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特設メモ 呉市海事歴史科学館 への公開質問状2

佐伯邦昭

細目次

2 戦艦大和の歴史捏造問題公開質問状 このページ 
はじめに   問題は、頼みもしない呉市長の回答文から発生した 掲載05/06/26
その1    呉市長からの回答内容に疑問 掲載05/06/26
その2    呼びつける 1対1で話をまとめようとする 公開を避けている? 掲載05/06/29
その3  市長回答とは異なる説 掲載05/07/01
その4  肩透かし、子どもだましの回答 掲載05/07/09
その5 艦船学界はこの程度のレベルか 掲載05/07/14
その6 小論 歴史を捏造する科学者戸高一成氏について 掲載05/07/27
その7 でたらめな呉海軍工廠地形模型 掲載05/09/25
その8  続 でたらめな呉海軍工廠地形模型  掲載07/08/09
その9  科学の名が泣く大和ミュージアムの展示 或る海事専門家のメールから  掲載07/10/18
参考 参考  
1 呉零戦公開質問状へ戻る
3 その後の動きなど へ戻る 

    

     2 戦艦大和入渠の歴史捏造問題公開質問状 

 

はじめに 問題は、頼みもしない呉市長の回答文から発生した

  この項目は、飛行機マニアとして呉零戦問題を追及している最中に、突如として派生した問題です。

 大和ミュージアムを訪れて、大和1/10模型を艦首正面から撮影しようとするとこのような猛烈な逆光線にな ります。カメラを持つ入館者の多くが戸惑っています。奈落へ向かう大和を象徴しているのかと。

 それで、置き方がおかしいのではないかという素朴な疑問を呈したら、零戦問題を全く無視した形で小笠原市長から大和の向きについてメールが来たのであります。

 しからばと、その根拠なりを尋ねているうちに、向こうの方で都合がわるくなり、2005/07/11以降ぷつりとメールが途絶えてしまったのであります。どうして都合が悪くなったというのか? それは、歴史を捏造した館長戸高一成の動きが取れなくなったと判断しているからです。

 順を追って読んで頂ければ理解できると思います。


その1 2005/06/26  呉市長からの回答内容に疑問

 零戦問題で、真相を語らない海事科学館サイドの態度に業を煮やして市長の公式ホームページへ何度も投稿しているうちに2005//06/25に市長の名前入りで次の回答が来たのでした。もちろん海自歴史 科学館が元原稿を書き、広報部門がチェックし、市長も目を通しての公式回答であるはずです。
 

呉市長 小笠原 臣也氏からのメール(呉市公式ホームページ 市長の部屋より)

 
 このたびは、「市長への電子メール」をお寄せいただき、誠にありがとうございました。あなた様からのご意見・ご提案について、次のとおりお答えいたします。
 今後とも、みなさまに信頼される市政をすすめるため、お気づきの点をお寄せくださるようお願い申し上げます。
                             
呉市長 小笠原 臣也

呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)について

 お陰をもちまして、4月23日にオープンして以来、連日予想を遥かに上回るお客様を全国からお迎えしておりますが、佐伯様には、5月の連休中に当館にお越しいただいたとのことですが、連休中は大変混み合いまして、ゆっくりご覧いただけなかったのではないかと心苦しく思っております。

 
さて、10分の1戦艦「大和」や零戦などの展示資料につきましては、当時の乗組員、パイロットを始めとする関係者の絶大なる協力や、写真や映像等の確認により、当時の状況を忠実に再現しておりますが、今後も更なる調査研究を行ってまいります。
 また、10分の1戦艦「大和」のエントランスに向っている向きにつきましては、昭和20年2月に呉海軍工廠に入渠した入船状況を再現しておりますので、ご理解の程よろしくお願いします。

 
これからも、大和ミュージアムが皆様に信頼され、親しまれる科学館になるよう、努めてまいりますので、よろしくお願いいたします。

 なお、この度、市長へのメールとして初めていただいたものであり、本文をもって回答とさせていただきます。
  
 今後、展示内容等の詳細につきましては、海事歴史科学館へお問い合わせいただきますようお願いいたします。
 

 「市長へのメールを初めていただいた」などとトボケていらっしゃいますが、小笠原市長が本気でそう思っているのなら、これは海事科学館準備室と広報課が結託して度重なる私のメールを握りつぶしてきた結果かと判断されます。都合の悪い情報をトップにあげないというよくある例のひとつです。

 さて、このメールはこちらの最終苦情発信後8日目に届いたものです。飾られたお言葉の中にいろいろと感じることがありますが、非常に驚くのは、あれほど申し上げた零戦については全く言及がなく、余禄みたいに皮肉った大和1/10模型の展示の向きについて、わざわざ釈明をしていることです。ここでも海事科学館準備室が如何に偏った情報を市長にあげているかが察せられます。

