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 <知を楽しむ人のためのオピニオン誌・「正論」>


 ハイ せいろん調査室です(9月号)

《当コーナーはなんでもありの質問・相談コーナーです。おかげさまで大変好評を得ております。お気軽にご利用下さい。悪用されないため、投稿のチェックは十分にするつもりです。

 回答は基本的に編集部が担当しますが、皆様にもお願いします。回答内容に異論があったり、間違った回答の場合は、どんどん反論、あるいはご指摘下さい。皆様のご協力を得て、話題のページにしたいと思っています》

お答えします

 質問=草加市の仁科安彦さん(家事手伝い・32歳)から。

一、樺太、千島列島は今でも日本の領土とみてよいのでしょうか。

二、宗谷岬の「日本最北端の地」碑は正しいのでしょうか。択捉島の方が北に位置しますが。

三、護憲派の共産、社民、民主党左派などの西暦(基督教暦)公的使用は政教分離の憲法に違反なのでは。勿論、太陽暦(グレゴリオ暦)も基督教プラス天文学の合体暦なのですが。

四、韓国と国交回復して三十九年経ちますが、未だに、日本文化禁止などの反日政策が続いています。日本と韓国は本当に関係正常化しているのでしょうか。

五、北朝鮮と国交回復して日本に得はあるのでしょうか。

六、台湾は、独立国と見てよいのでしょうか。(七月号)

 回答=金沢市の山口幸夫さん(元会社員・78歳)から。

一、樺太は、サンフランシスコ平和条約(昭和26・9・8)により、日本の領有ではなくなりました。千島列島は、日露和親条約(一八五五年)により、ウルップ島以北はロシア、択捉島以南は日本の領土と決められています。

 第二次大戦が終結した後、即ち日本がポツダム宣言を受諾した(昭和20・8・14)後にもかかわらず、同年八月二十八日から九月五日にかけて、択捉島及び同島以南の国後、色丹、歯舞各島を火事場泥棒のように侵略盗取したソ連の行為は極めて理不尽なものです。即時返還を求めるべきです。

二、緯度で見れば、択捉島北端は宗谷岬より北ですが、一度の約百分の三の微差ですから、微妙です。

三、当該者の西暦公的使用は、政教分離の憲法違反であるというのは卓見と思います。元来彼らのその行為は、日本古来の文化に対する盲目的否定の小児的思慮に発するもので、特に共産党のそれは天皇制反対を根元とするものと思います。日本の国会の質問でありながら、過去の実績や事実にさかのぼる際、昭和何年、平成何年と言えばすぐ分かるのに、彼らはかたくなに西暦だけを使う。

「私どもは日常西暦を使わないので、換算する手数を強いられる」と、堂々と揶揄(やゆ)して答弁した大臣がいたのを覚えています。確か竹下登蔵相のち首相であったと思います。

四、韓国の教育が日本統治時代の貢献や利点を故意に伏せ、悪い面だけを強調しているのではなかろうか。姑息な反日政策もその延長線上の辻褄(つじつま)合わせのような気がします。

五、国交回復は、核問題も拉致問題も解決した後であると思いますから、少しはつきあいやすい国に変わっているかもれしません。

六、台湾は立派な独立国です。同じ民族でも一党政治と多党政治の国では統一不可能と思います。中国が多党政治の国になれば、統一は容易に実現するでしょう。これは、韓国と北朝鮮の統一についても同様です。

 

 質問=小樽市の新保昇男さん(69歳)から。

 私の父は幸いというか召集徴兵されませんでした。ただ、毎年決まったような時期になると、査閲があるとかで「第二国民兵役陸軍歩兵兵長 新保昇止」と大きな声で練習していたのが幼い頃の記憶として残っております。

 第二国民兵役とは何でしょうか。また、その査閲とは何でしょうか(八月号)。

 回答=岩国市の藤川博之さんから。

 手元にある『日本の軍隊ものしり物語』という本によるものです。

 第二国民兵役

 明治二十二年の徴兵令で以下の区分に制定されたようですが、その後の時代の変遷で内容は改正された部分(期間等)はあっても骨格はそのままであったと思います。

 査閲

 査閲とは青年学校、旧中学校以上の学校、いわゆる軍事教練を課せられていた学校で、年一度程度、その土地の連隊区司令部から佐官クラスが来て教練の実態を見聞、査察を行うものであったと思います。

