「むぅ〜」
不機嫌そうなうなり声が響く。
「苦いとは聞いていたけれど……」
複雑な表情で口の中にあるそれの味を確認すると、粘つく感のあるそれをコクリと飲み下す。
「ホントに苦いわね、これ」
言いながら、改めてそれを見る凛。
「でも、なんだか癖になりそう」
ブツブツと独り言を続けながら見やるその視線の先には、ピュアチョコレートの缶があった。
あかいあくまと正義の味方 番外編
〜ヴァレンタイン・デー〜
(case of UBW TE after)
話は若干さかのぼる。
二月に入ったばかりのある日、「申し訳ないが緊急に」とのたっての頼みで、衛宮士郎は昼休みに入った直後に事務室に呼び出された。
例によって、修理しなければならない--それも緊急に--備品が出たらしい。
三年生のこの時期、大抵のものは大学受験のため、あまり学園には出てこないものなのだが、とっくの昔に倫敦の大学へ留学が決まっていた二人、遠坂凛と衛宮士郎は律儀にも毎日登校を続けている。そしてこの日は、珍しくも士郎の親友である一成、慎二や凛の友人である美綴、三枝、氷室、蒔寺も揃って登校していたため、皆でまとまって昼食を取ろうとしていた矢先のこと。
この七人の人間関係を考えればすぐ判る事ながら、士郎が抜けると、自然と一成と慎二はそれぞれ別の場所で食べるようになり、女性陣は女性陣でまとまって姦しい昼食時間を過ごすこととなるわけだ。
そしてこの時期の話題となれば出てくるものは主に二つ。入試とヴァレンタイン・デーの事。
「あーあ、いいよなぁー、とっくの昔に大学決まってる奴は!」
心底羨ましそうに言いながら、弁当を突っつくのは蒔寺。どうやら先日の試験の結果が思わしくなかったらしい。
「推薦であれ何であれ、全ては日頃の行いの結果ではないか。……とはいうものの、羨ましいと思う気は私にもあるがな」
いつものように冷たくも聞こえるような口調で応ずる氷室も、眼鏡の奥の目には若干の疲労感が漂う。
「そおだよぉー、それだけ遠坂さんが普段頑張ってたって事なんだし。蒔ちゃんも鐘ちゃんもいまガンバロ!」
と、励ます由紀香も、流石に若干ながら疲れた様子が見受けられる。
しかし、そのやや元気がない子犬のような様子に、何となく頭をなでたいような気分になりつつも自分を押さえた凛は、
「何でしたら蒔寺さんも今からわたしの大学を受けては如何です? ちょっとした小論文と面接を受ければ後はどうにかなりますけれど?」
と、さらりと流す。
「今からんなもんできるか!」
「大体アンタの行く大学だったら小論文も面接も英語なんだろ? あたしゃそれだけで充分きついと思うけどね」
と、こちらは先日の試験の手応えが良かったのか、どことなく機嫌の良い美綴が割り込む。
「あら、別に独語や仏語、そのほかEU公用語ならどれでも良いのですけれど」
澄まし高尾で答える凛。
「どれもよくねぇーっつうの! そんなこと言うんだったら、英語以外で受け直してみろ!」
そんな凛に、蒔寺が突っかかっては見たものの。
「独語の小論文も別に提出しましたけれど?」
あっさりといなされる。
「マジ?」
流石に、この切り返しは予想外だったのか、さらなるつっこみも出来ずに驚きつつ後ずさる。
「第一外国語として履修することになってますので」
さりげなく追い打ちがかかる。
「……衛宮の奴が独語の辞書を抱えて唸っていたのはそのあたりが理由か?」
流石に見かねたのか、氷室が援護に入ってはみるのだが、
「英語を外国語に取れないこと、たまにぼやいてるのは確かね」
これまたさらりと流される。
「彼の国で英語を外国語扱いすれば、怒られるなんてものでは済まないだろうしな」
