漫棚通信

日本のマンガの棚その21


W3事件の意義

 夏目房之介氏のブログで、元少年マガジン編集長・宮原照夫氏のW3事件に関するインタビューが取り上げられていました。わたしも以前にW3事件を調べて書いたことがあります。今回の証言では、当時の状況が生々しく語られています。

 宮原によると「ナンバー7」は少年マガジン1965年6号から連載開始予定でした。1964年12月31日になってやっと予告の絵を手塚に描いてもらいますが、年明け早々、1965年1月5日に手塚から1回目のクレーム。アニメ「宇宙少年ソラン」に宇宙リスが登場する。ナンバー7のアイデアがマガジンから漏れた、というものです。「ナンバー7」は連載中止になります。

 その後1月末にW3の設定がパイロットフィルムの形でできあがり、少年マガジン13号から連載開始(宮原は16号からと語っていますが記憶違いでしょう)。その後マガジンに「宇宙少年ソラン」の連載予告が載ってから、手塚から2回目のクレーム。ソランの連載をやめろ、と。結局マガジンはソランを切ることはできず、手塚はW3の連載を少年サンデーに移してしまいます。

 宮原の言うとおりなら、12月31日から1月5日の間に宇宙リスのアイデア流出がわかったという急激な展開。ところが山本暎一「虫プロ興亡記」によると、すでに12月中にはナンバー7の中止は決まっており、1月4日には会議でW3を雑誌連載した上でアニメ化することが決定されています。虫プロスタッフを「鉄腕アトム」班、「ジャングル大帝」班に振り分けても、余ってしまったスタッフ25人の仕事をつくるためでした。

 両者の言い分を信じるなら、手塚は虫プロ内部と少年マガジン編集部に対して別の顔を見せていたことになりますが、結局、真実はわかりません。

 W3事件はゴシップ的にも興味深いのですが、実は、この事件は戦後マンガ史の分岐点であったと考えられます。戦後マンガ表現史を考えるとき、まず手塚治虫が切り開いたストーリーマンガがあり、つづいて反・手塚として劇画が登場する。第3に少女マンガが心理描写を進歩させる。

 W3事件は手塚マンガから劇画への転換をうながしたことになります。事件をきっかけに、少年マガジンは手塚的な古典的少年マンガの絵・語り口から離れ「劇画」にアプローチします。水木しげる、さいとう・たかを、そして梶原一騎。「巨人の星」も「あしたのジョー」もW3事件が作ったものと言えるかもしれません。劇画はその作品の力でいずれマンガの主流となることができたと思われますが、W3事件がなければその後のマンガ史はどんな展開を見せたでしょう。(2004/9/4/土)


「小池一夫伝説」読むべし

 「映画秘宝」はもちろん映画雑誌なんで、マンガ方面ではあまり話題になってないようなんですが、大西祥平の連載「小池一夫伝説」は面白いぞ。

 数年前から梶原一騎再評価が始まってますが、次は小池一夫だ! って、現在も現役のマンガ原作者のキングに「再評価」は失礼ですが、一時の勢いはないとはいえ、あの膨大な作品群はもっとリスペクトされるべきだと思うんですが。あまりに娯楽に徹しすぎたせいか、語られることが少なすぎる。

 「映画秘宝」2004年5月号から始まった連載は、第1回「映画『修羅雪姫伝説』」(梶芽衣子インタビュー付)、第2・3回「『子連れ狼』徹底解剖」(映画版「子連れ狼」の紹介付)、第4・5回「“裏・子連れ狼”としての『御用牙』」「『御用牙』の真実」(映画版「御用牙」と「亡八武士道」の紹介付)、そして今発売中の10月号では第6回「高校生無頼控」。

 大西祥平は細かいところまで小池一夫に質問してます。小山ゆうオリジナルのはずのデビュー作「おれは直角」の主人公の原型は「御用牙」にすでに登場していたとか、「高校生無頼控」には松森正版があったとか、裏話もいろいろ。

