第2章 時間論
「時間」は実在するのか,単なる仮象に過ぎないのか,そして実在するならば,それは人間の主観を離れて実在するのか,また,主観のうちに実在するのか.古来,時間に関する議論はさまざまな立場からなされたが,未だにその答えは出ない.

第1節 科学的時間論
(1) ニュートンの時間論
近代物理学の完成者ニュートン(Issac Newton, 1642-1727)は『自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)』(principia mathematica philosophiae naturalis, 1687初版/1713第2版/1726第3版)において,「絶対時間」の定義を以下のようにしている.
T 絶対的な,真の,数学的な時間は,それ自身で,そのものの本性から,外界のなにものとも関係なく,均一に流れ,別名を持続ともいいます.
つまり,ニュートンは時間と空間は独立なものとして捉え,それゆえ,空間がなくとも時間だけが流れると考える.そして,時間は,空間と独立であるから物体の運動とも独立であると考える.
だが,このような時間概念は,20世紀に入り,アインシュタイン(Albert Einstein,1879-1955)の相対性理論によって覆された.相対性理論によって「時間を計測する」ということについても考察が深められ,観測者の運動状態と時間が不可分なものとなり,時間と空間は相互依存するパラメータとして捉え直された.
(2) 虚時間
アインシュタインの一般相対性理論によって予言された膨張宇宙論(アインシュタイン自身は静的宇宙観をもっていた)は,ハッブルによって証明された.さらにガモフによりビッグバン理論が提唱された.
ビッグバン宇宙提唱後も,宇宙は収縮と膨張を繰り返してきたのではないかと考えられてきたが,ホーキング(Stephen Hawking,1942- )とペンローズ(Roger Penrose,1931- )が,1970年,現在の宇宙膨張の事実を認めるかぎりにおいては宇宙は必ず特異点からはじまらなければならないという「特異点定理」を数学的に証明し,それによって「宇宙のはじまり」が科学によって議論されることになった.
そしてそれは同時に「時間のはじまり」を科学的に議論することでもある.事実,ビッグバンにおける問題点を解決するために,量子力学的効果も考慮して作られたインフレーション宇宙論を基に「無からの創生」も議論されるようになった.
量子力学によると,「無」の状態においてもエネルギーは揺らいでおり,そのエネルギーの揺らぎにより,宇宙は創生されたされる.この時の宇宙の生成は量子力学的トンネル効果によって説明されるが,ファインマン(Richard P. Feynmann,1918-1988)の経路積分法によればトンネル効果において(今われわれが感じている時間を実数時間としたならば)時間は虚数になっており,ホーキングはこのことから「無境界仮説」を唱えた.
無境界仮説とは,時間は宇宙のはじまりにおいては虚数であったとする仮説である.時間が虚数ならば相対論的には時間と空間の区別がなくなる.それゆえ,時空を閉じたものとして考えることができ,3次元球上の2次元曲面(たとえば地球表面)のように端がない(すなわち,境界がない)時空を考えることが出来るのである.
そうすると,地球上において「北極より北」というものを考えることが無意味なように,時空においても「時間がはじまる前」というものを考えることが無意味となる.ホーキングによるとそのような虚時間こそが「真の」時間なのである.こうしてホーキングはみずから証明した特異点定理をうまく避けるようにして時間のはじまりを議論することに成功した.
(3) エントロピーと時間の矢
19世紀,クラウジウス(Rudolf Julius Emanuel Clausius,1822-1888)により,「何らか他の変化を残さずに熱は低温物体から高温物体へ移ることはできない」という熱力学第2法則が提唱された.
この第2法則は別名「エントロピー増大の法則」とも呼ばれる.「エントロピー」とは通常,「乱雑さ」もしくは「均一さ」と解釈される.つまり,ある2つの異なる熱源がある時,これらの温度が異なっているよりも同じである方が「乱雑」であり「均一」である.そして「熱が高温物体から低温物体へ移る」ということは,温度が「均一」になるということである.それゆえ熱力学の第2法則が言わんとしていることは,「時間が経つとともに必ずエントロピーが増大する」ということだとも解釈される.
このエントロピー増大則を微視的な視点から導き出そうとしたのがボルツマン(Ludwig Boltzmann,1844-1906)であった.彼の努力により,エントロピー増大則とは確率的な法則であることが理解された.ボルツマンによると,エントロピーSはS=kB log W と書き直される.ここで kB ボルツマン定数といわれる自然定数で,W は分子のとりうる状態の数である.
つまり,エントロピーの増大とは分子の状態が状態数の少ない状態から状態数の大きい状態へと変化することを意味する.そして秩序だった状態の数より乱雑で均一な状態の数の方が圧倒的に多い.すると,分子は時間経過とともに,状態数が少ない状態よりも状態数の多い状態に変化する確率が高いから,閉鎖系では秩序だった状態から乱雑で均一な状態へ移行する,すなわちエントロピーが増大するのである.
たとえば,水に垂らした赤インクがいったん広がり,それがまたふたたび一点に収束する確率はこの宇宙が創生されてから現在までの時間よりもはるかに長い時間をかけなければ実現しないほど低いのである.
ところで,このエントロピー増大の法則から宇宙が未来において完全に均一化してしまう「熱死」という宇宙の終焉を考えられたが,逆に,エントロピー増大の法則は,時間をさかのぼれば,エントロピーが極小であった時期があった,すなわち,宇宙に始まりがあったということを示唆しているとも捉えることができる.ちなみに,星のブラックホール化がエントロピーを増大させることから,宇宙の終焉はこのような「熱死」ではないと現代では考えられている.
さて,上記のような観点からすると,力学法則は時間対称であるのに実際にわれわれが感じている時間がつねに一方向へと進んでいくのは,この世の物質が,そしてわれわれ自身(われわれの脳?)が非常に多数の原子・分子から成り立っているがゆえなのであると解釈できる.それはすなわち,「時間」は自然そのものの中に存在するのではなく,人間による近似,いわゆる粗視化によって創り出されるものだということになるだろう.
だが,プリゴジン(Ilya Prigogine,1917- )は,このような見方に反対し,すでに微視的なレベルで不可逆性は存在すると主張し,ホーキングらは時間を空間化していると批判する.彼は,ホーキングらのように宇宙のはじまりと同時に時間も創生されたとは考えず,宇宙開闢以前から時間は存在したとする.彼の言葉を借りると,「時間は存在に先行する」(『確実性の終焉』)のである.
今後の形而上学的時間論はこのような自然科学の成果を取り入れたものとならなければならないであろう.そしてそのような自然科学的時間は,われわれが日常的に感じる「過去・現在・未来」の3つの様相をもつ時間とどのように関係するのだろうか.
以下ではこれまでの時間に関する形而上学的議論を概観することにしよう.
*以上の議論については本サイトの第5部第2章第3章を参照のこと.

