「今度こそボロが出ると、マヤちゃん、困って化粧室に駆け込んだものの、出るに出られず携帯から私にかけてきまして」
「あの子はどこだ!?どこにいる?」
真澄の剣幕は電話越しでもよくわかった。
「受付に一番近い化粧室だそうです」
「水城君、マヤにもう一度電話できるか?出てきて俺と口裏を合わせるように言ってくれ」
真澄は受付に近づいた。確かにすぐ近くの化粧室の前に久慈本部長が立っていた。真澄が目礼したままその場から動かなかったので、久慈の方から話しかけようとした時に、小柄な女性がおずおずと出てきた。彼女が真澄の姿を見つけて明らかにほっとしたような表情をしたので真澄の保護欲はいよいよ刺激された。
「北島君、探したよ。もう時間だ。そろそろ行かないと約束の時間までに本社に着けない」
「速水社長…」
「どうもパーティが楽しすぎて忘れたようだな。ニューヨークの記者のインタビューが今夜だ」
「あっ、す、すみません」
マヤはいつもの彼女の物腰になって頭を下げた。しかし頭を上げた後はなかなか根性を発揮した。
「久慈本部長、誠に申し訳ございません。
せっかくお誘い下さいましたのに。
私、うっかりしておりましたが、本日これから仕事が入っておりますの。
以前から言われておりましたのに、明日だとばかり勘違いをしておりました」
マヤは婉然と微笑む。真澄はぽかんとしていたが、久慈はマヤに向かってお辞儀をした。
「売れっ子の女優さんにここまでお付き合いいただいて、光栄に思うべきでした。
今日は残念ですが、また機会がありましたら、是非お目にかかりたい」
真澄はビジネスマンとして挨拶を交わし、マヤと会場を後にした。
「あーっ、よかった!!」
マヤが車の中で思い切り手足を伸ばすのを見て、真澄は思わずふきだしてしまった。
「速水さん、笑いすぎ…って無理もないけど」
「…だが、偉かったな。ビルの中ではフロアが変わっても誰が見ているか分かったものじゃないからな」
真澄は笑いながらもそこまで言った。
「ところで腹は減ってないか?」
「え?」
「夕食につきあってくれないか?」
「あ、行きます。なんか安心したらお腹すいてきちゃった」
真澄は思わずニッコリ笑った。久慈氏の誘いを霧散した上、自分はしっかりマヤの身柄を確保したのだ!
「行きたい所はあるか?」
「ええっと、それじゃ…」
マヤが言ったところにタクシーが向かい、程なく到着した。
いわゆる雑居ビルの中に彼女の目指す店があった。店は和食をベースにした女性客向けの居酒屋で、4人がけのテーブルが二つある部屋が個室になっている。時間も遅かったので隣のテーブルにはもう客もいなくて、広い個室に二人だけだった。
食事は豪華ではなかったが家庭料理を中心にしており、味はどれも及第点で、アメリカから戻った真澄はマヤのさりげない気遣いを感じた。
会話も楽しくはずんだ。マヤから紅天女本公演の稽古場でのエピソードや、つきかげの次回の上演予定についての話が中心となった。海外出張から戻ったばかりの時差ボケ状態でも、心がこれほど安らぐのは彼女の前だけだ、と真澄は改めて思い知った。そしていつもより濃い化粧の顔で、時々はっとするほど大人の表情をするようになった彼女に、さらに反射的に冷静さを保とうとしている自分に嫌でも気づかずにはいられなかった。
「紅天女」の試演直後、真澄の婚約者鷹宮紫織の祖父が倒れ、一時的に意識不明の重態となったため、結婚式と披露宴は延期された。
招待客の数が膨大なため、すぐには式場を押さえることが出来ないこと、まだ鷹宮翁の容態が安定しないこと、さらに鷹通グループ全体がトップ不在の事態の収拾に大童になっていることが原因で、結局二人の結婚は事実上の無期延期となっている。
紫織の方ではせめて入籍だけでも、と打診してきたが、真澄の方が鷹宮翁の容態が安定するまでは、と承諾しなかった。
真澄は鷹宮家には悪いと思いつつ、事態が意外にも自分たちに好都合進んでいる現実を喜ばずにいられなかった。ワンマンのトップが機能しない現状で、鷹通グループの方が、大都との事業提携を前倒しにする必要に迫られたからである。実際鷹宮翁が倒れて以来、両者の業務提携は急ピッチで進められた。
真澄は超多忙な日々を強いられ、マヤと顔をあわせる機会もほとんどなかったが、彼女は大都芸能の所属になることも、大都劇場で「紅天女」を上演することも、あっさりと承諾した上、本公演は大成功を収めたので、義父ですら上機嫌で、マヤを大都の看板女優として丁重に扱っていた。
「本当に助かりました。パーティの間だけは何とかなると思っていたんですけど、久慈さんと二人になったら絶対ボロ出しちゃいますからね。
でもどうお断りしていいものかわからなくて」
久慈本部長に下心があって彼女を誘ったなどとは夢にも考えていない。
ただ、自分の「大女優ぶり」がニセモノであって、それがばれたら会社に、真澄に迷惑をかけるところだった、と冷や汗をかいていたのだった。
