省くわけにはいきません。」とことわったうえで、以下のように紹介している。
ただし、これは架空の人物の伝記ではありません。原題が正確にあらわしているように、「想像力によってつくられたいくつかの人生」を書いたもので、伝記とは元来そういうものです。勿論、ここに架空の人物が混じっていてもいいわけで、『アラビアンナイト』に登場して毒殺されたことになっている魔法使いスーフラーもとりあげられています。作者にその人物のvie（人生）が想像できて、その人物の顔が描ければいいのです。エンペドクレスから始まる全二十二編、どれも美味な一品料理に仕上がっていて、玩味に耐えます。
幸いなことに、僕は、シュオブ小説全集のこの巻だけは持っている。倉橋は、言及していないが、『架空の伝記』に収められているパオロ・ウッチェロのエピソードが、澁澤龍彦の「鳥と少女」の典拠の一つなのである。僕は、澁澤のコントの中ではこれが、一番好きなので、書店で偶然、『架空の伝記』を見かけたとき、迷わず購入した。今、奥付をあらためて見たら、限定９７０部とあった。１９８０年の刊行であるから、発売されて１０年はたっていたはずである。それなのに書店の本棚に並んでいたのである。今でも、良く手に入ったと思う。その書店は、こだわった海外文学の本が、揃っており、ホフマン全集などがおいてあったことを覚えている。十年間売れないような本を置いている書店なので、少しして、つぶれてしまった。
また倉橋が、『架空の伝記』と共に紹介しているジョン・オーブリー『名士小伝』も、とても面白そうな本なのだが、Amazonで、検索してみると、在庫切れであった。
倉橋は、澁澤龍彦『高丘親王航海記』を取り上げて、「近来めったにお目にかかれない傑作の一つで、小説が好きな人ならこれを見逃す手はありません。」と述べている。三頁しかない短い文章なので、目新しい記述はないが、これも僕が好きな作品だったので、久しぶりに、読み返したくなった。
ところで、本書のタイトル『偏愛文学館』であるが、これは、倉橋が、澁澤の『偏愛的作家論』を意識して、つけたのではないだろうか。
漱石の作品のなかでは、『明暗』に至る真面目な小説群よりも、『我が輩は猫である』に「拍手喝采」し、『夢十夜』を「愛でるべきもの」とする見解は、僕も同意見である。ただ、これで終わらないところが、倉橋由美子である。 以下のような文章を読むと嬉しくなる。
漱石は小説家としても実に多様な可能性をもっていた人でした。弟子にとりかこまれた大文豪なんかにならず、大学の先生でもしながら気楽に小説を書いていれば、もっと型破りで面白い小説を沢山書いたのではないかと思います。
また、漱石と鴎外を比較して面白いことを言っている。
鴎外の小説が読みにくいように思われて敬遠されるのは、日本人の嫌いな「理屈」があるからかもしれません。それに引き替え、漱石の小説は、「とりあえずビール」といって誰もが飲むビールのように抵抗の少ないもので、読めば一応渇きが癒やされるような気がします。鴎外の小説はお茶、それもかなり渋味の強い緑茶の類で、時にはアール・グレイのような。あるいは薬かスパイスのような癖の強い匂いもする、という厄介な代物です。晩年の史伝ものには漢方の煎じ薬といった趣があります。
このようなエスプリのきいた文章をもう読めないと思うと、とても残念である。
嬉しいことに、マルセル・シュオブ『架空の伝記』Vies imaginaires が取り上げてあった。倉橋は、「入手困難、というより不可能といった本をとりあげるのは気が引けるのですが、偏愛するものをあげる以上、これを省くわけにはいきません。」とことわったうえで、以下のように紹介している。
ただし、これは架空の人物の伝記ではありません。原題が正確にあらわしているように、「想像力によってつくられたいくつかの人生」を書いたもので、伝記とは元来そういうものです。勿論、ここに架空の人物が混じっていてもいいわけで、『アラビアンナイト』に登場して毒殺されたことになっている魔法使いスーフラーもとりあげられています。作者にその人物のvie（人生）が想像できて、その人物の顔が描ければいいのです。エンペドクレスから始まる全二十二編、どれも美味な一品料理に仕上がっていて、玩味に耐えます。
幸いなことに、僕は、シュオブ小説全集のこの巻だけは持っている。倉橋は、言及していないが、『架空の伝記』に収められているパオロ・ウッチェロのエピソードが、澁澤龍彦の「鳥と少女」の典拠の一つなのである。僕は、澁澤のコントの中ではこれが、一番好きなので、書店で偶然、『架空の伝記』を見かけたとき、迷わず購入した。今、奥付をあらためて見たら、限定９７０部とあった。１９８０年の刊行であるから、発売されて１０年はたっていたはずである。それなのに書店の本棚に並んでいたのである。今でも、良く手に入ったと思う。その書店は、こだわった海外文学の本が、揃っており、ホフマン全集などがおいてあったことを覚えている。十年間売れないような本を置いている書店なので、少しして、つぶれてしまった。
また倉橋が、『架空の伝記』と共に紹介しているジョン・オーブリー『名士小伝』も、とても面白そうな本なのだが、Amazonで、検索してみると、在庫切れであった。
倉橋は、澁澤龍彦『高丘親王航海記』を取り上げて、「近来めったにお目にかかれない傑作の一つで、小説が好きな人ならこれを見逃す手はありません。」と述べている。三頁しかない短い文章なので、目新しい記述はないが、これも僕が好きな作品だったので、久しぶりに、読み返したくなった。
ところで、本書のタイトル『偏愛文学館』であるが、これは、倉橋が、澁澤の『偏愛的作家論』を意識して、つけたのではないだろうか。
2008年07月20日
気になるがまとまらないことなど
シュワルナゼ大統領が辞任表明 グルジア
今回の問題では流血は避けられたようだが、事態の今後の推移はわからない。つい「石油」と考えがちだが、もっと複眼的な思考が必要になるだろう。と、いって、なにかまとまって文を起こせるほどの考えもない。
官房副長官補をメキシコへFTA派遣
なんか「そもさん、せっぱ」だな。日本は追いつめられているなと思う。メキシコに足下を見られているかぁ。日本国民はこの問題にほとんど危機感持っていない。なぜだぁ。
ノモンハン事件の遺骨収集許可が出る
そうだったのかとうかつ。3500人の日本兵の遺骨が残っているらしい。ひどいものだ。とも思うが、沖縄戦ですら、実はまだまだ遺骨は収集されていない。ただ、忘れられているのだ。『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』を残した若泉敬も晩年は狂ったように遺骨収集に当たっていた。狂ったのかもしれない。狂っているのは他の日本人なのに。
デジタル放送
この話をブログに書こうかちと悩む。馬鹿馬鹿しい話題だよな。
韓国扶安のデモ
これも気にはなるがどう書いていいのかちと迷っている。難しい。
KBSとSBSがフジテレビの真似
特定番組に対するひょう窃の是非を抜きにしても、両国の放送の慣行上、初めてこのような事件が起こった事実は注目に値する。 ７０〜８０年代の放送業界では、日本の番組をまねるため「釜山に出張する」という言葉が公然と知られていた。 こうした風土のもとで育ってきた放送業界の従事者に、日本の番組を模倣することに対する無神経さが、知らず知らずのうちに広まっていることを否認するのは困難だ。
そういうことなのだ。ちなみに、パクリの代表は「トリビアの泉」らしい。へぇ〜62点。
しかし、こうした現象はなにも韓国だけではない。米国も似たようなものだ。つい、私なども日本の民放娯楽はくだらね〜とかぬかすが、実際はほぼ無敵だ。日本は「お馬鹿」において、英米に劣らない「お馬鹿」文化国なのだ。
