最終意見陳述

1、
<当裁判全体への疑問>−−主に検察官の立証に対する態度への疑問


 そもそもなぜ起訴され、裁かれなければならなかったのか。6年にもわたるこの裁判を通しても全く理解できません。今回問題になった和久・西川の記事はもちろん、私が『噂の真相』でこれまで担当した数多くの記事についても、充分な取材をつくした、なんら問題やトラブルのない正当な報道=ジャーナリズム活動だったからです。 『噂の真相』は他のメディア、例えば週刊誌などの報道活動と同等、いやそれ以上に真摯なジャーナリズム活動を行ってきたと思っています。にもかかわらず、『噂の真相』のみが起訴されている。何故そうなったのか、その区別は何なのか、未だ納得できる明確な答えは得られておりません。
 言うまでもありませんが、社会的存在のオピニオンリーダーといえる和久峻三、西川りゅうじんの2人に対して、個人的な悪意はなく、記事背景に特殊な事情もありません。社会的影響力の大きい文化人・作家である和久・西川に対し、正当な言論・報道活動をしたに過ぎないのです。
 しかも記事内容は本法廷ですべて真実であると立証されているはずです。
 さらに不可解なのは、検察は初公判の段階で、「真実性についても立証する」としながら、結局、本法廷では客観的な立証、証明をせず、それを放棄したまま求刑に至ったことです。検察官は真実性の立証を放棄しながら、一方で人を裁くという姿勢は、全く不公平で不正義な法の執行、そして権力の悪用としか思えません。
 仮に今回の記事が他のメディアと比べて、特別に刑罰を加えなければならないほど悪質な事例だと言うなら、検察はその証明を当然すべきです。しかし検察はなぜかそれさえも、一切しておりません。
 プライバシー問題に関しても同様で、検察はその犯罪性について明確な証明をしていない。当然、私としても法に触れるような行為は一切していないと今でも断言できます。
 不可解なのは検察だけでなく、裁判所も同様です。というのも、この立証放棄について裁判所から未だ何の説明もないからです。仮に立証義務が検察にあるなら、それを放棄している検察に対し、裁判所はしかるべき訴訟指揮をすべきはずです。しかし、結局これはありませんでした。また仮にその立証義務が私たちにあるとしたら、裁判所は、私たちのいくつかの立証を納得いく説明もないまま”却下”の一言で済ませてきたことは理解できません。
 例えば、今回の起訴を私怨によって指揮した当時の宗像紀夫東京地検特捜部長や情報提供者でもある和久峻三の4番目の妻・毛利弥栄子をなぜ法廷に証人として呼ばないのか。理由の説明を行わないのが裁判のやり方ならば、それは国民感情、常識から大きくかけ離れていると言わざるを得ません。
 裁判所は私たちの言い分など最初から聞く気がないからなのでしょうか。それとも検察が起訴したのだから、検察は絶対に正しい、などという判検一体とも言うべき司法の馴れ合いがあるのでしょうか。これが、刑事裁判の実態とすれば、日本の民主主義など一体どこにあるというのでしょうか。
 検察はただ記事中で批判された当事者たち、和久峻三とその5番目の妻・古屋陽子、西川りゅうじんの極めて主観的な言い分のみで、犯罪を立証したつもりになり、私たちを裁こうとしているのです。しかも彼らの言い分も、やはり客観的裏付のないものばかりです。
 西川にいたっては、自らの主張の一部を保身のため、偽証したことを本法廷でも認めています。この一例を見ても、当人たちの主張そのものが極めて疑わしことは明らかです。
 メディアで批判された当事者たちが、その報道内容が事実にもかかわらず事実を否定するのはほとんどの場合、自分のメンツや自己保身のためで、「メンツ告訴」という言葉があるように、これは、メディア界ではよく見られることです。このことはこの裁判において、裁判所が前提にすべき認識だと思います。
 今回私自身が被告人として裁判を体験し、検察はこれまでも、このような稚拙で、杜撰、主観的な方法で、犯罪を立件し立証してきたのかと思うと不思議でなりません。
 私はこれまで検察、ましてや史上最強の捜査機関といわれる東京地検特捜部は、緻密な捜査、証拠によって犯罪を立証するものだと思っていました。しかしこの6年にも及ぶ法廷で私が目にしたのは、緻密な捜査、立証をするわけでもなく、客観的裏づけもとらない、という極めて杜撰かついいかげんな検察の姿勢でした。これは初めての法廷体験者としては、大変な驚きです。
 それは論告求刑を聞いても同様で、検察とは人を罪人にするために、これほどまでに杜撰ででっち上げの論理を作り上げるものなのか、とあらためて驚いています。
 もしこんなことがまかり通るのであれば、メディアに批判され、取り上げられた全ての人が感情的に「酷いことを書かれた、傷ついた」と主張し、刑事告訴さえすれば、刑事罰の対象となってしまう。これでは憲法で保証された言論・表現の自由などないに等しい事態ではないでしょうか。
 このような一方的な主張だけで、人を裁こうとする――むしろ、そのような行為こそが、犯罪的であり、冤罪を生む温床ではないかと思います。
 繰り返しますが、私たちは職業倫理に基づいて当然の報道、言論活動を行ったのです。
 検察が「それは違う」と言うのであれば、そのことを証明してほしい。この裁判における検察の不当性は、私の人生の中でも最も不可解な出来事です。
 国民に付託された権力を使って、人間が人間を裁くという法の番人であるなら、本来もっと真摯な態度であってしかるべきではないでしょうか。記事がどう悪質なのか、他のメディアや記事と比べてどうなのか、どのようにプライバシーを侵害しているのか、検察はなんの具体的証明もしていないのです。