 これを公表したところ、艦船に詳しい方から、昭和20年2月に呉海軍工廠に入渠したというのは非常に疑わしいという指摘がありました。

 大和の行動を記載したすべての書籍において、大和は昭和16年12月16日竣工以来3年3ヶ月余の生涯で、入渠はいずれも呉海軍工廠で5回となっていおり、その最終は、昭和19年11月24日〜20年1月3日です。

 とすると呉市長回答文の中の 昭和20年2月に呉海軍工廠に入渠した入船状況を再現しております というのは上記行動年表にある最終入渠のあとにまた入渠があったということですか? この新たな疑問への回答を求めます。

これは公開質問状です。呉市さん、意見がありますか?

その2 2005/06/29 呼びつけ る 1対1で話をまとめようとする 公開を避けている

 

その1に関して何度も督促した結果のメール2通です。2

呼び付け状

 
佐伯 邦昭 様

メールをいただき、ありがとうございました。
いろいろと話し合いたいと思いますので、ご来館くださいますようお願い申しあげます。

平成17年6月28日
                              呉市海事歴史科学館

 電子メールという平凡な意思疎通の手段ではいけないのでしょうか。呉市は、事業の地元説明などの際に質問者を役所へ呼びつけるのでしょうか。

 電子メールが新時代の市民対話手段として定着しているからこそ、殆んどのお役所が声のフォームを設けているのだし、それは一方通行でなく、トップの考えを納税者に伝えて理解を得たいという相互交流の気持ちがあるからだと思うのです。横須賀市が即日返信メールを打ってきたのが好例でしょう。

 せっかくの出頭要請ですが、私は公開で質問した以上は、全国の閲覧者が呉市の対応を待っておりますので、1人で出かけて館側と話をまとめて来る気持ちはいまのところございません。堂々と電子メールでのお答えをお願いします。

希望もしていないのに、お伺いするという姑息なメール

 
佐伯邦昭 様

現物を前にお話しをしようと思いましたが、ご希望ならこちらから佐伯様のところへ伺います。


平成17年6月29日
                                呉市海事歴史科学館

 いえいえ、入館者殺到のご多忙の時にわざわざ広島市まで来ていただくのは恐縮です。全国の閲覧者がインターネット航空雑誌ヒコーキ雲上での呉市の対応を待っておりますので、一対一で話をまとめる気持ちはありません。うしろめたい事情などがないのなら、堂々と電子メールでの答えをお願いします。

 本当は零式艦上戦闘機の問題に入りたいのですが、そちらから余禄のほうの大和で立ち止まらせてしまったのですから、まずはその問題を片付けましょう。

 これは公開質問状です。呉市さん、意見がありますか? 

その3 2005/07/01  市長回答とは異なる説
 

ドック入渠状態との回答3

 
佐伯邦昭 様

メールをいろいろいただきありがとうございます。
メールだけではなかなか説明しにくいので、現物を前に説明しようと思っているだけでございました。

ちなみに、10分の1戦艦「大和」の向きでございますが、艦尾側が海になっております。したがって模型の向きはドックに入渠する入船状態となっているものです。

呉市商工観光部海事歴史科学館
〒737-0029 呉市宝町5-20
TEL 0823-25-3047
FAX 0823-23-7400
E-mail:kaizi@city.kure.hiroshima.jp
HP:http://yamato.kure-city.jp/

  いかにも肩透かしを食わせる軽やかな回答文ですが、たったこれだけの説明をするために館へ呼びつけようとしたのですか? 館長さんは今どき珍しい事大主義者とお見受けします。

 今回の回答「艦尾側が海だ」というのも苦し紛れのこじつけのように思えます。

 市長がわざわざ「エントランスに向かって」と前置きしている真意は、大和ミュージアムの正面玄関に向けて来館者に敬意を表しているということを言いたいのだと推察します。

 一般に、海軍(海上自衛隊、海上保安庁)は正客を桟橋から迎えいれるのが慣わしです。江田島の術科学校でも正門は陸地にあらず桟橋となっており、つまり海軍で言うエントランスは海側なのです。大和ミュージアムで言えば陸地の玄関(JR呉駅側)ではありません。だからこの理屈もおかしいです。

 しかし、いずれにしろ逆光で写真撮影に困っている入館者にはそんなことは殆んど関係がありません。具体的な言い訳を聞かされる訳でもなく、ぶつぶつ言いながらもあきらめて艦尾側から順光で撮っておりますよね。

 よほど特殊な艦艇は別でしょうが、特に軍艦は艦首側から観望するのと艦尾から見るのとでは印象に雲泥の差があります。時代錯誤かもしれませんが、軍艦マーチだって、波頭を蹴立てて向ってくる印象があるからこそ口ずさんで出てくるのではありませんか。その艦首・菊の御紋章 を薄暗い方に向けた展示は決定的なミスです。

 私は、大和ミュージアムの建築設計コンセプトで省エネ等の観点から南側全面をガラス採光とした時に、大和の菊の御紋章側が物凄い逆光になるという予測というか、展示設計との十分な刷り合わせを怠ったのが最大の原因だと思っています。

 これは公開質問状です。呉市さん、意見がありますか? 