朝日新聞など今朝の社説でデジタル放送にからんでこういう。
番組がつまらない。テレビ局は不祥事続きで信用できない。そんな声も高まるなかでのデジタル化はテレビ離れにつながる恐れもある。視聴者の理解を得ながら課題を一つ一つ解決していってほしい。
よく言うよな、朝日新聞。
アマゾンを支えるのはロリコン
アマゾンの売れ筋情報。現在。
1.萌える英単語もえたん
2.週刊わたしのおにいちゃん 第3号
3.週刊わたしのおにいちゃん 第1号
4.週刊わたしのおにいちゃん 第4号
5.週刊わたしのおにいちゃん 第2号
6.週刊わたしのおにいちゃん 第5号
7.加護亜依写真集
8.はじめよう！ プチ起業 DO BOOKS
9.バカの壁
10.今日の5の2
11.アミターバ―無量光明
12.得する生活―お金持ちになる人の考え方
13.ブラックジャックによろしく 7 がん医療編 3 (7)
世も末ってやつだね。もっとも末法は平安時代からだが。
それにしてもロリだな。パソコン雑誌ネットランナーとかもそっちに走り出したし、パソコン本みたいなものも来年はロリ路線だろうな。
この手の話題で「旦那はロリコン？」が面白い。だんなロリコンだったという話、とまとめてはつまらないのだが。源氏物語の世界から日本は一貫してロリコンかも。
この現象、いろいろ理屈はつくのだろうが、事態は変わらないだろう。
今回の問題では流血は避けられたようだが、事態の今後の推移はわからない。つい「石油」と考えがちだが、もっと複眼的な思考が必要になるだろう。と、いって、なにかまとまって文を起こせるほどの考えもない。
官房副長官補をメキシコへFTA派遣
なんか「そもさん、せっぱ」だな。日本は追いつめられているなと思う。メキシコに足下を見られているかぁ。日本国民はこの問題にほとんど危機感持っていない。なぜだぁ。
ノモンハン事件の遺骨収集許可が出る
そうだったのかとうかつ。3500人の日本兵の遺骨が残っているらしい。ひどいものだ。とも思うが、沖縄戦ですら、実はまだまだ遺骨は収集されていない。ただ、忘れられているのだ。『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』を残した若泉敬も晩年は狂ったように遺骨収集に当たっていた。狂ったのかもしれない。狂っているのは他の日本人なのに。
デジタル放送
この話をブログに書こうかちと悩む。馬鹿馬鹿しい話題だよな。
韓国扶安のデモ
これも気にはなるがどう書いていいのかちと迷っている。難しい。
KBSとSBSがフジテレビの真似
特定番組に対するひょう窃の是非を抜きにしても、両国の放送の慣行上、初めてこのような事件が起こった事実は注目に値する。 ７０〜８０年代の放送業界では、日本の番組をまねるため「釜山に出張する」という言葉が公然と知られていた。 こうした風土のもとで育ってきた放送業界の従事者に、日本の番組を模倣することに対する無神経さが、知らず知らずのうちに広まっていることを否認するのは困難だ。
そういうことなのだ。ちなみに、パクリの代表は「トリビアの泉」らしい。へぇ〜62点。
しかし、こうした現象はなにも韓国だけではない。米国も似たようなものだ。つい、私なども日本の民放娯楽はくだらね〜とかぬかすが、実際はほぼ無敵だ。日本は「お馬鹿」において、英米に劣らない「お馬鹿」文化国なのだ。
朝日新聞など今朝の社説でデジタル放送にからんでこういう。
番組がつまらない。テレビ局は不祥事続きで信用できない。そんな声も高まるなかでのデジタル化はテレビ離れにつながる恐れもある。視聴者の理解を得ながら課題を一つ一つ解決していってほしい。
よく言うよな、朝日新聞。
アマゾンを支えるのはロリコン
アマゾンの売れ筋情報。現在。
1.萌える英単語もえたん
2.週刊わたしのおにいちゃん 第3号
3.週刊わたしのおにいちゃん 第1号
4.週刊わたしのおにいちゃん 第4号
5.週刊わたしのおにいちゃん 第2号
6.週刊わたしのおにいちゃん 第5号
7.加護亜依写真集
8.はじめよう！ プチ起業 DO BOOKS
9.バカの壁
10.今日の5の2
11.アミターバ―無量光明
12.得する生活―お金持ちになる人の考え方
13.ブラックジャックによろしく 7 がん医療編 3 (7)
世も末ってやつだね。もっとも末法は平安時代からだが。
それにしてもロリだな。パソコン雑誌ネットランナーとかもそっちに走り出したし、パソコン本みたいなものも来年はロリ路線だろうな。
この手の話題で「旦那はロリコン？」が面白い。だんなロリコンだったという話、とまとめてはつまらないのだが。源氏物語の世界から日本は一貫してロリコンかも。
この現象、いろいろ理屈はつくのだろうが、事態は変わらないだろう。
2008年07月19日
花田清輝『室町小説集』
花田清輝の『室町小説集』は、後南朝の歴史を背景に、三種の神器の1つ、「曲玉」の争奪戦を描いた作品である。エッセイ風の文体で書かれた虚実入り乱れた小説で、「『吉野葛』注」「画人伝」「開かずの箱」「力婦伝」「伊勢氏家訓」の５編からなる連作である。
第一話の「『吉野葛』注」は、名作として名高い谷崎潤一郎の『吉野葛』に注をするという形式で書かれている。花田は、谷崎の『吉野葛』について以下のように述べている。
たとえばかれの傑作の一つにかぞえられる『吉野葛』という小説にしても、南朝の子孫である自天王という人物を主人公にした歴史小説をかくつもりで、いろいろ文献をあさったあげく、実地調査のために吉野川をさかのぼり、わざわざ、主人公の住んでいた大台ヶ原山の山奥まででかけていった作者が、流域の風物をながめながら、回想にふけっているうちに、いつのまにか、かんじんの自天王の話のほうはあきらめてしまい、その地方の出身者である、友だちの死んだ母親の話に熱中しはじめる、といったようなていたらくである。
『吉野葛』は、だいたいこのような話である。素直に筋を追うならば、花田が述べているように、後南朝を題材にした歴史小説を書こうとして失敗する話であり、それを枠として、谷崎お得意の母恋譚が語られている。従って、ストーリー的には、そんなに面白い作品ではない。しかし、これは、永井荷風の『墨東綺譚』と同じように、メタフィクション的要素があるので、筋を追うより、分析的に読んだ方が面白い。実際、花田は、谷崎が、投げ捨てた歴史小説の材料を拾い上げ、「『吉野葛』注」という面白い作品を書いている。
谷崎は、『吉野葛』で、後南朝の歴史について、以下のように語っている。
ごくあらましを掻い摘んでいうと、普通小中学校の歴史の教科書では、南朝の元中九年、北朝の明徳三年、将軍義満の代に両統合体の和議が成立し、いわゆる吉野朝なるものはこの時を限りとして、後醍醐天皇の延元元年以来五十余年で廃絶したとなっているけれども、そののち嘉吉三年九月二十三日の夜半、楠二郎正秀という者が大覚寺統の親王万寿寺宮を奉じて、急に土御門内裏を襲い、三種の神器を偸み出して叡山に籠った事実がある。この時、討手の追撃を受けて宮は、自害し給い、神器のうち宝剣と鏡とは取り返されたが、神璽のみは南朝方の手に残ったので、楠氏越智氏の一族等は更に宮の御子お二方を奉じて義兵を挙げ、伊勢から紀井、紀井から大和と、次第に北朝軍の手の届かない奥吉野の山間僻地へ逃れ、一の宮を自天王と崇め、二の宮を征夷大将軍に仰いで、年号を天靖と改元し、容易に敵の窺い知り得ない峡谷の間に六十余年も神璽を擁していたという。