 映画雑誌連載だから、映画になってない「I・餓男ボーイ」とか「ダミー・オスカー」とかについては語られないのかなあ。今後も連載が続くかどうかわかりません。「ユリイカ」あたりが特集・小池一夫を出さないかしら。(2004/9/2/木)


「アニメがお仕事!」は泣けます

 わたしがアニメ関係の方とちょっとだけ知り合いだったのは30年も前のことですが、当然のことながら当時から経済的にはとてもキツい職場だったようです。爆発やら戦闘機ばかり描いてると言ってたなあ。

 石田敦子「アニメがお仕事!」1巻を読みました。アニメプロダクションを舞台にした、特殊職業モノであり、青春群像モノであり、日常生活モノであります。

 主人公は新人アニメーターの双子(♀♂)、イチ乃と二太、19歳。イチ乃は巨乳のメガネっ娘という記号みたいなスタイルですが、数ページおきに泣いているような性格。二太は熱血。彼らの職場での人間関係やら、新企画の仕事やら、職場引っ越しやらで話が進みます。劇的な展開があるわけではありません。主人公は仕事場とアパートを往復してるだけ。タイトルどおり、お仕事ばっかりしてる作品。

 マンガ家にしてもアニメーターにしてもオタクな仕事を職業にしたヒトビトの話はいい。オタクに徹する心意気といいますか、この作品なら、ガンダム話はもう恥ずかしいと同級生に言われたりして落ち込みながらも、アンケートのご職業欄に「アニメーター」と書き込むシーン。

 青春モノの常ですが、イヤな上司、ライバルも登場。アニメ界のイヤな裏話もいろいろ出てきます。作者は元アニメの人ですから、この手の話は実話なんでしょう。でも読後感がいいのは、作者がアニメとその仕事を愛しているのが伝わってくるから。きっとこれから、もっとイヤな事件がおこるに違いないと予想されますが、がんばっていただきたいと、単純に応援したくなります。

 ただ帯に「アニメーターにも青春はある。」とありまして… このコピーはなあ。あたりまえやんか。あんた、ないと思てたんかいっ。(2004/9/1/水)


「ハッピー・マニア」の設定を読む

 青木光恵「スウィート・デリシャス」が4巻で完結。これ「フィール・ヤング」に連載されてたんですよねー。主人公・コトエリは1巻で23歳、最終4巻では25歳の設定でした。

 恋愛とセックスを求めて彷徨する女性の話で「フィール・ヤング」連載といえば、先行作は安野モヨコの「ハッピー・マニア」。そういえばシゲタカヨコも「25ans(ヴァンサンカン)キーック」とか叫んでたからコトエリと同年代のはず。で「ハッピー・マニア」全11巻を設定に注目して読んでみました。

(以下テキストは文庫版じゃなくて「フィールコミックスゴールド」版のほうです)

○シゲタの年齢

 主人公・重田加代子は1巻の1話(1995年8月号)の時点で24歳の設定でした。作者・安野モヨコと同い年。2巻5話(1996年2月号)は1996年の初詣のお話でしたから、少なくともここまではマンガ内の時間の流れと現実の時間の流れは一致していました。ところが6巻26話(1997年12月号)でタカハシの実家にあいさつに行ったとき25歳。現実時間より1年は遅れています。こりゃマンガじゃよくあることでしょうがない。8巻36話(1998年11月号)で26歳。9巻47話(1999年12月号)でウエイトレスとして就職するときも26歳。現実時間とは2年ずれてしまいました。

 7巻32話(1998年7月号)に誰かの履歴書が出てきます。就職面接をうけているのはシゲタですから、彼女の履歴書と考えたいのですが、平成7年(1995年)明治大学文学部演劇学科に入学してる。このとき大学4年生。マンガの中の時間はもっと遅れてますから2年生ごろですので、残念ながらシゲタの履歴書ではありません。(それにしてもこの履歴書のヒト、中学校を2年間で卒業したことになってます。履歴書はずぼらに書いちゃいけません)

○シゲタの職歴

 1巻1話で「BOOKSタナカ」の書店員。ただし1カ月前に「女ばっかの職場をやめて」就職したばかり。以後、通販の電話受付、化粧品販売、陶芸家見習、スーパーで食品販売、書店員出戻り、ホステス、編集プロダクション雑用、ウエイトレス。以前に「にこ弁」(弁当屋?)に勤めてたこともあるそうです。

○シゲタの家族。

 シゲタの出身地はどうも東京都昭島市。5巻24話(1997年10月号)のとき父親は51歳で職業・旅人、持病・通風。母親は宗教のヒト。弟・タケシは元ヤンキーでタカハシと同い年。弟の妻もいわゆるヤンママで、双子の子持ち。11巻60話(2001年4月号)でオーストラリアに移住することに???

