++ マヤ編 ++
「え?『若草物語』?」
あたしは耳を疑った。でも麗の表情から言って冗談じゃないみたい。
「うん…元々、月影先生にもう一度観せたいね、って話からだったんだけどさ。たまたま今日アート劇場が借りられたんで、せっかくだから、通し稽古しちゃわない?って話になったんだ。あんたもよかったらベスやってくれないかな?」
「あ、うん、やりたい!すごくやりたい…けど、今日の稽古次第かも」
その日の午後4時半頃、稽古がひと区切りついた。
「よし、今日はこれで終わりだ!」
「え?先生…」
黒沼先生の言葉にみんなが呆然とする。
「なんだ?せっかく明るいうちに終わったんだぞ。俺は先に上がるからな。北島!早く支度しろ!」
「は、はい!」
黒沼先生の車であたしはアート劇場へ向かった。
あたしが今朝おそるおそる言ってみたときにはフン、って鼻鳴らしただけだったのに。先生、あたしに気を遣ってくれているのかしら?
もっともこれ以上稽古しても意味がない、と言われてしまうと何も訊けないけど…。あたしにもそれは痛いほどよくわかっているから。
「すごいね。衣装まで揃えて」
「たまたまね。さやかがどこかで都合してくれたらしいよ」
「懐かしいなぁ。うれしい」
あたしは衣装を身につけてすっかり悦に入っていた。
しかも、芝居が始まるとみんなの演技が本格的であたしはすっかりのめりこんでしまった。
台詞はごく自然に口からこぼれ出る。舞台の上で麗はジョーを、美奈はメグを、それぞれの人生を生きていた。あたしたちは同じ幸せを分け合っていた。
目の前で見ていた黒沼先生の顔からもいつもの演出家の表情が消えて、今日のただ一人の観客として見入っていた。
ああ、月影先生がここにいらしたら!
だけどきっと、近いうちにきっと、先生にこの舞台を観せよう!
最後まで演じ終えると黒沼先生が拍手をしてくれた。
あたしは興奮冷めやらなかったが、劇団のみんなが片づけを始めたので、ただの練習だったことを思い出してあたしも手伝おうと動きかけた。
「マヤ、お疲れさま。ちょっとこっち来てよ」
麗が手招きをする。あたしは片付けをしている人たちを振り返った。
「気にしなくていいよ」
「でもあたしだけ遅れてきたし」
「あんたの熱演に免じて、って団長から許可が下りているよ。それにちょっと話があるんだ」
「え?」
あたしは緊張した。麗の顔は真剣だった。あたしたちは客席の最前列に座る。黒沼先生がこちらに顔を向けているのがわかった。
「どうだった?マヤ?」
さっきの練習のことか、とほっとしたのと同時にすぐに興奮してまくしたててしまった。
「うん!本当に嬉しかった。久しぶり。お芝居ができて、こんなに熱くなったのって」
麗初めみんなも本当にうまくて…と続けようとしたあたしをさえぎって麗が言った。
「紫のバラの人は速水社長だった、あの人のことを好きになってしまった、ってあんたに言われてから考えたんだけどさ、あんたは結局、速水社長が紫のバラの人だったから、感謝の気持ちでいっぱいなっているんだよ。
見た目カッコイイし、金持ちで気前がいいから、単純な憧れもあるかもしれない。
でもそれって好きってこととは違うよ。
苦しい片思いだから、阿古夜の演技が出来ないなんて思い込みだよ、マヤ。あんたは速水社長に惚れているんじゃなくて…」
「なんで、麗!?どうしてそんなこと言うの?」
信じられない…伊豆の海辺であたしの話を真剣に聞いてくれた麗がこんなことを言うなんて。
あたしは舞台で片づけをしている仲間たちや黒沼先生がすぐ近くにいるのに、思わず声を張上げた。そしてうわっと恥ずかしくなった。だけど、
「青木君の言うとおりだ、北島。今の舞台を見ても、お前はベスみたいに恋愛と関係ない役なら確かに問題はない。
しかし個人的な恋に苦しんでいるから恋の演技ができないっていうのは、お前の勘違いだ。お前が若旦那に向けている感謝は恋愛とは違う」
黒沼先生が麗に加勢したために、顔から火が出るほどの恥ずかしさが一瞬で吹き飛んで、急に気持ちが高揚してきた。
「あたし!あたしは速水さんが好きです!」
あたしは思わず喉が裂けるような声をあげていた。もうその後は止まらなかった。
「勿論感謝しています!紫のバラの人としても、速水さんその人にも。いくらお礼を言っても表しきれないほどです。
でも…でも…感謝の気持ちだけだったら、あたし、あの人の婚約者に嫉妬なんかしない」
「あの人は劇団つきかげを潰した張本人だよ」
麗が間髪入れずに核心を突いてきた。
「他でもない、今の『若草物語』を批評家に酷評させるように仕向けたってあんたが聞いてきたんじゃないか。月影先生に速水社長が言っていたんだって。それにあんたのお母さんが亡くなった時のこと、忘れたの?」
「忘れてない!でも、それでも好きなの!
