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特設メモ 呉市海事歴史科学館への公開質問状  3

佐伯邦昭

細目次

3 その後の動きなど このページ  
@   呉市役所の体質 掲載05/12/15
A  姑息な対応 掲載06/02/20
B  適切に対応したと真っ赤な嘘で誤魔化す市議会対応モデル 掲載06/03/05 
C  歴史の捏造など朝飯前の館だからこそできるお笑い一席4 掲載007/06/21 
D 捏造をひた隠し 職員の良心か? 掲載06/07/03 
E 魚雷のウソ 掲載07/06/21 
F  報道発表の疑問 特設ページ 新 その3 日本博物館協会の研究誌へ 偽りの上塗りか 掲載08/03/27
G 阿川弘之の大和ミュージアム観について(投稿) 掲載07/04/18 
H  新たな問題発生と漫画チックなちぐはぐ
呉海軍工廠の潜水艦部は実在した 訂正と感謝
掲載07/06/21
追加07/06/23
1 呉零戦公開質問状へ
2 戦艦大和の歴史捏造問題公開質問状へ 
 

     3 その後の動きなど

 

@ 05/12/15 呉市の体質

 呉零戦の 修復業者への質問から発した呉市長ないし海事歴史科学館とのやりとりは、当方が一方的に無視される形で連絡が途絶えました。

 指摘を受けて館内の問題を改善をされたのかどうかもわかりませんが、全国の心ある方々には、呉市の体質、大和ミュージアム館長以下の頬かむり体質をお分かりいただいたようです。注目して見ている、負けずにがんばれと言ってくれる人もあります。

 逆に、そうではない、佐伯の方がおかしいのだ、佐伯とは縁を切れなどと扇動している人の情報も入ります。心の狭い人間はどこの社会にもはびこっていますから、驚くことでもありません。
 それらについて呉市関係者以外の方々とこの誌上で論争する気はありません。ひたすら呉市側の対応を促しているのであって、人々の反論や抗議を載せれば泥仕合になるだけですから、掲載もしておりません。(もっとも反論メールの殆どは公開拒否でした)

 また、呉零戦の修復や展示を否定しているわけでもありません。

 「学術調査の結果62型と判明した、吾妻中尉機と判明した」というから、その学術調査の内容と考証の結果とそれに基づく修理作業の内容を一般に公表するのが公的 科学館の使命だろうと言っているだけです。
 予算が少なければ、その範囲内で精一杯努力した結果を示せばいいのです。 噂ではその予算の半分を誰かに持っていかれたとかという話しも聞こえます。あるいは、あのままでは某重要箇所がゆがんで機体が壊れるから徹夜で修理したとか、非常識なまがい物をはめ込んでいて、国内はもとより外国の復元関係者には恥ずかしくて見せられない等々の話しも聞こえてきます。

 これらを聞き捨てにしますか?

 呉零戦が客寄せパンダであろうと、考証ミスがあろうと、作業が少々ずさんであろうと、あそこに零戦を展示してくれているだけで満足という多くの声があることは否定しません。個々の観覧者がどう受け取ろうとそれは自由ですから。

  戦艦大和1/10模型についても、その展示を否定しているわけではありません。多くの入館者が逆光状態での撮影に困っているから、それを指摘したら、戸高一成館長が定説を覆す歴史捏造をしたから問題が大きくなっただけです。

 これらは、一方通行のままでは、何も生まれませんので、今後、呉市等からあらたなアプローチがあるまでは、呉市への抗議等は中止しますが、折に触れて、新たな事実等が生じた時に、その後の動きなどとして書き加えていきたいと存じます。

 なお、意見のある方は、ksa@axisz.(末尾にjpを入れる)宛メールしてください。ハンドルネームで結構です。希望なら無修正で発表いたします。他サイトの掲示板にアドレスを伏せて書き込むようなことは決してしないようにお願いします。 佐伯邦昭

A 06/02/20 姑息な対応2

 先週来ちょっとした動きがありましたので、発表しておきます。

 先週中ごろに、呉市議会のA議員からこのホームページを見た、詳しい話しを聞きたいので会いたいというメールをいただきました。

 私は、こちらから政治的に取り上げていただく積極的な気持ちは持っていないので、A議員への回答は保留して、まず呉市秘書広報課長に対して、A議員からこのような申し出があったが、どう思うか(つまり政治問題化させてもいいのかどうか)市役所側の対応を知らせるように、その間一日待つので返事を貰いたいとメールしました。