○タカハシのこと

 本名・高橋修一。1巻1話登場の時20歳。シゲタより4歳下です。シゲタと知り合って1カ月。1巻4話(1995年12月号)で「来年シューショク」と、初めて学生のバイトでかつ3年であることがあかされます。2巻5話(1996年1月号)になって実は金持ちで、2巻8話で東大の学生だったと。中高は私立。なぜ本屋のバイトしてたかは謎です。9話(1996年6月号)でアメリカ留学。

 留学後のタカハシは3巻12話(1996年9月号)で一時帰国、4巻16話(1997年1月号)で再渡米、4巻20話(1997年5月号)でまた帰国(このとき21歳)、5巻21話(1997年7月号)ではまたまたアメリカに行って、5巻23話(1997年9月号)でまたまた帰国。なんてイイカゲンなんだっ。お金持ちだから飛行機代なんかどうでもいいのね。このあと、シゲタの家にごあいさつ→タカハシの家にごあいさつという展開になります。

 タカハシの家族の設定は細かくて、一族の年齢・職業がいろいろ書かれてますが省略。

 タカハシは日記をつけてるので日時が計算しやすい。これによるとシゲタとの結婚話が破綻したのが1996年9月27日。10巻50話(2000年3月号)で22歳、大学休学中。11巻57話では大学中退しちゃって就職。大学中退にはいろいろ考えがおありなんでしょうが、まだまだ復学できる年齢なんだけどなあ。

○フクちゃんのこと

 1巻1話では「フクダ」さんでした。1巻4話で「福永」さんに改名。2巻5話でやっと年齢が29歳でフルネームが「福永ヒロミ」であることがわかります。9巻45話では32歳。専門学校の入学金も自分で出した苦労人。

 フクちゃんは「ハッピー・マニア」の中では恋愛志向のシゲタと対照的で、恋多き女ではありながら結婚を具現化した存在。最初のほうの男・松江とは一時結婚が決まってました。シゲタのケガを見て「結婚式までに治るかな…」とか言ってますし。彼女が藤堂秀樹との結婚にまい進するのを見ていると、この作品のテーマが「恋愛」ではなく、「恋愛と結婚」だったのがよくわかります。

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 こう見ると「ハッピー・マニア」のような長期連載作品は、設定が豊富に複雑になっていきますね。作品を描きながらいろいろ継ぎ足していったものでしょうから、テキトーなのも多い。でも矛盾しながらそれなりのところに落ち着くのが名作たるもの。ストーリーや設定のぶれを楽しみながら読むのも連載マンガなればこそですね。

 設定と同様にストーリーも連載中に変化していきます。「ハッピー・マニア」は、6巻のタカハシ家訪問前後で印象がかなり違ったものになりました。前半は「やってから考える」おバカな女性の、お気楽コメディーでした。作者も「人生の反面教師としてぜひお手許に」などと言ってましたし。しかし恋愛を繰り返すうち、主人公の心理描写の比率が増えていきます。シゲタは行動するより考えるようになり、こうなるとお話は内省的になり、現代の、都会の、独身の、女性の、孤独な、内面を語る作品に変化。

 最初のころの展開はタカハシの比重が高く、いかに彼とハッピーエンディングするかというのを作者も考えていたはずですが、6巻にタカハシをめぐるライバル・貴子が登場してからさらに深刻な展開となりました。最初登場したときの貴子はそれなりにカワイイ女の子(タカハシより1歳下)だったのですが、どんどん肥満し、ブスに。この変化はキャラクターの重要度の上昇によるものです。登場時はちょっとした脇役のはずだった彼女は、結局最終回まで出演し、タカハシの妻という「ラスボス」になりました。