氷室としては、こう言われると大人しく引き下がるより他ない。
「そういやアンタ、英会話オンリーのデートしてたってホントかい?」
が、そこに何か思い出したような顔をした美綴が、つっこみを入れてきた。
「ふ、普段の会話を英語で行うようにしているだけです」
今までのようにすましてはいるものの微妙に頬を赤くして応える。
「はんっ! 大方、会話の内容聞かれて、また新都でノロケあっていたと言われたくなかっただけなんだろ」
が、しかし、美綴はにやりと笑うとさらなるつっこみを入れた。
「なっ! 何を!」
あっさりと猫の皮が剥がれ、顔が真っ赤になる。最近ではもう見慣れた姿。
「いや、この場合、痴話喧嘩の内容を聞かれたくなかったのやもしれんぞ」
ここぞとばかりにつっこみの援護射撃を入れる氷室。
「へー、図星って顔してるじゃん」
同じく蒔寺。
「ほぇー、またやってたんですか」
そして本人としてはまったくその気がないのに、結果的にとどめを刺す形の三枝。一+三人の見事な連係プレーが決まる。
「ちょ、ちょっと、何を根拠に……」
なんとか否定しようとするその姿が、事実を雄弁に物語っている。……事にはまだ気が付いていない。
「アンタの顔見てれば判るよ。きっとこの分じゃ、ヴァレンタイン・デーには激甘なスイートチョコレートでも送るんだろうな」
「ふむ、きっと、一口食べただけで歯が溶けるような極甘チョコに違いない」
「そうだよなぁー、あんたら、いつも口から砂糖の塊吐き出すような会話してんだし、甘いモノには耐性ありまくりだもんなぁ」
「わぁ〜、すごいなぁ〜」
ここぞとばかりに続く美綴、蒔寺、氷室そして三枝の斉射。
「ちょ、ちょっと何を……」
遠坂艦、集中砲撃の前に撤退も出来ぬまま戦闘能力を消失す。
……と、まぁこんな会話があったため、意地になって「甘くない」チョコを選び、試食してみての感想が冒頭の一コマであったりする。
さて、チョコを選び終えたらそれで終わりか?
否!
である。
いやまぁ、きちんとポリシーを持って選びに選び抜いたのだから、貰える側にとってはそれだけでも充分なはずなのだが、贈る側、特に「どんなときでも余裕を持って優雅たれ」を家訓とする凛にとって、「贈るチョコ決まった。はいおしまい!」では優雅さにはほど遠い。今はまだ単なるブロックに過ぎないピュアチョコを適当な形に整え、きちんとラッピングし、メッセージカードの一枚も添えるぐらいのことまでして、漸く満足できようというもの。
故に。
「うーん……」
こうして憂い顔で唸っているわけである。
「ハート形……だとやっぱりなんか言われそうだし、他の形……剣なんてのはいくら士郎の属性だからって、やっぱりふさわしくないわよね。……いっそ、ハートに剣をさして……って、魔術回路を開いてどうするのよ!」
唸りながら、無意識のうちにピュアチョコに手が伸び、口の中に放り込む。
「モグモグ……、う、苦っ。アイツ弓が巧いからいっそ弓矢の形に……、でも、アイツをアーチャーになんかさせたくないし、やっぱりハート……ハートに矢が刺さってって……別にわたしの心が射抜かれてるとかそう言うんじゃないわよ! 違うんだから!」
いや、違わないって。
お互い、とっくの昔に、一本ずつしか持たない矢を、お互いのハートに刺し合ってる癖に、今になって一人で否定してみても無駄。
何しろ、
「はぁ」
と、溜息をつきつつポスンッとソファに身を沈め、そのまま肘掛けに身をもたせかけつつ、
「士郎、どんな風なのを喜んでくれるかなぁ」
と、物憂げな瞳で隙間の目立ち始めたピュアチョコの缶を眺めつつ、チョコを渡した時の朴念仁の反応がどのようなものか、ひたすら脳裏に浮かべまくっているのだから。
……隙間の目立つ缶?