花田は、この部分を引用したあと、「このくだりで、まず第一に疑問の点は、」というように、評論風の記述をし、その後、持明院統の後花園天皇が、盗まれた三種の神器のうち、剣と鏡はかろうじて取り戻したが、曲玉が後南朝の手に渡ったことに非常なショックを受けた理由を推測している。 花田によると、剣は源平合戦の時、既に失われており、鏡も度々の内裏の火災によって焼かれていて、「いまあるものは、いずれもホンモノによく似たニセモノ」にすぎないが、「しかし、玉だけは、神代以来変わらない、正真正銘のホンモノ」だったからである。面白いのは、曲玉についての以下の記述である。
もっとも、その玉の正体をみたものは誰もいなかった。それは、つねに「しるしの御箱」のなかにしまいこまれており、その箱がいたむと、いたんだ箱ごと、あたらしい箱のなかにいれ、塵もはらってはならないとされていたのだ。―（中略）―なぜなら、みだりに凡夫が箱の蓋をあけると、たちまち眼がくらみ、鼻血が出て、気をうしなってしまう、といったような昔からの言いつたえがあったからである。
この段階では、「しるしの御箱」の中身である曲玉を見た者は誰も存在しない。第四話の「力婦伝」において、はじめて、その正体は明かされることになる。この曲玉の機能について、野口武彦は以下のように説明している。
ここで用いられる曲玉という小道具は、室町時代の社会情勢の問題性を読み解くための一種特別なインデックスとして機能している。いったんは後南朝の手に帰したその奪回をめぐって、北朝→将軍家→守護大名→地方豪族、と当時のヒエラルヒイのすべてがそれにまきこまれてゆく事の経過は、そのままただちに、室町時代の「転換期に特有の普遍的性格」、つまり転換期＝乱世のダイナミズムを照らし出しているのである
第一話の「『吉野葛』注」は、野口武彦が指摘しているように、谷崎の『吉野葛』をさかなにしながら、「五編中最後の『伊勢氏家訓』を除く四編の主要舞台になる奥吉野地方へと読者をいざなうためのたくみな仕掛け」となっているのである。
「『吉野葛』注」では、言及されていないが、赤松家の残党による襲撃と自天王の最後は、印象的なので、谷崎の文章を引用しておく。
また、『上月記』、『赤松記』等の記す所では、予め偽って南帝に降っていた間島彦太郎以下三十人の赤松家残党は、長禄元年十二月二日、大雪に乗じて不意に事を起こし、一手は大河内の自天王の御所を襲い、一手は神の谷の将軍の宮の御所に押し寄せた。王はおん自ら大刀を振って防がれたけれども、遂に賊のために斃れ給い、賊は王の御首と神璽とを奪って逃げる途中、雪に阻まれて伯母ヶ峰峠に行き暮れ、御首を雪の中に埋めて山中に一と夜を明かした。しかるに翌朝吉野十八郷の荘司等が追撃して来て奮戦するうち、埋められた王の御首が雪中より血を噴き上げたために、忽ちそれを見附け出して奪い返したという。
第二話の「画人伝」は、面白い話である。ここでは詳しく触れないが、赤松満祐が見る、首のない将軍の夢は秀逸である。また百鬼夜行についても言及されている。興味のある方は是非、ご一読ください。第三話の「開かずの箱」では、先ほど引用した「しるしの御箱」について詳しく語られている。そして第四話 「力婦伝」において、第一話で予告されていたように、自天王達の母親である山邨御前が主人公として登場する。彼女の荒唐無稽ぶりが面白い。 甲賀出身の山邨御前は、花田によると以下のような人物である。
しかし、わずか三年ばかりのあいだに、夫と二人の子供を、つぎつぎにうしない、にわかに天涯孤独の身となったからといって、かの女から、愁いに沈んだ室町時代の「上�瓠廚里垢�たを連想してはならないであろう。かの女は、人並みはずれた大女であることをのぞいては、ありふれた山村の女――つまり、当時の言葉でいえば、典型的な「わわしい女」だったのである。
しかし、こう述べていながら、花田の描き出す山邨御前は、ありふれた女どころか、人並みはずれた「力婦」なのである。彼女は、重さ五十貫以上の杉の丸太を一人で担ぐことも出来るのである。彼女のマムシ退治の場面は、とても面白いので引用する。
まず、草むらのなかで、ギロリギロリと眼をひからせている相手に向かって杖を噛ませて、黄いろい毒液を思いきり吐き出させ、つぎの瞬間、無造作に相手の口をこじあけて、二本の牙をバリバリともぎとってしまった。あるいは、相手のとびかかってくる頃合を見はからい、かの女自身が、もんどりを打って倒れ、パッと空中にとびあがってはみたものの、噛みつく目標を見うしなってまごまごしている相手の背骨を、したたか杖でなぐりつけ、折ってしまうようなこともあった。こうすると、相手は、もはや、二度とトグロをまくことができず、こちらの意のままに、いかようにも料理することができるのだ。
山邨御前は、一種のスーパーウーマンなのである。はたして、北朝方は、彼女が守る曲玉をいかにして手に入れるのであろうか。、、、、、、。
澁澤龍彦は、『思考の紋章学』に中で、『室町小説集』の魅力について以下のように述べている。
その二つのエピソードというのは、一つは『室町小説集』のなかの「画人伝」に出てくる百鬼夜行のそれであり、もう一つは「力婦伝」に出てくる井光のそれである。前者は室町時代に特有な、御伽草子の挿絵に出てくる器物のお化けのパレードのことであり、後者は『古事記』にも『日本書紀』にも出てくる、古代の吉野に住んでいたという有尾人、すなわち尾のある人間のことである。。―（中略）―歴史や文学のなかから、こういう変なものを掘り出してきて、それにスポットライトをあてようとする花田清輝の独特の嗅覚は、いつものことながら、まことに冴えていたと私は思う。
『室町小説集』は、ある程度、読者を選ぶ小説であるが、とても面白い作品である。しかし、残念ながら、講談社文芸文庫版は現在絶版であり、Amazonのマーケットプレイスでは、定価より高くなっている。僕は幸い、ハードカバー版の初版本をそれより安い値段で手に入れたが、こんなに興味深い本が簡単に手に入らない事はとても残念である。
花田清輝は、「『吉野葛』注」の冒頭で、谷崎潤一郎の『乱菊物語』について触れている。虚実入り乱れた未完の伝奇小説であるが、面白い作品である。はっきり言って、名作『吉野葛』よりも、こちらのほうが面白い。なかでも、印象に残るのが、花田も書いているようにアシカと馬の混血の「アシカ馬」である。現在文庫で入手可能なので、伝奇小説好きの方や、架空の動物好きの方にはお薦めである。
この作品とは、全く関係ないのだが、木原敏江の夢の碑シリーズ『雪紅皇子』は、後南朝（作中にはこの言葉は出てこない）の歴史を背景にした作品である。主人公は異形の力を持つ少女根姫（ねき）で、一の宮の自天王と二の宮も登場する。自天王の首が雪中より、血を噴き上げたという伝承を独自のイメージで解釈した伝奇物である。
第一話の「『吉野葛』注」は、名作として名高い谷崎潤一郎の『吉野葛』に注をするという形式で書かれている。花田は、谷崎の『吉野葛』について以下のように述べている。
たとえばかれの傑作の一つにかぞえられる『吉野葛』という小説にしても、南朝の子孫である自天王という人物を主人公にした歴史小説をかくつもりで、いろいろ文献をあさったあげく、実地調査のために吉野川をさかのぼり、わざわざ、主人公の住んでいた大台ヶ原山の山奥まででかけていった作者が、流域の風物をながめながら、回想にふけっているうちに、いつのまにか、かんじんの自天王の話のほうはあきらめてしまい、その地方の出身者である、友だちの死んだ母親の話に熱中しはじめる、といったようなていたらくである。
