(cache) 特集 ハンセン病/熊本日日新聞社
検証ハンセン病史 特集 「人間回復」の道求めて
親族との絆(きずな)を取り戻した入所者、「人生最後のチャンス」と療養所を後にした社会復帰者、悩みを打ち明ける場をつくって生きる喜びを見つけようとする遺族…。ハンセン病国家賠償訴訟で二〇〇一(平成十三)年五月十一日、熊本地裁判決が言い渡された。本紙が連載「検証・ハンセン病史」を始めたのは同年十二月。連載は〇三年六月で終わったが、歴史的判決を足掛かりに、「人間回復」へ向けて歩き出した人たちがいる。しかし、療養所の将来構想、隔離政策がもたらした人権被害の究明、横たわる偏見や差別の解消など、重い課題もまだ残されている。
社会生活通じて啓発
退所者=中修一さん(61)=熊本市
歯の治療で熊本市の病院を訪れた中さん。「社会復帰したから、できるだけ社会の病院を利用したい」と話す
「歯の調子がまた悪くなってね。今日は予約してなかったが、意外に早く治療が終わった」。中修一さん(61)は熊本市内の病院のロビーで笑みを浮かべた。
国立ハンセン病療養所・菊池恵楓園(菊池郡合志町)を昨年四月に退所。現在は同市内の県営団地で暮らしている。高血圧などの持病のため、今も恵楓園には月に一回ほど通う。しかし、七月から歯の治療は同市内の総合病院で受けている。
「園でも歯の治療はできるが、毎日のように園に通っていたら、退所した意味がない。できるだけ社会の病院へ通おうと思って…」
社会復帰は中さんにとって二回目。一九五八(昭和三十三)年に奄美大島の療養所に入所後、六一年から十年間、大阪で働いたことがある。しかし、病気が再発し、七〇年からは恵楓園で暮らしてきた。
「再入所後は、病気を治すうちにいつの間にか年を取り、退所をあきらめかけていた。手に職もなく、親の財産があるわけでもないから」と中さんは振り返る。
熊本地裁判決を受けて昨年四月、入所者の社会復帰を支援する給与金制度がスタート。中さんに退所を決意させた。
「裁判のおかげで、長年の夢を果たせた」
久しぶりの社会の中での生活で「普通に接してもらえないのでは」との心配もあった。散髪や買い物、療養所以外での受診…。最初は不安ばっかりだったが、「一つひとつクリアするごとに安心できた。予想以上に周りの人たちが受け入れてくれた」。
団地では自治会長を任されている。地域の囲碁サークルにも加わった。「私たちが病歴を隠さず、社会で普通に暮らすことが、ハンセン病問題の啓発にもつながると思っている」。中さんは力強く言い切った。(大津支局・田中祥三)
「家族」の存在を実感
原告=溝口製次さん(68)=菊池恵楓園
従妹の孫から贈られた絵を見つめる菊池恵楓園の溝口製次さん。「私にとっても孫みたいな存在です」
壁のあちこちに小さな子どもたちや、赤ん坊を抱いた時の写真が張られている。「せいじおじちゃんへ」と書かれたかわいらしい絵も。
菊池恵楓園の溝口製次さん(68)。十九歳になる老猫ウメと二人きりの生活に変わりはないが、今は遠くにいる「家族」の存在を日々実感している。
熊本地裁に初めて提訴した十三人の原告のうちの一人。十一歳で入所し、在園期間は半世紀をとうに超えた。十八歳で体験したらい予防法闘争に始まり、自治会活動に長年、熱心に取り組んできた。その末に勝ち取った同地裁の判決。
「あの瞬間から、すべてが変わった」
判決が確定して一週間後のこと。かつて妹同然の存在だった従妹(いとこ)から突然、電話が掛かってきた。身内との連絡を断って三十数年。神奈川県に住む従妹は「やっと探し当てた」と涙声で喜んだ。従妹家族にも暖かく迎えられ、たびたび行き来するようになった。
従妹たちは「いろいろ苦労したんだから、こっちでゆっくり暮らしてよ」としきりに転居を勧め、住む部屋も用意してくれている。
「園で死ぬつもりだったけど、神奈川に墓を造りました。いずれは引っ越すつもりだが、でも…」
気掛かりな問題がまだ残っている。高齢化と在園者の減少が著しい療養所の将来計画や、日本統治下の韓国での患者の隔離問題。ハンセン病問題の「語り部」としての役割も果たしていきたいと思う。