第2節 近代以前の形而上学的時間論
(1) アリストテレスの時間論
アリストテレスはその著作『自然学』第4巻の第10章から14章までにかけてを時間に対する考察に費やしている.

まず彼は,
(A) 時間は存在しているものの部類に属するのか,それとも存在していないものの部類に属するのか
(B) その本性はなにか  
 
という問いを立て,従来なされた議論について検討する.  
(A) 時間は存在するか  
(1) 過去はかつてあったが今はもうないし,未来はまさにあろうとしているが,今はまだない. そして時間は,これら過去と未来から成り立っている. さらに,ないものから合成されたものがあるとは言えない.

(2) 存在するもので,部分に分けられるものは,その全部分が存在しているか,もしくは,少なくともそれのいくつかの部分が存在しているかのどちらかである. 時間は部分に分けられるが,その部分は(過去や未来のような)ないものである. 「今」は部分ではない.

(3)確かに「今」は存在しているように思えるが,しかし,時間は多くの「今」から成り立っているわけではないし,たとえばそれらの「今」を次々と異なった「今」と考えたとき,それでは以前の「今」は(現在の「今」とは異なる「今」なのだから消滅してしまったはずだが)どのようにして消滅してしまったのかということになる.

以上のようにアリストテレスは,時間が存在すると考えたときに生じるとされるさまざまな解決不可能な難問を紹介する. そしてその後,時間の本性へと話を進める.
(B) 時間の本性はなにか
彼によると,「時間は全宇宙の運動である」という考えと「時間は天球そのものである」という考えはともに単純すぎるので退けられるべきである.