 しかし、一日待っても返事がないので、相変わらず無視の対応と判断し、A議員に何でも聞いてくれと返事をしました。インターネット航空雑誌ヒコーキ雲は世界に向かって公開しているものですから、どこの誰がどのように活用しようと、記事の範囲内であれば全く構わない訳であります。

きわめて姑息な対応

 そうしましたら、A議員から、この件で戸高館長ほか2人が自宅へ来たとの連絡を頂きました。話しの内容は、佐伯の悪口と自分達の行動の正しさを吹聴し、できれば議会で取り上げてくれないようにと頼みに行った訳です。もちろん、本日に至るまで呉市から佐伯にはなにもありません。

 なんとも情けない姑息な手段に出る戸高氏ではありませんか。

 秘書広報課長も、旧態依然たる小役人根性から抜け出せていないようですね。

 戸高館長をA議員へ走らせようとする前に、なぜ、このコーナーで私が発している質問に対し真正面から答えさせないのでしょうか。戸高氏の方が正しくて、佐伯の思い込みのほうが間違っていると思っているのなら、堂々と返すべきではないですか。市役所の管理部門で市長を支えるスタッフが現場に遠慮しているようでは、新しい市長さんによる改革など遠い道のりでしょう。

 A議員宅へ火消しに行かせてしまった今、どのような対策を立てるのか、A議員のみならず全国の地方議員とお役人さんが注目しております。

 なお、私の政治思想は、右でも左でもなく是々非々、社会のさまざまな事象を自分の頭で判断して、間違っていると思えば批判するし、正しいと思えば賛成します。各地の政治家からのアプローチにも政党の如何を問わずまじめに対応しておるつもりです。

 

B 06/03/05 適切に対応したと真っ赤な嘘で誤魔化すモデル 3

きわめて姑息な対応を自ら実証

 隠す必要もないので明らかにしますが、A議員は革新政党に属します。私の政治思想は、右でも左でもなく是々非々です。呉市役所に内密で事を運んで痛くもない腹を探られるのはいやなので、まずは呉市秘書広報課長にA議員から接触があったことを連絡しました。

 そうしたら、私に何の断りもなく、呉市海事歴史科学館の戸高館長ら3人が議会で質問をしないよう揉み消しに行き、それをその2に書いたら、秘書広報課長までも頼みに行ったそうです。きわめて姑息な対応との見方を実証してくれているわけです。

 第一当事者である佐伯に対しては、質問にも抗議にも無視して答えず、第二当事者たる議員が質問の構えを見せた途端に現場と管理部門が揉み消しに走るという、私が、旧態依然たる小役人のやることと皮肉ったとおりの漫画的構図です。

 しかし、姑息な対応や漫画的構図は、A議員に通じませんでした。

 A議員は3月4日の呉市議会本会議で次のことを質問したそうです。

1 本来、公開しても差し支えないと考えられる情報(零戦修復の受託者など)を開示しないのは、透明性と公共性を求められる行政施設として不適切ではないか。

2 呉海軍工廠地形模型について、元海軍工廠の人から誤りが指摘されていることに対して、修整が必要ではないか。指摘が間違っているのならそのことを返してやるべきではないか。

3 市長への電子メールは、本来担当部署の対応に納得できない者が直訴するために設けられているはずである。発信者に承諾もなしに担当部署へ振り分ける(つまり市長に見せないのは)おかしいのではないか。

 だいたい以上ですが、革新系の方ですから大和ミュージアムの軍事礼賛や戸高氏の姿勢などへの言及も当然ありました。しかし、ここでは省略します。

 これに対する、戸高商工観光部参事の答弁は次の一言だったそうです。

 「すべて適切に対応してきました。」

 なんということでしょう。

 これは質問者に対しても、広い意味での市民一般に対しても無礼極まる、実に恥ずべき答弁と言わなければなりません。大和の歴史捏造問題 と呉零戦公開質問状を読める程度の国語力のある日本人なら、いちいち解説しなくてもわかるでしょう。相手が革新系であろうが保守系であろうが問題外、ここまで侮辱されたA議員が爆発しなかったのが不思議です。