その4 2005/07/09  肩透かし、子どもだましの回答

零戦と大和の展示向きについて回答4

 
佐伯 邦昭 様
 
 7月6日付け、並びにこれまで、度々メールをお寄せいただいた、零式艦上戦闘機(零戦)の修復等についてお答えします。

  零戦の修復に当たりましては、これまで他の零戦を展示している施設を始め、それらを修復した航空関係者、航空機の研究家や専門家、また当時のパイロットや零戦搭乗委員会等にご意見とご協力をいただき、呉市 科学館資料収集委員会の意見を基に修復内容(仕様書)を決定いたしました。
 その仕様書に基づいて、実績を有する修復可能な業者を選定し、関係者の協力もいただきながら業務の遂行を監理し、修復を完了したところでございます。
 
 なお、エントランスに向かっている10分の1戦艦大和の向きにつきましては、昭和20年2月に呉海軍工廠に入渠した入船状況を再現しておりますので、再度お答えします。
 
  また、零戦や海龍等につきましては、来館者の動線を考慮して、よく見ていただける位置に置いてあります。

 今後とも、ご意見がございましたら、直接、当海事歴史科学館へお寄せください。

★平成17年4月23日 大和ミュージアムオープン!★
呉市商工観光部海事歴史科学館
〒737-0029 呉市宝町5-20
TEL 0823-25-3037
FAX 0823-23-7400
E-mail:kaizi@city.kure.hiroshima.jp
HP:http://yamato.kure-city.jp/
 

 ここではは大和展示問題に絞っているので、零戦関連は別項に書きます。

@ 「なお、エントランスに向かっている10分の1戦艦大和の向きにつきましては、昭和20年2月に呉海軍工廠に入渠した入船状況を再現しておりますので、再度お答えします。」 について

 なぜ、理由も付さずに同じ答えを何度も書くのでしょうか。これじゃ子どもでも怒り出しますよ。

 私は、潮書房「丸スペシャル」No52所載の「大和」「武蔵」行動年表にある最終入渠−昭和19年11月24日〜20年1月3日という出典を示して、昭和20年2月入渠入船の根拠を問うているのです。

 小ばかにした顔で答えずに、相手の質問に真面目に対応しなさい。


A 「また、零戦や海龍等につきましては、来館者の動線を考慮して 、よく見ていただける位置に置いてあります。」について

 零戦や海龍が来館者の動線を考慮して、よく見てもらえる位置に置いたのなら、なぜ大和を、ごく普通のカメラ好きの日本人が撮影に困惑するような向きにしたのですか。答えが主旨一貫しておりません。

 人々に見て貰う科学館として、あの逆光は致命的であることを、そう思っている多くの人たちの声を代弁しておきます。

 呉市海事歴史科学館の戸高館長さんは根っからの市職員ではなく、民間からの登用だとお伺いします。そのメリットは官僚組織に風穴を開けて、自由な立場で歴史を研究し、公開していくということです。その上で、公の施設として納税者に納得のいく運営をしなければならないという使命も自覚してもらわなければなりません。

 恐らくここには文部科学省の科学館助成が出ていると思いますので、私も納税者の端くれとして、納得のいくまで問い続けます。

 これは公開質問状です。呉市さん、意見がありますか? 

その5 2005/07/14  艦船学界はこの程度のレベルか

入渠時期の新説は複数証言だとする回答5

 
平成17年7月11日

 佐伯邦昭様

 7月8日付及び7月9日付のメールについてお答えします。
 昭和20年2月に戦艦「大和」が呉海軍工廠に入渠したことにつきましては、当時の呉海軍工廠の職員及び乗組員の複数の証言によるものです。
 なお、改装・修理や整備で入渠するのは、「造船船渠」ではなく、「第四船渠」でありました。
 また、零戦の発注に関する業者名簿や呉市科学館資料委員会の名簿につきましては、メールではお答えできません。

★平成17年4月23日 大和ミュージアムオープン!★
呉市商工観光部海事歴史科学館
 

平成17年7月13日

 佐伯 邦昭 様

  7月12日付のメールについてお答えします。
  佐伯様からのメールでのお問い合わせは、海事歴史科学館へ寄せられたもので、個人ではなく海事歴史科学館として返信させていただいております。
  また、昭和20年2月に戦艦大和が入渠したことを証言していただいた関係者のお名前等につきましては、個人情報でもあり控えさせていただきました。