しかしもっとも一般的には,「時間は運動であり,一種の変化であると思われている」ので,これについて検討しなければならない,と言う. 運動はその本性上,それ自身のうちにあるか,運動しているもののある場所にあるかのいずれかであるが,時間はあらゆるところに等しく存在するし,運動には速い遅いがあるが,その速い遅いは時間によって決められているのだから時間自身には速い遅いはない. ということは,
時間が運動そのものでないことは明白である.
だがとにかく,運動や変化がなければ時間も存在しないということも明白である. それゆえ,時間は運動そのものではないが,「運動の何か」である. こうして,問題は「時間とは運動の何なのか」という点にしぼられる.

ところでわれわれが「時間が経過した」と感じるのは,「今」から見て「より先」と「より後」という区別が生じるからである.つまり,
時間とはまさに,より先およびより後という観点から見られた運動の数
なのである. たとえば,「今」より先に太陽が2度昇ったならば,それは2日前である. 「今」より後に太陽が3度沈んだならばそれは3日後である. そしてその証拠は,
 われわれは,物が多いか少ないかを数で決めているが,運動が多いか少ないかは時間で決めている.
ということである.
(2) アウグスティヌスの時間論
神は天地創造の前には何をしていたのか.そうした異教徒たちの疑問に答える形でアウグスティヌスは彼独自の時間論を『告白』第11巻において展開する.彼によると,神が天地創造と共に時間も創ったのであるから,時間が創造される以前には前とか後とかという概念自体が存在しないのである(この辺りはホーキングらの時間概念に類似しているだろう).それゆえ「時間が創造される以前」という言い方自体がおかしい.
では時間とはなんだろうか.
だれもわたしに問わなければ,わたしは(時間とは何かを)知っている.しかし,だれか問うものに説明しようとすると,わたしは知らないのである.
とアウグスティヌスはいう.だが,
なにものも過ぎ去るものがなければ,過去という時間は存在せず,なにものも到来するものがなければ,未来という時間は存在せず,なにものも存在するものがなければ,現在という時間は存在しないであろう.
ということは確信をもっていえるという.しかし,
それではかのふたつの時間,すなわち過去と未来とは,過去はもはや存在せず,未来はまだ存在しないのであるから,どのようにして存在するのであろうか.また,現在もつねに現在であって,過去に移りゆかないなら,もはや時間ではなくて永遠であるであろう.それゆえ,現在はただ過去に移りゆくことによってのみ時間であるなら,わたしたちはどうしてそれの存在する原因がそれの存在しないことにあるものを存在するということができるのであろうか.すなわち時間はただそれが存在しなくなるというゆえにのみ存在するといって間違いないのではなかろうか.
さらに,過去や未来は存在しないのだからその長短を主張できるはずがなく,それは現在についてのみいえるはずだという.だが,現在の時間が長くあるなどということはありえない.たとえば,100年が長い時間であるかどうかを考えるためには,まず100年が現在である必要がある.しかし,
100年のうち,最初の年が経過している時,その1年は現在であるが,しかし他の99年は未来であって,したがってまだ存在しない.次に第2年が経過するとき,さきの1年はすでに過去であり,次の1年は現在であり,他の年は未来である.このように,この100年という年のどんな中間の年をとってみても,その年以前のものは過去であり,その年以後のものは未来であるであろう.それゆえ100年という年は現在であることはできないであろう.
そして,いま経過している1年,そしてひと月,1日,1秒についても同様に考察し,それらが現在でありえないということをアウグスティヌスは示す.こうして,「長さ」がいえるはずであった現在はいかなる「どんな広がりもどんな長さをももってはいない」のである.
では,時間の長短をわれわれが日常的に口にすることができるのはなぜか.やはり「過去」も「未来」も存在するのだろうか.
もしも未来のものがまだ存在しないのなら,それらを予言した人たちは,それらをどこで見たであろうか.存在しないものはまた,見られることもできないからである.過去のものを語る人たちは,もしも心のうちでそれを認めるのでないなら,決して真実を語ることがないであろう.もしも過去のものが存在しないなら,それらは決してみとめられることがないであろう.それゆえ,未来も過去もやはり存在するのである
では,もしも未来と過去が存在するなら,それらはどこに存在するのだろうか.アウグスティヌスは,「過去」は記憶にうちに存在し,「未来」は「予測」,つまり,そのものの原因が現在にあり,そこから未来を予測することによって未来が「ある」のではないかという.
たとえば,曙光を見て太陽の昇ろうとするのを予告するとき,彼が見るものは現在でありながら,予告するものは未来である.つまり,すでに存在する太陽が未来なのではなく,まだ存在しない太陽の上昇が未来なのである.以上の考察から,
未来も過去も存在せず,また3つの時間すなわち,過去,現在,未来が存在するということもまた正しくない.それよりはむしろ,3つの時間,すなわち過去のものの現在(現在において,過去を思い出すことによって過去がある.memoria,記憶),現在のものの現在(現在に直面することによって現在がある.contuitus,直覚,知覚,注目),未来のものの現在(現在において未来を期待することによって未来がある.expectatio,予告,予期,期待)が存在するという方がおそらく正しいであろう.
とアウグスティヌスはいう.つまり「時間」は客観的に存在するのではなく,心の中に存在するのである.
ここで,再び「どのようにしてわれわれは時間を測るのか」というはじめの問いに戻る.アウグスティヌスは言う,
時間を測るとき,わたしは印象そのものを測るのである.それゆえその印象が時間であるか,それとも時間を測らないのであるか,そのいずれかである.
と.そしてこれを彼は「私たちは魂において時間を測る」と表現する.これらの考察を踏まえ,アウグスティヌスは以下のように結論する.すなわち,
どうしてまだ存在しない未来のものが減じたり,なくなったりするのであろうか.またどうしてすでに存在しない過去のものが増すのであるか.それはこのようなことをなす魂のうちに3つのものが存在するからではなかろうか.すなわち,魂は期待し,知覚し,記憶する.そして魂が期待するものは,知覚するものを経て記憶するものに移ってゆくのである.それゆえ,だれが未来のまだ存在しないことを否定するであろうか.しかしそれにもかかわらず,未来のものの期待はすでに魂のうちに存在するのである.また,だれが過去のすでに存在しないことを否定するであろうか.しかしそれにもかかわらず,過去のものの記憶はなお魂のうちに存在するのである.また,だれが現在という時間が一瞬のうちに過ぎ去るのであるから,それが長さを持たないということを否定するであろうか.しかしそれにもかかわらず,知覚は持続し,それを経て将来存在するものがもはや存在しないものとなるのである.それゆえ,存在しない未来の時間が長いのではなく,長い未来とは未来の長い期待であり,また存在しない過去が長いのではなく,長い過去とは過去の長い記憶なのである
このようなアウグスティヌスの時間に関する考察は,近現代の時間論に決して見劣りしない深いものとなっている.