「いけない!」
悩んでいる内に、ついつい食べ過ぎてしまっていたことに気付いたようだが、もはや後の祭り。
「うー、ちゃんと蓋をしておけば……って、そんなこと言ってる場合じゃない! 電話電話!」
暫く続く話し声。「じゃ、今から取りに行きます!」と、声が聞こえたかと思うと、凛は慌ただしく部屋に戻り、着替え、飛び出していった。
遠坂邸に電話の音が響く。
数度の呼び出し音の後、留守電に切り替わり、無機質な、プリセットされた応答音声が再生される。
「遠坂、留守なのか? 研究で手が離せないのか? 篭もりっきりだと体に悪いぞ。忙しいんだろうけど、たまにはこっち戻って来いよ。旨いもの用意しておくからさ。……えっと、それじゃ、また電話する」
電話が切れる音。
「ニガツ……ジュウニニチ……ジュウハチジ……ニジュウイップンデス」
録音終了を示すbeep音が響く。
無人の邸に、その残響だけが残った。
「遠坂、大丈夫か?」
学園からの帰り道、士郎が心配そうに尋ねる。
「え? 何が?」
「いや、何か、疲れてるように見えたからさ。それに、ちょっと、ピリピリしてないか?」
「ううん、大丈夫。ちょっと……ね」
やや沈んではいるものの、それでも明るく笑ってみせる。
「そっか。えっと、俺で力になれることがあったら、何でもするから言ってくれよ。そりゃ、俺じゃ頼りないかもしれないけれど、な?」
本当に大丈夫なのか? と、目で問いかけながら言う。
「ありがと、士郎。……ねぇ、士郎はシンプルなものと手の込んだもの、どっちが良いと思う?」
まるで、ふと思いついたかのようなフリをして問いかける。
「ん? 俺はシンプルなものの方が好きだな。そっちの方が失敗が少ないから、手の込んだことをやろうとする時も、シンプルな部品を作って、それを組み合わせる方向で行くよ。何しろ俺、まだまだ半人前だから、目的を果たすのに、初めっからあれもこれもなんて事やれないし」
どうしたんだ? と、目で問いかけるが、そこへ
「半人前どころか、四分の一人前にも満たないへっぽこだけどね」
にこやかな笑みを浮かべた「あくま」が降臨。
「お、俺だって頑張ってるんだぞ」
「あら? じゃぁこないだの宿題、出来たの?」
「……ごめん、まだだ」
「へっぽこ」
「ぐっ」
今日も「あくま」に「正義の味方」は惨敗した模様。
「じゃ、わたしやることあるから。また明日」
「今日も……なのか?」
「うん、もうちょっとだから」
「もう二週間ぐらい経つけれど、そんな大変なのか?」
「うーん、大変……って言うよりも、わたしが納得できないってだけ。でも、大丈夫。ほんとにもうちょっとだから」
「そっか、無理だけはするなよ」
「それ、いつものわたしの台詞」
「俺、そんなに無理した覚えないぞ」
「うそ言わないの。ことあるごとに人に心配させといて」
「うっ……」
「じゃぁね、士郎、心配してくれてありがと」
「う、ああ、それじゃ、明日」
不意に浮かべられた、凛の無防備に嬉しそうな笑顔に士郎がどぎまぎしている間に、凛は身を翻し遠坂邸への坂を上っていった。
そして運命(?)の二月十四日、遠坂凛は学園への道を急いでいた。
むろん、家訓に従い、端からは急いでいると気が付かれないように押さえているものの、内心は非常に焦っているのである。
理由は簡単。士郎にヴァレンタイン・チョコを渡すためである。
予定では、朝一番で衛宮家に戻り、朝の鍛錬が終わったばかりの士郎に渡すはずだったのだが、無事に準備が出来たことに安心し、気が抜けたせいか、それとも、この日のために睡眠時間を削ってあれこれしていたせいか、いや、自分用にも買い足してしまった100%のピュアチョコをついついつまんでしまい、夜なかなか寝付けなかったせいもあるかもしれない。兎に角、朝、どうにか目を覚ますことが出来たときには、もう、身だしなみを整えて、学園に直行する時間しか残されてはいなかった。
しかし、遠坂家に伝わる遺伝的呪い「うっかり」の出番もここまで。
鞄の中には、教科書やノートと共に、そこにあることを何度も繰り返し確かめた士郎へのヴァレンタイン・チョコが収まっている。そして、凛と士郎は同じクラスで席は隣同士。皆の前で渡すことに気恥ずかしさを感じないわけではないが、どのみち二人の中は既に公認のもの。故に、席に着くと同時に渡せばそれでよい。
