2008年08月29日
島 脩 | 元読売新聞編集局長 | 経歴はこちら>> |
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北京五輪の総括で、日本の新聞各紙は、中国政府の人権抑圧、報道規制など政治権力の不当介入を厳しく批判し、改善を促した。半面、世界経済が後退局面に向かう中、成長持続のカギを握る中国の経済運営については、注文と同時に期待感をにじませた。「社会主義市場経済」を唱える中国の振る舞いは、世界から注目され、役割と責任もまた重みを増している。
○「五輪以後」の中国を日本に重ねてみる
中国は、国家的イベント「上海万博」を2年後に控えている。日本も、東京五輪(1964年)に続いて大阪万博(70年)を開催した。「所得倍増10年計画」を2年も早く達成し、自由世界第2位の「GNP大国」の地歩を固めたころである。時代的には、約40年のタイム・ラグがあるが、急ピッチで追い上げる中国は、今やアメリカを抜いて、日本にとって最大の貿易相手国となった。
1972年9月の日中国交正常化がその重要な出発点となった。「1人1本タオルを買っても8億(当時の中国人口)本」と市場重視の田中首相。過去の歴史問題に関して「贖罪意識」を強く抱く大平外相――長年盟友関係を保つ両者の政治決断で戦後処理の大きな懸案が決着した。
当時、文化大革命のさなかにあった中国は、その後文革派を一掃し、最高実力者鄧小平氏の指導下で、78年末から改革、開放政策と取り組んだ。以来、30年にわたって息の長い経済成長が続く。我が国は、賠償の代わりに経済協力を行い、民間投資、企業進出がこの政策を支えた。
○10年で「上海」は別世界に
田中首相に同行して、国交正常化交渉の取材・報道を競い合った各社の政治部記者OB7人で、復交20周年の92年秋、北京、上海を再訪した。躍進を続ける中国の実情を肌で感じてみたいという思いからであった。開放経済体制堅持の方針を内外に鮮明にするため、その象徴的プロジェクトとして上海「浦東開発」が始まっていた。
説明に現れた開発責任者は「10年間で上海を複製します」と切り出した。繁栄を続ける上海は、再開発が難しく、都市機能に衰えがみられる。そこで黄浦江をはさんだ対岸に、旧市街地と同じ経済規模の「新上海」を建設するという壮大なプランであった。
政府主導の下、巨額の資金を投入してインフラを整備し、外資導入、企業誘致を図りながら段階的に開発を進めるという青写真が描かれていた。基礎工事が行われていたが、広大な未開発地域に生えているペンペン草を見ながら半信半疑で説明を聞いていた。
10年後の2002年、同じ顔ぶれで「浦東」を訪れた。高層ビル群が立ち並び、金融貿易街ができ、各種の先端企業の進出など、一大ビジネスセンターと化していた。まるで別世界であった。万博予定地のこの地域に、森ビルが開発した101階建て高層ビル。その90階部分に「世界一高いホテル」がオープンする運びになっている。
○「豊かな中国」の政治形態とは
北京―上海間の高速鉄道をはじめ、今後も各地でいくつもの開発が計画されている。私は、今は順調に進む改革、開放政策が、将来、途中で挫折する恐れはないのかという懸念の一方で、開発の成果が全土に浸透して、真に「豊かな中国」になった時、政治形態はどうなるのだろうか、という相矛盾するような思いにとらわれることがある。
閉会式の翌朝、五輪以後の中国について、「読売」の社説は、「共産党政権の正統性のよりどころである『経済発展』が担保できなければ、人心は離反し、社会不安は一層強まる」と記述し、「朝日」は、「一党独裁の下で、国家目標を効率よく実現する中国式統治への肯定論がいっそう叫ばれるかもしれない。だが、激しい格差や役人の腐敗などへの民衆の不満をいつまでも力で抑えることはできない」と論じていた。