2、<検察の論告求刑の様々な解釈に対する反論>

(1)「記事が公共の利害に関する事実にあたるか否か」の主張について

 検察は「(和久・西川が)池田大作より影響力はきわめて小さい」などと主張していますが、社会状況を全く理解していない論理といえます。
 そもそも、特定の信者に対して影響力を持つ宗教団体の会長と、テレビ、著作物など様々な媒体を通じて不特定多数の人に大きな影響力を与えることのできる文化人を混同して語ること自体、検察が作家や文化人という存在を理解していないかの証左といえます。
 確かに巨大宗教団体の首領である池田大作は大きな影響力があるでしょう。しかし現在のこの教団をめぐる社会状況を考えれば、その直接的影響は国民全体からすれば一部の創価学会信者及びその周辺のものであり、学会員でない大多数の人々にとっては、それほど大きいものとは思えません(もし公明党=創価学会という政教一致の実態まで踏み込めばまた別の影響力があるとしても)。
 しかしタレントや作家、文化人は、テレビや新聞など巨大メディアを通じて宗教、政党に関係なく不特定多数の人々に大きな影響を与えています。
 文化人がいかに影響力が大きく社会的存在か――、今回の参議院選がその最たる一例だったのではないでしょうか。自民党、民主党、社民党などのタレント、文化人候補がその知名度においてトップ当選を果たし、また政党もそれを利用していることからも、莫大なマスメディアによる影響力が見て取れます。
 さらに言えば現在、最も注目を浴びている知事は、作家の石原慎太郎東京都知事と同じく作家の田中康夫長野県知事の2人だという事実からも、それは明らかです。
 現在、政治家は2世または有名人――その多くがいわゆるタレントや文化人といわれる人々であり、今回の参院選に限らず選挙が行われるたびに、政党側は彼の知名度、社会的影響力を目当てに候補者に担ぎ出し、文化人側も社会的影響力を武器に当選を果たしてきたのは周知の事実です。それほどまでに、タレント文化人や作家の影響力は現代社会において増大しているのです。このような現象については、本法廷で証言をした同志社大学教授・浅野健一氏も証言していた通りです。
 その影響を無視した検察論告は、社会状況を無視した認識不足という他ありません。
 