第3節 近代の形而上学的時間論
(1) カントの時間論
カントの時間論の特徴は時間を,空間と並んで「われわれの認識が可能となるための条件」として捉えたことにある.つまり,カント認識論においては,時間は客観的に存在するものではなく,われわれの主観の側にある「直観の形式」なのである

さて,では空間と時間の関係はどのようなものなのだろうか.カントによると,空間は外的な認識の形式であり,時間は内的な認識の形式である.

後者については,心的出来事,たとえば思考などは空間的な広がりをもたないが,しかし時間的であり,理解しやすいが,前者についてはどうであろうか.外的な事物は空間的であるが,出来事は,空間的であり,かつ時間的である.これは外的な認識も精神が行っていることなので時間的な要素が付随するのはある意味で当然であるようにも思える.

いま言ったように,時間は内的認識を可能にする形式であるから,カントは空間よりも時間のほうがより根源的であると考える.
(2) フッサールの時間論
フッサール(Edmund Husserl,1859-1938)は現象学の祖として有名であるが,その要点は現在意識が向けられているものを重視する点にある.そして,自己が外部世界を意識するのは知覚を通してであるが,知覚は現在という時間においてなされる.それゆえ,その時間論も「現在」が出発点となる(そしてこの分析は時間そのものというよりも時間意識の分析といったほうが正確である).

しかし,現在は現在という一瞬だけから成り立っているのではない.たとえば,われわれはあるメロディのなかのひとつの音を聴くとき,その音をその音だけで理解するのではなく,その前に流れた音の記憶とそのあとに流れるであろう音の予期を基にして理解する.つまり,意識における現在は現在と過去と未来によって構成されている.

これをフッサールはそれぞれ「現印象」「過去把持 Retention」「未来予持 Protention」と呼ぶ.現印象は次の瞬間に過去になるが,しかしそれは消え去るのではなく過去把持として現在を構成している.そして現在はわれわれが予測している未来によっても構成されているのである.

ところで未来予持はいったいどのようにして可能になるのであろうか.フッサールによると,それは記憶によってである.先ほど例に挙げたメロディーの予測もやはり過去にさまざまなメロディーを聴いた経験からなされているのである.それゆえ未来より過去のほうがより根源的であることになるのだ.

