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カリフォルニア州中部、西はシエラネバダ山脈、東はInyo Mountains(インヨ山脈)、White Mountains(ホワイト山脈)に囲まれたOwens Valley(オーウェンス盆地)にManzanar(マンザナー)と呼ばれるところがある。ここは、夏場は100゜F(38゜C)に達し、冬は氷点下まで下がる気候条件の厳しい乾燥した土地で、強い風が吹き、ほこりが地上を舞う殺伐とした場所である。ここは第2次世界大戦中、全国で10箇所開設された日系アメリカ人の収容キャンプが置かれた場所である。Manzanar National Historic Site(マンザナー国立史跡)は、マンザナーの日系人収容キャンプの跡地を保存するとともに、このアメリカの歴史上の汚点を後世に伝えるための資料館が整備され、元日系人収容キャンプとしては最も整備が行き届いた場所となっている。
西海岸に住む日系人が人種差別と真珠湾攻撃以降のヒステリックな状況の中で、財産を全て奪われ、全国10箇所の収容キャンプに強制移転させられた経緯については、
Minidoka Internment National Monument(ミニドカ収容国定公園)を参照ありたい。ここでも同様に収容された日系人の2/3がアメリカ国籍を有し、残る人々の多くは、移民政策の転換により国籍取得を拒否された人々であった。マンザナー収容所に最初に到着した日系人は、1942年3月にキャンプの設立を手伝いにきた人々であった。540エーカー(219ha)の住居地区は有刺鉄線に囲まれ、8つの監視塔から24時間監視された。全体を36地区に区分し、一地区当たり14のバラックが建てられ、200-400名の日系人が収容された。1つのバラック長屋は4つの部屋に仕切られ、トイレ、シャワー、洗濯場、食堂は共用であった。1つの部屋には8名が割り当てられ、裸電球1個の部屋にストーブ、ベッド、毛布、マットレスが支給された。マットレスは藁で作られたものであった。ここで総勢11,070名の日系人が「仕方がない」とつぶやきながら3年半を過ごした。
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収容キャンプ入り口
各地区には選挙で選ばれたマネージャーが置かれた。食糧は配給制であったため、ほとんどの収容者は、キャンプ内で灌漑用水や排水溝を掘り、野菜や果樹を栽培し、家畜を飼育した。1942年12月には砂糖と肉をキャンプ管理者が横流ししているとの噂から暴動が起き、2名が射殺され、10名が負傷する痛ましい事件も起きている。洋服や家具は自分たちで作り、警察、消防、医院、小売店、美容院、理容院、新聞社、教会、寺院、孤児院なども自分たちで運営した。キャンプ内には自分たちで本格的な日本庭園も整備した。戦況がアメリカに有利になってくると、外出や外の大学入学や農作業従事なども認められるようになっていった。しかし、これらの自由が認められたのは、アメリカへの絶対的な忠誠を誓った人々のみであった。忠誠を拒否した人々は、さらに環境の厳しいカリフォルニアのTule Lake Camp(チュール湖キャンプ)に移送された。マンザナーからも軍隊に志願する若者は多く、彼らは全て日系人で占められた第442歩兵連隊に入隊し、ヨーロッパ戦線で活躍した。
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監視塔
第2次世界大戦の終了により、マンザナー収容キャンプも、1945年11月に閉鎖されることとなり、その際には、25ドルと片道分のチケット代が支給され、残っていた人々も強制的に退去させられた。
第2次世界大戦中に家や財産を奪われ収容された日系人の名誉回復は、1988年まで待たなければならなかった。長年の日系人やマイノリティーの人々の運動が実り、その年、議会は公式に日系人収容について謝罪し、一人当たり20,000ドルの慰問金を支払うことを決議した。今日では、マンザナー国立史跡での展示などを通じて、マイノリティーの迫害という過ちの歴史を後世に伝えようとしている。マンザナーでは合計で146名の収容者が亡くなっており、1943年に収容キャンプの墓地に建てられた慰霊碑が3年半の収容キャンプの歴史を総括するように今も立っている。
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慰霊碑
(国立公園局のHP)