今彼女が急いでいるのは、ただ単に、一分一秒でも早くチョコを士郎に渡したい、それだけの理由によるものだった。
しかし、世の中、予定外の事象というものは常に発生する。彼女の過去の経験からすれば、予想してしかるべき事象ではあったのだが。
「遠坂先輩! これ、受け取ってください!」
「えっ?」
学園への坂道をあがる途中、後ろから追いついてきた軽めの足音が、凛を追い越したかと思うと、振り返りざまに突き出されたのは、ハートマーク付きでラッピングされた小さな包み。
反射的に凛が受け取るやいなや、それを渡した主、一年とおぼしき女子生徒は、顔を赤くしながら凛に背を向けると、
「それでは失礼します!」
そう言って、学園めがけて走り去っていった。
同様の襲撃が学園の門を潜るまで五回、校門から下駄箱までで三回、下駄箱の中に入れられた大小様々な包みが十四個、更に教室へ入るまでの間に七回の襲撃。
有無を言わさず押しつけるようにして渡されるその襲撃を撃退しようにも、初めの数回の襲撃に両手ふさがれた凛に、ヒット・アンド・アウェイで行われる攻撃に対して有効な反撃手段はなく、両腕で抱え込んだ荷物の山が有無を言わさず成長していくのを見ていることしかできなかった。
「よ、今年もモテモテだな、遠坂」
教室に入るやいなや、楽しそうな笑みを浮かべた美綴が声を掛けてくる。
「何でしたら代わりましょうか?」
ツンとすましながら答えを返す。
「いやいや、アンタら夫婦ほどじゃなくてもいくつか貰っちゃってるからね。これでもう充分。あたしゃおなか一杯だよ」
「まだ夫婦じゃ……って、え?」
「衛宮もモテモテだってことさ。ほら」
と、身をずらしながら親指で背後を指し示す美綴。
その先には、机の上に出来た贈り物の山を、疲れた表情で整理している士郎の姿があった。
「ちょっと士郎、なによこの山」
内心では、「まだわたしが渡してないのに!」と思ってるであろう事確実な、怒りと焦りが入り交じった声で詰問する。
「ああ、遠坂、おはよう。遠坂も、だいぶ貰っちゃったようだな」
しかし、こういうところに気が付かないところは相変わらず。
「突っ返そうにもその前に逃げちゃんだもの……。で、士郎は?」
「ああ、朝来たら下駄箱の中に十五個ぐらい入っててさ。仕方ないから両手に抱えて持ってきたら、ここに着くまでに一年や二年の子達が『受け取ってください』って言って、空いてる隙間に押しこんでってさ……」
「それでこんな山が出来たの?」
積み上げられた山を横目で睨む凛は、何か--おそらく鞄の中に納めたチョコの包み--と、そこにある包みとの比較をしているのであろう。口の中で小さく、「大丈夫、大丈夫、私は負けてなんかいない!」と呟いている。腕の中に抱えたチョコの山が振るえているのは、きっと腕に力が入っているから。
「机の中にも入ってたんだよ」
「アンタの机の中にも入ってるよ」
「ウソッ!」
慌てて荷物を机の上に積み、机の中を覗き込むと、そのまま固まる凛。
「きちんと持って帰って処理してやれよ」
「こんなに持ちきれるわけないでしょ」
そんな美綴と凛のやりとりを余所に、とりあえず整理し終えた士郎は、鞄の中から布製の手提げ袋を取り出すと、そこにに贈り物を詰め始めた。
「衛宮、アンタずいぶん手回し良いね。この事態は予想済みだったってわけかい?」
と、早速揶揄し始める美綴。
「買い物袋だよ、いつも帰りに商店街で買い物してるから鞄の中に入れてるんだ」
「へぇー、ずいぶんしっかりした作りだね。ひょっとして、アンタの手製か?」
「ああ」
「器用なもんだな。じゃ、これ、ついでに入れとくよ」
と、買い物袋ではなく、口が開いたままの鞄の中に乙女チックにラッピングされた包みを入れる美綴。
「お、おい!」「美綴さん?」
うろたえる士郎の声に重なり、堅く冷たい凛の声が響く。
「あー気にするな。今年で卒業だってのに、弟以外の誰にもやってないってのもなんだと思ってな。他に適当な奴が浮かばなかったんで、衛宮に渡すことにしただけだ」