さて,現在を構成している過去の記憶,つまり過去把持は「一次記憶 primäre Erinnerung」といわれるが,しかしやがて現在を構成している要素から抜け落ちる.このように現在から離れていった過去の記憶を「第二次記憶 sekundäre Erinnerung」という.

そして,現在を構成する一次記憶が現在から離れて二次記憶となるのは時間というものの性質によるとフッサールはいう.

ところで,意識は必ず何ものかについての意識である.この何かへと意識が向けられるその働きが「志向性 Intention」と呼ばれる.

結局,時間意識とは,現印象の過去への流れを志向性によって「未来予持→現印象→過去把持」という系列でとらえられたものである.つまり,自我の根底にはある流れがあるのだが,それを志向性によって(未来予持,過去把持というやり方で)とりまとめている.これをフッサールは「流れつつの立ちどまり性」と呼ぶのである.
(3)ベルクソンの時間論
ベルクソン(Henri Bergson,1859-1941)にとって実在的な時間は,知覚され,体験された時間であり,それは「私自身の流れ」あるいは「内的持続」とも呼ばれる.
そして彼はこの内的持続を視覚ではなく聴覚をモデルに考える.なぜなら視覚は空間が見えるという点ですでに時間に対して不純な要素を持ち込むからだ.
目を閉じて,ただそれだけを考えながらわれわれが聴くメロディーは,われわれの内的生の流動性そのものであるところのその時間にきわめて近い.…われわれが意識的生の最初の瞬間から最後の瞬間まで眺められる,われわれの内的持続は,このメロディーのようなものあるものである.…もし私が一枚の紙の上で,紙を見ることなしに,指をあちこち動かすならば,私の行う,内側から知覚された運動は意識の連続であり,私自身のあるもの,結局持続のあるものである.いま目を開けば,私はその紙の上に自分の指がひとつの線を描いているのを見る.その線は保存され,そこではすべてが並在であって,継起ではない.(『持続と同時性』,1922)
このように,ベルグソンは時間の空間化を徹底的に排除することによって「真の」時間を探求しようとした.
(実在的な時間である)まったく純粋な持続とは自我が生きることに身を任せ,現在の状態とそれに先行する諸状態とのあいだに境界を設けることをさしひかえる場合に,意識の諸状態がとる形態である.
そしてそのような純粋持続は,
質的変化の継起以外のものではありえないはずであり,それらの変化は,はっきりした輪郭ももたず,お互いに対して外在化する傾向ももたず,数とのあいだにいかなる血のつながりももたずに,融合し合い,浸透し合っている.それは純粋の異質性であろう.
しかし空間の観念に取り付かれているわれわれは,
純粋の継起を思い浮かべる際に空間を導入してしまう.…(そのように空間を導入してしまうことによって)継起とはわれわれにとって,各部分が相互に浸透することなしに隣接しているような,持続した線とか鎖の形をもつものとなる.…継起のうちに順序が定められるのは,継起が同時性となり,空間内に投影されるからである.(以上,『時間と自由―意識に直接与えられているものについての試論』,1889)
とベルグソンは言う.つまり,物理学的時間だけでなく,普段われわれが時計から読み取っているような時間も「真の」時間ではないということになる.
さてでは,このようなわれわれ個人に固有の「内的持続」と万人に共通な時計で測られるような「量的な(空間的な)時間」とはどのようにして結び付けられるのであろうか.ここでベルグソンは「同時性」という概念を導入する.
「同時性」には「流れの同時性」「流れにおける瞬間の同時性」「外的運動同士の瞬間の同時性」の3つがあり,この順で「内的持続」から遠くなっていく,つまり,本来的形態から派生的形態になる.
はじめの「流れの同時性」とは「私自身の流れ」それ自体のうちにある多様な流れのあいだの同時性である.たとえば,川の岸に座っているときに,水の流れが聞こえたり,鳥のはばたく音が聞こえたり,また,われわれ自身の心臓や呼吸の音なども聞こえる.そういったもの,どれも明確な輪郭と区切りをもたず,前後が相互に浸透し合う流れであるようなもの同士が「同時である」と把握することが「流れの同時性」である.
そして,この「流れ」を空間的な線分と対応させることによって,線分が点によって区切られるのと類比的に,「持続の端」を区切る瞬間があるとみなされ,それによって複数の「持続の端」同士の「同時性」がいわれるようなる.これが「流れにおける瞬間の同時性」である.ここにおいて,「流れ」や「動き」といった「持続」を「線」や「長さ」のような静止的なものに変えることによって空間的な「量」をわれわれは導入するのである.
そして,最後の「外的運動同士の瞬間の同時性」とはたとえば,走者のゴールと時計の針の位置のふたつを同一視野に収めるようなことをいう.
ベルグソンによると,われわれはこのような3つの「同時性」を介して,本来は個人的で各人に固有の「私自身の流れ」を見失い,万人に共通で一律な「時計の時間」「唯一の時間」のもとにあるという幻想へと追いやられるという.
ここで,木村敏の『時間と自己』における「こと」と「もの」の区別も参考のために見ておこう.木村敏は,時間とは「こと」的であると言う.それを「もの」的なものととらえると時間は時計で計測できるようなものになってしまう(たとえばアリストテレスや物理学的な時間は典型的な「もの」的時間だといえよう).
ところで,「こと」というのは私自身のうちにおいて「同時に」あることが可能である.「音楽を聴いているということ」「時間についての解説文を書いているということ」「空腹であるということ」などは互いに排除し合うことなく私のうちにある「こと」である.
それに対して,「もの」はそうではない.私が時間についての解説文を書いているパソコンと音楽を聴いているCDプレイヤーは同じ場所を占めることはできない.それと同様に,「音楽を聴くということ」を意識の中心にもってくると,それは「もの」化し(「表象」となり),その意識の中心部に「時間についての解説文を書くということ」をもってくることはできない.
つまり,いま見た「ことの同時性」とは「流れの同時性」であり,それを意識化,つまりそこに「志向性」を持ち込むことでそれは空間化し,「流れにおける瞬間の同時性」となるのである.