 ★平成17年4月23日 大和ミュージアムオープン!★
 呉市商工観光部海事歴史科学館
 

  これは、大和行動の定説を覆す重大な発言です。


@  『昭和20年2月に戦艦「大和」が呉海軍工廠に入渠したことにつきましては 、当時の呉海軍工廠の職員及び乗組員の複数の証言によるものです。』について

 私は、こういう文書を書く人間が歴史科学を扱う職員だということに唖然とします。
 こっちは、文献の証拠をあげて、2月入渠説の根拠を問うているのに、2週間あまりも考えた末の言い訳が『職員及び乗組員の複数の証言』ですと。
 定説を覆す重大な要件について、たったこれだけの文句で相手を納得させようとするのですか。もっとも艦船学界でこの程度の論理が通用するのなら仕方がありません。

A  『昭和20年2月に戦艦大和が入渠したことを証言していただいた関係者のお名前等につきましては 、個人情報でもあり控えさせていただきました』

 証言者の個人名を挙げてくれなどとはひとつも頼んでおりませんよ。
 すくなくとも20年2月入渠説を市長名で公表させた以上は、証言を取り、それらの証言を裏付けるべく研究した結果でしょうから、内容を聞かせろと言っているのです。
都合よく質問をすり替えなさんな。  
 それは戸高氏の著書の内容をも覆すことですから。
 
B 『改装・修理や整備で入渠するのは 、「造船船渠」ではなく、「第四船渠」でありました

 はい、艦船素人の私は船台ドックと修理ドックの勘違いなどありました。だから大和問題について、本気で呉市海事歴史科学館と問答するつもりはなかったのに、呉市のほうから仕掛けられたから、新たに生じた疑問は疑問として問いかけているのです。これは、航空史と同じことで、間違った歴史記述は正さなければならないという信念です。

C 『零戦の発注に関する業者名簿や呉市科学館資料委員会の名簿につきましては、メールではお答えできません。』

 零戦は稿を改めて詳しくやるつもりですが、あまりにもばかばかしい回答なのでちょっと触れておきましょう。 検査して物品を受領し代金支出済みの事例において、呉市は業者名や支出額を公表できないのですか?

 じゃあ聞きますが、大和ミュージアムの設計監理業者、工事請負業者(特定建設・空調設備・給排水設備・電気設備・昇降機設備・大和1/10模型建造工事)の名前もメールでは教えられませんか? 何やら工事現場にも掲げてありましたし、祝開館の地元新聞広告にもでかでかと出ておったように記憶しますが。

 もし、それはメールできますよと言われるのなら、零戦の修復業者名だけがどうしてメールできないのか、老婆心ながら契約担当部署や法規担当部署の方々とよく相談をしてお答えください。

これは公開質問状です。呉市さん、意見がありますか? 

その6 2005/07/27 小 論   歴史を捏造する科学者 戸高一成氏について   佐伯邦昭

6第一節 中国新聞呉支局の評定

  中国新聞呉支局は、右の赤線の箇所のとおり呉市海事歴史科学館の戸高一成館長を戦艦「大和」研究の第一人者として知られると書いています。「知られる」ということは、艦船史に関係する科学者間でそのような評価が定着しているものと思われます。

 WEBによる戸高一成氏著作の筆者紹介をみると、氏は、多摩美術大学卒業後、財団法人史料調査会主任司書、同財団理事、昭和館図書情報部長を経て、現職に就任し、専門は日本海軍史・書誌学であります。大学の時に著名な海軍艦艇研究家故福井静夫氏の薫陶を受けられたそうで、戸高氏はその遺産で名声を得ているに過ぎないという人もいますが、真偽の程は別として、戦艦「大和」研究の第一人者という評定に沿い、以下、その前提で話を進めます。

 

第二節 呉市長名によるメール文 

 呉市長小笠原臣也氏から佐伯邦昭へ2005年6月23日に送信されたメールおいて、市長は『10分の1戦艦「大和」のエントランスに向っている向きにつきましては、昭和20年2月に呉海軍工廠に入渠した入船状況を再現しております』と表明されました。問題は黄色部分の年月に関する重大な疑義であります。

 メール文には、『詳細につきましては、海事歴史科学館へお問い合わせいただきますようお願いいたします。』と結んでありましたので、以後、再三にわたってその真偽と根拠を海事歴史科学館へ問い合わせました。

 

第三節 海事歴史科学館によるメール回答

 その結果は、根拠や出典を示さずに昭和20年2月に呉海軍工廠に入渠した入船状況である旨を3回も繰り返され、更に根拠を問いますと、当時の複数の職員や乗組員の証言によるものだときわめてあいまいな ことを書いてこられました。

 