「それって、本命って言う意味じゃないわよね?」
「さぁねぇ、衛宮がOKならあたしゃ別に構わないけど」
と、わざとらしく士郎にもたれかかりながら、チェシャ猫のような笑いを浮かべる美綴。
「綾子!」
「美綴、頼むからそうやって遠坂を挑発するのは止めてくれ」
「はいはい、買い物袋までペアで揃えてる夫婦の間にゃ割り込まないよ」
凛の鞄から引き出されかけている士郎と同じ形の買い物袋を見て言う。
「「……」」
とたん、顔を真っ赤にする二人。
「ま、それはともかくとして、その中、入りきらないんじゃないか?」
買い物袋の容積と、山の体積を見比べ、冷静に指摘する。
「む」「う〜」
「ふ、そう言うこともあろうかと思って、紙袋を持ってきてやったぞ」
と、そこに一成が声を掛ける。手に持つのはデパートなどで見かけるような紙製の手提げ袋が折りたたまれて二つ三つ……
「すまん、一成、助かった」
言いながら手を伸ばす士郎だが、スッとその紙袋が横にずれる。
「?」
「これの前に渡しとくものがあってな」
言いながら、一成はそれまで背後に隠れていた二年の女子の肩を押し、前に出させる。
「あ、あの、これ、生徒会からです。その、今まで生徒会のこと、手伝ってくださって、ありがとうございました」
真っ赤になってヴァレンタイン・プレゼントを士郎に差し出すのは、一成の跡を継いだ現生徒会長。この一年弱の間、士郎が備品修理をしている時、一成と一緒になってまわっていたので、士郎はもとより、凛ともすっかり顔なじみである。
「ま、今まで三年分の礼だ。受け取って貰えると嬉しい」
「今まで頑張ってたぶんね。士郎、受け取りなさい」
「俺がやりたくて勝手にやってたことなんだけどな。ま、良いか。ありがとう」
そう言うことならと、凛に促され、受け取る士郎だが。
「それからこれ、私の気持ちです、受け取ってください」
その上に電光石火で重ねられるもう一つの贈り物。
「へっ!?」
「遠坂先輩がいることは判ってますけど、先輩のこと、大好きです。この一年、生徒会の仕事の上とは言え、先輩と一緒に居られて嬉しかったです。それでは、失礼します」
言うや否や、脱兎の如く教室から走り出していく生徒会長。
「廊下を走ってはいかんぞ!」
と、その背に声を掛けた後、机の上に手提げ袋を置く一成。
「一応諭しはしたが、本人も、その気持ちにお前が応えられないことを知った上で、それでも伝えておきたいと言っていた。すまんが、きちんと断ってやってくれ」
「あ、ああ、判った……」
「……わたしが……まだ渡していないのに」
凛の小さなつぶやきは、誰の耳にも入らなかった。
その後も、二人の元には入れ替わり立ち替わり、五月雨式に女生徒がやってきた。凛の元には、個別に、士郎の元には、部の備品を直して貰ったお礼を口実にやってきては、同時に自分の分を渡すものが。中には、女子部員全員が揃ってやってきては、部の分をまとまって渡した後、更に自分たちの分を渡していったものも。
他には、凛と士郎の二人に一つずつ渡していった者まで居た。
いずれにせよ、全て五月雨式にやってくるため、メリハリのないままに休み時間が消費されて行く。凛が空いている時は士郎が呼び出され、士郎が空いている時は凛が呼び出され、結局、凛は大切な贈り物を士郎に渡す時間を取ることが出来ないままこの日の朝を過ごしていった。
そんなこんなで昼休み。いつ果てるともなく続くヴァレンタイン・アタックに、凛の苛立ちが最高潮に達していたそんなとき。
「せんぱーい! お昼ご一緒しても良いですか?」
珍しく、桜が教室にやってきた。
「ああ、構わないけど、今日はゆっくり相手できないぞ」
ちょうど、新たなチョコを受け取った士郎が応える。
「珍しいわね、桜がこの教室来るなんて」
凛も受け取ったばかりのチョコを紙袋に収めつつ不機嫌に言う。
「……先輩、ずいぶんもてるんですね?」
士郎が山のようにチョコを貰っていることにショックを受けたのか、桜は顔をうつむかせ、この世の終わりが来たかのような暗い表情を浮かべつつ問いかける。
と、その肩に後ろから強い手が置かれ、地の底からわき出るような声で、普段ならば涼やかにさえ感じる凛と張った声の持ち主が問いかける。