第4節 現代の形而上学的時間論
(1) マクタガートの時間論
マクタガート(J. M. E. McTaggart,1866-1925)は,われわれが考える時間には2種の時間があることを明確に意識し,それらに対して深い洞察を行った.形而上学的時間論の歴史は彼を境にひとつの転回を迎えることになる.

彼は,『存在の本性』(The Nature of Existence,1927)において,遠い過去から近い過去を経て現在に至り,現在から近い未来を経て遠い未来へといく主観的な時間系列をA系列,客観的・科学主義的な時間系列を時間のB系列とし,前者がより根源的な時間であるとした.そしてその上で,A系列に潜む矛盾を指摘し,時間の非実在を唱えた.
簡単にするために,私はA系列という名前をつけることにするが,それは,遠い過去から近い過去を経て現在に至り,さらに現在から近い未来を経て遠い未来に至る位置の系列,あるいはその逆の系列である.より前からより後に至る位置の系列,あるいはその逆の系列を,私はB系列と呼ぶことにする.時間におけるいかなる位置も,その位置の中身はなにかある出来事である(『存在の本性』§306)
そして,マクタガートの議論において重要なのは,「過去,現在,未来ということでわれわれが意味しているものは・・・性質ではなく関係である」(§326)とする点である.時間は出来事それ自体がもつ性質ではないのである.

ここで,マクタガートは時間の本質に「変化」を見る.そして,B系列には変化は存在しないので,これは根源的な時間系列ではないとするのだ.たとえば,ラッセルは「変化とは,時間が異なるだけで他はすべて同じ命題の真理値が違うこと」(The Principles of Mathematics,1903)であるという.

つまり,ある時間 T1 において熱い鉄棒がそれより後の時間 T2 において冷たくなったとする.すると,時間が異なるだけであるのに,「その鉄棒は熱い」という同じ命題の真理値が異なっている.これをラッセルは「変化」と定義したのである.

しかしこのような定義をマクタガートは批判する.なぜなら,これらふたつの命題はふたつの異なる事実を表現したように見えるが,「T1においては熱く,T2 において冷たい」というさらに大きな事実によって表現され,その事実自体はそのときも今もこれから先も変わらずに真なのである

B系列においては,出来事それ自体を問題にしているのではなく,複数の出来事の前後関係を問題にしている.そしてその前後関係自身はそれ自体がひとつの事実であり,それは時間とともに変わることはないのである.ゆえにB系列に変化は存在しない,とマクタガードは結論する.