 ちなみに私は青年学校で数度査閲を受けました。近くの中学校の査閲へは当時の五師団長であった、小磯国昭中将が来られたのを見学した思い出もあります。

 査閲と似通ったもので、在郷軍人の簡閲点呼というものがありました。ご質問の査閲はこの点呼のことではないでしょうか。これも現役の佐官クラスが点呼執行官で補助官として予備役の少、中尉一名、曹長一名。査察の意味も含めて、在郷軍人の士気を鼓舞するのが狙いであったようです。

 点呼当日の行事の中に点呼点検というのがあって、この時、自分の階級、名前を執行官の前で大きく呼称する。お父上が練習していられたのは恐らくこれであったのでしょう。声が小さかったり、元気がない場合は何度でもやり直させる。それが、老若男女、大勢の見学者が見守る中のことなので、当事者は最も緊張する一瞬でありました。

 

 質問=岩井市の安澤正男さん(元会社員・76歳)から。

 この歌の歌詞をご存じのお方はご教示下さい。

 

 戦車兵の歌

聖戦万里海を越え

朔風すさぶ大陸に

敢然敵を急襲す

見よ装甲の機動力

旭燦たり皇軍の精華

我れ等は戦車兵

 

 なにかと気落ちした時に口すさぶと、不思議と昂然とした気分が湧き上って来ました(八月号)。

 回答=松戸市の角南昭さん(81歳)から。

 小生は昭和十四年十二月一日、千葉戦車学校に創設された少年戦車兵生徒隊に入りました。第一期生として百五十名が入校して大東亜戦争開戦に先だち八月一日繰り上げ卒業を命ぜられ、即日各地の戦車部隊に配属になりました。

 この大戦で同期生の三分の一が靖国の英霊となられました。お尋ねの軍歌は戦車学校でも、また部隊でも常に熱唱した本当になつかしい歌でございます、現在も同期生会では必ず合唱しております。

 

一、聖戦万里海を越え

  朔風すさぶ大陸に

  わが精鋭の征くところ

  常に先鋒戦車あり

  旭旗燦たり皇軍の

  精華我等は戦車兵

 

二、敵火雨注も物かわと

  歩兵の進路拓きつつ

  敵陣深く蹂躙す

  これ有心の弾丸ぞ

  剛毅烈たり皇軍の

  精華我等は戦車兵

 

三、挺身突破幾千里

  黄塵遠く地を覆い

  敢然敵を急襲す

  見よ装甲の機動力

  雄姿凛たり皇軍の

  精華我等は戦車兵

 

四、満蒙 北支 中南支

  世界戦史に名も高き

  朧海線上麦青く

  広東城下菊薫る

  武勲赫たり皇軍の

  精華我等は戦車兵

 

五、五条の勅諭畏みて

  人車の契りいや固く

  大和魂の雄叫びに

  全軍勝利の基開く

  忠勇無双皇軍の

  精華我等は戦車兵

 

 質問=東京都北区の佐藤幸二さん(会社員・39歳)から。

 エベレスト山の表記で「エベレスト(中国名チョモランマ)」というのを見ます。なぜカッコ書きで中国名を入れるのでしょうか(八月号)。

 回答=武蔵野市の高倉忠博さん(元大学教授・70歳)から。

 これは譬えるならば富士山の所属を山梨・静岡両県と断る場合と似た配慮と思われます。

 インド、ネパール側からつけた名前がエベレストですが、チベットが中華人民共和国の一部となってからは、恐らく国威発揚のため、独自の名称としてチョモランマの周知が図られてきたと思われます。

「チョモランマ」はチベット語で、世界(ランマ)の女神(チョモ)の意とされます。漢字では珠穆朗瑪と書かれますが、ピンイン(ローマ字)では、この文字通りのZhumulangmaではなく、Qomolangmaと綴ります。外国ではQのほか、Chを使用することもある様です。

 

