“ハマの下町”として戦前から栄えた横浜市南区吉野町。その一角、鎌倉街道沿いに建つ銭湯「大和湯」が、三十一日に店を閉める。横浜大空襲で壊滅的な被害を受けたが豪華な建物を再建。「吉野町御殿」と称されて復興の象徴になった老舗が、利用客の減少や原油価格高騰の影響で、惜しまれながら七十六年の歴史を閉じる。
創業者の父を継いで切り盛りしてきたのは、長谷川満さん(79)、貞子さん(74)夫妻と長男の三郎さん(46)。空襲で一帯が焼け野原となり、大和湯も風呂釜一つ残して全焼した。「風呂に入りたい」という住民の要望を受け、翌一九四六年に再開。バラック小屋同然の小さな湯殿は、男湯と女湯が一日交代で温かい湯を提供した。
敗戦から五年後に今の建物を新築。黒瓦の屋根、ケヤキの一本柱は宮大工によるもので、夕暮れ時になると褐色の薬湯は商店主や家族連れでにぎわった。仕事前の芸妓(げいこ)も立ち寄り、「皆、取り合うように蛇口を使った」と満さんは振り返る。
その後、家庭への風呂の普及とともに、徐々に客足が遠のいた。決定的となったのが最近の原油高。「まさか風呂屋がさびれる時代が来るとは」と満さん。「一人でも来てくれるなら頑張ろう」と家族で何度も話し合ったが、深夜に及ぶ管理はきつく、「きれい事だけでは続かなくなってしまった」(貞子さん)。
いつか番台に座りながらラジオで聞いた学者の言葉を、貞子さんは最近ふと思い出す。「子供からお年寄りまでが裸を見せ合う銭湯は、他者への想像力を養う」―。「少しは世の中に役立ったのかも」。そう思うと、ほっとするという。
常連は感謝を口にする。近所の男性(30)は、生まれたときから風呂は大和湯。「ずっと生活の一部だった」。ありがとうの言葉は、最終日に伝えるつもりだ。
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