『吉野葛』は、だいたいこのような話である。素直に筋を追うならば、花田が述べているように、後南朝を題材にした歴史小説を書こうとして失敗する話であり、それを枠として、谷崎お得意の母恋譚が語られている。従って、ストーリー的には、そんなに面白い作品ではない。しかし、これは、永井荷風の『墨東綺譚』と同じように、メタフィクション的要素があるので、筋を追うより、分析的に読んだ方が面白い。実際、花田は、谷崎が、投げ捨てた歴史小説の材料を拾い上げ、「『吉野葛』注」という面白い作品を書いている。
谷崎は、『吉野葛』で、後南朝の歴史について、以下のように語っている。
ごくあらましを掻い摘んでいうと、普通小中学校の歴史の教科書では、南朝の元中九年、北朝の明徳三年、将軍義満の代に両統合体の和議が成立し、いわゆる吉野朝なるものはこの時を限りとして、後醍醐天皇の延元元年以来五十余年で廃絶したとなっているけれども、そののち嘉吉三年九月二十三日の夜半、楠二郎正秀という者が大覚寺統の親王万寿寺宮を奉じて、急に土御門内裏を襲い、三種の神器を偸み出して叡山に籠った事実がある。この時、討手の追撃を受けて宮は、自害し給い、神器のうち宝剣と鏡とは取り返されたが、神璽のみは南朝方の手に残ったので、楠氏越智氏の一族等は更に宮の御子お二方を奉じて義兵を挙げ、伊勢から紀井、紀井から大和と、次第に北朝軍の手の届かない奥吉野の山間僻地へ逃れ、一の宮を自天王と崇め、二の宮を征夷大将軍に仰いで、年号を天靖と改元し、容易に敵の窺い知り得ない峡谷の間に六十余年も神璽を擁していたという。
花田は、この部分を引用したあと、「このくだりで、まず第一に疑問の点は、」というように、評論風の記述をし、その後、持明院統の後花園天皇が、盗まれた三種の神器のうち、剣と鏡はかろうじて取り戻したが、曲玉が後南朝の手に渡ったことに非常なショックを受けた理由を推測している。 花田によると、剣は源平合戦の時、既に失われており、鏡も度々の内裏の火災によって焼かれていて、「いまあるものは、いずれもホンモノによく似たニセモノ」にすぎないが、「しかし、玉だけは、神代以来変わらない、正真正銘のホンモノ」だったからである。面白いのは、曲玉についての以下の記述である。
もっとも、その玉の正体をみたものは誰もいなかった。それは、つねに「しるしの御箱」のなかにしまいこまれており、その箱がいたむと、いたんだ箱ごと、あたらしい箱のなかにいれ、塵もはらってはならないとされていたのだ。―（中略）―なぜなら、みだりに凡夫が箱の蓋をあけると、たちまち眼がくらみ、鼻血が出て、気をうしなってしまう、といったような昔からの言いつたえがあったからである。
この段階では、「しるしの御箱」の中身である曲玉を見た者は誰も存在しない。第四話の「力婦伝」において、はじめて、その正体は明かされることになる。この曲玉の機能について、野口武彦は以下のように説明している。
ここで用いられる曲玉という小道具は、室町時代の社会情勢の問題性を読み解くための一種特別なインデックスとして機能している。いったんは後南朝の手に帰したその奪回をめぐって、北朝→将軍家→守護大名→地方豪族、と当時のヒエラルヒイのすべてがそれにまきこまれてゆく事の経過は、そのままただちに、室町時代の「転換期に特有の普遍的性格」、つまり転換期＝乱世のダイナミズムを照らし出しているのである
第一話の「『吉野葛』注」は、野口武彦が指摘しているように、谷崎の『吉野葛』をさかなにしながら、「五編中最後の『伊勢氏家訓』を除く四編の主要舞台になる奥吉野地方へと読者をいざなうためのたくみな仕掛け」となっているのである。
「『吉野葛』注」では、言及されていないが、赤松家の残党による襲撃と自天王の最後は、印象的なので、谷崎の文章を引用しておく。
また、『上月記』、『赤松記』等の記す所では、予め偽って南帝に降っていた間島彦太郎以下三十人の赤松家残党は、長禄元年十二月二日、大雪に乗じて不意に事を起こし、一手は大河内の自天王の御所を襲い、一手は神の谷の将軍の宮の御所に押し寄せた。王はおん自ら大刀を振って防がれたけれども、遂に賊のために斃れ給い、賊は王の御首と神璽とを奪って逃げる途中、雪に阻まれて伯母ヶ峰峠に行き暮れ、御首を雪の中に埋めて山中に一と夜を明かした。しかるに翌朝吉野十八郷の荘司等が追撃して来て奮戦するうち、埋められた王の御首が雪中より血を噴き上げたために、忽ちそれを見附け出して奪い返したという。
第二話の「画人伝」は、面白い話である。ここでは詳しく触れないが、赤松満祐が見る、首のない将軍の夢は秀逸である。また百鬼夜行についても言及されている。興味のある方は是非、ご一読ください。第三話の「開かずの箱」では、先ほど引用した「しるしの御箱」について詳しく語られている。そして第四話 「力婦伝」において、第一話で予告されていたように、自天王達の母親である山邨御前が主人公として登場する。彼女の荒唐無稽ぶりが面白い。 甲賀出身の山邨御前は、花田によると以下のような人物である。
しかし、わずか三年ばかりのあいだに、夫と二人の子供を、つぎつぎにうしない、にわかに天涯孤独の身となったからといって、かの女から、愁いに沈んだ室町時代の「上�瓠廚里垢�たを連想してはならないであろう。かの女は、人並みはずれた大女であることをのぞいては、ありふれた山村の女――つまり、当時の言葉でいえば、典型的な「わわしい女」だったのである。
しかし、こう述べていながら、花田の描き出す山邨御前は、ありふれた女どころか、人並みはずれた「力婦」なのである。彼女は、重さ五十貫以上の杉の丸太を一人で担ぐことも出来るのである。彼女のマムシ退治の場面は、とても面白いので引用する。
まず、草むらのなかで、ギロリギロリと眼をひからせている相手に向かって杖を噛ませて、黄いろい毒液を思いきり吐き出させ、つぎの瞬間、無造作に相手の口をこじあけて、二本の牙をバリバリともぎとってしまった。あるいは、相手のとびかかってくる頃合を見はからい、かの女自身が、もんどりを打って倒れ、パッと空中にとびあがってはみたものの、噛みつく目標を見うしなってまごまごしている相手の背骨を、したたか杖でなぐりつけ、折ってしまうようなこともあった。こうすると、相手は、もはや、二度とトグロをまくことができず、こちらの意のままに、いかようにも料理することができるのだ。
山邨御前は、一種のスーパーウーマンなのである。はたして、北朝方は、彼女が守る曲玉をいかにして手に入れるのであろうか。、、、、、、。
澁澤龍彦は、『思考の紋章学』に中で、『室町小説集』の魅力について以下のように述べている。
その二つのエピソードというのは、一つは『室町小説集』のなかの「画人伝」に出てくる百鬼夜行のそれであり、もう一つは「力婦伝」に出てくる井光のそれである。前者は室町時代に特有な、御伽草子の挿絵に出てくる器物のお化けのパレードのことであり、後者は『古事記』にも『日本書紀』にも出てくる、古代の吉野に住んでいたという有尾人、すなわち尾のある人間のことである。。―（中略）―歴史や文学のなかから、こういう変なものを掘り出してきて、それにスポットライトをあてようとする花田清輝の独特の嗅覚は、いつものことながら、まことに冴えていたと私は思う。
『室町小説集』は、ある程度、読者を選ぶ小説であるが、とても面白い作品である。しかし、残念ながら、講談社文芸文庫版は現在絶版であり、Amazonのマーケットプレイスでは、定価より高くなっている。僕は幸い、ハードカバー版の初版本をそれより安い値段で手に入れたが、こんなに興味深い本が簡単に手に入らない事はとても残念である。
花田清輝は、「『吉野葛』注」の冒頭で、谷崎潤一郎の『乱菊物語』について触れている。虚実入り乱れた未完の伝奇小説であるが、面白い作品である。はっきり言って、名作『吉野葛』よりも、こちらのほうが面白い。なかでも、印象に残るのが、花田も書いているようにアシカと馬の混血の「アシカ馬」である。現在文庫で入手可能なので、伝奇小説好きの方や、架空の動物好きの方にはお薦めである。