劇団のことは…あの後、月影先生の入院や、先生のお仕事や、一角獣との上演のことで助けてくれた。母さんのことは…」
あたしはいつの間にか泣いていた。
どうしてあんなに興奮していたんだろう?
「母さんのことは、あたしは自分のせいだと思いたくなかった…あの人は自分だけを、あの人だけを責めるように言ってくれたの!お墓参りにも来てくれてた。ずっと悪いことをした、って思ってくれている…」
「だから、そういうことも全部含めて好きだってこと?どうしても諦められないって?」
「そうよ…」
「北島、本気で惚れているのか?諦めるべきだと思うがな。紅天女をそのせいで逃しちまうかもしれないんだぞ」
「わかってます!
苦しくてつらくて、やめられるなら、とっくにそうしてます!
でもどうしても好きで好きで…何もかも壊してしまってもそれだけはやめられない…」
「チビちゃん…」
あたしはその声を聞いて飛び上がり、麗と黒沼先生は同時に立ち上がった。
「OK、青木君、完璧だ。後は二人に任せて」
「な…!?ちょ、ちょっと待って!」
あまりのショックと混乱で、泣くのも忘れてあたしは二人を追って逃げ出そうとした。だけど速水さんがあたしの腕を力強く掴んだ。痛い!思わず悲鳴をあげそうになる。
「バラを投げたり、踏みつけるようなことはもうしない。とりあえず…」
速水さん自身もひどく混乱した表情だった。そしてかなり乱暴に紫のバラの花束を差し出す。グシャッと音を立ててあたしの顔にモロに当たった。
「元気になったベスへ。…他の話はこれから…」
なんで!?
どういうこと?
説明してよ!!麗 ―――――――!!!
++ 真澄編 ++
「マヤ様が稽古を中断して病院へ行かれました」
俺は絶句した。しかし聖が俺に向かって冗談を言うことはない。
「マヤ様の友人の青木という女性が私に電話をかけてきたのです。
稽古中に突然泣き出して興奮状態が続いていたので、精神科の診断を受けに病院へ行かれたと。
最近受けた精神的なショックが原因と思われるそうで、紫のバラの人からの絶縁状が応えているのではないか、なんとかマヤ様に会ってはもらえないか、と青木様はおっしゃっていました。
マヤ様から私とは人目を憚って会うようにしている、と聞いている、迷惑をかけるつもりは毛頭ないが、もし紫のバラの人に連絡がとれるなら、マヤ様の窮状を伝えて欲しい、と言われました」
俺は携帯を持ったまま、外出の支度にかかっていた。
「あの子はどんな具合なんだ?」
「まだ直接お会いしていませんが、青木様のお話では本日稽古に入ってからすぐに興奮状態に入ったとのことです。
…真澄様、青木様は私に、『紫のバラの人か大都芸能の速水社長が原因としか考えられない、とにかく二人にあの子の現状を知ってもらいたい』とおっしゃったのです。
現在どちらとも連絡が取れないが、私なら片方はなんとかできるのではないか、と」
「紫のバラの人か大都の…」
俺の脳裏にはその時、キッドスタジオでマヤに紫のバラを投げつけた場面が、そしてその時のマヤの表情がまざまざと浮かんだ。
「とにかく会いに行く。詳しいことを知りたい」
「後ほど青木様からご連絡をいただくことになっております。何かわかりましたらすぐにお知らせ致します」
もうただ無我夢中で車を走らせた。ここの所、マヤについては何もかもが裏目に出ている。以前のように憎まれ役を買って出ようとしても空回りするだけ。自分の暴挙とも言うべき振る舞いが彼女の心を傷つけ、取り返しのつかないことになってしまったのか?