 NHKテレビなどで見せた狡猾そのものの顔が彼の実態を現わしていると改めて認識させられますし、呉市全体を舐めきっている本質も現われています。

 答弁を許可した議会側に言いたい。「適切」という言葉の意味を辞書をひっくり返してでも調べてみたら如何か。

 戸高館長が本会議へ出席を認められているということは部長級のようです。一科学館の館長が行政職の最高位にあるというのは、兼任職は別として全国でも呉市だけではないでしょうか。 同席した商工観光部長(組織上は上司にあたる)が苦虫を噛み潰した顔であったかどうか、こんな人事を発令した前市長を心の中であざ笑っていたかどうかは知りません。

 ある程度明瞭になったことは、大和の歴史捏造問題と呉零戦公開質問状の論調が大筋において間違っていないということを、戸高氏自身が「すべて適切に対応してきました。」というはぐらかし答弁で逆に認めた形になってしまったことです。正面から答えられないからでしょう。

 通常、議員質問に反論可能な時の理事者側は、理論的に挙証しながら答弁をするものです。しかし、苦しい時の答弁は、承知していないとか調査中とか謙虚に受け留める等々の常とう文句を連ねて逃げまくります。今回、適切に対応したと真っ赤な嘘で誤魔化すモデルが戸高氏によって作られましたが、呉市以外の議会では通用するのですかね。

C 06/05/29 歴史の捏造など朝飯前の館だからこそできるお笑い一席4
 




 

 

 

 

 

 

 

 

 

おじいちゃん 太平洋戦争で日本が負けた1945年は、昭和何年だったの?
おじいちゃん 昭和20年だよ。そんななことも近頃の学校では教えないのか。
教えてるよ。でも、あそこを見てよ。昭和20(1942)って書いてあるじゃないの。
おじいちゃん ナニナニ うーん、なるほど、起工から竣工まで、ぜんぶ3年ずつずれておるのー。
イ401潜水艦が1942年 えーと昭和17年に完成しとったら、晴嵐がパナマ運河を爆撃して戦況はぐんとかわっていたろうに。いや伊号は完成しても飛行機がまだ計画段階か? 待てよー 伊号も図面を書き始めた頃じゃないか‥
おじいちゃん なにをごちゃごちゃ言ってるの
おじいちゃん ごめんごめん、科学館ともあろうものがこんな不見識な説明を出しおって、パンダみたいな大和10分の1模型に釣られて来てみたが、ここは教育上良くないワイ。

 科学館等の開設初期にはよく見られるうっかりミスです。寅さん流に言えば「知らせてくれた人にお礼のひとつも言って直しておけば済む事よ」です。
 しかし、ここまで大きく馬鹿にされて取り上げられるのは、 呉市の不誠実な対応、殊に大和入渠の歴史を捏造しそれを取り消そうともしない戸高館長のもとで動きがとれない海事歴史科学館にすべての原因があります。


2007/06/21

 06/18現在、下記の通り修正されていました。当方には一言も連絡なし。

 

D 2006/07/03 捏造をひた隠し 職員の良心か?5

 今、広島の書店で、一番多く置いてある戦艦大和モノでは、5月26日発売の双葉社「大和ミュージアム徹底ガイド 戦艦大和と連合艦隊 協力大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)」というムックです。

 そのp149に次のように書いてあります。
「1月3日呉工廠を出渠、瀬戸内海にて待機訓練  2月10日第2艦隊第1航空戦隊に編入  3月19日呉付近でアメリカ艦載機と交戦」

 これは類書と同じ内容で、確定した史実なのでしょう。執筆者の中に呉市海事歴史科学館の斉藤善朗の名が見えるので、同館の公式見解ともみなされます。

 さて、戸高一成なるお方は、呉市長に「1/10模型の姿は、20年2月に呉工廠に入渠したものである」と公言させ、それに疑問を呈したら、当時の職員等の複数の証言によるもので確かであると答えてきました。

 ならば部下の斉藤氏は、なぜ、この本に20年2月に呉工廠に入渠と書かないのでしょうか?