この作品とは、全く関係ないのだが、木原敏江の夢の碑シリーズ『雪紅皇子』は、後南朝（作中にはこの言葉は出てこない）の歴史を背景にした作品である。主人公は異形の力を持つ少女根姫（ねき）で、一の宮の自天王と二の宮も登場する。自天王の首が雪中より、血を噴き上げたという伝承を独自のイメージで解釈した伝奇物である。
2008年07月18日
空海と稲荷
空海と稲荷のエピソードを紹介する。有名な話なので、ご存じの方も多いと思う。
稲荷神縁起の中で最古の『稲荷記』によると、延暦三年、稲荷大明神は魏国より、日本に移ってきたが、御在所がなく、山背国にいた。稲荷の姿は、『稲荷記』には、以下のように書かれている。
御体イネヲニナワセ給ニヨリテ世俗ニ稲荷ノ神ト名ツケタテマツル
つまり、稲を荷（にな）っているので稲荷というのである。延暦二七年、空海は熊野への参詣のおり、田辺の王子で稲荷の神に対面する。
大明神ノ云ク霊山ニテ見参セシメ侍キ、和尚承諾ノ時、大明神仰セラレテノ給ハク、ワレハ魏国ノ大臣也、シカルニ来朝スル事ハ、日域ノ無福種ノ衆生ヲ化度セムカタメナリ、愛法神ト称セラレント思ハ、イカヨウニカ侍ルヘキヤ、大師神妙ノヨシ承諾シ給
かつて二人は前世において、霊山で面会した仲であり、稲荷は、魏国の大臣であったが衆生を化度するために日本にわたって来たのである。その後空海は稲荷を東寺に招き「マツアカキ御料ヲモテ若君ニクウシ、次ニ白キ御料ヲモテ大明神女体ニ供」したという。
東寺は、嵯峨天皇が空海に与えた寺である。また、稲荷と東寺との関係は古く、『北院御室捨要集』に「天長御記云。東寺有守護天等。稲荷明神使者也。」とあり、平安末期既に稲荷は東寺の守護神と考えられており、その関係は天長年間にまでさかのぼれることになる。この説話はこのような史実を背景として成立したと思われる。
また、『稲荷記』には、「大明神女体」とあるので、この稲荷は女性の形だったようだ。稲荷は、他にも、異本『発心集』『古今著聞集』『神道集』等でも女性の形で登場する。しかし稲荷は翁の形態をとって現れる場合もある。翁の形をとる説話で最古の物は『稲荷流記』である。話の内容は、ほぼ『稲荷記』と同じであるが、稲荷が筋骨隆々とした「異相老翁」であり、東寺を訪れた時、女二人と子供二人を従えていた点が異なっている。『稲荷流記録』では、稲荷を翁に変えたのはいいが、先行文献を無視できず、そこで「大明神女体」を「若君」と同じ眷族に格下げすることによってつじつまを合わせようとしたのであろう。また『稲荷流記』の「命婦事」には狐が稲荷の使者になった由来が書かれている。
稲荷は複雑な神であり、とても僕の手に負えないので、この辺で止めておく。
稲荷神縁起の中で最古の『稲荷記』によると、延暦三年、稲荷大明神は魏国より、日本に移ってきたが、御在所がなく、山背国にいた。稲荷の姿は、『稲荷記』には、以下のように書かれている。
御体イネヲニナワセ給ニヨリテ世俗ニ稲荷ノ神ト名ツケタテマツル
つまり、稲を荷（にな）っているので稲荷というのである。延暦二七年、空海は熊野への参詣のおり、田辺の王子で稲荷の神に対面する。
大明神ノ云ク霊山ニテ見参セシメ侍キ、和尚承諾ノ時、大明神仰セラレテノ給ハク、ワレハ魏国ノ大臣也、シカルニ来朝スル事ハ、日域ノ無福種ノ衆生ヲ化度セムカタメナリ、愛法神ト称セラレント思ハ、イカヨウニカ侍ルヘキヤ、大師神妙ノヨシ承諾シ給
かつて二人は前世において、霊山で面会した仲であり、稲荷は、魏国の大臣であったが衆生を化度するために日本にわたって来たのである。その後空海は稲荷を東寺に招き「マツアカキ御料ヲモテ若君ニクウシ、次ニ白キ御料ヲモテ大明神女体ニ供」したという。
東寺は、嵯峨天皇が空海に与えた寺である。また、稲荷と東寺との関係は古く、『北院御室捨要集』に「天長御記云。東寺有守護天等。稲荷明神使者也。」とあり、平安末期既に稲荷は東寺の守護神と考えられており、その関係は天長年間にまでさかのぼれることになる。この説話はこのような史実を背景として成立したと思われる。
また、『稲荷記』には、「大明神女体」とあるので、この稲荷は女性の形だったようだ。稲荷は、他にも、異本『発心集』『古今著聞集』『神道集』等でも女性の形で登場する。しかし稲荷は翁の形態をとって現れる場合もある。翁の形をとる説話で最古の物は『稲荷流記』である。話の内容は、ほぼ『稲荷記』と同じであるが、稲荷が筋骨隆々とした「異相老翁」であり、東寺を訪れた時、女二人と子供二人を従えていた点が異なっている。『稲荷流記録』では、稲荷を翁に変えたのはいいが、先行文献を無視できず、そこで「大明神女体」を「若君」と同じ眷族に格下げすることによってつじつまを合わせようとしたのであろう。また『稲荷流記』の「命婦事」には狐が稲荷の使者になった由来が書かれている。
稲荷は複雑な神であり、とても僕の手に負えないので、この辺で止めておく。
2008年07月17日
倉橋由美子訳『新訳 星の王子さま』
死去した倉橋由美子によるサン=テグジュペリ『星の王子さま』の新訳である。僕は、後書きから読むという悪癖があるのだが、倉橋由美子らしい切り口の『星の王子さま』小論を読み終えた後、最後の「二〇〇五年六月」という日付をふと見たら、これが彼女の遺作なのだと感慨深かった。
倉橋由美子は、『大人のための残酷童話』の作者らしく、以下のようなスタンスで『星の王子さま』を訳している。
世の中には、「童話」と称して大人が子供向きに書いた不思議な作品がありますが、これはその種の童話ではありません。そのことは作者も最初に断っているとおりで、子供にように見える王子さまが主人公だとしても、だから子供向きのお話だということにはならず、これはあくまでも大人が読むための小説（そもそも小説とは大人の読み物です）なのです。私もそのつもりで読んで、そのつもりで訳しています。
僕は、倉橋が述べているように、「大人が子供向きに書いた不思議な作品」に違和感を持ったことがある。具体的に言うと、小中学校の課題図書が、それである。これで、感想文を書きなさいと言って渡された本は、たいていは子供っぽく馬鹿馬鹿しい作品であった。倉橋の「子供にとって本当に面白い本とは、しばしば大人が子供向きではないと判断し、子供には難解すぎるとか危険だとかいった理由で子供に読ませたがらないような本」であるという見解は、納得のいくものである。
内藤濯訳との倉橋訳の大きな違いは、語り手の一人称が、「ぼく」から、「私」に、語りも「です・ます」体から「だ・である」体に 変わったことである。これだけの変更で、印象はかなり違ったものになる。
「星が美しいのは、目に見えない花が一つあるからなんだ・・・・・」
「それはそうだ」と私は答えた。それから何もいわずに、月光を浴びた砂の稜線を眺めていた。
「砂漠は美しいね・・・・・」と王子さまはいった。
「星があんなにも美しいのも、目に見えない花が一つあるからなんだよ・・・・・」
ぼくは、〈そりゃあ、そうだ〉と答えました。それから、なんにもいわずに、でこぼこの砂が、月の光を浴びているのをながめていました。
「砂漠は美しいな・・・・・」王子さまはつづいていいました。
―Les étoiles sont belles, à cause d'une fleur que l'on ne voit pas...
Je répondis "bien sûr" et je regardai, sans parler, les plis du sable sous la lune.
―Le désert est beau, ajouta-t-il...
