2008-08-30 商業化する同人、同人化する商業

一番たいせつなことはなんですか? は商業篇で、
一番たいせつなことはなんですか?その2 は同人篇、
そしてそれを受けての、今回が蛇足篇です。
前回のコメント欄で、ひふみーさんにご指摘をいただいたように、類型の検討のはずが私の同人哲学が思わず滑り込んでしまって、結果的に筆が滑った形になってしまいました。
「表現することを最終目的にすることは本末転倒なのかどうか?」という点については、「同人としてかくあるべし」の哲学論に踏み込まざるをえないので、深追いはいたしません。
ただ、同人としての切磋琢磨で言えば、果たして「友だち100人できるかな?」的な同人数を売り上げに託して競い合うのがいいことなのか、
一方で表現者としての切磋琢磨で言えば、果たして「わかってくれる人だけがわかってくれればいいの」のいわゆる「駄サイクル」*1に閉じこもることがいいことなのか、それぞれにまったく異なるレイヤー*2の問題提起が隠れています。
おそらくそれは、総論的に「同人表現と商業表現はここが違う」と語れるような簡単な話ではありませんし、どちらかがどちらかを卑下するようなものでもありません。
たしかに同人の現場では、同人が商業化しているということがあるのでしょう。
逆に、商業の現場でも、ニッチというニーズ喚起の渇望によって、「儲ければよし」とは単純に言えない、「ファンを作ること」を目的化し、そのファンの活動によって第三者から利潤を得るような、いわば同人化するビジネスというのもあるように思います。
また、それについては、ワンフェスにおけるガレージキットスピリッツ*3とワンダーショウケースの関係のように、同人的なガレキスピリッツを、商業的な量産システムに載せることで、「お客様」的な消費をもっぱらとする一般層*4の需要に応える共存のひとつのモデルが示されていると私は思います。
さて、蛇足の蛇足が長くなっても本末が転倒なので、ってタイトルから転んでますが、蛇足の本論です。
■同人イベントで、値切っても問題が表面化しにくいケースの検討です。
「買い手」が買い物そのものを目的としていて、「売り手」が自分の表現の安売りをしているような場合です。
読んでほしい、でも読んでくれるかわからない。そういうクリエイターなら誰でも陥る不安が自分の表現の安売りに繋がるのは、ままあることです。
まして、同人のブランド化が進んだ昨今ですから、扱うジャンルやネームバリューが表現の質とはまったく無関係の人気の壁となって、非ブランドの初心者サークルなどはこの心理に陥り易いのではないかと想像します。
「買い手」の「賢い買い物をしたい=いいものを安く手に入れたい」という欲求と、「売り手」の「多くの人に認められたい=できるだけ多く本を売りたい」という欲求とがたまたま合致したような場合、言葉は悪いですが、「買い手が売り手の足許を見た」形となって擬似的なwin-winとなってしまうのです。
だからといって、表現者の自意識が無傷であるとはかぎりません。
これは要注意です。
表現者がなんとか数を売りたいと思っていても、それは認めたくない辛い現実に妥協している姿であるかもしれないのです。
商取引の現場では、「そんなん当たり前やん。ショーバイは甘くないで」で片付けられるその姿、同人なら、せめて表現を愛する人間なら、そのひた隠しにした血の涙については共感したいじゃありませんか。
だからといって、ほしくもないものを同情で共有しろという話ではありません。
せめてそっとしてあげてという話かもしれませんし、応援してあげる=パトロンになるくらいの気持ちでいてあげてという話かもしれませんし、厳しく温かく見守ってあげてという話かもしれませんし、物の価値でなく心意気に感じてあげてという話かもしれません。
それは、あなたの同人哲学次第だと思います。
いずれにしても、こういうケースでは値切ってもいいよという話ではありませんよ。
足許を見る行為が賢いと看做される文化と、卑しいと看做される文化があるのは同人に限りませんので。
どうもやるにことかいて同人を値切るためのケース集めを始めた方もいらっしゃるようなので、念のために。