 質問=小松市の山上徳司さん(84歳)から。

 過日、他人様より聞きましたのですが、昨年七月に竣工された遊就館の中にA級戦犯・東條英機さん以下の方々の署名の入った国旗が飾られていたと聞きまして驚きました。

 この国旗は、いつ、誰が、どうして下さったのか、その経緯をお教え下さい。少なからぬ感謝と興奮を覚えましたので(八月号)。

 回答=編集部から。

 七月七日、靖国神社遊就館から産経新聞(平成十四年八月二日付)と「やすくに」(同十月一日付)が送られてきました。ウチの新聞で大きく報道されていたことなのに、すっかり忘れていました。以下、「やすくに」の記事を紹介します。

 

 去る八月一日、東京裁判(極東国際軍事裁判)で被告となった、東條英機元首相以下二十五人の、漢字とローマ字で書かれた署名入り日章旗が遊就館に奉納された。

 日章旗を保存所持していたのは、米国ペンシルバニア州に住む元米軍憲兵、ダーネル・ズァーフレイ氏(七十三歳)。同氏は、昭和二十二年一月来日、巣鴨拘置所で看守として勤務した。やがて東京裁判の被告を受け持つようになり、親しくなった被告の一人に日章旗を渡して署名を依頼したところ、最終判決を受けた二十五人全員の署名が書かれて返されたという。

 一年間の勤務を終え帰国したズァーフレイ氏は、以来この日章旗を大切に保管してきたが、このことを知った友人達の勧めにより、このたびの奉納となった。

 当日は取材に当った産経新聞社と、國學院大學大原康男教授が来社、湯澤貞宮司に手渡された。

 ズァーフレイ氏は、「被告らは、自尊心を持ち、威厳を持って裁判に臨んでいた。日章旗は?i國神社に寄贈するのが相応しい」と語ったという。

 この日章旗は現在遊就館に展示されている。

 

 質問=鳥取市の筒井繁美さん(元防衛庁事務官・83歳)から。

 私は昭和十六年十二月下旬に三カ月繰り上げ卒業で学園を去り、昭和十七年二月一日に兵庫県加古郡尾上村(当時)にあった中部第九十六部隊(陸軍第二航空教育隊)森永隊(航空機整備員の養成)に入隊しました。

 昭和十七年五月二十一日、左肺門腺炎兼左湿性胸膜炎で加古川第一陸軍病院に入院しました。昭和十七年夏、同年兵たち戦友の出陣を陸軍病院の病床で知り、「戦友よ、申し訳ない」と、涙した当時が忘れられません。この部隊はどこへ出陣したのでしょうか(八月号)。

 回答=東京都千代田区の靖国偕行文庫室から。

「第二航空教育隊」は昭和十三年七月五日に朝鮮の平壌で編成されました。担任していました業務は航空兵の基礎教育及び特業教育であります。

 昭和十六年二月五日に加古川へ移駐しています。その後、昭和十八年九月十七日、陸軍航空通信学校(水戸)の指揮下に入り、終戦まで継続しています(ただし、陸軍航空通信学校は昭和二十年五月三日に「水戸教導航空通信学校」に改編されています)。

 番号で呼称される航空教育隊は一から十四までありますが、これらの部隊で教育を受けた隊員は各地の部隊に配属になっています。

 筒井様は昭和十七年二月一日に入隊し、整備の特業教育を受けられたとのことですので、当時戦局はまだ緊急事態には至っておらず、同期生がまとまって単一の部隊に配置されることは考えにくく、それぞれ特技者として各地の部隊に配属されたものと思われます。

 以上掲載されました記事から読み取り得る範囲でお答えします。資料は航空碑奉賛会編『陸軍航空の鎮魂・総州編』によりました。

 

 質問=千葉市の山崎恒吉さん(不動産業・71歳)から。

 六月四日、テレビ朝日の「ニュースステーション」で、麻生太郎氏の創氏改名発言を否定的に取り上げていました。また、「誇り高い朝鮮人が自ら日本名に変えるはずが無い」との朝鮮人らしき人の談話も伝えていました。

 戦前の洪陸軍中将の存在など強制の印象はありえません。創氏改名が強制であることを示す法律などが存在していたのでしょうか。創氏改名のため手数料を徴収した証拠はあるやに聞いております(八月号)。