 なぜ彼女がここまで敵として大きくなったかというと、実は、シゲタと貴子の違いはほんの少しであることに作者が気づいたからです。タカハシと結婚することを望み、ウソをつき、陰謀をはりめぐらせる。自分の欲望に忠実という意味では貴子のほうが純粋ともいえるでしょう。恋愛の結果としての結婚を求め続けるならシゲタも貴子と同じことをするかもしれない。潔癖なシゲタは貴子と同じにはなりたくない。貴子との戦いを通じて、シゲタは恋愛を結婚より上位に置く恋愛至上主義者となりました。

 ラストシーンでシゲタは自身の結婚式の場にいながら、さらなる恋愛を求めます。結婚でもなく、仕事でもなく、恋愛を。わたしは、これは安野モヨコの少女マンガ宣言なんじゃないかと思ってるんですが、いかがでしょうか。(2004/8/29/日〜8/30/月)


「正チャン」の切手

 先日、同居人が切手を買いに郵便局に行ったところ、変わったのがあったよーと買ってきた切手。タンタンかと思ってよく見たらちゃうんよ。なにこれ。これはなあ、タンタンよりもっと古い大正時代のマンガ「正チャンの冒険」や。作者の樺島勝一は細密ペン画で戦艦とか描いてて有名な人。正チャンのかぶってた正チャン帽というのは昭和30年代までは通じる言葉だった。ほんでもってこの本が去年小学館から復刻された「正チャンの冒険」…(このあたりで同居人はアッチのほうへ去っていく)

 今年のふみの日(7月23日)の切手デザインは「正チャンの冒険」でした。いや知らなかったなあ。わたしは別に切手マニアじゃないんで。画はオリジナルの絵じゃなくて、模写のようです。

 最近はミッフィーちゃんとかキティちゃんとかドラえもんの切手もあるんですが、「ゆうびんホームページ」によると昨年12月から「科学技術とアニメ・ヒーロー・ヒロインシリーズ」というのも始まってて、第1集・鉄腕アトム、第2集・スーパージェッター、第3集・ふしぎなメルモ(おとなバージョン、子供バージョンの2種あり)、第4集・科学忍者隊ガッチャマン、第5集・マジンガーZ、以下もっと続くみたい。

 ここまでくれば「萌え切手」の発売まではあと半歩。(2004/8/26/木)


「すみれの花」の失敗

 「B館」MANGA NEWSで、ビーム2004年9月号付録、福島聡・森薫合作の「すみれの花」のレビューが書かれています。長文レビューの労作で、楽しく読ませていただきました。ごくろうさまです。

 マンガを詳細に読むということはあまりしなくなっちゃいましたが、このレビューに刺激されてわたしも繰り返し「すみれの花」を読んでみました。残念ながらこの作品、一点で失敗しているように思われます。

 37ページから39ページにかけて大きく描かれている「美術館の絵」の絵。「B館」MANGA NEWSではこの絵にはバラとスミレが描かれているとされていますが、スミマセン、まず、これにスミレは描かれているのでしょうか。わたしにはどうしてもそう見えないのです。これがスミレの花かなーと思えるものもなくはないのですが、葉っぱかなとも見えますし。そしてバラもバラなのか。わが家ではシャクヤクという説あり、葉ぼたんという説あり。

 絵画としてバラとスミレを同じ画面に描くことはあまりしないんじゃないかしら。イメージとしてはスミレは可憐、バラは豪華ですし。花の季節としても微妙にずれてます。となると、この絵にはバラだけが描かれていると考えるべきでしょうか。ただしこの作品のタイトルが「すみれの花」ですし、クライマックスの絵には当然スミレが登場してほしい。あえてバラとスミレを絵に描いたと考えることもできる。

 スミレが描かれているなら、この絵の作者と前園すみれとの何らかの関係が想像される。バラだけが描かれているなら、単なる美術鑑賞? というわけで、この絵に何が描かれているのかわからないという点が、この作品の穴です。惜しい。(2004/8/24/火)