(2)「噂の真相の発刊姿勢」についての解釈への反論――ジャーナリズムへの評価について


 検察の『噂の真相』に対する評価は、社会一般の評価に比べて過剰におとしめられたものとなっています。
 これは『噂の真相』を無理矢理にでも有罪にしようとするための、検察の悪意に基づく偏見としか思えません。検察はそれを一切認めようとはしていませんが、批判やユーモア、揶揄・風刺は表現活動の重要な要素です。それは広く一般に流通するメディア、文芸誌、女性誌、週刊誌といったものを少しでも読めばすぐに分かるはずのものです。起訴された記事の表現は通常ジャーナリズム手法、表現の範囲内にあることは明確なのです。
 論告において『片手落ち』などという用語規制されている差別表現を平気で使うような検察の感覚こそ、問題視されるべきではないでしょうか。
 そうした検察の姿勢は論告14頁の「西川を揶揄したり、極めて侮蔑的勝つ嘲笑的な評伝であり、全体的に品位にかけ、外形上も正当な批判とは到底いえない。」という主張にも表れています。
 本件記事は和久・西川らの評価の低下を意図したものでは当然ありません。あくまでも公的目的、公益性を前提にして、和久・西川の実像を読者に問題提起するために、事実を摘出し、二面性のある人間性の裏の部分をクローズアップしたに過ぎません。
 公人の立場にあるオピニオンリーダーたちの情報公開の範囲内です。
 もし二人の評価が低下したとすれば、彼らの実際の姿、批判されるべき行いが評価に値しないということではないでしょうか。むしろ自らの不徳こそ反省すべきであって、和久はともかく、西川が告訴を取り下げた後、その反省の気持ちを岡留編集長に伝えていることは岡留公判供述でもあった通りです。
『噂の真相』の存在意義は、本法廷で証言をした浅野健一氏、文芸評論家の富岡幸一郎氏、坪内祐三氏、作家の船戸与一氏、さらに多くの『噂の真相』読者が認めているところです。そうでなければ22年間もの長きに渡り雑誌を発刊し続けることは不可能だったでしょう。
「正当な批判ではない」などという検察の言い分は、社会に流通している様々な媒体、ジャーナリズムに対する認識不足、官僚の無知と独断と偏見にしか過ぎないのではないでしょうか。検察の認識は戦前の日本や独裁テロ国家を思わせる言論統制の発想です。自由社会日本において、この検察の認識が罷り通るとしたら、恐ろしい社会になってしまいます。

(3)「和久・西川(作家・文化人)のプライバシーについて」


 文化人たちは、自分の都合のいいプライバシーを積極的に公表し、またその著作物で信念、考え方などを広く公表しています。
 彼らのそうしたプライバシーや考え方、発言が真実であるかどうか、嘘がないかどうかを厳しく検証することは、メディアとしての社会的責務であります。
 さらに、社会的に強者であるこうした文化人は、メディアを積極的に利用しているわけですから、逆にメディアで批判される覚悟も必要になってきます。それこそが社会的公正と言えます。特に、自らも「言論の自由」の恩恵に預かり、メディアを通して考えや作品などを発表している和久や西川といった言論人には特にその覚悟が必要となってくることは言うまでもありません。もちろん和久・西川は批判に対してメディアで反論できる、という特権が与えられている立場ですからなおさらです。
 都合のいいプライバシーの切り売り、自己顕示欲による自らのPR活動、著作での主張など、自らを虚構で塗り固め広くメディアに流通させている部分がある以上、その裏に隠された真実の姿を追求することは、メディアの当然の使命です。真実を知らされないことの悲劇は、過去、戦前の日本の歴史を見ても明らかです。
 都合のいいプライバシーは積極的にメディアに売り込み、都合が悪くなると、怒って訴訟沙汰に持ち込むというのが果たしてオピニオンリーダーとしてのあり方なのでしょうか。 
 こうしたことを検察が全く理解しようとせず、メディアに刑事罰を与えるというのでは、社会的にも多大なマイナスといえるし、巷間言われるような検察の社会に対する無知としか思えません。
 文化人、有名人のプライバシーや言論について、ミルトン、そして伝説的ルポライターの竹中労はこのように言っています。
「なべての人々に言論のフリー・マーケットをあたえ、各人をしてその信じるがままに発言させるがよい。言論は、言論とあい闘うべきである。その自動調律性(セルフライティング・プロセス)によって正当で真実な言論は勝利を得、不正で虚偽な言論は敗北するであろう。官憲はけっして、この自由市場に干渉してはならない」(ミルトン『アリオパジティカ』)