 回答=一宮市の伊藤達彦さん(元高校教諭・63歳)から。

 創氏改名というのは日本政府の強制ではなく、あくまで自発的なことです。だから、公式書類もみな「創氏改名願い」となっています。しかも、重要なことは、コリアの人たちは従来の“姓”を捨てたわけではありません。コリアにはなかった“氏”つまり日本風の名字を創り、日本風の名前に変える自由を与えたということです。だから、彼らの戸籍には氏も姓も両方とも記載されていました。

 日本が彼らに改名を強いたことはないのです。朝鮮併合においては、朝鮮人にも等しく日本国籍が与えられました。日本が朝鮮を併合した初期のころは、やはり半島の各地で抵抗運動、反日運動が起きました。これはむしろ当然の反応です。

 だが、その反日運動も満州事変の前後から急速に減っていきます。これは決して朝鮮総督府が弾圧したからではありません。むしろ朝鮮総督府の政策は緩和されています。最大の理由は日本国籍を持っていることの利点が、朝鮮の人たちにもだんだん分かってきたからです。

 たとえば、満州国が出来ると、コリアの人たちは日本のみならず、満州にも移住するようになりました。朝鮮の人たちにとって、満州に移住するというのは、日本に住むより大きなことなのです。何故なら、満州というのは、かつてコリアの宗主国だった土地ですから。そこに土地を持てるというのは、非常に感慨深いことでした。

 ところが、困ったことが一つだけありました。それは満州に移住した朝鮮の人たちは国籍こそ日本ですけれども、名前はコリア風のままでした。満州にいるシナ人たちは、かつての属国であった朝鮮の連中かと言って軽蔑するわけです。そこで、コリアの人たちは自分たちも日本風の名前が欲しくなりました。これが創氏改名の元になるのです。改名には裁判所の許可をもらって、手数料まで払っている事実は強制でなかったことを如実に物語っているのではないか。

 編集部から=「創氏改名」をテーマとした八月号の特別座談会に出席された杉本幹夫さん(植民地問題研究家)からつぎのような補足説明がありました。

 

 日本の多くの教科書では「姓名を日本式に改めさせた」とか「日本式の姓名を名乗らせた」と書いている。しかしこれは全く事実に反することで、姓は一切変わっていない。姓の他に氏を創らせただけである。

 日本でも、朝鮮でも、姓と氏は全く同じ意味で、同じように使われている。ところが一九四〇年の朝鮮民事令の改正で、姓と氏の定義を無理矢理に分けた。そのため梶山季之の『族譜』などで誤解を生じ、教科書での誤解に繋がっている。

 一九四〇年(皇紀二〇〇〇年)の紀元節に台湾では「改姓名」、朝鮮では「創氏改名」に関する民事令の改正が同時に施行された。

 これは麻生さんの主張の通り、満州・支那そして内地に進出した人を中心に日本的な名前に変えたいという希望があったためであろう。

 では何故台湾では「改姓」であり、朝鮮では「創氏」だったのか。いつにかかって朝鮮における「同姓男女の結婚禁止」の規定によると考える。

 朝鮮では「同姓の男女の結婚」は禁止されていた。従って朝鮮式姓名では夫婦別姓が原則である。この項目はこの時の民事令の改正でも残された。同姓であるか否かの検証のためには、姓は一生変わらず、かつ戸籍に明記されていることが必要である。

 一方、日本式では夫婦同姓が原則であり、結婚に当たって夫婦のどちらかが改姓する。このように全く異なった二つの制度の整合性をどのようにとるかが問題である。そこで朝鮮式の姓を姓と定義し、日本式の姓を氏と定義したのである。それに伴い、朝鮮では氏という制度を新しく作る必要があったのである。朝鮮式の姓の制度を廃止したのではなく、姓を戸籍に残させ、氏の制度を作ったのである。