「ねぇ桜、あなたもチョコを渡しに来たくち?」
見ると、その声の主はすっかり目が据わり……いや、三白眼となっている。まるで、寝起きの悪い朝のような表情に……。
「い、いえ……私は、朝先輩と一緒に家を出る前に渡しました……から」
脅えることなく、気丈に応えようとした桜だったが、願い叶わず腰が引け、顔から血が引き、声も震えている。
「そう……そうなの……桜も、もう渡したのね……」
「あ、あの……、遠坂先輩……、どうしたんです? なんだか、まるで怒っているように見えますけど?」
「あら、そう見える?」
教室内に充満するプレッシャー。
「あ、え、えと、遠坂先輩も、もう渡したんですよね?」
何かが、切れる音がした。
「……まだよ」
いつの間にか、表情の消え去った顔から声が漏れる。
「え?」
「まだって言ったのよ! 大体なによ! 朝からずっと、どいつもこいつも五月雨式にやってきてはわたしや士郎にチョコ渡して! ずっとあれこれ悩んで、これぞと言うもの選んで、泡の一つも混じらないように気を付けて作って、ラッピングして、カードまで用意してきたのに、肝心のわたしが士郎にチョコを渡す時間が全然取れないじゃないのよぉー!」
廊下にまで響き渡る声。
「へっ!?」っと言いたげに間抜けに口を開けたまま固まる士郎。
しばらくの静寂の後、廊下から声を掛けようとしていた女生徒達が、コソコソと去っていく。
「なんだ遠坂、アンタ、まだ衛宮に渡してなかったのか?」
「し、仕方ないじゃない、あれこれやってたら、結局、昨日の夜遅くまでかかって、今朝、起きれなかったんだから……」
「衛宮、アンタ何で起こしてやらなかったんだ?」
「いや、ここしばらく、遠坂はあっちの家に戻ってたから……」
「なるほど、ヴァレンタイン・プレゼントがどんなのか知られたくなくって、こっそりやってたって事か」
「なによ、悪い?」
拗ねた顔をして、しかも真っ赤になって美綴にくってかかる凛。
「いいや、わるかない、アンタらしいと思うよ」
「美綴 綾子、俺は前の扉を見てる。すまんが後ろを頼む」
「あいよ、間桐、あんたは済んだらそのこと教えとくれ」
「は、はい」
一成が前から出て、扉を閉める。美綴も、凛の肩を叩きつつ「さっさと渡しな」と、言うと、後ろから出て行き、同じように扉を閉める。
後に残るのは、真っ赤になって硬直している士郎と、同じく真っ赤になった凛、思案気味に、その隣に立つ桜と、取り残された他の生徒達数名。
「遠坂先輩」
言いつつ、桜がその背を押す。
つんのめるようにして前に進み、士郎の胸にぶつかって止まる凛。
「し、士郎」
「……遠坂」
二・三度、顔を上げ下げすると、慌てて席の脇にぶら下げた鞄を取り上げ、中から、真っ赤な紙で包装され、縦に赤い筋が二本入った金の布製リボンで結ばれた包み、その結び目がハート形になるように留められている包みを取り出す。
一辺は二十センチほど、高さが四センチはある、なかなか大きな箱のようだ。
「士郎、これ、受け取って」
リボンのハートの下には、同じくハート形をしたメッセージカードが留められている。
渡す凛の顔は、今や包装紙の色に負けないほどに赤い。
「あ、ありがとう、遠坂。その、開けて、良いか?」
「そ、そのために渡したんだから……でも、先に、そっち見て。でも、誰にも、見せないでね」
「ああ」
言われて、まずメッセージカードを開く士郎。
中を読み、そして、嬉しそうな顔をして、無言で凛を抱き寄せ、抱きしめる。
柔らかく、しかし、しっかりと、ぎゅっと力を込めて。
応えるように、喜びに満ちた表情を浮かべると、士郎の身体に腕を回し、力を込める凛。
慌てたように、二人に背を向ける室内の一同。しかし、凛は、士郎の身体に回した腕を、右腕を離し、人差し指を、士郎の唇の前に立てる。
「ね、早く開けてみて」
「ああ」
促され、一端凛を離すと、右手に持っていたカードを大切に胸ポケットに納め、左手に持ったままの箱のリボンを解き、大切に巻き取ると、丁寧に胸ポケットに納める。
紙が破れないよう、注意深く包装を剥がし、これも慎重にたたむと、流石にこれはポケットには入れられず、鞄の中にしまう。