最初、一人称の「私」に違和感があったが、それに慣れると、倉橋訳のほうがシンプルで硬質な文体なので、読みやすいような気がする。内藤訳は、確かに、名訳ではあるのだが、子供を読者に想定しているので、漢字が少なく、これが、意外と読みにくい。また、「です・ます」体であるため、全体的に優しい感じがする反面、間延びした印象がいなめない。それぞれ、こだわっているところが違うので、微妙に異なった訳となっている。例えば、有名な羊の絵を描く場面は、以下のようになっている。
私は描きなおした。
男の子はやさしい、甘い笑顔を見せた。
「自分でもわかってるんじゃない？これはぼくのほしい羊じゃない。雄の羊でしょ。だって角がはえているもの」
ぼくは、かきなおしました。
ぼっちゃんは、さも多めに見てくれるようにやさしく、にっこりしました。
「そうだな・・・・・これ、あたりまえのヒツジじゃなっくて、ツノが生えてるもの・・・・」
Je dessinai:
Mon ami sourit gentiment, avec indulgence:
-Tu vois bien... ce n'est pas un mouton, c'est un bélier. Il a des cornes...
原文の“Mon ami”を倉橋は「男の子」、内藤は「ぼっちゃん」と訳している。好みもあると思うが、さすがに「ぼっちゃん」は古めかしい感じがする。この箇所の大きな違いは“ce n'est pas un mouton, c'est un bélier.”を倉橋は、「これはぼくのほしい羊じゃない。雄の羊でしょ。」とし、内藤は「これ、あたりまえのヒツジじゃなっくて」と訳している点である。倉橋は“bélier”を「雄の羊」と訳しているが、内藤は、羊の性を省略して訳している。 クラウン仏和事典には以下のようにある。
bélier[belje] 〈男〉
雄羊 《去勢されたものは mouton. 雌は brebis. 子羊は agneau》.
フランス語では、日本語よりも羊に対応する言葉が、細分化されている。内藤は、多分、子供の読者が混乱するの恐れて、上記のように訳したのであろう。しかし、王子さまは、「大人になる前の無邪気な子供」ではないとする倉橋の立場に立つなら、ここは厳密に訳さなければならない箇所である。王子さまの星に咲く花は、女なのである。原文では、fleur（花）は女性名詞なので、当然代名詞は、elle（彼女は、それは）になる、倉橋は「彼女」と訳し、内藤は、「この花」と訳している。elleを文字通り「彼女」と考えれば、花は倉橋が言うように王子さまの愛人であり、小さな星に彼以外の男性がいては、具合が悪いのである。だから、彼が欲しい羊とは、去勢された“mouton“であって、雄羊の“bélier”ではないのである。何を細かいことをと思われるかもしれないが、日本人とは違い、牧畜文化圏で育ったフランス人にとってそれは当然の違いであろう。羊ではなく牛であるが、鹿島茂は、以下のように述べている。
フランス人の友人と車で田舎をドライブしていたとき、草をはんでいる牛を見つけたので、私が、ただ「牛」というつもりで、「ああ、あそこにブッフ（雄牛）がいるといったら、「あれはヴァッシュ（雌牛）だ」と笑われた。「そんなに簡単に区別がつくのか」とたずねたら、「そんなこと見ればわかるじゃないか」と一蹴された。さすが、牛文化圏の人間である。
当然、同じことが羊にも当てはまると言えよう。従って、王子さまが欲しがる羊が、“mouton“であって、“bélier”でないのは、それなりに意味を持っているはずである。
あと一つ気になったのは、倉橋自身が後書きで触れている、王子さまと狐の対話である。王子さまが、一緒に遊ぼうといったとき、狐は、以下のように答える。
-Je ne puis pas jouer avec toi, dit le renard. Je ne suis pas apprivoisé.
倉橋は、本文で「おれはあんたとは遊べない。まだ仲良しになってないからね」と、訳している。この部分に関して、「あとがき」で以下のように述べている。
狐はapprivoiser（英語ではtame）という動詞を受身で使い、「自分はapprivoiserされていない」というのです。ここは「仲良しになる」と曖昧に訳しておきましたが、apprivoiserとは、もともと人が動物を「飼いならす」ことです。―（中略）―飼いならされた相手は人間を怖がらなくなる。人間もその相手、たとえばペットを可愛いと思って愛玩する。狐は王子さまに「飼いならしてほしい」といいますが、これは、「自分を飼いならして愛人のような関係を結んで欲しい」ということです。
これは、倉橋らしい解釈で、成る程と思った箇所である。このような文脈で読むならば、 内藤訳でも、「飼いならされた」となっている“apprivoiser”をわざわざ「仲良しになる」と曖昧に訳す必要はなかったような気がする。
倉橋訳によって内藤訳 とは違った側面から『星の王子さま』に触れることが出来たのは喜ばしいことであった。
倉橋由美子は、『大人のための残酷童話』の作者らしく、以下のようなスタンスで『星の王子さま』を訳している。
世の中には、「童話」と称して大人が子供向きに書いた不思議な作品がありますが、これはその種の童話ではありません。そのことは作者も最初に断っているとおりで、子供にように見える王子さまが主人公だとしても、だから子供向きのお話だということにはならず、これはあくまでも大人が読むための小説（そもそも小説とは大人の読み物です）なのです。私もそのつもりで読んで、そのつもりで訳しています。
僕は、倉橋が述べているように、「大人が子供向きに書いた不思議な作品」に違和感を持ったことがある。具体的に言うと、小中学校の課題図書が、それである。これで、感想文を書きなさいと言って渡された本は、たいていは子供っぽく馬鹿馬鹿しい作品であった。倉橋の「子供にとって本当に面白い本とは、しばしば大人が子供向きではないと判断し、子供には難解すぎるとか危険だとかいった理由で子供に読ませたがらないような本」であるという見解は、納得のいくものである。
内藤濯訳との倉橋訳の大きな違いは、語り手の一人称が、「ぼく」から、「私」に、語りも「です・ます」体から「だ・である」体に 変わったことである。これだけの変更で、印象はかなり違ったものになる。
「星が美しいのは、目に見えない花が一つあるからなんだ・・・・・」
「それはそうだ」と私は答えた。それから何もいわずに、月光を浴びた砂の稜線を眺めていた。
「砂漠は美しいね・・・・・」と王子さまはいった。
「星があんなにも美しいのも、目に見えない花が一つあるからなんだよ・・・・・」
ぼくは、〈そりゃあ、そうだ〉と答えました。それから、なんにもいわずに、でこぼこの砂が、月の光を浴びているのをながめていました。
「砂漠は美しいな・・・・・」王子さまはつづいていいました。
―Les étoiles sont belles, à cause d'une fleur que l'on ne voit pas...
Je répondis "bien sûr" et je regardai, sans parler, les plis du sable sous la lune.
―Le désert est beau, ajouta-t-il...
最初、一人称の「私」に違和感があったが、それに慣れると、倉橋訳のほうがシンプルで硬質な文体なので、読みやすいような気がする。内藤訳は、確かに、名訳ではあるのだが、子供を読者に想定しているので、漢字が少なく、これが、意外と読みにくい。また、「です・ます」体であるため、全体的に優しい感じがする反面、間延びした印象がいなめない。それぞれ、こだわっているところが違うので、微妙に異なった訳となっている。例えば、有名な羊の絵を描く場面は、以下のようになっている。
私は描きなおした。
男の子はやさしい、甘い笑顔を見せた。
「自分でもわかってるんじゃない？これはぼくのほしい羊じゃない。雄の羊でしょ。だって角がはえているもの」
ぼくは、かきなおしました。
ぼっちゃんは、さも多めに見てくれるようにやさしく、にっこりしました。
「そうだな・・・・・これ、あたりまえのヒツジじゃなっくて、ツノが生えてるもの・・・・」
Je dessinai:
Mon ami sourit gentiment, avec indulgence:
-Tu vois bien... ce n'est pas un mouton, c'est un bélier. Il a des cornes...