  「名誉とは何か、姿なく形なく境なくつまるところは『感情』である、個的なものであってしかも、多くは虚名にすぎない。もし、明らかに侵害行為が立証されて、実害をこうむったことが確認された場合においても、金銭で購われる筋合いのものであり民意訴訟で充分、刑事制裁を加えるまでの犯罪ではないのである」(竹中労 「刑法改正と自由な言論」より)

 検察官には到底理解し得ないようですが、これこそが、ジャーナリズムにかかわる人間にとっての基本的認識であることを強く訴えておきたいと思います。

(4)「和久の妻のプライバシーについて」


 作家論や近代文学の成立以降、作家の人間研究において、その最も身近な妻や家族、愛人などの存在は、いわば必要不可欠の要素といえます。有島武郎、太宰治、壇一雄、最近でいえば渡辺淳一、柳美里などがその典型的例でしょう。
 そうした意味から和久に関して言えば、”妻”という存在に触れざるを得ない事情がありました。なぜなら『噂の真相』の和久に関する記事の主眼のひとつに、和久の非人間性に対する批判があります。その直接的で典型的な被害者が過去4人の元の妻という存在だったらかです。
 さらに和久事務所のスタッフたちも、和久の非人間的な性格に長年苦しめられていました。住居と事務所が同じ敷地内にある、という極めて特殊な労働条件、和久家の特殊事情を考慮すれば、和久の離婚騒動じたい、必然的にスタッフたちにとって、公的な仕事の面にまで影響、支障をきたす事柄となるのです。このことはあくまで和久を主軸に、そして妻という存在は従属的立場としたものです。
 また和久の妻は”妻”という役わりだけではなく、スタッフたちの経理や労務を手掛けるという和久事務所の管理者という側面もありました。いわば和久は自ら仕事と家庭=プライバシーを一体化させて、公私混同の所業をスタッフに強要、妻もその経理や労務管理を担わざるを得ない立場にあったのです。
 特に4度目の離婚騒動時は、4番目の妻である毛利弥栄子と、不倫相手であった5番目の妻・古屋陽子との間で、スタッフを巻き込んだ派閥闘争ともいえる事態になっていました。このような異常な職場環境を考えると、和久の仕事のパートナーでもある(和久自身、妻は秘書的存在でもあると法廷で証言しています)妻という存在抜きには和久自身の本質は描けなかったのです。
 もちろん、『噂の真相』の記事の中では妻の名前は一字も書かないという配慮をしており、”和久の何番の妻”という抽象的な存在、記号として登場しているにすぎません。
 そういう意味からも、『噂の真相』記事は妻のプライバシーを暴いたものではないことは明白です。
 例えば記事中の「スタッフの目に付くところに下着を干す」などというのは、プライバシーとはいえないものです。
 プライバシーの定義について新明解国語辞典では「私生活を他人に知られず、また干渉されない個人の自由」とあります。であるならば、そこはスタッフたちにとって、仕事の場に、雇用者がTバックを干すこと自体、敢えてその行為を隠さない、プライバシーではないと判断されても仕方のないことで、スタッフに何の配慮もない行為ということは明白です。
 裁判官は「人が知られたくないことをプライバシーというのでは?」との質問を私にしましたが、人に知られたくないなら、何故仕事場という人目につくところにつるしておくのか。例えば会社で誰かが下着を干せば、それは、皆にどう取り沙汰されても仕方のない行為ではないでしょうか。それをプライバシーとは言わないはずです。
 また、スタッフが整理をしている仕事の写真の中に、和久はなぜ淫らな写真を紛れ込ませるようなことをするのか。これは不注意だろうが故意だろうが、若いスタッフたちが話題にするのは当然で、仕事の場、いうなれば公の場で自ら見せびらかすようにして、後でプライバシー侵害だ、など憤怒するのは、身勝手で自己中心的な主張だと思います。
 考えても見てください。検察官も裁判官も職務中に上司の破廉恥な写真が故意にしろ偶然にしろ人目に付くところに置かれていたら、見せられたとしたらどう感じるでしょうか。職場の雰囲気、規律、風紀はどうなってしまうのか。
 一度でもスタッフの身になって考えたことがないという意味で、それこそが『噂の真相』の記事に指摘しているような、和久という有名作家の人間性はないでしょうか。