携帯電話を確認すると、留守電に水城くんからメッセージが残っていた。マヤのことで至急連絡を取りたい、と。電話をすると、やはりマヤの容態のことを言われた。黒沼さんから連絡を受け、俺に会って話をしたいと言っていたらしい。
俺が東京まであとわずかに迫ったところで、聖から電話が入った。
「真澄様、今、どちらですか?」
俺は場所を伝えた。
「マヤ様は青木様たちと一緒に、アート劇場へ向かわれました」
「アート劇場?」
あまりにも意外な、そして忘れられない思い出のその名前に一瞬体が熱くなる。
「病院ではないのか?」
「先ほどまで病院にいらしたようですが、劇団の方たちでマヤ様をなんとか励まそうとされているのだそうです」
「わかった、劇場に向かう」
俺はそれから1時間もしないうちにアート劇場に到着した。黒沼さんが外でタバコを吸っていた姿がすぐに目に入った。彼もこちらに気づいて大またに近づいてきた。
「若旦那!北島のこと、聞いたか?」
「突然泣き出して興奮状態になったと聞きました。具合はどうです?」
「精神的なストレスがたたったんだろう、と言われたよ。
おっと待った!!それ以上行かせるわけにはいかないな。劇団の仲間たちがあいつを何とかしてやろうと必死だ。しばらく待ってやって欲しい」
「待つって何をです!?」
俺はかまわず中に入ろうとしたが黒沼さんが行く手を遮った。
「あいつのそのストレス、あんたが原因作ったんじゃないのか?今北島に会って、あいつを破滅させるつもりか?」
俺は思わず黒沼さんをにらみつけた。
「このまま外で待っていろ、と言うんですか!」
しかし次の瞬間俺は、自分が彼女をそこまで追い詰めてしまったのだ、という罪悪感でいっぱいになり、外壁に手をついてがっくりとうなだれた。
「劇団のみんなが励ますってどういうことですか?」
待つしか…もう出来ることはないのか…他の人間があの子を救ってくれるのを期待するしか…。俺はしばらく顔を上げることが出来なかった。
++ 裏方編 ++
** 前日 PM6:45 **
バイトが終わったらさやかと一緒に夕食をとる約束をしていた。さやかが早く着いたので店の席でお茶を飲んで待っていてもらっていたけど、すぐに他のお客さんが帰ったので、立ったままでさやかと話をしているうちに「紅天女」の試演に話題が移り、この間マヤから言われたことをつい話してしまった。
「本当に?あの速水社長が紫のバラの人なの?」
さやかが思わず声をあげてしまったが、別に店内に人はいないから、第一速水社長が誰なのかを知っている人がこの店にはまず来ないから構わないだろう、と思っていた。ところがそこでハイヒール独特の靴音が聞えた。
「水城さん!」
驚きのあまり、わたしは声をあげてしまった。BGMを止めないまま、話に夢中になっていたので、彼女が入ってきたのにも気づかなかった。水城さんもこわばった顔をしている。
「マヤちゃんが…知っていたの?青木さん…」
水城さんが私に凄みを聞かせた声と顔で迫ってきたので思わず身がすくんだ。
「あ、あの…」
水城さんは緊張した面持ちのまま、さやかの正面に座ってテーブルに肘を着き、額に手を当ててフーッと息をもらす。
「ごめんなさい。ちょっと劇団のことで確認したいことがあったので、近くまで来たから寄らせてもらったんだけど」
「あ、はい」
わたしは話題がそれたと思って少しほっとしていたが、それも束の間、水城さんは鋭い視線でわたしを見つめた。
「それは今でなくてもいいわ。もっと重大な緊急事態が発生したわね」
** 前日 PM8:30 **
マヤに内緒で黒沼先生を呼び出すために、さやかにあの子を誘いだしてもらった。
水城さんと先生とわたしは水城さんの知っている、割と安くて静かな個室に入れる居酒屋に入った。黒沼先生の行きつけの店では騒がしすぎたからだ。
「マヤを立ち直らせるために一か八かの賭けに出ようと思って」
「なに?どうするんだ?」
「黒沼先生に一役買ってもらいたいんです。速水社長にマヤの気持ちを…あ、マヤ、速水社長のこと好きになっちゃったんですよ」
「知ってる」
水城さんは頷いた。
「じゃあ、紫のバラの人が社長だってことも?」