第四節 根拠のない歴史作文か

 戦艦大和が就役後において呉海軍工廠へ入渠したのは5回であり、その入出渠の年月日も文献で明らかにされております。沖縄への特攻出撃の前、すなわち最後のドック入りは昭和19年11月24日〜20年1月3日となっております。 

 しかし、市長及び海事歴史科学館からの3回にわたる昭和20年2月に呉海軍工廠に入渠した入船状況なる回答によって、6回目の入渠という説が既に一人歩きを始めました。

 故吉田 満氏は名著「戦艦大和ノ最期」の中で、昭和20年3月の最後の出港を控えた時期に入渠という噂もあったが、実は偽装であった書いております。「戦艦大和ノ最期」はいわゆる大和モノの嚆矢(こうし)をなす本であり、氏の記憶が鮮明な時期に執筆されたものですから信じてもいいのではないでしょうか。その他の文献やヒコーキ雲への艦船関係者からの投稿でも、呉軍港の旗艦専用26番浮標に繋留、もしくは丙錨地(2連のポンツーン)に繋留というものばかりで、入渠というものはひとつもありません。

 大和が第4船渠へ入渠するときには渠口の石垣とバルジの間が左右が1メートルくらいしか余裕が無く、また相当の海水を出すなどの大変な作業を伴いますから、1月3日に出してから、航海もせずにまた入渠させたとすれば、 そこに重大な事態が発生していたと考えなければなりません。しかし、そのような記録は見当たらないようです。 戸高一成氏自身の著書年表にも!

 海事歴史科学館が聞いた複数の証言が2月入渠で一致しているのなら、何が起きたのかも併せ証言されているはずです。そこが最も重要なポイントであり可能な限りの検証を行ってはじめて新仮説として発表すべきものと思います。これは学会常識以前の問題ではないでしょうか。

 現段階では、戸高一成氏は、そのような科学的プロセスを踏むことなく、根無し草みたいな複数証言をもって、大和ミュージアムへの大和の展示向きを昭和20年2月に呉海軍工廠に入渠した入船状況とされ、市長をして公式に表明させているのです。

 

第五節 科学者あるいは公務員たる館長の資格があるのか

 まずは、戦艦「大和」研究の第一人者という看板ですが、このような根拠のない歴史を作文する人が第一人者とは、日本の研究者も地に堕ちたものです。自分で埋めた土器破片を発掘して名をあげた偽学者と同じレベルです。

 また、呉市海事歴史科学館館長すなわち呉市職員としての資質ですが、地方公務員法第33条信用失墜行為の禁止規定に触れるとまでは言いませんが、戦艦「大和」研究の第一人者として招聘され、かつ大和ミュージアム盛況の渦の中でもてはやされ、おごりがあるものと見えます。

 それは、佐伯邦昭へのメール回答の節々、例えば、私を館へ呼びつけたり、人を馬鹿にしたように同文の答えを3回も送りつけたり、複数証言の確かさを質問すれば、名前は個人情報なので答えられないなどと、こっちが聞きもしない肩透かしで回答したなどで明らかです。

 戸高一成氏が大和ミュージアム盛り上げの功労者の1人であることは認めますが、嘘をつく態度に対し、呉市の中にはその功労におびえて館長に直言できる人材がおられないものとお見受けします。

その7 05/09/25 でたらめな呉海軍工廠地形模型 

 

元工廠職員の某氏から大型資料展示室にある地形模型について投稿7


  地形模型を見て驚きました。何を参考にしたのか分りませんが、ざっと記憶をたどっただけで、次のような問題点が浮かび上がりました。

@ 「工廠第1〜第3門」とされているのは「工廠」ではなく「軍港第1〜3門」です。これが工廠門とすると海兵団・鎮守府などが工廠内にあることになります。軍港門それぞれには呉警備隊の衛兵詰め所があり、終日衛兵が立っています。
 第1門は眼鏡橋(JRガード)をくぐった直ぐの所で、ここから入ってまっすぐ南に行くと工廠北門、(第4船渠のすぐ北)です。その他に工廠には東門、中央門、南門と計4箇所の門があり、そこには守衛詰め所があって出入りを厳重に監視しています。私は軍港第1門〜鎮守府前〜工廠中央門という経路で通勤しました。

A この図にある「潜水艦部」という独立した部は存在しません。この誤りは他の本でも見かけました。
     2007/06/21削除 理由は 3 その後の動きなど そのHに書いています。
   

B 電気部と水雷部の表示位置が逆です。

C 「呉工廠本庁舎」と表示のあるところは「総務部庁舎」のことです。この庁舎位置周辺が「工廠中央」とされ、ここより北を造船方面。南を造兵方面と呼んでいました。しかしこんな呼称は所掌範囲の広い総務部・会計部(特に材料課)以外では一般的ではないかも知れません。