新聞マンガの受難

 最近新聞4コマばかりを読んでます。本来こういうのは1日1作。集中して読むもんじゃないかも。いしいひさいち「ののちゃん」全集版3巻、しりあがり寿「地球防衛家のヒトビト」、森下裕美「ウチの場合は」3巻。新聞マンガはどうしても他媒体に比べて毒がなくなります。これは読者層がコドモからじいちゃんばあちゃんまで、ということもありますが、もうひとつ大きな理由が。抗議するヒトビトがいるんですねー。

 朝日新聞に連載していた砂川しげひさ「Mr. ボオ」というのがありました。砂川しげひさが新聞でどんなナンセンスを展開してくれるかと期待してたんですが、残念ながら途中で「ワガハイ」に改名。猫とその飼い主一家のお話に路線修正してしまいました。やっぱり新聞じゃキャラクターマンガじゃなきゃだめだったのかなあ。この後、新路線は成功をおさめ、猫マンガの続編は現在もネットで連載されてます。ところが、ありゃりゃこんなページが。

 このかたは、「Mr. ボオ」はセクハラマンガであるので掲載中止するようにと、朝日新聞に抗議文を送りました。その結果「私と同じような意見の人が多数いたよう」だから「Mr. ボオ」は「ワガハイ」にタイトルが変わり、「少し改善」されたと理解されています。

 「Mr. ボオ」がいかにヒドいマンガであるかの具体例は、コピーされている土俵問題のマンガともうひとつ、ふたご出産のマンガだけですが、後者に対する罵倒がスゴイ。(1)父親と赤ちゃんとの初対面がガラスごしでないのが変。(2)産着を着ていないのが変。(3)産むまでふたごとわからないのが変。(4)夫が分娩室に入らないのが変。(5)作者は女性の生活を全く知らない。(6)日本社会についても無知である。(7)だからセクハラについて鈍いのだ。

 うーむ、(1)(2)(3)(4)まではそのとおりなんですが、新聞4コマの描写にその手のリアルを求めますか。またそこから(5)(6)へ飛躍しますか。

 また一方「漫画は、実生活の生活感情に基づかないと、面白くありません」と断言しておられますが、そうだとは知りませんでした。ナンセンスマンガのプロ・砂川しげひさに対してマンガの描き方について説教されております。比較に出されたいしいひさいちも困るんじゃないかしら。抗議文の中で「漫画としても面白くありません。掲載中止をお願いします」とありますが、このかたはセクハラ問題に抗議したいのか、それともマンガの面白さについて語りたいのでしょうか。

 土俵問題のマンガは「セクハラ問題に過剰反応する」ことを笑うマンガでした。これに対してこのかたは「このマンガはセクハラ問題を矮小化している」と考え、抗議文を出し、掲載中止を訴え、このような文章をネットに載せ、マンガの描き方まで語ってくれます。面白いっ。

 このページはその他にもツッコミどころいっぱいの笑えるモノでしたが、新聞マンガは右からも左からもこのような抗議にさらされているわけです。自分の意見を発言されるのは一向に構わないのですが、意に添わない連載を中止させようと虎視眈々とねらっているヒトはいっぱいいるようです。新聞マンガに毒がなくなるのもしょうがないか。(2004/8/23/月)


怪人ヒイロのオリンピック

 アテネ・オリンピックやってますねー。どうしてもTV見ちゃいますよねー。

 オリンピックで思い出すマンガといえば、どおくまん「怪人ヒイロ」。怪人はミラクルと読みます。1985年から週刊少年チャンピオンに連載。どおくまんとしては「熱笑!!花沢高校」に続く作品でした。

 当時のチャンピオンといえば、「がきデカ」「ブラックジャック」「ドカベン」「750ライダー」などのビッグヒットはすでに終了。水島新司「大甲子園」が連載半ばの時期。「怪人ヒイロ」は1984年ロス五輪での日本陸上陣惨敗を受け、次のソウルでの金メダルを取るヒーローを描くマンガとして始まりました。