そして、蓋を開けると、そこにはハート形のチョコが並んでいた。
横幅三センチ弱、厚みが一センチほどのハート形のチョコが、三段、箱の中に、敷き詰められ、全体としても、ハートの形に並んでいる。
色は、濃い褐色。殆ど黒とも言って良いほどの濃い色をしている。
「じゃ、貰うよ」
言うと、ハートのくぼみの位置にある一つを手に取り、口に入れる。
「美味いな……でも、ちょっと苦いな」
少し驚いたような顔。
「その下のも、食べてみて」
いたずらっぽい顔で返す。
言われて、やや色が薄い感のある二段目のチョコを手に取る。その下から見える、三段目のチョコは一段目のものと同じようだ。
手にしたチョコを口に入れる。
「甘いな。でもこれも美味い」
良いながら、無意識のうちに三段目のチョコを手にし、口に入れる。
「何かこの味、癖になりそうだな」
「えへへ、わたしも、味見している内に癖になっちゃった」
ぺろっと舌を出して応える。
「一緒に食べるか?」
その問いに、軽く横に首を振る。
「ううん、全部、士郎に食べて欲しくて作ったんだから、士郎が全部食べて」
「ん、判った」
「でも、ちょっとだけ味、みたいな」
「え?」
とまどう士郎に、改めて両腕を回し、身体を預けると、待ち遠しげな顔で、上を向いて目を閉じる凛。
士郎は、空いている右腕で凛を抱き寄せ、左手に持ったチョコの箱を机の上に置き、空いた手を凛の顎にかけると、軽く引き寄せるようにしながら顔をおろして行き、凛に味を伝えた。
秒が過ぎ、分となり、更に秒を重ねて分が進んだ頃、教室内に咳払いの音が響く。
びくっと反応し、それから名残惜しげに顔を離す二人。
揃って咳払いの音がした方を見る。
「あの、時間も限られてますし、そろそろよろしいでしょうか?」
背中越しに、遠慮がちに聞く桜。
「「あ……、ごめん、桜」」
未だ名残惜しげではあるものの、同時に申し訳なさも顔に出す二人。
「いえ、それじゃ、美綴先輩を呼んできます」
言って、後ろの扉を開け、美綴を呼ぶ。
「悪い、間桐、考えてみれば、あたしが残って、あんたが外にいた方が良かったんじゃないか?」
教室にはいると、開口一番、顔の前に手を立てつつ言う美綴に、桜は柔らかく顔を横に振り、応える。
「いえ、もうなれてますから」
「そっか、それじゃ、飯にするか」
言いながら凛と士郎の元へ行く美綴。
「ほれ、あんたら宛てだ」
両手に持ったいくつかの包みをそれぞれの前に突き出す。
「俺も預かった。受け取れ」
同じように差し出す一成。
「あ、二人ともすまん」「ありがとう」
そして、彼ら彼女ら五人はいつものように机を並べ、遅くなった昼食を食べ始めた。
その後も二人の元へのチョコ攻勢は続き、帰る時には、一成が持ってきた紙袋も全て一杯になた。
そして帰り道。
深山の街を区分する十字路へ向かって坂を下りていく途中、二人は坂をあがってきた三人組と出会う。
「遠坂さんと衛宮君だぁ〜!」
元気一杯な子犬……のような三枝さん。
「ほう、ちょうど授業が終わって帰る途中であったか」
いつものように冷静な氷室。
「おー、遠坂、そんなにチョコ貰ってるって事は、アンタ実は男だったのか」
元気よく凛に突っかかる蒔寺。三人とも、今日の試験の手応えが良かったようだ。
「あら蒔寺さん。何でわたしがチョコを貰ってると男になるのですか? それとも、体育の時間に私と同じ更衣室で着替えていた蒔寺さんは実は男だったのでしょうか?」
「はっ! 何いってやがる。あたしが女だって事ぐらい同じ更衣室使ってた遠坂なら判ってるだろ」
「ええ、ですが同じ理由でわたしのことを女だと判っているはずの蒔寺さんが不思議なことをおっしゃるものですから、確認させて貰いました」
「ウググ……」
「もう〜、駄目だよ蒔ちゃん。そんなこと言ってたら。それより遠坂さん、これ、受け取ってください」
お約束のような、いつもの二人のやりとりに、いつものように三枝さんが割ってはいると、手にした包みを凛に向けて差し出す。
「え?」
「卒業したら遠坂さん倫敦に行っちゃうので、その前の思い出にと思って持ってきました」
「そ、そう……ありがとう。いただくわ」
「はい! 倫敦に行っても、衛宮君と仲良くしててください」