「私が必要とされる限り、頑張ります。引っ越すのは、墓に入る時になるかもしれませんね」(菊池支局・小林義人)
「いつか胸を張って」
遺族=奥晴海さん(56)=鹿児島県名瀬市
前を向いて歩き出した奥さん(右)と宮野原さん
「国は、すべての遺族が胸を張って生きられる社会を一日も早く実現してほしい」。昨年八月の熊本地裁、意見陳述した遺族原告の奥晴海さん(56)=鹿児島県名瀬市=は涙声で訴えた。
菊池恵楓園に両親が入所したのは一九五○(昭和二十五)年。入所者の子供らが共同生活する熊本市黒髪の「龍田寮」に奥さんも預けられた。
寮の子供らが小学校への通学を拒否された「黒髪校事件」は、小学二年のとき。大人たちの反対運動に影響され、近所の子供から「うつる、寄るな」と石を投げつけられたこともあった。
その後移り住んだ奄美大島でも、周囲の冷たい視線にさらされた。「なぜ、私だけが…」。法廷に立った奥さんは、亡き母への思いとともに、胸の奥にしまってきた感情を一気に吐き出した。
奥さんが原告となったのは昨年五月。「裁判に参加することで、誰にも話したことのない過去と向き合うことができた」。当事者が口を開くことの必要性も痛感した。
偏見や差別の谷間で、親を恨み、そのことで自らも責めを負う苦しみ。「ほかの遺族原告と話すと、みんな同じ人生を歩んで来たんだな、というのが分かる」
そんな遺族や家族が心を解きほぐす場として今年三月、「れんげ草の会」が発足した。県外に住む代表の宮野原里子さん(59)=仮名=は言う。「自分だけで悩みを抱え込まず、会に参加して、人生の苦しみをぬぐってほしい」
龍田寮から見えた春のレンゲ畑。奥さんの記憶の底にある光景から、会の名前は生まれた。
「『うちの親はハンセン病でした』と、胸を張って言える日が来るまで、皆と頑張って生きていきたい」。裁判を通して葛藤を克服した奥さんの表情は明るい。(山鹿支局・本田清悟)
非入所者問題は未解決
療養所の将来構想も課題 韓国でも責任追及の動き
〇一年五月の熊本地裁判決後、〇二年一月には療養所への非入所者と元患者の遺族について、国の謝罪や一時金支払いを盛り込んだ和解の基本合意が成立。司法上の救済については大枠で決着した。
残された課題については、行政交渉による社会政策の実現を目指す動きが続いている。国賠訴訟原告・弁護団、全国ハンセン病療養所入所者協議会(全療協)でつくる統一交渉団は、らい予防法廃止前の退所者への一時金支給と非入所者への恒久的な経済支援を重点要求として、厚生労働省との交渉に臨んできた。
退所者については今年八月、百五十万円の一時金支給という厚労省案で合意したものの、非入所者問題はまだ未解決だ。
療養所については、どのような形で存続させていくのかという将来構想が大きな課題。高齢化によって入所者数の減少が加速していく一方、介護や合併症の医療などはさらに高度なものが求められるようになっている。
全国では栗生楽泉園(群馬県)など四つの国立療養所が、地元自治体などと将来構想を考える協議会を発足させている。六百人弱と全国最多の入所者を抱える菊池恵楓園の入所者自治会も同様の組織をつくり、地域社会との連携を図りたい考えだ。
隔離政策などの真相究明のため厚労省が設置した第三者機関「ハンセン病問題検証会議」は〇二年十月、予定より大幅に遅れて発足。その後も厚労省が同会議の資料調査を一時拒否したり、本年度予算を大幅減額するなど”官の抵抗”が続いた。しかし、同会議は検証期間を当初の二年間から一年延長。再発防止策も含めた最終報告を〇四年度末までに行う予定だ。
海を越えて隔離政策を問う動きも始まった。今年八月、日本からの交流団が韓国の国立ハンセン病療養所・小鹿島病院を訪問。国賠訴訟弁護団代表が入所者に、日本統治下での隔離について日本政府に補償請求することを提案した。
入所者側も前向きの姿勢を示しており、国賠訴訟では論じられなかった植民地での被害が初めて追及されることになる。(報道部・泉潤)
熊本日日新聞2003年10月15日朝刊
Copyright Kumamoto Nichinichi Shimbun
<特集 ハンセン病>