 例えば南さんの奥さんは高さんであった。届けを出さなくても八月十一日には、南さんの氏も姓も南さんになった。奥さんの氏は夫にあわせ南さんになったが、姓は今まで通り高さんである。ところが夫が事故で亡くなった。その時改氏届を出さなければ、奥さんの氏は南のままである。その後、その奥さんが婚外子を出産した。その場合、子供の姓は、南さんになるのか、高さんになるのか、それとも実父の柳さんになるのか、「同姓男女の結婚禁止」の規定がなければ、どのような姓にしても問題ないが、同姓男女の結婚禁止の規定がある限り、姓の決め方をきっちり決めておく必要がある。と同時に姓と氏という二つの制度を明確に区別する必要があったのである。台湾では夫婦別姓だったが、「同姓男女の結婚禁止」の規定がない。従って改姓で何ら差し支えなかったのである。

 このことが分かると、創氏の届け出期間が六か月であり、その間に届け出がない場合、戸主の姓が家族全体の氏となる法定創氏が何故必要であったかが分かる。即ち朝鮮式の姓名制度から、日本式の氏名への切り替えが六か月後だっただけである。この届け出期間の終わった後、日本式の氏名への変更希望者は「改氏名」の申請書を出せば許可された。台湾では「改姓名」の申請には期限がなかったのと同じである。

 創氏は日本式の家族制度へ強制的に切り替えさせたと非難される。しかし論理的に考え、日本式に姓を変えながら、朝鮮式の「同姓男女の結婚禁止」の規定を守るためには、氏という新しい制度を創る以外の方法が無かったと考える。つまり一般の非難と逆に「姓を守り、族譜を守る」ために氏を創ったのである。

 なお北朝鮮は共産化とともに、「同姓男女の結婚禁止」を廃止した。もし日本もこの改正時に「同姓男女の結婚禁止」を廃止すれば、「創氏」のような分かり難い制度を作る必要がなかったのである。また韓国も独立後、この時実施された「異姓養子」の制度を残した。このことは「創氏改名」がすべて悪では無かった何よりの証拠である。

 

 質問=東京都葛飾区の奥野耕作さん(薬剤師・71歳)から。

 終戦直前、米巡洋艦インディアナポリス号を撃沈した日本の潜水艦長橋本以行氏の戦後の半生を教えて下さい。最近撃沈されたインディアナポリス艦長マックベイ氏の無罪を証明した少年の本を読んだもので関心を持ちました。橋本氏は海上自衛隊に入隊したのでしょうか(六月号)。

 回答=編集者から。

 海上自衛隊には入っていません。橋本以行さんは平成十二年十月二十五日、九十一歳で亡くなりました。大神宮社宮司、梅宮大社名誉宮司でした。

 葬儀のときにご長男の橋本以裕さん(大神宮社宮司)が挨拶されました。その文が『本教』という神社の雑誌に掲載されました。京都・嵯峨の野宮神社宮司、懸野直樹さん(42歳。元大阪サンケイスポーツ嘱託記者)が、その記事を送ってくれました。

 その文によりますと、橋本さんは戦後、外地からの引き揚げ輸送などに従事していました。昭和二十九年からは川崎重工業でドックマスターとして伊58潜水艦の元乗組員などとともに戦後初の潜水艦おやしおの試運転を行いました。「退職後は外国航路の船長として世界各国を巡りました。まこと海の男でありました」とご子息は述べています。

 昭和五十年からは梅宮宮司のお兄さんを助け、翌年からは宮司として梅宮の復興に尽力されたそうです。

 

 質問=神戸市の佃慶夫さん(79歳)から。

 一九八九年十月、マンションを完成した。バブルのピークに当たったため契約額に比し大幅な追い銭を取られた。近畿地方で最高額のものとなり、新聞に喧伝された。

 固定資産税は高額のものとなり、次期更改期には再建築価格を基準とするといわれ、建設業者に確かめたところ半額に下がったというので期待した。しかし税額は約一割にとどまった。

 神戸市長宛てに不服審査を申請したが、何の理由もなく却下された。提訴を考え弁護士に相談したが、市長相手に提訴しても勝目は無いゆえ諦めろと忠告された。

 二〇〇三年一月の公示価格が坪換算百万円に下がり、十五年前の坪六百万円より八割強も減じた。それゆえ大いに期待した税額は十五年前の二割減で落胆した。高い税額は何故であろうか(八月号)。