こうしてB系列には時間の本性である「変化」が存在しないのであるから,それはA系列に求めなければならないであろう.マクタガードによると,A系列における出来事には変化があるという.つまり,いかなる出来事も例外なく,それがまだ起きていなかった長い時があり,そしてそれが現に生じている時があり,さらにそれが終わって過去になった長い時があるという,時に関わる「変化」がある.たとえば,
アン女王の死という出来事は,かつて遠い未来の出来事であった.それは瞬間ごとにより近い未来の出来事になっていった.ついにそれは現在になった.ついでそれは過去になった.そしてこれからも常に過去のままであるだろうが,しかし瞬間ごとにそれはますます遠い過去になる(§311)
のである.こう考えると,A系列においては,「まだそれが生じていない時」「今まさにそれが生じている時」「それが生じ終えて,もうない時」という3つのありかたをするという意味で,出来事自身が「変化」する

さて,このようにして,A系列こそがより根源的な時間系列であることがわかった.しかし,マクタガートはこのA系列にはある矛盾が存在するという.そしてそれゆえに時間は実在しないというのだ.どういうことであろうか.

ある出来事が過去であれば,それは未来ではなく,現在でもない.おなじく,現在であれば,それは未来でもなく過去でもない.これら出来事の3つの在り方は両立しえないものである.なのに,ある出来事は過去であり,現在であり,そして未来である.これは矛盾ではないか.そうマクタガードは考えるのである.しかし,そのことは一見,
それら(過去・現在・未来という3つの特性)が同時である場合に両立しないだけであり,それぞれの項が(過去・現在・未来という)特性のすべてを順々にもつという事実の中には,その特性に矛盾するようなものは何もない(§330)
ように思えるが,しかしこの説明は説明にならないとマクタガードは言う.なぜならこの説明では,B系列をもちいて出来事を「順々に」過去・現在・未来というように並べているだけだからである.

いま問題になっているA系列は「過去・現在・未来」というタームのみを用いなければならない. それゆえここで「順々に」というB系列のタームを勝手に用いることはできないのである.

そこで,ある出来事が「まず未来であり,次に現在であり,その次に過去である」 ということをA系列のタームを用いて言い直せば, ある出来事が「過去において未来であり,現在において現在であり,未来において過去である」となる.

さて,上の3通りの言い方は確かにそれぞれ矛盾しない.しかし,これで矛盾が解消したのではない,とマクタガートは言うわけである.

なぜなら,あるひとつの出来事には,さらに6通りの言い方,計9通りの言い方ができるわけだが(つまり,「過去において過去」であるとか 「未来において現在である」など),この9通りの言い方の中にはあきらかに矛盾する言い方が含まれるからである.

たとえば,ある出来事が1990年にあったとしよう. すると,その出来事は,1980年には未来で,1990年には現在で,2000年には過去である.現在が1990年だとすると,確かに,「過去において未来で,現在において現在で,未来において過去である」という言い方ができる.

しかし,現在が2000年であったらどうだろう. この出来事は,「過去(1980年)において未来であり,かつ過去(1990年)において現在である」つまり矛盾している (〜年という表記は分かりやすいように付け加えただけで,本来はB系列のタームなので使えないことに注意).

これにさらに「過去における過去において未来であり,過去における現在において現在である」というような言いかえをしても,同様にして矛盾する表現を導き出せることは明らかだろう.こうして,やはりA系列には矛盾が含まれることがわかった,とマクタガートは主張する.

さて,A系列は根源的な時間系列であったが,こうして「A系列の実在性は,矛盾に導かれるゆえに,拒否されなければならない」(§332)ので,時間そのものの実在性も拒否されることになるのだ.

ただ,このような考え方は空間にも適用できるように見える.なぜなら,「ここ」から見てある場所が「右であり,かつ左である」ことは矛盾であるが,実際に「右であり,かつ左である」ことがあるので,空間は存在しないと結論付けることができる.