原文の“Mon ami”を倉橋は「男の子」、内藤は「ぼっちゃん」と訳している。好みもあると思うが、さすがに「ぼっちゃん」は古めかしい感じがする。この箇所の大きな違いは“ce n'est pas un mouton, c'est un bélier.”を倉橋は、「これはぼくのほしい羊じゃない。雄の羊でしょ。」とし、内藤は「これ、あたりまえのヒツジじゃなっくて」と訳している点である。倉橋は“bélier”を「雄の羊」と訳しているが、内藤は、羊の性を省略して訳している。 クラウン仏和事典には以下のようにある。
bélier[belje] 〈男〉
雄羊 《去勢されたものは mouton. 雌は brebis. 子羊は agneau》.
フランス語では、日本語よりも羊に対応する言葉が、細分化されている。内藤は、多分、子供の読者が混乱するの恐れて、上記のように訳したのであろう。しかし、王子さまは、「大人になる前の無邪気な子供」ではないとする倉橋の立場に立つなら、ここは厳密に訳さなければならない箇所である。王子さまの星に咲く花は、女なのである。原文では、fleur（花）は女性名詞なので、当然代名詞は、elle（彼女は、それは）になる、倉橋は「彼女」と訳し、内藤は、「この花」と訳している。elleを文字通り「彼女」と考えれば、花は倉橋が言うように王子さまの愛人であり、小さな星に彼以外の男性がいては、具合が悪いのである。だから、彼が欲しい羊とは、去勢された“mouton“であって、雄羊の“bélier”ではないのである。何を細かいことをと思われるかもしれないが、日本人とは違い、牧畜文化圏で育ったフランス人にとってそれは当然の違いであろう。羊ではなく牛であるが、鹿島茂は、以下のように述べている。
フランス人の友人と車で田舎をドライブしていたとき、草をはんでいる牛を見つけたので、私が、ただ「牛」というつもりで、「ああ、あそこにブッフ（雄牛）がいるといったら、「あれはヴァッシュ（雌牛）だ」と笑われた。「そんなに簡単に区別がつくのか」とたずねたら、「そんなこと見ればわかるじゃないか」と一蹴された。さすが、牛文化圏の人間である。
当然、同じことが羊にも当てはまると言えよう。従って、王子さまが欲しがる羊が、“mouton“であって、“bélier”でないのは、それなりに意味を持っているはずである。
あと一つ気になったのは、倉橋自身が後書きで触れている、王子さまと狐の対話である。王子さまが、一緒に遊ぼうといったとき、狐は、以下のように答える。
-Je ne puis pas jouer avec toi, dit le renard. Je ne suis pas apprivoisé.
倉橋は、本文で「おれはあんたとは遊べない。まだ仲良しになってないからね」と、訳している。この部分に関して、「あとがき」で以下のように述べている。
狐はapprivoiser（英語ではtame）という動詞を受身で使い、「自分はapprivoiserされていない」というのです。ここは「仲良しになる」と曖昧に訳しておきましたが、apprivoiserとは、もともと人が動物を「飼いならす」ことです。―（中略）―飼いならされた相手は人間を怖がらなくなる。人間もその相手、たとえばペットを可愛いと思って愛玩する。狐は王子さまに「飼いならしてほしい」といいますが、これは、「自分を飼いならして愛人のような関係を結んで欲しい」ということです。
これは、倉橋らしい解釈で、成る程と思った箇所である。このような文脈で読むならば、 内藤訳でも、「飼いならされた」となっている“apprivoiser”をわざわざ「仲良しになる」と曖昧に訳す必要はなかったような気がする。
倉橋訳によって内藤訳 とは違った側面から『星の王子さま』に触れることが出来たのは喜ばしいことであった。
2008年07月15日
思想心理学教育講座 第八回 「友人を裏切るべし」
私はどうも「青年の麗しき友情」というやつを信じません。子供の社会の方がずっと正直で、子供の社会はいつも苛烈な裏切りの危機に直面しています。必ず「いい子」になりたがる子がいて、はじめは自分もいたずらの計画に加担していたくせに、途中から急に寝返って、お母さんや先生のところへ、言いつけに走るからです。こういう点では、女の社会は、男の社会よりずっと正直で、子供の社会に似ています。異性が一人現れたら、裏切りや謀略はたちまち日常茶飯事になる。そしてこのほうが、青年の社会よりも、現実の我々の社会生活の良き雛型なのであります。現実の社会は、残念ながら、友情的青年の社会よりも、ずっと女や子供の社会に似ています。しかし大人の社会では、子供や女ほどの正直な裏切りは少なく、いろんな点でうまくやっており、友愛らしきものも保たれている。しかしラ・ロッシュフコウは、例の身も蓋もない調子で、「世間の人が友愛と呼び成すものは、ただの社交、欲得のかけあいかけひき、ご親切の取り換えっこにすぎない。結局、自愛が常に何かの得をしようとしている一種の取引にすぎない」と言っています。
でも夫婦というものがウソをつきあいながらも何とか楽しくやってゆくように、大人の友愛なるものも、上の如き前提の下に、特殊の親しみも生まれ、懐かしさも生まれ、憎からぬ気持も生まれ、空気みたいな気やすさも生まれる。そんなわけで、この世の中も、どうやら地獄にならずにすんでいる。そこのところのいきさつが、青年にはなかなか飲み込めません。女はずっと大人です。
「まぁ、いいスーツを召していらっしゃるわ。どこでおあつらえになったの？」
「Ｎ……って店よ。でもしたては良くても、スタイルがこんなでしょう。あなたなら、ずっと活かしてお召しになれるわ」
「何おっしゃるのよ。あなたの足は日本人離れしていらっしゃるんですもの。とんでもないわ」
例えばこういう会話を交わしている女性が、裏ではものすごく憎み合っており、相手を陥れようと、虎視眈々狙っている場合だってあり得ます。しかし人に聞かれると、まずこう答えるのは間違いありません。
「ああ、Ｓさん？あの方、私の昔からのお友達よ。とてもいい方」
友人を裏切るまいという努力は一体どういう種類の努力なのでしょう。
たとえばここで友人の一人が泥棒をしたとします。しかし唯一の目撃者の友人はこれをかばって、絶対に否定します。そこで事件は迷宮入りになり、泥棒をした友人は、シャーシャーとして生きています。すると、泥棒をかばった友人の方に一種の良心の負担が生まれます。あの時俺のやったことは正しいことだったろうか。もしかしたら、一見裏切りのように見えても、彼の罪を告発した方が、永い目で見て、彼の将来のためにも、社会全体のためにも、よかったんじゃなかろうか？……こうくよくよ考えているうちに、友人を裏切らなかったばかりに、彼自身が泥棒をやったような嫌な気持ちに落ち込みます。
封建社会や、共産主義社会や、ナチズムの社会では、密告が奨励されていて、政府が密告者に対してご褒美をくれます。社会主義ののっとって行動した人は、とにかく善人なのであって、密告して友人を裏切ったなどという小さな悪は問題になりません。この密告制度は人間の品性を下劣にするといわれますが、同時に、一面、弱い人間の心に下剤をかけてすっきりさせる作用もある。密告者は、少なくとも、良心を政府に預けてしまったのですから、安心です。
「俺の知った事じゃないよ」とうそぶいていられるのだから。
人間の、少なくとも男の精神的成長は、自分の一時期一時期の友人を裏切ることによって、行われると言っても過言ではない。これは密告そのほかの卑劣な行為をすることではなく、単に精神的に裏切るという意味ですが、昨日まで、ある友人が、
「人生って自動車みたいなものなんだな。止まってれば場所ふさげで、その代り安全だが、走ってれば今度はいつ人をひき殺すかわからない」
などというのを聞いて、
「ふん、さすがはあいつだ。洞察力がある」などと感心していたのに、今日はそれを、「なんだ。あいつの思想と来たら、洒落た格言みたいなもののほかに何もないじゃないか」と思うようになる。その時君はすでに友人を精神的に裏切ることによって精神的に成長したのである。