 北海道・大雪山にある忍者の隠れ里に住む野生児・ヒイロ(いつものとおり青田赤道そっくり)が主人公。都会に出てきた彼は陸上の日本選手権に出場して、ハンマー投げ・1500m・800m・走り幅跳び・走り高跳び・400m・棒高跳び・100mで優勝。しかもすべて日本新記録。そして神戸で開かれた8カ国陸上で、砲丸投げ・三段跳び・やり投げ・走り幅跳びで優勝。すべて世界新記録。

 100mでは世界新を出しながら「カルロス・ルイス」に破れてしまいますが、最後の400mリレーではかつての日本人ライバルたちと組んでルイスのいるアメリカ・チームに勝利。見事な盛り上がりを見せて面白かったのですが、ここでまだ1986年半ば。オリンピックまでまだ2年あります。ネタが切れてしまいました。

 というわけで、次は「プロ野球編」。ヒイロがジャイアンツに入団して活躍。お話のスケールがえらく小さくなっちゃいました。その後が謎の覆面男カボチャマンとヒイロが格闘技などで戦う「驚異のカボチャマン編」。

 ここまでが新書版単行本で18巻。さて19巻はいよいよ待ちに待った「オリンピック編」。水泳のオリンピック選考会で出場した13種目すべてで出場権を獲得。陸上でも21種目に出場することに。

 ソウルの選手村でルイスと再会したヒイロは「ベム・ジョンソン」を紹介され、新たなライバルとにらみ合います。カナダじゃなくてUSAのジャージ着てますが。19巻に収録されている最後の回「ベールを脱ぐモンスター!!の巻」では、出場した水泳13種目すべてでヒイロは金メダル獲得。これをTVで見ているジョンソン(カナダのジャージに着替えました)は「ツイニ対決ノトキガキタナ小僧 他ノ種目ハドウデアレ100mノ金メダルハ絶対ニ渡サン」と不適につぶやきます。

 これは燃えるでしょ期待するでしょ。19巻の表紙はヒイロ、ジョンソン、ルイスが競走している絵でしたし。ところがこの後いつまでたっても、20巻は発売されませんでした。えー? あれで終わり? どうして?

 19巻の発売は1988年5月と奥付にありますから4月ごろの発売でしょう。チャンピオンの連載は2〜3月か。そしてソウル・オリンピックの開催は9月。ベン・ジョンソンの世紀のドーピング・スキャンダルがあり、結局「ヒイロ」の20巻は発売されることなく、現在でも全19巻のままです。

 このころわたしはチャンピオン買ってなかったので、雑誌ではどういう展開をしていたか知らないのですが、オリンピックのために4年間引っ張ってきたマンガをその開催前に終了させるとは。それとも雑誌連載は続いていたけど単行本化されなかったのでしょうか。どちらにしても怪人ヒイロのオリンピックでの活躍はもう読むことができません。ちぇっ。(2004/8/20/金)

 追記:「情報中毒者、あるいは活字中毒者、もしくは物語中毒者の弁明」よりトラックバックを頂きました。これによりますと、どおくまんの一員、鈴木信治氏が1988年3月に亡くなったための連載中断だったようです。残念な事です。(2004/9/30/木)


美少女と萌え

 ササキバラ・ゴウ「<美少女>の現代史 『萌え』とキャラクター」を読み終わったのはかなり前だったんですが、これについて書くのがちょと気が重くて。

 理由はいろいろあるんですが、まず私自身が「萌え」について整理しきれていないこと。オタク文化から出てきた「萌え」という行動様式が、将来、芸術を鑑賞する視点に進歩するかどうか。「侘び」「さび」「萌え」なんてね。ここにもうひとつ確信が持てない。商品や情報だけでなく、思想まで消費しつくしてしまう現代日本で「萌え」は生き残れるのか。