 回答=湯沢市の高橋光二さん(75歳)から。

 固定資産税納付通知が届いてから六十日以内に、神戸市固定資産評価審査委員会宛てに審査申し出をすることができる旨地方税法が定めております。この申し出の趣旨は、評価額が高い、ということで足ります。

 この場合、土地と建物とを別々に記載し申し出する必要があります。審査申出書が受理されますと、市長からの弁明書(評価の手順、計算方法などが詳しく記載されるはずです)が審査委員会を通じて申出人に届けられます。

 申出人は、弁明書の内容をみて評価額の高い理由がわかりますから、これを反論書として審査委員会に提出し、こうした書面による主張と併せて、口頭による陳述の機会がありますから攻撃、防御を繰り返し、やがて審査委員会の決定が通知されることになります。

 この審査委員会の決定に不服の場合には、決定取消訴訟の提起が可能になることになっており、前置主義と呼ぶようです。この手続きを経ないで訴訟はできません。

 ただし税額は別です。税額計算の大前提に標準宅地の鑑定評価額が基本になるのですが、この鑑定評価額が争点の最たるものでして、小生は、平成十二年度の審査決定取消訴訟を提起して六月末に結審しました。九月末日に判決が言い渡されますが、小生の完勝は約束されたも同然と考えております。なぜなら、六月二十六日の最高裁の上告棄却(東京都側の)内容と類似しているからです。

 小生は法律家ではありませんが前記のことに関しては応援することも難事ではありません。まずは期限内に申し出ることです。時間は多くないと思われます。

 

補足がありました

 

 補足=塩釜市の唐牛誠さん(79歳)から。

 八月号、本間尚代さんの書簡と関連ハガキにある「下士適任証」・「下士適上等兵」についてお答えします。

 正しくは「伍長勤務上等兵」臂章(傍点筆者・以下同じ)を所持する上等兵を指していると思われます。昭和十五年九月の改正以前の陸軍の兵の等級は、下から二等兵・一等兵・上等兵の三等級があり、その上は判任武官として伍長・軍曹・曹長の三官等があり、こちらは下士官と呼称した。

 本来は兵の等級である上等兵の中の、特に勤務成績優秀な者に「伍長勤務上等兵」臂章を授与し、本来判任武官の官等である伍長の職務の一部を代行させるという仕組みであった。この臂章は、山形の赤(緋)と黄(金)の二個を組み合わせた章を、左上膊部外側中央部付近に縫い付けて使用した。後に、昭和十五年九月の勅令改正のさい、兵の等級の最上級として兵長が設けられ、伍長勤務上等兵の呼称を廃止、臂章も廃止された。

 

甲種

常備兵役

現 役

満二十歳

十七歳以上の志願者

陸 三年

海 四年

 

予備役

現役を終った者

陸 四年

海 三年

 

後備役

予備役終了者

陸 五年

海 五年

 

乙種

補充兵役

常備兵役の補充要員

一年?

 

丙種

国民兵役

十七歳−四十歳の右以外の者四十歳

まで

 

 なお、伍長勤務上等兵は職務遂行上伍長のそれの一部を代行することに伴って、上等兵の給料に若干増額されていたようである。因みに、昭和十九年当時の上等兵給料年額は百二十円、兵長は年額百五十六円、別任武官の伍長は二百四十円、軍曹は三百六十円、曹長は九百円であった。

 

回答をお待ちしています

 

 質問=芦屋市の平野滋樹さん(元会社役員・71歳)

 Hollywoodは、直訳すれば「柊林」となるはずなのになぜかHoly wood「聖林」と訳されている。これは誤訳なのか、はたまた高邁なる意訳なのか。

 またNobel prize(ノーベル賞)については、審査員が判定する賞で本来一等二等を競うものではないはずであるから、Academy Award(アカデミー賞)と同じくNobel Awardとするのが妥当と思うのだが。これはノーベル基金が英語圏外のスウェーデンで生まれたものだけに誤用されたのであろうか。併せてお教え頂ければ幸いである。

 