 戸高一成の嘘、歴史の捏造を書くには、良心が邪魔したのでしょうね。きっと。 

 

E 06/10/13 魚雷のウソ

元工廠職員の某氏からメール

 大和ミュージアムの九三式魚雷  スクリューはレプリカ6

  日本海軍の九三式酸素魚雷は、当時の世界最高傑作と言われています。大和ミュージアムのスクリューの写真を見ると、明らかに間違った加工をしているのが残念です。

 スクリューを真鍮色に塗装したように見えますが、もしそうだとするとこれは大間違いで、ホンモノは船のように真鍮製ではなく鋼鉄(品種名不詳)の鍛造品をぴかぴかに仕上げ加工した物です。
 
 また、2重のペラの大きさが違うように見えるのものもおかしいです。この2枚のペラが同じでないとアンバランスが生じ本体安定に重大支障が生ずるはずです。(2007/06/21取消 下記)


2007/06/21 一部加筆と取り消し

 大和ミュージアムの九三式魚雷  実物

 実物は、ブレードの縁にはカーブは殆ど無く直線的で、羽子板の板の部分のように逆テーパーで角に丸味があります 。材質は明らかに鋼鉄製です。

 艦船のスクリューは、長期使用するので耐海水性の強い真鍮(工廠にはこの名称は無く黄銅)製ですが、1回使用使い捨ての魚雷スクリューに貴重な 黄銅を使うなど断じて無く、この点は諸外国も同様と思います。その点でレプリカの真鍮は間違いです。

 参考までに呉海軍工廠で野積み状態だった魚雷用スクリュー素材 をスケッチしてみました。このような形で色は焼き入れ地肌でチョコレート色。これを何工程かの繰り返し鍛造で原型(80%?)が できますが、この鍛造時点でピッチ角は既に出来上がっています。図の対角線がブレード軸線になります。

 右の写真は、大和ミュージアムの人間魚雷回天10試型のスクリューレプリカです。二重反転スクリューの後ろのプロペラは、羽根は前部とおなじ大きさですが、推進軸が細くなる分だけ軸受けも細くなるなので小さく見えます。前記の取消線の部分については、現場では立入禁止なので大きさを測定することができず、一応この見方は取り消しておきます。

F 2006/10/13 報道発表の疑問  特設ページへ移動

 

G 2007/04/18 阿川弘之の大和ミュージアム観について(投稿)8

文春の一読者から次の投稿がありました。


 文藝春秋5月号で阿川弘之さんと半藤一利さんの対談「昭和天皇 孤独な君主の闘い」に、次のような阿川さんの言葉がありました。ご参考までにメールします。 

 
 この7年間の侍従日記を読んで、本当にいろいろ感心することがありました。たとえば開戦前には「財政面から国が行き詰まるんじゃないか」と杉山参謀総長を問い詰められる。特に経済を勉強なさったとは思えないのに、きちんと見ておられるのです。
 呉の「大和ミュージアム」が大変な人気で、僕は名誉館長なんですが、一言申しておきたいのは、「大和」は国民の巨額な税金を使って世界一にものを造って、結局何の役にも立たないまま、特攻作戦で沈むのです。それをきちんと認識した上で、日本の誇りにしてほしいですね。

 

 なかなか理解が難しい言葉なのです。
 私なりに解釈するに、海軍出の作家として名誉館長に就いたが、大和ミュージアムの展示方法がものの本質に迫っていない、ただ単に大和が世界一と薄っぺらい展示になっていることに対する苦言に聞こえますが如何でしょうか。

 名誉館長をしてこのように言わせる体質が、大和ミュージアムにあるからこそ、呉市海事歴史科学館コーナーにあるような対応になるのではないでしょうか。

H 2007/06/21 新たな問題発生と漫画チックなちぐはぐ9

○ 新たな問題発生 潜水艦部という部があったのか   (2007/06/21取消 下記)

 更に、新しい問題として、呉海軍工廠に潜水艦部があったかどうかの問題が発生しました。伊号、呂号、特潜など日本海軍の潜水艦史上に呉が果たした役割は大きいものがありますが、当時の関係者で独立した潜水艦部があったことを示す記述等は全くありません。横須賀海軍工廠には正式に潜水艦部があり、公式資料にも残っているのと対照的です。

 しかし、呉海軍工廠の地形模型では、間違っていた電気部の位置が修正されたその横に潜水艦部の表示が加わりました。その上第6回企画展「呉と潜水艦」会場の図面には、でかでかと「潜水艦部事務所」というのが載っています。潜水艦桟橋がすぐ前にあるので関連の事務所のようなものがあったかもしれませんが、「部」というのは誤りです。そのあたりは、後日項を改めて検討いたします。大和ミュージアム側も歴史に真剣に対応する気持ちがあるのなら、事前に「部」の根拠を教えておいてほしいです。