「速水さんが来ない、って聞いたから出席しようと思ったのに、姿を見たときには恥ずかしくって、ああ、来るんじゃなかった、って思ってました。
でも助けてもらったんだから、文句言えませんね」
「それは聞き捨てならないな。俺が欠席するから行ったって言うのか?」
「だって『馬子にも衣装』だって思っているんでしょう?どうせ。
会った途端に大笑いされるのかと思いました」
「そんなことはない。そういう服も似合うようになったな」
マヤは驚いて俯いた。
「速水さんがそんなこと言うなんて…」
「なんだ、疑っているのか?真面目に言ったんだぞ。そういう服を選べるようになったセンスも」
「あの、いえ、これはあたしが選んだんじゃなくて久慈さんが…」
真澄の表情が一瞬で変わったのでマヤは思わず言葉を飲み込んだ。
「久慈…本部長のプレゼントか」
「は、はい。よくご存知のお店を案内されて、ドレスは久慈さんが選んでくださって、バッグとか靴はお店の人が…」
マヤの声が震えていた。真澄のただならない表情に平静が保てない。
「ご、ごめんなさいっ!!あたし、昔から貧乏だったくせに、ファンの方からプレゼントもらうことに感覚がマヒしているみたいで。常識外れですよね。すみません、すみません…」
マヤが泣きそうになっているので、さすがに真澄もうろたえた。
「いや、そこまで気にすることはないが」
「でも、問題ありますよね。やっぱりあたし図々しかった…」
「君もわかっている通り、久慈さんは日本でも有数の資産家だから、そのくらいの出費は彼らにとっては端金に過ぎない。
きっと他の人にも贈り物くらいしているだろうし」
マヤが顔を上げて真澄をじっと見るので思わず言葉を飲みこんだ。言い知れない不安が突然彼を襲う。
「速水さんもそういう経験があるからわかるんですね」
「え?」
「あたし、知ってます。速水さんが芸能人に援助していたの。
速水さんも何人も援助しているから、相手がそれを深刻に受け止めると却って面倒に思うものだってわかっているんですよね」
「な、なんだ!?何を言っているんだ」
「紫のバラの人も」
マヤは酔いが回っていたに違いない、と後で思い返したほど大胆な発言をしていた。
「きっとそうだったんです。速水さん見ていてわかりました。
あの人もあなたと同じで、自分の幸せを、愛する人を見つけたから、あたしを応援する気持ちなんてなくなってしまったんだろう、って」
マヤは立ち上がった。
「ごめんなさい。どうかしているんです、あたし、帰ります」
さっさと部屋を出て行くのを真澄が慌てて追いかけた。
「待て、送るから」
「いいです、すみませんが、立て替えておいてください。明日返しに行きますから」
「そんなことはいい、ちょっと待て」
真澄が支払いを済ませようとして反射的にカードを出したものの、マヤが立ち止まらないので財布から紙幣を取り出し、出て行こうとした。しかし店員に多すぎます、と呼び止められて、自分のいつもの相場よりはるかに安い値段だったことに気がついた。
真澄が店を出たとき、バタンと音がした。エレベータの前には誰もいない。
しかし、エレベータの表示は地下から上がってくるところだったので、マヤは乗っていないはずだ。
(非常階段か…)
扉を開け外気に触れたその時、案の定、下のほうから鉄の階段をカンカンと遠ざかっていく高い音が聞えてきた。
マヤが普段履きなれないヒールを履いていたことに感謝しながらも、転んでケガをしてくれるな、と祈るような気持ちで一段飛びに追いかけていった。
「速水さん、あたし一人で帰りますから!」
マヤは必死に逃げながら叫んでいた。
「お願い、来ないで!」
思わずよろめいて落ちそうになったすんでのところで真澄の腕がそれをかばった。
「よかった…」
真澄に羽交い絞めにされた格好でしばらく二人は動こうとしなかった。
「あの…すみません、もう大丈夫ですから」
マヤが真澄の腕に手をかけてほどこうとする。
「チビちゃん、俺の何を知っているって言うんだ?」
真澄は腕を動かそうとしなかった。マヤはしばらく動きを止めて黙っていたが、静かに言った。
「否定するんですか?誰も援助したことなんかないって」
「…どうして何人もの人にと思ったんだ?」
「さっき速水さんが言ったんじゃないですか。
久慈さんのことがよく分かるような言い方だったし…」
「どうして、紫のバラの人が自分の幸せのために君を見捨てたなんて思ったんだ」
「それは…」
マヤは唇を噛んだ。暗くてお互いの顔はよく見えない。
「違うというならあたしのほうが知りたい!
あたしに失望したって言われても何がいけなかったのか、今でもわからない!
今までの感謝の気持ちを直接伝えることすらできないまま、あんな形で終わってしまって。
失望させてしまったお詫びさえ言えずに…あたしの方こそ、教えてもらいたいです…」
2006.3.1掲載
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