 質問=境港市の羽田洋さん(元自衛官・61歳)から。

 亡父が若き日に予備役海軍機関兵として乗艦し、大正四〜五年頃、蘭領東インド洋方面で主に索敵行動及び通商貿易保護の任務についていた、第三艦隊軍艦「対馬」のその後の消息についておたずねしたいのです。

 なお、太平洋戦争終末時、沖縄より疎開学徒等を乗せ、内地へ移送途中、米軍の攻撃を受けて海の藻屑と消えた輸送船「対馬丸」とは同一船だったのか、亡父から聞き損じたまま今日に至っております。何卒ご教示下さい。

 

 質問=萩市の金子直祐さん(84歳)から。

「産経新聞」平成六年九月八日夕刊に次の記事が載っていたと聞きました。

「昭和十二年七月の盧溝橋事件の夜のこと、七月七日の深夜、北京大学構内より発信、中共軍司令部宛ての無線で『成功了』の無線を天津の日本軍特情班が傍受していた」

 この情報を戦後日本で初めて発表した原史料出所はどこから出たものか教えて下さい。この事件が中共謀略説の有力な手掛かりになるだけに重大な関心があります。

 

 質問=吹田市の高岡昭一さん(66歳)から。

 私の義父は、台南市内の旧制中学の教師として奉職中、昭和十六年九月十七日に応召し「台湾歩兵第四部隊」に入営しました。終戦時はフィリピンにて俘虜生活を送り、昭和二十一年十二月初旬に呉港に復員と記録されていますが、正式な連隊名と部隊の駐屯地(当時の地名)を、入営時から終戦時までを教えてください。

 

 質問=徳島県鴨島町の美馬益夫さん(団体職員・60歳)から。

 少子高齢化などに伴って、将来に向かって年金制度の現状維持が困難になってきています。

 その財源として消費税率の引き上げも現実味を帯びてきました。

 そのなかで、消費税について日頃疑問に思っているのは、酒屋で酒、ビールなどを購入する。ガソリンスタンドでガソリンを車に給油する際、酒税、揮発油税が含まれた価格に消費税が課税徴収されています。酒税、揮発油税を差し引いた価格に対して課税徴収が妥当ではないのですか。

 

 質問=相模原市の戸澤宏之さん(71歳)から。

 私は昭和十八年に山梨県浅間村(現一宮町)へ疎開し、昭和二十年四月から、甲府市の工業学校にバス通学していました。

 毎朝バス停に行くと、十八から二十五くらいと思われる女性七〜八人が、バスを待ちながら誰とはなく歌を歌いはじめる。曲の方は今でも鼻唄で歌えますが、歌詞は思い出せない。僅かに「……元気か達者でいるか。……・運んで来たのは郵便戦士。ありがとうよ、本当に……」と物悲しいメロディーだったが、当時の私には「心なごむ」ものだった。その数か月後の八月十五日に終戦。それから数か月間、バス通学したが、その歌を二度と聞くことはなかった。

 毎年八月十五日を迎えるころ、あの歌と清楚なモンペ姿の女性たちを思い出します。誰か曲名と歌詞を教えて下さい。

 

 質問=備前市の西川晃男さん(会社役員・75歳)から。

 第二次世界大戦の終結後いわゆる戦勝四か国、米・英・ソ・中が自国の利益を擁護するために、平和愛好国家と詐称したその四国(後に仏が加わり五国に)で世界の警察官を気取って作ったのが、今の国連だと認識しています。その国連の規約の中に「敵国条項」というのがあるようですが、その中身を教えてください。

 

 質問=八王子市の清水静夫さん(83歳)から。

 日露戦争後、アメリカが反日・排日化して行く最初の頃、明治四十一年、白ペンキで塗りたくられた十六隻の戦艦を我が国に差し向け、東京湾を埋め尽くした威嚇事件(当時、我が国には戦艦は七隻しかなかったとか)があったと某書に出ていた−−白船事件。

 ところが、小生のもっている歴史年表にも、百科事典にも載って居りません。勿論、今まで聞いたこともなかったので、真偽の程を、そしてもし実際あったことなら、どんな具合だったのか、またなぜ、年表や百科事典に載っていないのか教えて下さい。

 

 

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 「正論」平成15年9月号   ハイ、せいろん調査室です





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