「ああ、それははっきり聞いたわけじゃないが」
「さすがですね。
それで速水社長を呼び出して、マヤには彼がいることを知らせないまま、あの子にあの人への気持ちを話してもらおうかなって思って。まあ、ダメ元だけど、今のままよりマシだと思うんですよ」
「ん〜、それがな、若旦那も恐らく北島のこと…水城さん、どう思う?」
「中学生よりもわかりやすいですわ、あの方のお気持ちは」
え…と先生とわたしが思わず水城さんを見たが、この場を和らげる水城さんなりのジョークだろう、と先生は思ったらしく、首を振った。
「ただ、若旦那は難しい立場だからなあ…まあ、とりあえず話を聞こうか」
「あの子の出演、そして紫のバラをもらった最初の舞台、『若草物語』を再演してみようと思っています。実は水城さんがアート劇場や衣装の手配まで引き受けてくれたんです。
明日、社長の聞えるところで、わたしがあの子にあの子の気持ちを言わせます。以前言ってくれたことがあったんです。だから、その告白も再演ってことになるけど。
速水社長には紫のバラの人の原点に戻ってもらうっていう舞台設定で…」
** 当日 AM10:30 **
「青木様ですか?」
「は、はい」
「留守番電話のメッセージを聞きました」
「あっ、じゃあ、紫のバラの人の代理の方?」
「はい、マヤ様が急病というのは本当ですか?」
「ええ、突然泣き出して興奮したまま落ち着かないので病院に来ています。心因性のものだそうです。
すみません、あなたのことはマヤから聞いていて、人目を憚らなければいけないって知っています。あなたや、あの子の恩人を困らせるつもりはないんです。ただ、あの子に心因性、って言われると、やっぱり紫のバラの人のことしか思い浮かばなくて」
「青木様、本当の所をお聞かせ願えませんか?」
「え?いえ、あの…」
「もし、あなたがお望みでしたら私の雇い主にも黙っています。キッドスタジオで先ほど様子を聞いてきましたが、特に変わった様子もないようでした。マヤ様が病院へ行くようなことになれば、もっと騒がしくなっていると思いますが」
わたしは絶句した。
「あ、す、すみません…忘れてください」
「青木様、どうかお聞かせください。マヤ様がそんなことを私に言うようにあなたにお頼みになったとは思えません。あの方はそのような人ではありません。
それに…あなたのことも少しは存じております。長年マヤ様と一緒に暮らしていらした、マヤ様がもっともご信頼をよせる、ご家族同様の方。そのあなたがマヤ様に黙って私に連絡を取られたのなら、余程の事でしょう。もしマヤ様のために私が協力できることがあれば是非させていただきたいのです」
わたしは再び驚いた。確かに悪いとは思いつつ、マヤの手帳を見て、彼の電話番号を知ったのだ。水城さんでさえ連絡が取りにくい状況だが、彼ならすぐに社長と連絡を取れるのかもしれない。元々この人に連絡をとるように勧めたのは水城さんだった。
「どうせやるなら徹底的にやりましょう」
水城さんの言葉を思い出したわたしは思い切って計画を打ち明けた。相手はマヤが紫のバラの人の正体を知っていたことは初耳だったらしい。一貫して抑制のきいた声だったが、マヤの苦しい片思いの相手を知ると、心なしか熱がこもり、早口になったようだった。
「青木様、あの方への連絡と紫のバラの手配はお任せください。それからタイムテーブルを完成させましょう」
** 当日 PM5:15 **
俺は北島を下ろした後、あらかじめ指定された、劇場から少し離れた場所でしばらく待っていた。上背はあるが華奢な男が大きな包みを持って現れる。花屋の店員か?なんとなくイメージがそぐわないが…。
「黒沼様ですね?」
「ああ。ありがとよ」
まあ、どうでもいい。俺だって舞台演出家だと言えば、驚かれることの方が圧倒的に多いんだからな。
アート劇場に戻り、俺は最後列の座席の一つに受け取った花束を置いた。北島は衣装に着替えているところだった。
** 当日 PM5:45〜 **
青木君が代理人から受けた連絡通りに、時間の狂いなく若旦那が到着したので、俺はその代理人ってかなり有能な奴だなぁ、と思わず感心した。