「ええ、もうこれ以上ない! ってほど、士郎を幸せにしてみせるから、見ていてくださいね」
「はい!」
「では衛宮、これは私からだ」
「氷室さん?」
「昔、衛宮が飛べないバーを飛び越そうとしていた姿を見ていたからこそ、今の私がある。これはその、礼の気持ちだ」
珍しくも、薄く、懐かしむような笑みを氷室が浮かべている。
「え?」
「まったくだよ、おかげでいつもくじけそうになった時、諦めちゃいけないって気持ちになれたからね。だからこれ、そのお礼だ」
蒔寺も、珍しくもはにかんだような笑みを浮かべている。
「……って、ええ!?」
当の本人は何がなんだか判らないようで、軽いパニック状態。
「あなた達も、あれ、見てたの?」
と、目を大きく見開いている凛。こちらも、別の意味で驚いた様子。
「うむ、あれは陸上部員の間では伝説になったほどの出来事だったからな。むしろ、何故違う中学だった遠坂嬢があれを知っているのか不思議なのだが?」
「たまたま生徒会の用であの中学に行ってたのよ」
「……ってことはなんだ? アンタさ、実はそんとき一目惚れしていたとか?」
隙を見つけた! とばかりに早速つっこむ蒔寺。
「べ、別にそんなんじゃないわよ。……トラウマみたいになってずっと残っているのは確かだけど」
下がっていたガードを見事に破られた凛。
「ほぉ? では何故、もっと早く一緒にならなかったのだ?」
そして氷室のラッシュ。
「……そう言うきっかけがなかっただけよ」
凛はガードを上げる余裕がない。
「へー、じゃ、どんなきっかけがあったんだ?」
氷室のラッシュは続く。
「さぁ、何かしらね」
が、流石にここは踏みとどまる凛。
「いいじゃんかよぉー、教えてくれたって」
と、いつものような会話が始まったのを余所に、三枝は士郎の所に来ると、いつものようにほにゃっと笑みを浮かべ、
「はい、衛宮君。今まで、困ってる時に色々助けてくれてありがとう。これからも頑張ってください。正義の味方さん。そして、遠坂さんと幸せになってください」
と、言って、チョコを渡す。
「ん、ありがとう。きっと遠坂を幸せにするよ」
「違います、遠坂さん"と"です。でないと、衛宮君も一緒に幸せにならないと、遠坂さんはほんとの幸せにはなれないんですよ!」
これは三枝さんには珍しく、「めっ!」としかるような仕草をしながら言う。そのおねぇさんっぽい態度を微笑ましく感じたのか、士郎の顔に笑みが浮かぶ。
「そうなのか」
「そうなんです」
「判った、頑張るよ。ありがとう」
「三枝さん、あなた……」
天然のつっこみがなかった為、凛は離脱に成功した模様。
「と、言うわけで、遠坂さん、絶対絶対に、幸せになってくださいね」
「ええ、士郎と二人で、思いっきり幸せになって、ずぅぅーっと幸せで居続けてみせるわ」
「頑張ってください! 応援してます」
「ありがとう」
ほのぼのとした三枝と凛の会話が続く。
「それでは、用も済んだし、我々は帰るとするか」
「そうだな、じゃな」
「遠坂さん、衛宮君、またね〜」
用事を済ませた三人組は、上ってきた坂道を下っていく。
「俺達に、チョコを渡すためにわざわざ来たのか?」
「と、言うより、士郎にあの一言を言いたい三枝さんに付き合ってきたみたいね」
「そうなのか?」
「うん、あの子、何かと私に懐いてくれてたけれど、士郎のことも眩しそうに見ていたから……」
「へ?」
「あの子、小さいし力がなくって、運動神経もあまり良くないのに頑張り屋でしょ。士郎は覚えてないかと思うけど、きっとあちこちで士郎に助けられてるはずよ。女の子ってね、そういう優しくしてくれる人のことはやっぱり気にかかるのよね。おまけに三年になってからの士郎って、どんどんかっこよくなってきたからますます気になってたんだと思う。それで、きっと士郎のおかしな所に気が付いちゃったんだろうなって……」
「おかしな所……か」
「そうよ、だからきっとわたしが矯正してあげるから、覚悟してなさい!」
「きょ、矯正って……お前なぁ」
「アンタの場合はそれが必要なの。さ、帰るわよ!」
「お、おい遠坂! ちょっと待てよ! おい!」
そして二人も改めて、家路についた。