D 鎮守府に隣接して「海軍経理部」や練兵場東側道路沿いには「呉軍法会議」があり、海兵団南に隣接して呉警備隊・呉潜水艦基地隊などがありました。

E 造兵方面の工場名表示が寂しいです。「大和」の砲身・砲塔・弾丸を作った工場位置の表示が無いのは「大和」が売り物のミュージアムの工廠地図としては無視できない手抜かりで、隔靴掻痒の感を禁じ得ません。

F 「製鋼部」とある周辺には第1〜3製鋼・電気製鋼・甲鈑・鋳造等の各工場があり、さらには砲熕部の砲身・砲身焼入れ・鍛錬・第2・3弾丸各工場、、左端の魚雷実験部右には「第2水雷組工場」があり、さらに鋼材・窯業資材の置き場(露天)などがありました。

G 工員養成所・技手(ぎて)養成所の近くには「工廠神社」がありました。
 

 参考までに「造兵方面」の思い出せる主要工場名・所在地を番号で示しておきます。図の建物区切り、道路状況が実際と異なるので多少の思い違いがあると思いますが、大きい間違いはないと思います。



@水雷部第2組立工場  A石炭揚陸岸壁  B第2弾丸工場(以下「工場」省略)  C砲身焼入れ D砲身(大和主砲製作) Eこの一角に第1〜3製鋼・電気製鋼  F鋳造  G第3弾丸(大口径砲弾専門)  H甲鈑(大和の装甲製作?)  I砲塔(大和のも勿論)

 J砲架  K筆者の所属部署  L製鋼部庁舎  M第3酒保(従業員用日用品・雑貨・菓子類等販売。こんなに大きくない)  N精密兵器  O砲熕部庁舎  P第1弾丸  Q二次電池(主に潜水艦用)  R潜水艦岸壁(新造艦の電池搭載は必ずここで)  S電気部器具工場 

 21の一体に水雷部組立・機械・銅・メッキ・縦舵機等の工場が密集している)

 「水上機母艦日進」の文字が見えますがどう言う意味でしょうか? その下の「繋船堀」で日進の艤装はしましたが・・・。ここでは八幡丸・新田丸・シャルンホルストの3隻の空母への改装工事を行いました。


佐伯から : 大和ミュージアム館長さん、元職員の方がこれだけの誤りや手抜きを指摘しています。見学者は何も知らないんだと舐めた態度は許しがたいものがありますよ。良識があれば、即刻この元職員に教えを請うて模型の再検討を行うべきではありませんか。
 

これは公開質問状です。呉市さん、意見がありますか?

その8 07/08/09  続  でたらめな呉海軍工廠地形模型 

 2007年7月現在、水雷部と電気部の表示が入れ替えられていました。そのほかは手が加えられた形跡はありません。8

 実際に働いていた人が、その地形模型には疑問ありと声を発しているのですから、普通の博物館ならもっと詳しくと謙虚に教えを請うのではないでしょうか。

 その元呉海軍工廠職員さんがいい加減なことを言っていない証拠を掲げておきましょう。1945年終戦まで呉海軍工廠の職員が付けていたバッジのスケッチです。
 小さなバッジ、それも他工場のものまでを知りうる立場で働き、60数年後の今もこのように記憶をよみがえらせることのできる人は、この方以外には存在しないと思われます。


付記
 バッジは通勤用・現場用と2種類ありましたが、デザインは全く同じでサイズが異なるだけです。現場用の大きい方は円形の物で直径約
45mmで、その他の物も見合ったサイズです。通勤用は同型で直径123mmと言うところです。

 材料は約3mmのアルミ製で表面は平面・磨き仕上げです。極く一部の年配の人の中には同型でもアルミではなくクローム・メッキで表面が微かに球面状の物が見られたので、本来はこのようにもっと“高級”だったかも知れません。

 輪郭に沿った塗りつぶし部分は溝になっていて、これが職階を表します。

 この溝が無色=2等工員 黒=1等工員 赤=職手(しょくて)を表し、この色分けは各部共通です。更に上役の工手(こうて)は現場バッジでもぐっと小さく1円玉位の円形。周囲に沿った幅広の暗い赤で囲まれた白地の中心部円形に黒色の錨マークが付いていました。これは各部共通だったと思います。

  10個の図が総てですが、それぞれがその部を象徴するデザインとなっていますが、念のため説明します。

造船部=この造船部の楕円形は何を意味しているかはついに確認できずに終わりました。一説には船体とかドックという説もありましたが、私はこの形からはその両者のいずれをもイメージできませんでした。

造機部=これは言うまでも無く推進器のデザイン化

製鋼部=精錬溶融した鋼材の第1次鋳造素材とでも言うか、鋼鉄インゴットの断面図です。この8角は2tタイプなど小型の物ですが、大きいものは次第に画数が多くなり、70tタイプでは小判型断面でした。