昔の友人に久しぶりに出くわすと、懐かしがって大いに肩をたたき合うが、一通りむかしばなしのタネが尽きると、まるっきり話題がなくなって困ることがある。過去だけのつながりなどというものが、人を永くひきとめておくことはできません。この頃でもよく、旧軍人たちの同志的結合というようなものが方々で行われているようですが、まさか大の男が懐かしさや昔恋しさだけで付き合ってゆけるはずはなく、これもやはりラ・ロッシュフコオ流の友愛といえましょう。
世の中には妙な趣味の人がいて、友人の恋人をとる常習犯がある。友人が新しい女を作ると、急にその女がほしくてたまらなくなり、結局、自分のものにしてしまう。これは明らかに友人に対する裏切り行為だが、彼にとっては一種の友情の範囲内の出来事だから始末が悪い。彼はただの女には興味がなく、それが大好きな友人の彼女になると、たちまち魅力を生ずるのです。
友人を裏切らないと、家来にされてしまうという場合が往々にしてある。大変長続きした美しい友情などというやつを、よく調べてみると、一方が主人で一方が家来のことが多い。主人側がなかなか利口で、飽くまで対等の扱いをして、世間にも、また当の家来にも、彼が主人であるということを露骨に出さず、実は完全な精神的主従関係を確立しているのです。これは家来側が、すっかり降伏して、忠誠を誓い、かつ主人の才能や力を利用して虎の威を借りており、主人が鷹揚に構えて、十分利用させてやりながら、顎で使っているという関係で、本当の友愛ということはできないが、人間關係の動物的本質にとっては、このほうがむしろ自然ですから、裏切りがない限り、いくらでも長続きします。世間で、
「あいつは俺の家来でね」
などと言っている間柄には、何とこの種の裏切りなき主従関係が多いことでしょう！そして世の中には、生まれつき、家来になることの好きな人たちも多いのです。
たいてい偉人の伝記を読むと、家来にされそうになると、うまく相手を裏切って、裏切りの上に、油断のならぬ対等な関係を確立し、自分を大きくしていった人が多いようです。
国家同士の関係もそうで、友邦などと言ってるが、実は家来と主人であることが多く、家来がおとなしく、ひたすら忠誠につかえていると、いつのまにか植民地にされてしまっていたりする。
裏切りは友情の薬味であって、これはコショウかワサビみたいなものであり、裏切りの要素もその危険も伏在しない友情など、味がないと思うようになる時、諸君はまず、青年のセンチメンタリズムを脱却した、一人前の大人になったといえましょう。
でも夫婦というものがウソをつきあいながらも何とか楽しくやってゆくように、大人の友愛なるものも、上の如き前提の下に、特殊の親しみも生まれ、懐かしさも生まれ、憎からぬ気持も生まれ、空気みたいな気やすさも生まれる。そんなわけで、この世の中も、どうやら地獄にならずにすんでいる。そこのところのいきさつが、青年にはなかなか飲み込めません。女はずっと大人です。
「まぁ、いいスーツを召していらっしゃるわ。どこでおあつらえになったの？」
「Ｎ……って店よ。でもしたては良くても、スタイルがこんなでしょう。あなたなら、ずっと活かしてお召しになれるわ」
「何おっしゃるのよ。あなたの足は日本人離れしていらっしゃるんですもの。とんでもないわ」
例えばこういう会話を交わしている女性が、裏ではものすごく憎み合っており、相手を陥れようと、虎視眈々狙っている場合だってあり得ます。しかし人に聞かれると、まずこう答えるのは間違いありません。
「ああ、Ｓさん？あの方、私の昔からのお友達よ。とてもいい方」
友人を裏切るまいという努力は一体どういう種類の努力なのでしょう。
たとえばここで友人の一人が泥棒をしたとします。しかし唯一の目撃者の友人はこれをかばって、絶対に否定します。そこで事件は迷宮入りになり、泥棒をした友人は、シャーシャーとして生きています。すると、泥棒をかばった友人の方に一種の良心の負担が生まれます。あの時俺のやったことは正しいことだったろうか。もしかしたら、一見裏切りのように見えても、彼の罪を告発した方が、永い目で見て、彼の将来のためにも、社会全体のためにも、よかったんじゃなかろうか？……こうくよくよ考えているうちに、友人を裏切らなかったばかりに、彼自身が泥棒をやったような嫌な気持ちに落ち込みます。
封建社会や、共産主義社会や、ナチズムの社会では、密告が奨励されていて、政府が密告者に対してご褒美をくれます。社会主義ののっとって行動した人は、とにかく善人なのであって、密告して友人を裏切ったなどという小さな悪は問題になりません。この密告制度は人間の品性を下劣にするといわれますが、同時に、一面、弱い人間の心に下剤をかけてすっきりさせる作用もある。密告者は、少なくとも、良心を政府に預けてしまったのですから、安心です。
「俺の知った事じゃないよ」とうそぶいていられるのだから。
人間の、少なくとも男の精神的成長は、自分の一時期一時期の友人を裏切ることによって、行われると言っても過言ではない。これは密告そのほかの卑劣な行為をすることではなく、単に精神的に裏切るという意味ですが、昨日まで、ある友人が、
「人生って自動車みたいなものなんだな。止まってれば場所ふさげで、その代り安全だが、走ってれば今度はいつ人をひき殺すかわからない」
などというのを聞いて、
「ふん、さすがはあいつだ。洞察力がある」などと感心していたのに、今日はそれを、「なんだ。あいつの思想と来たら、洒落た格言みたいなもののほかに何もないじゃないか」と思うようになる。その時君はすでに友人を精神的に裏切ることによって精神的に成長したのである。
昔の友人に久しぶりに出くわすと、懐かしがって大いに肩をたたき合うが、一通りむかしばなしのタネが尽きると、まるっきり話題がなくなって困ることがある。過去だけのつながりなどというものが、人を永くひきとめておくことはできません。この頃でもよく、旧軍人たちの同志的結合というようなものが方々で行われているようですが、まさか大の男が懐かしさや昔恋しさだけで付き合ってゆけるはずはなく、これもやはりラ・ロッシュフコオ流の友愛といえましょう。
世の中には妙な趣味の人がいて、友人の恋人をとる常習犯がある。友人が新しい女を作ると、急にその女がほしくてたまらなくなり、結局、自分のものにしてしまう。これは明らかに友人に対する裏切り行為だが、彼にとっては一種の友情の範囲内の出来事だから始末が悪い。彼はただの女には興味がなく、それが大好きな友人の彼女になると、たちまち魅力を生ずるのです。
友人を裏切らないと、家来にされてしまうという場合が往々にしてある。大変長続きした美しい友情などというやつを、よく調べてみると、一方が主人で一方が家来のことが多い。主人側がなかなか利口で、飽くまで対等の扱いをして、世間にも、また当の家来にも、彼が主人であるということを露骨に出さず、実は完全な精神的主従関係を確立しているのです。これは家来側が、すっかり降伏して、忠誠を誓い、かつ主人の才能や力を利用して虎の威を借りており、主人が鷹揚に構えて、十分利用させてやりながら、顎で使っているという関係で、本当の友愛ということはできないが、人間關係の動物的本質にとっては、このほうがむしろ自然ですから、裏切りがない限り、いくらでも長続きします。世間で、
「あいつは俺の家来でね」
などと言っている間柄には、何とこの種の裏切りなき主従関係が多いことでしょう！そして世の中には、生まれつき、家来になることの好きな人たちも多いのです。
たいてい偉人の伝記を読むと、家来にされそうになると、うまく相手を裏切って、裏切りの上に、油断のならぬ対等な関係を確立し、自分を大きくしていった人が多いようです。
国家同士の関係もそうで、友邦などと言ってるが、実は家来と主人であることが多く、家来がおとなしく、ひたすら忠誠につかえていると、いつのまにか植民地にされてしまっていたりする。
裏切りは友情の薬味であって、これはコショウかワサビみたいなものであり、裏切りの要素もその危険も伏在しない友情など、味がないと思うようになる時、諸君はまず、青年のセンチメンタリズムを脱却した、一人前の大人になったといえましょう。