○ 漫画チックなちぐはぐ 艦載機を積んでドック入り

 
このたび、大和1/10模型を提案しながら志半ばで逝去された艦艇模型作家の河井登喜夫さんの遺作である零式水上観測機1/10模型が展示されました。写真のとおり長さ95cm、幅110cmの見事な作品です。

 大和も喜んでいるでしょうが、しかし、ヒコーキ雲としては当然ながら釈然としません。それは、呉市長と戸高一成館長が、大和の展示は昭和20年2月に第四船渠に入渠した状態を示すと公言していることと矛盾するからです。修理ドックに入れば艦上は資材や何かで戦争状態になるはずで、艦載機をカタパルトに置いたまま入渠するなんてありえないことです。横須賀の空母キティホークが、飛べる飛行機を甲板に置いてドック入りしたでしょうか?

 ついでに、艦上には何種軍装か知りませんが、士官人形が2体置いてあります。艦の大きさを示すメルクマールのためでしょう。しかし、ドック入りでごった返している時に、このよなのんびりスタイルで甲板を歩いていたら工廠監督官から嫌みの一つも出るのではないですか?

 
 私は、零水観の模型も人形も悪くはないと思っています。
 要は、艦の置き方を
昭和20年2月に第四船渠に入渠した状態だなどと強弁することをやめてもらいたいのです。素直に、歴史捏造の非を認め、超逆光の位置に置いてしまって申し訳ありませんと頭を下げれば済むことです。


2007/06/23 訂正と感謝

呉海軍工廠の潜水艦部は実在した

 上の「○ 新たな問題発生 潜水艦部という部があったのかに」につきまして呉市総務部市史文書課にメールで質問しましたら、次の回答がありました。

 お問い合わせのメールをありがとうございました。 

 まず、呉海軍工廠潜水艦部でございますが、昭和4年4月6日付け勅令第51号による「海軍工廠令」の改正により設置されています。

 その業務は「潜水艦部ハ潜水艦ノ造修ニ関スル各部事務ノ総合統一及潜水艦ノ諸性能ノ実験研究ニ関スルコトヲ掌ル」とされております。

 潜水艦部は単独で一から潜水艦を建造するための部ではありません。

 潜水艦の建造は、複雑な機構をもつため、造船、造機及び造兵等の各分野と密接な協力と連絡等をとる必要がありました。このため、他の各部には潜水艦部からの指示を受ける「潜水艦班」なる潜水艦担当の班があったとのことです。

 以上の理由で潜水艦部の人員数が他の部に比べ少なかったと考えられます。

 次に、呉海軍工廠潜水艦部長については、初代部長が遠藤九郎、以後、吉田信一、日尾清、遠山清春、早川倉治、駒沢克己、古宇田武郎、そして終戦時の最後の部長は鶴岡信道となっております。

 なお、特殊潜航艇及び回天は、魚雷実験部及び水雷部等で所掌されておりました。

    平成19年6月22日
                                       呉市総務部市史文書課

 ありがとうございました。これで呉海軍工廠潜水艦部に関する疑問は氷解しました。

 なぜ疑問を持ったかというと、工廠の会計部材料課に勤務して造兵関係の資機材を扱っていた人が、潜水艦部という独立した部と接した記憶が全くないし、また、工廠の人員数がピーク時には他部は数千から2万近くであるのに対し、潜水艦部は84人であり、それで潜水艦の建造ができるわけはなく、一次資料の間違いが世に出てしまったのではないかというご意見からでした。

上記お答えの『潜水艦の建造は、複雑な機構をもつため、造船、造機及び造兵等の各分野と密接な協力と連絡等をとる必要がありました。このため、他の各部には潜水艦部からの指示を受ける「潜水艦班」なる潜水艦担当の班があった』で、その疑問ももっともだと分かりました。つまり、工廠内で外見上目立つ組織でなく、工場も持たず人員も少数であったため、会計部材料課に縁がなかったということです。

 呉市総務部市史文書課の的確な素早い対応に感謝申し上げます。もちろん、呉市海自歴史科学館からは、何の応答もありません。

 余談ですが、歴代潜水艦部長の名前を見ると初代から7代までは海軍機関学校出身などの潜水艦関係者のようですが、最後の鶴岡信道部長は戦艦扶桑の艦長からの転身です。本来、技術将校が収まるべきポストに用兵側の戦艦艦長を充てざるを得なかったところに敗戦間際に海軍の人材が如何に底をついていたかが分かるような気がします。

 

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