「あいつは恋の演技が出来なくてずっと悩んでいた。女優としての自信もなくしていたから、その自信をまず取り戻させてやるために、恋の演技には関係ない役をやらせてみよう、ってことになったんだ。
『若草物語』のベス。あいつの舞台デビュー作だって?さっき台本で簡単な読み合わせしたら、難なくこなしていて驚いたよ。これなら、『若草物語』全部いけるかもしれない、という話になってこれから上演することになった。もっとも観客はいないがね」
「だからわざわざアート劇場まで借りて…」
若旦那はうなだれたままで、声には力もなくなっていた。
「あんた、黙っていられるか?一番遠くから見ているだけなら、誰にも気づかれないだろう。だが北島にあんたが来たことが知られたら、何もかも台無しになる。どうだ、できるか?」
俺たちは客席に入った。俺は最後部の座席を指差し、そこに若旦那を座らせた。
「さっきの約束守ってくれよ」
俺はそう言い残して最前列の座席まで歩いていった。
++ 再び真澄編 ++
なにもかもが蘇る。
マヤの初舞台「若草物語」。
あの時から俺の舞台を観る熱意が目覚めた。
それまで仕事でしかなかった舞台鑑賞。
演目、そして役者やスタッフという商品を見定める機械でしかなかった俺に、人間の情熱を伝えた一人の少女。
演技は驚くほど上達した。
だがマヤ、君の情熱は変わらない。
そして俺もまた、何度君の舞台を観てもその都度惹かれていくのだろう。
本当に俺が壊してしまったのか?俺が閉ざしてしまったのか?「紅天女」への道を?
取り戻してくれ!その可能性を。その情熱を!
そのためなら俺はどんなことでもするだろう。
もう一度あの頃に戻れていたら
まだマヤに俺への憎悪の気持ちがなかったあの頃に
この後次々と作られていったいくつもの障壁を築いてしまう前のあの頃に
そうしたら俺は君に迷うことなく伝えたのに。自分の気持ちを
とめる事の出来ない君への想いを
感傷的になった俺だったが、途中でマヤが舞台から退場したとき、ふと、隣の席に花束が置いてあるのに気づいた。忘れ物か?暗くてよく見えないが…バラなのか?
++ 再び裏方編 ++
** 当日 PM7:45 **
「紫のバラの人は速水社長だった、あの人のことを好きになってしまった、ってあんたに言われてから考えたんだ…」
とわたしが言い始めると後方座席で人影が少し動いた。聞えている。黒沼先生にもあおってもらった後、マヤが思わず叫んだ。
「あたし、あたしは速水さんが好きです!」
一層大きく影が揺らぐ。
「…感謝の気持ちだけだったら、あたし、あの人の婚約者に嫉妬なんかしない」
立ち上がった。わたしがすかさず言った。
「あの人は劇団つきかげを潰した張本人だよ…それにあんたのお母さんが亡くなった時のこと、忘れたの?」
動きかけた影が静止する。だがその後マヤが発言する度に影は近づいてきた。マヤは興奮しすぎて気づいていなかった。
若旦那、隣の席の花束に気づいたな。
黒沼先生は花束を見てニヤリと笑い、わたしはマヤと座っていた客席の方向に一本だけ向けられたマイクに向かってお疲れさん、と小さくつぶやいて、二人で一緒にその場を立ち去った。
** 当日 PM9:00 **
そ知らぬ顔をした代理人さんが速水社長に電話をかけて、マヤの様子に探りを入れたようで、その報告をわたし宛に電話でかけてきた。それを聞いてからわたしは店の中に駆け込んだ。
「今、代理人さんから連絡もらいました!大成功!今日は帰らないかもしれませんがご心配なく、なんて言われちゃった!」
やったぁ!
黒沼先生、水城さんとさやかが諸手を挙げて大喜びした。
「真澄様のツケにできるところに場所を変えましょう」
「賛成!嬉しい〜。手伝ってよかった♪」
「お、俺はあんまり高級な所は舌が合わないんだが…」
「代理人さんとも飲みたかったけど、残念…黒沼先生、水城さん、今回は本当にありがとうございました。さやかもありがとう」
「麗もお疲れさま」
「本当にみなさんお疲れさま。
これで私たち、胸のつかえがすっかりとれたってわけよ。
あ!今回かかった経費の請求書は忘れずにウチに回してちょうだい。
真澄様が全てお支払いになるはずよ」
material:空色地図
2006.8.24掲載