 第二に「萌え」というのは受け手側の意識の問題ですから、作品論にととまらず、読者論・消費者論を含みます。誰が何に萌えたのか。萌えの最大公約数は。これにはオタクの状況・行動の歴史を知らなければならない。広範な現場の知識が必要になります。そして時代が進み、送り手側が「萌えさせよう」とするとき「萌え商品」ができます。「もえたん」とか「萌え4コマ雑誌」とか。商品としての萌えを考えるなら、作品論からさらに遠ざかってしまう。ここまでくると「マンガ産業論」じゃなくて「萌え産業論」までになってしまって、テーマでかくなりすぎます。とまあ、こんなことを考えていると、自分の考えがまとめきれなくなるんですね。

 そしてもうひとつ。どうもネットでの否定的な書評を読むと、みんな「美少女の現代史」をちゃんと読めてないんじゃないかと思えてしまいます。この本は萌え解説の決定版というようなものではありませんが、基本はきっちりおさえておきましょう、という水先案内みたいな本ですよ。著者はここを前提にして議論しましょうと言ってる。とくに前半、作品と歴史を語る部分は、山のようなマンガやアニメからどの作品を取り上げるかが芸。

 さて、著者の歴史的考察では「萌え」の始まりは1972年のアニメ「海のトリトン」です。女性のほうが早く「萌え」ていた。男性が萌えるのは1979年からの吾妻ひでおを中心とするロリコンブーム、宮崎駿「ルパン三世 カリオストロの城」、高橋留美子「うる星やつら」をビッグスリーとします。この部分に全く異論はありません。

 ただその後に書かれる吾妻ひでお「ふたりと5人」を「描かれなかった恋愛まんが」としてロマコメの先駆と考え、「やけくそ天使」の阿素湖を美少女であるとするのは、そらあんたムチャやがな。前者は著者が言うところの「オヤジ的お色気コード」内の作品でしょうし、後者はそもそもセックスの怪物・阿素湖は美少女か。彼女が幼女に変身したときは別として、あれは「富江」につながるような妖怪マンガじゃないのか。

 美少女前史として1970年代、戦う理由に「女性のため」という言葉が登場します。この指摘は面白い。少女マンガ的なものが少年マンガを侵食したとき、「男らしさを証明する相手としての女性」がまず出現した。例に出されているのは「あしたのジョー」「愛と誠」「デビルマン」「男おいどん」「硬派銀次郎」など。

 80年代になると少年マンガのラブコメブームがあり、ここで何を選んで語るか。あだち充「みゆき」「タッチ」は当然として、著者は美少女とパロディを社会閉塞の時代の屈折から出てきた表現と考え、島本和彦「炎の転校生」を例に出します。この部分、あまりにあっさり流されていて惜しい。パロディの流行は確かに著者のいうとおり熱血を許さない社会閉塞の結果でしょうが、美少女=恋愛マンガもそうなのか。もっと読みたい部分です。

 このあとアニメの話。「うる星やつら」「DAICON III オープニングアニメ」「超時空要塞マクロス」そして宮崎駿と富野由悠季。

 第3章「変貌していく美少女」第4章「美少女という問題」になると「『見る』ポルノグラフィ」「ただ見るだけの存在」「視線としての私」「箱男化」という言葉が頻発するようになります。これまでの歴史認識に立って現代の状況を分析する章ですが、このあたりわかりにくいんですよう。著者の主張はわたしには以下のように思われます。

 (1)まず「オヤジ的お色気コード」からラブコメやロリコンへの変化がおこった。男性は70年代少女マンガを読むことで無意識のフェミニズム的偽装を獲得し、女性の内面をわかってあげようとする存在になった。(2)しかし男性が「見る」行為はやはり暴力的なものである。(3)いっぽう、80年代後半少女マンガが崩壊し、少女の心理描写はなされなくなり、男性は少女の内面を入手できなくなる。(4)その結果、現在、人間じゃない「キャラクター」に対しての視線の暴力性が過激に解放されている。

 上記あたりの要約であってますか? 「美少女の現代史」は新書なんで、残念ながら書かれているボリュームが少ない。作品や歴史を語る前半はともかく、第3章以後の考察部分はもっと詳しく知りたい部分です。とくにわたしの要約の(3)の部分、この部分の記載が最も少ないんですが、これってあれですか、やおいやボーイズラブによって腐女子が外に対して自分を語らず、空想と仲間内の輪の中で自閉してるっていう意味ですか。うーむムズカシイなあ。いい本なんだけど。

