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すべてを失った祖父、母の背の娘… 不法占領63年の色丹島 元島民語る (3/4ページ)
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「日本人は日本に帰す。一週間以内に荷物をまとめろ。ただし、持っていけるのは、手荷物だけだ」
得能さん一家は昭和22年9月末、ソ連軍から強制送還の命令を受けた。
10月、ソ連の大型船が迎えに来た。桟橋からはしけで、沖に停泊していた船に向かった。「日本人は、荷物といっしょにモッコと呼ばれる大きな網に入れられ、つり上げられて貨物船の船倉に積まれた」。
船内は択捉島、国後島で乗せられた日本人で、すでにほぼいっぱいだった。得能さん一家は、母親、姉夫婦とその子供、弟と妹が一緒だった。
「船には数千人が乗り込んでいた。どこに船が行くのかわからない。『島にまた帰ってこれるのか』。色丹島を離れるとき、そんな思いで、ただ呆然(ぼうぜん)と、島を見つめていたのを覚えている」
船は日本本土ではなく、ソ連が軍事侵攻した南樺太(現サハリン)に向かった。到着したのは真岡(まおか)(現ホルムスク)。樺太高等女学校に隣接する小学校の収容所に入れられた。
「女学校に入っている者から順番に日本本土に帰ることができた。それまで順番を待たねばならなかった」
収容所の生活は厳しいものだった。島を出るとき米などを持ってきたが、やがて炊事するための燃料がなくなった。
「便所の壁板をはがして炊事用の燃料にするため、トイレが丸見え。若い女性は昼間、トイレをがまんするため、体調を崩す。子供や老人も栄養失調で病気になった。やがて、どんどんと死んでいった」