これに対して,時間は変化が重要であったからA系列のタームしか用いることができなかったが,空間の場合は客観的な空間座標を用いて矛盾を回避することができるということもできるだろう.だが,問題は,ある出来事に対して「過去でありかつ現在である」というとき,あるときに過去であると認識できた出来事Aとまた別のときに現在であると認識された出来事Bが同一であるかどうかということである.そのことが保証されない限り,ある出来事が「過去でありかつ現在である」とは言えないし,それがいえるのならば,時間内の出来事と空間内の地点の区別はなくなってしまうのではないだろうか.  
(2) ライヘンバッハの時間論
「時間というものは,人間経験のもっとも顕著な特徴のひとつである」とライヘンバッハはいう.なぜなら,われわれの感覚・知覚は時間の中で現れる出るものであるからだ.
さて,数学者は,われわれの感じる時間の主観的な速さや,経験内容にわれわれの向ける注意力によって変化する時間経過の主観的な速さといったものとは独立に,時間は均一に流れるものだと考える.そして,時間が均一に流れるならば,時間を測定する基準が存在していることを意味する.その基準とは何だろうか.
われわれは,持ち歩く時計を,標準時計と比較することによって調節する.さらに標準時計は,天文学者によって調節されている.天文学者たちは,さまざまな構成と照応させることによって,時計を調節するのである.しかし星の運動は,地球の自転が生み出す鏡の映像のようなものであるから,結局われわれが標準時計として採用しているものは,地球の自転である.どのようにしてわれわれは,自転する地球が,信頼するに足る時計であることを,すなわち厳密に均一な時間を記録する時計であることを,知りうるのであろうか?
実は,太陽が子午線を通過するときから次に再び通過するときまでの時間(すなわちある正午から次の正午まで)は厳密には均一ではない.それは地球の公転軌道が楕円であるためである.であるから,天文学者は,ある恒星の子午線経過によって定められる周期で地球の自転を測定する.これを恒星時という.
だが,この恒星時も,地球の自転がある一定方向にむいたままではなく,歳差運動を起こすため均一ではない.したがって,結局は,天文学者が均一な時間と呼ぶものは数学方程式を用いて,観測した数値にある補正値を加えた形で出てくるものなのである.
では,どうのようにしてその方程式が厳密に均一な時間を定めることがわかるのであろうか.その方程式は力学法則を表わしていて,自然観測から導かれたものであるから妥当なものなのである.しかし,そもそもその観察による諸法則の正しさを証明するために,われわれは参照時間を持っていなければならない.さもなければ,力学の諸法則が真であるかどうかを決定する手段がないことになるのだ.すなわち,
均一な時間というものを知るためには,われわれは力学の諸法則を知らねばならない.そして力学の諸法則を知るためには,均一な時間を知っていなければならないのだ.
こうしてわれわれは循環論法に陥ってしまう.このような循環論法を脱出するにはどのようにすべきか.
この種の循環論を脱出する方法は,ただひとつしかない.すなわち均一な時間という問題を,認識する事柄ではなく,定義する事柄であるとみなすことである.われわれは,天文学者の時間が均一であるということが真であるか,といとうべきではなく,天文学的時間は均一な時間を定義する,といわなければならないのだ.真に均一な時間というものは存在せず,われわれはある時間の流れを均一であると呼ぶのである.
このように分析すると,必然的に,時間の相対性という考えをもたらす.それゆえ,時間の均一性の尺度として,恒星の見かけの回転を利用する代わりに,回転する原子だとか運動する光線といった自然の時計を利用することもできる.そして,これらの時間の測度が一致するというのは事実であり,ここに時間の均一性の天文学的定義がもつ実際的意義も由来するのである.
次に「時間の順序」についてライヘンバッハは考察する.時間の測度はさまざまに異なり得たが,時間の順序はいつも同じでなければならない.
ライヘンバッハは時間の順序の判定基準として因果関係をもちだす.
原因は結果に先行しなければならないのだから,もしある出来事が他の出来事の原因であることが分かっていれば,第一の出来事は第二の出来事より以前に起こったに違いない.
<たとえば,新聞紙に包まれた金の宝があったとすれば,その他からが新聞紙に包まれる出来事は新聞が印刷された日付よりも後の出来事である.なぜなら新聞紙を印刷することは,その新聞紙を作り出した原因だからだ.
したがって時間の順序関係は,原因と結果との関係に還元されるのである.
しかしでは,原因と結果はどのように区別するのであろうか.それはたとえばエントロピー増大の法則による.われわれはコーヒーとクリームを混合させることはできるが,それを元に戻すことはできないのである.
ただし,「以前」でも「以後」でもない「同時」という概念に関しては,「情報伝達の上限」(すなわち光速度)があるために,複雑である.しかし,それでも,われわれが感じる時間の流れとは,この世界を形成する因果仮定と同一であるとライヘンバッハは結論づける.

第3章脳死と臓器移植
第1章本質存在と事実存在
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