砲熕部=一見して分かりますね。砲口の条溝を表します(コの数は不正確)

水雷部=漢字の「水」の字です。

電気部=説明不要です。

火工部=実はこれには悩みました。工廠から隔離状態で行く機会が少なかったため思い出せませんでした。「火」の文字から水雷部のような形をいろいろ想像して思い出そうとしましたが、それとは全く違った形がふと浮かびました。しかしそれが火工部と言う決め手はありません。そのイメージは非常に鮮明ながら他に当てはまる部が無いし、見方によっては縦に置いた砲弾を連想させるような気がするので、確かな根拠不在のまま掲載しました。「填」の字は「装填工場」(メイン業務名にあるはずですが不確実)です。

総務部=工廠全体統轄を意味するであろう真円形です。「運輸工場」以外の部署名を知らないので馴染みのあった「運」にしました。

会計部=この横長六角形は何と思いますか?ソロバン玉です。「材」(材料課)の他に「計」(計算課)「給」(給与課)「購」(購買課)があります。

 医務部=もちろん「」で中の「療」は診療所があるのでそのつもりです。

(※記載番号は総て架空です。)

各実験部=砲熕・製鋼・電気・魚雷・造船各実験部は固有のデザイン・バッジは無く関連部のバッジ文字を「実」で表していた。「潜水艦部」は恐らく造船部バッジに「潜」の文字ではないかと、これは根拠無しの想像です。元技術少佐(造船)の著書によると特殊な潜水艦に関わったときの話にも「潜水艦部」なる語句は皆無でしたので建造には全く無関係の部門のようです。

各部固有のカラー

造船部= 造機部= 砲熕部= 製鋼部= 水雷= 電気部=

 これらの色は1等工員=細線1本 職手=細線2本 工手=太線1本で表現される現場帽子の線にも着色され、所属部が一見して分かりました。 

非生産部門の総務部・会計部にはこのカラーは無く、帽子の線は両部とも「白」でした。医務部は不明。

 このカラーは材料・資材供給部門では各部・各工場からの請求伝票の上端が総てこの色が着色されているので、整理・分別・出荷準備・配送現場では非常に有効で、他の部への間違いなど起こり得なかったはずです。
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 その9 07/10/18  科学の名が泣く 大和ミュージアムの展示 或る海事専門家のメールから

@ 金剛のヤーロー式罐に書いてある給水方法だと罐は壊れます
 戦艦金剛に搭載されたヤーロー式ボイラー実物の説明に『給水ポンプ水ドラム→蒸発管→蒸気ドラム→タービン』とありますが、『給水ポンプ→蒸気ドラム→降水管→水ドラム→蒸発管→蒸気ドラム→タービン』としなければ、罐が壊れてしまいます。
 つまり、蒸気ドラム→降水管→水ドラム→蒸発管→蒸気ドラムと循環させ管が重油バーナーの高温で損傷しないようにしてある訳で、これでは海事歴史科学館の科学が泣きます。

A 回天10型試作艇
 ハワイの中古車センターに飾られていた魚雷がいつの間にか回天10型試作艇となって展示!
 
ハワイで想像でハッチと潜望鏡をつけたものを、マスコミが特殊潜航艇だの回天だの報じたため、京都の湯豆腐屋が購入して展示し、2002年に回天10型試作艇として呉市に寄贈したシロモノです。外殻を想像で付けたものらしいです。実物の10型は完成せず、かなり謎があるのですが大和ミュージアムにはそんなことは書いてないですなあ。素人細工を本物に見せる欺瞞!

B 戦艦大和の模型は海賊船か
 模型の大和には軍艦旗が掲げてないから、国際法上は海賊船とみなされても仕方がありません。
 国際法上の軍艦(定義)公海条約第8条2項(国防用語辞典。防衛学会編)によると
  (1) 一国の海軍に属する船舶であること。
  (2) その国の国籍を有する軍艦であることを示す外部標識を掲げること。(軍艦旗又は国旗)
  (3) 政府によって正式に任命されてその指名が海軍名簿に記載されている士官指揮下にあること。
  (4) 海軍の規律に服する乗組員が配属されていること。
ということで(2)が実施されていないので海賊船とな
りますボランティアガイドは、うるさい連中が騒ぐから旗を掲げていないのだと言っておりましたが、艦首の菊のご紋章や載せてある零観の日の丸には文句をつけられないのかしら。うるさい連中もヘンな連中ですなあ。


佐伯から : インターネット航空雑誌ヒコーキ雲への海事専門家からの投稿に驚いています。もっとも、火を付けているのは私であり、かつ呉市海事歴史科学館そのものですから当然かもしれません。
 