3、<検察の論告求刑の事実関係についての解釈に対する反論>



(1)「和久・西川のゴースト」について


「他人に代作させている等は、西川の個人的な事柄に過ぎない」――。
 検察の主張は、代作を利用する側の一方的な独断に過ぎず、それを読む側、読まされる側の心情というものを全く無視した言い分です。読者は「著者 和久峻三」「著者西川りゅうじん」とあるのを見て、「彼らが自ら著した読むに値する本」と信じるからこそ対価を払うのであり、それがゴーストライターの作とわかれば、読者の多くは落胆し、裏切られたと思うでしょう。「ゴーストライターが書いた本とわかっていたらハナから手に取らなかった」と憤慨する人も少なくないはずです。
 著者と読者との信頼関係は大きく失われ、著者の社会的評価もまた大きく損なわれるであろうことは容易に想像がつきます。だからこそ、西川も和久も躍起になってこれを否定しようとするのであって、決して「個人的な事柄」でないことは明らかです。
 ゴーストライターを使うかどうかは、著者の個人的な事柄などという閉じた領域の問題ではなく、不特定多数の読者はもとより広く社会との関係性においてとらえられるべき問題です。作家の個人的都合だけを優先させた検察の主張は、社会との関係性を無視した正当性を欠いたものと言わざるを得ません。
 さらに重要なのは、ゴーストライターによる代作の有無は、作品自体の評価にかかわる極めて重大な問題でもあることです。これは論文の実績が評価の基準となるアカデミズムの世界でも同様で、論文の盗作が一つでも見つかれば、その人物は永久追放されるほどの重大事なのです。
 ジャーナリズムの歴史のなかで、「ゴースト・代作問題」が、これまで何度となく雑誌などで取り上げられ、その都度、関連する著作や論文が多数発表されてきたのは、まさにその点において――つまり作品自体の評価という点において――看過できない問題を含んでいたからです。代作の有無は、明らかに作品評価の機軸として厳正に取り扱われるべき問題です。
 過去、何人かの作家が「ゴーストライターを起用していた」と報じられ、社会的に大きな波紋を呼びましたが、広く自らの文章を流通させている作家、文化人等の言論人に代作の疑いがあれば、それを検証し、報道するのはメディアとしての当然の務めであり、『噂の真相』の報道もまたその文脈でとらえられるべきであると考えます。
 にもかかわらず検察は、西川同様、和久についても論告30頁で、「和久が他人に著作等の代作をさせていたかどうかとか江戸川乱歩賞の候補作品を読んだかどうかは和久の個人的な事柄に過ぎず」などと的外れな主張をしています。和久は作家として生業を立て、しかも広く一般社会に自らの思いを文学や言論として発信するベストセラー作家です。その冊数は本人が一億冊と豪語するほど膨大なものです。そのようなベストセラー作家が、「自分で書いた」と言って著作などを公に発表し、巨額の対価を得ておきながら、実は別の人間に書かせていたとしたら、社会的責任においても、作品自体の評価においても、当然、批判されてしかるべきものです。
 読者は「和久の作品だから」「西川の作品だから」と、彼らの名前と作品の水準を信じて著作を購入しているのです。ゴーストライターに代作をさせているのなら、その旨を明記し、読者に知らせるべきです。
 それを隠しているのは、明らかに読者に対する裏切りであり、物書きとしての職業倫理に反する行為であり、信義違反です。詐欺的行為との批判は免れないと考えます。

(2)「西川の飲み会での行状」について


 検察側はこれも「純然たる私行に関する事柄」と主張していますが、この飲み会の席は西川の社会的地位を確立し、自ら理事長もつとめた組織、「キャンパス・リーダース・ソサエティ」の幹部会合「キャンパスサミット」の二次会での酒席で行われたことでした。学生集団とはいえ、それが西川のビジネスにとって、大きな組織力となり、有名企業とのタイアップもこの組織なくして契約できなかったものです。いわば西川が学生ビジネスともいえる事業に成功し、有名文化人になったのも、この組織無くしては語れないほど重要な意味を持つ組織なのです。
 そのような組織の酒席であり、しかも西川の仕事に大きく関与する、そして西川の商売の最大の財産である、学生たちの面前で行われていたのです。これが単なる私行に関することではないのは明らかです。しかも自分の強大な立場を利用して、周囲の人々に、おぞましい飲み物を飲ませる。これが強要でなくてなんなのでしょうか?「ちんぽこマドラー」などという飲み物を喜んで飲む人がいるのでしょうか?
 さらに西川はエッセイなどで酒の飲み方をメディアを通して伝授したり、ビールメーカーの宣伝にも出て、広く公にアピールしているわけですから、そのピーアールという西川の仕事の直接的評価に関わるものです。酒癖が悪く、その上、酷い飲み物を自分より立場の弱い者に飲ませる。酒の飲み方のマナーを、メディアを通して多くの国民にアピールしている人物にとっては、これは単に私行に関する事柄とは到底ありません。
 ビールメーカー、そしてそのピーアール記事の信憑性さえ疑わざるを得なくなる重大な問題です。消費者はこの記事を読んで、メーカーのイメージを構築し購買するのですから、その消費者をも裏切る行為であります。
 このことからも、この宴席での行状といえども立派に公共性がある事実です。

(3)「西川記事が数人程度の取材しかしていないことを自認している」ことについて


   私自身の取り調べ段階の検察調書、そして本法廷における証言を通しても、最低15人もの人物に取材をしたことを証言しています。最低、と言ったのは、取材源の秘匿の原則から、取材源から了承を得られた場合、または匿名を条件にある程度までは話していい、といった了承を得られた人に関してしか証言していないからです。2カ月近い取材期間を考えれば、常識的に数人程度の取材で記事を執筆した、などという事があり得ないことは明らかです。その上、確認取材を行った『噂の真相』川端幹人副編集長も、3人もの関係者に西川記事に関する取材を行っております。検察官の数名という論告こそ、何の根拠もないものです。

(4)「和久作品のパクリについて」


 論告33頁「判例時報の誌上からは公判経過などが分かるはずがない」とありますが、これも弁護人側請求証拠の「和久作品と判例時報の比較報告書」さえ、検察官は読んでいないのか、と呆れるばかりです。この報告書を読めば、明らかにパクリであると分かるはずです。
 同様に39頁「(ぱくりといわれた和久作品が)和久独自の観点からの創作が加わって和久の個性的な作品に仕上がっているからパクリではない」との主張ですが、本法廷においても、その世界のプロフェッショナル、文学評論の専門家である坪内祐三、富岡幸一郎両氏、それに和久と同じ作家という立場にある直木賞作家の船戸与一氏が本法廷におてい「パクリであり、その創作度は低い。パクリ以下」と証言している通りです。
 にもかかわらず、文学的素養がおよそあるとは思えない検察官が、このような極めて個人的な私見で、「創作が加わっている」などと断定することは大変問題だと考えます。一体検察官はこれまでどのような文学に接してこられたのか。
 もし創作が加わっていると主張するのでしたら、どの部分が創作なのか、どの描写なのか、きちんと法廷で立証すべきではないでしょうか。そういった立証を一切していない以上、この主張は極めて主観的な、文学に無知な検察官の個人的意見に過ぎません。文学を理解しない検察官の思い込みで、このように断定することこそ、文学にとって不幸で迷惑な話です。