 @のヤーロー式ボイラーについては、私にはよくわかりません。
 
 Aの回天については、電池式魚雷の余り物を回天10型として試作しようとしたものらしいですが、上部構造物は明らかに想像上のものだそうです。それが事実かどうかは、公立博物館としてしっかり考証した上で、回天10型試作艇の一部偽物であることを断るべきです。
 回天の展示には、悲惨な特攻の歴史を象徴する意味合いが極めて濃いものですから、もっと襟を正して、真面目に取り組むべきではありませんか。死者を冒涜する不真面目な展示は許しがたいです。

 Bの軍艦旗または国旗については、そもそも展示の基本コンセプトが狂っているのですから、海賊船と言われたって館長には馬の耳に念仏でしょう。
 第四船渠にドック入りした状態と公式説明しながら、カタパルトに水上機を載せてみたり、甲板上にのんびり姿の士官人形を置いてみたりする矛盾が、海事(怪事)歴史科学館の特質のようですから。
 なお、艦首に国旗、艦尾に軍艦旗(海上自衛隊旗)の例を砕氷艦しらせで確認してください。係留中でもちゃんと国際法に則っていることを。 (2007/10/01呉市川原石埠頭で撮影)

 

 だから、入渠の姿などと強弁せず、展示の向きを間違えました、写真を写しにくくしてしまってごめんなさいと素直に謝っておけばいいのです。

B

戦艦大和入渠の歴史捏造問題 番外 2005/08/15記

 

「大和の模型は格好よかった」という子どもの感想でいいのか

  8月15日を迎え 滋賀零にも関連して個人的所感を述べる     佐伯邦昭

 

 滋賀県平和祈念館へ展示される目的で一個人から県へ寄贈された東近江市の零戦モドキについて、それが零戦とはかけ離れた素人細工の物件で歴史的意義は薄いものであるという議論はひとまず置いておきます。

 問題は平和祈念館へ零戦を置くことのインパクトが、滋賀県の平和構想をはるかに超えるものであろうということです。誤解を恐れずにいうなら、この種の施設は一面で戦争博物館の意味合いを持ちます。

 この零戦が東近江市で一般公開されたという中日新聞の記事には「戦後60年を経て再び雄姿を見せた零戦に、見学した市民は驚きの声を上げた」と書いています。「雄姿」という捉え方をされることに、平和祈念館構想との整合性に複雑なものを感じざるを得ません。

 呉市の大和ミュージアムの入館者50万人目で記念品を貰った小学6年生の男児が次のように言いました。

  「びっくりした。大和の十分の一模型は大きくて、格好よかった。いい思い出になった。絵日記に描きたい」と話しています。 2005/08/09付中国新聞呉東広島版

 「格好よかった」という感想にすべてが言い尽くされます。武器というものは、性能を極限まで追求するあまり贅肉をそぎ落とし、結果として非常に流麗な形を生み出し、そのことが多くのファンを惹き付ける魅力でもあります。

 「格好よかった」という感想を聞いて関係者は内心狂喜していることでしょう。大和の十分の一模型が入館者呼び寄せパンダの役目を十二分に果たしてくれたからです。 この記事を見て入館者はもっと増えるでしょう。

 戸高一成館長は新聞に「大和が平和を学ぶ史料として見詰め直されようとしています」というコメント を発表しています。
 外交辞令のウソをつくなと言いたい。あれを見て平和を考える子どもがいたら、ガチガチの日教組両親に育てられた特殊児か何かですよ。

 滋賀県関係者も、平和祈念館構想で零戦を目玉商品にしようという魂胆が無いとは言い切れないでしょう。この零戦モドキの物件を「海軍零式艦上戦闘機52型」などという表示でそのまま展示してしまったら、平和を付加価値にすれば、何でも許される戦後日本の悪しき風潮に輪をかけてしまうであろうと憂います。
 偽物であろうが、歴史を曲げようが、科学技術を冒涜しようが、平和の名の下に割り切ってしまう戸高一成流暴力です。

 大和ミュージアムの大和十分の一模型について、多くの人が「格好よかった」「感動した」と言っていることを私は否定しないし非難もしません。それが現代日本の一断面なのですから。

 そうであるからこそ関係者は科学的良心でしっかりとした思考力を養って館の運営に当たるべきです。

 市長をして歴史捏造発言をさせ、それを撤回することもできないような大和ミュージアムに対しては、たとえと少数意見といわれようとも冷ややかな目を向けざるを得ません。

 平成17年8月15日、今日一日くらいは、施設側の思惑に惑わされないで、例えば吉田 満さんの戦艦大和ノ最期を静かに読んで過ごしてほしいものだなと思います。

 

 

大和轟沈シテ巨体四烈ス
 
水深四百三十米 今ナオ埋没スル三千ノ骸(ムクロ)
 
彼ラ終焉ノ胸中果シテ如何
                                       吉田 満

 

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