(5)「木下真理証人の証言の信憑性について」


 論告40頁の元和久事務所の木下真理さんに対する評価についてですが、木下さんは和久に対して、あまりの不条理な事柄に唯一反論できたスタッフといえます。しかしこの反論も和久の罵りの前に、人間として最低限のものだったことが彼女の証言から理解できます。
 他のスタッフは怒鳴られても、ただひたすら従順さを装い、早く辞めようと思っていただけでしたが、しかし木下さんは和久の「あなたは作家になれる、勉強しなさい」という言葉を素直に信じ、我慢していたのです。このような態度はどこの会社や官庁にさえあることです。一連の外務省汚職問題も内部告発が発端でしたし、また現職の検事が不満や義憤から内部情報をマスコミにリーク、内部告発することは多々あることです。しかし、だからといって外交官を辞めた、検事を辞めたという話は聞いたことがありません。木下さんの場合も、こうした態度や事情と同じであり、組織に所属する人間の行動パターンではないでしょうか。
 長年つとめた側近中の側近である木下さんに対する和久の法廷での証言内容や態度も、和久の尋常でない人格を示すもので、木下さんの証言の信用性を低めるものでは決してありません。何よりも和久自身が、自分の文庫の解説を複数回にわたり木下さんに依頼したことの意味は決定的です。なぜなら文庫の解説というものは、まず信頼する人物に依頼するという性格のものだからです。
 本法廷においても、和久の思い込みや、批判されたときの尋常ではない反論、批判に対してすぐ激昂する様、また全ての責任をスタッフにきせる人間的欠落が見て取れました。和久の証言内容、態度を見れば、逆に木下証言の信憑性を証明していると思われます。
 このような検察の言い分は、物事を正確に捉えない独断と偏見であると言う他はありません。

4、検察の<和久・西川のゴースト論>の間違い


 検察官の主張は「誰が書こうが、最終的に和久や西川がチエックしているのだからゴーストにはあたらず、下書きにしか過ぎない。だから和久、西川の文章」というものでした。しかし、これは検察官による大きな間違いです。人に文章を書かせたなら、ーー和久、西川とも、文章のほとんどですーーこれは代作、ゴーストを使ったという批判に晒されるのは当然だということは先ほども述べた通りです。
 しかし仮に検察の主張が正しいというなら、今回起訴され問題になった『噂の真相』の和久、西川に関する記事は、「私が執筆していない、筆者ではない」という事態になるものです。
 それを説明するには和久の記事の制作課程を振り返える必要があります。この記事は私と編集長の岡留安則、そして副編集長の川端幹人が相談して企画を決め、私が直接木下さんから話を聞き、それをテープに録音したものです。その後、どのような方向性で記事にするかの指示を受け、それをもとに木下証言のテープを活字に起こし、私がまとめたものです。木下さんが喋ったことをテープに吹き込み、その話を私がまとめたもので、この過程を和久のテープ起こし手法、そして検察の論告の主張にのっとって考えれば、和久の記事は木下氏の文章、ということになってしまいます。
 さらにその後の状況を振り返れば、私がテープから起こした文章を岡留がチエックして目を通し、加筆訂正し、タイトルをつけて掲載したもので、この文章の創作過程において、検察の主張通りとするなら和久記事は岡留の文章ということになるのです。
 また西川記事も同様で、岡留のコントロール下、私が取材し”下書き”を書き、岡留が加筆訂正、チェックをしタイトルをつけたもので、これも岡留の文章ということになってしまうのです。
 しかし検察は、そうした和久、西川の記事に関する執筆過程を熟知しながら、一方で私を執筆者として断定しており、論理矛盾を起こしているのは明らかなのです。
 西川・和久がゴーストを使っていないとすれば、私も執筆者でなく、下書きを書いた存在に過ぎないことは明らかであり、そうなれば、ここに被告人として存在する理由さえないはずです。
 もしあくまで私が書いたというのであれば、和久・西川はゴーストを使ったことが明白になるのです。この矛盾について一切説明がないまま、私が裁かれていることには納得できません。

5、<終わりに>



   刑事裁判において検察官は、犯罪事実を合理的な疑いのない程度まで、証拠によって証明しなければならないのではないでしょうか。
 私たちは社会における権力者の真実を書き、それが当時の宗像紀夫東京地検特捜部長の私怨による公権力の私物化と、和久・西川の利害が一致した結果、恣意的に起訴された、こう思っています。こんな理不尽な検察による起訴・論告求刑は到底承服できません。検察の言い分、そして私たち双方の主張を厳しく、しかも公平にチェックしたうえで、公正な無罪判決を一刻も早くお願いしておきたいと思います。