 というわけで、わたしの中では「萌え」をまだ理解できてません。阿島俊「漫画同人誌エトセトラ'82-'98 状況論とレビューで読むおたく史」というぶ厚い本を手に入れましたので、これを読みながらもっと考えてみますね。

 あとひとつ、著者ササキバラ・ゴウは少年キャプテンの編集長だったそうですが、同誌に連載してた島本和彦「逆境ナイン」に登場して「それはそれ、これはこれ」とか言ってる産休教師、サカキバラ・ゴウと、どのようなご関係が。(2004/8/17/火〜8/18/水)


「マンガ産業論」読みました

 中野晴行「マンガ産業論」、あちこちのサイトで必読、必読と書かれているわけですから読まんわけにはいかんでしょ。というわけで読みましたぞ。造本がねー。ソフトカバーで字だけの表紙デザイン。1600円でまずベストセラーになることはない(であろう)本ですからしょうがないのかなあ。ちょと悲しい。

 中野晴行のマンガ関連著作としては「手塚治虫と路地裏のマンガたち」「手塚治虫のタカラヅカ」に続く第3作。とくに大阪の赤本マンガ・貸本マンガの歴史を追った「手塚治虫と路地裏のマンガたち」は中央の出版社とは違うマンガの流通を取材したもので、これが本書執筆のきっかけになったんじゃないか。

 文化としてのマンガでなく、産業としてのマンガを語ります。第一部「マンガ産業の基本的構造」、第二部「マンガ産業の三十年」、第三部「マンガ産業のあしたはどっちだ」。第一部で、なぜマンガが戦後急成長し、大人がマンガを読む不思議の国・日本ができたのかを考察。この回答はこれまでたいてい「日本には手塚治虫がいたから」ですまされてきたのですが、著者は戦後ベビー・ブーマーの存在と高度成長期の消費行動の変化がマンガ市場を成長させてきたとして、「マンガ市場膨らむゴム・ボール説」をとなえます。つまりこの年代の読者の成長に合わせて、マンガ雑誌をつぎつぎ作ってきた結果がマンガ産業の歴史。そしてTVアニメとマーチャンダイジングがマンガ産業を巨大にした。

 新しいのは読者と消費者を分けた考え方です。読者は子供。でもマンガを買うのは親。この関係が続く限り、ある年齢以上になるとマンガ離れがおこる。戦後日本で子供のマンガ離れがおこらなかったのは、経済成長と社会の変化で子供自身が消費者となったから。いやこれは面白い。誰が金を持ってるのか、消費者が誰かを生産者は常に考えているはずですが、マンガ評論でこれが語られたのは初めてでしょう。

 第二部では1970年代、1980年代、1990年代に分けて産業から見たマンガ史。1970年代、1980年代はマンガの成長期ですし、今まで他で語られてきたことと重なり、固有名詞と数字が続いてややキツイ。ここでマンガ産業が巨大化するのは、前述の「ゴム・ボール説」のとおりベビー・ブーマー世代の年齢上昇と後続の若年読者が続いてきたから。1990年代になってマンガ産業が凋落に転じる部分の記述は刺激的です。ここでは情報の消費という言葉が使われます。「マンガが売れていたのはマンガそのものだけが売れていたのではなく、マンガそのものが売れた上に、情報として消費された分が上乗せされていたのだ」

 この層はヒット商品がなくなればすぐに手を引き、他に移る。マンガ以外にも消費しなければならない情報は、コンピューター・ケータイ・ゲーム・アニメなど山のようにあるわけですから。著者は「売れたことも売れなくなったことも根は同じ」であると言います。マンガ市場の構造的な問題点のためにマンガは売れなくなっている。決してブック・オフのような新古書店やマンガ喫茶のせいではないぞと。

 第三部は今後への提言の部分です。ここからは多岐にわたっていて要約がむずかしい。竹熊健太郎は「マンガ原稿料はなぜ安いのか?」で「描きおろし単行本の復権」を主張していましたが、中野晴行は「核となっている雑誌が元気にならないと」と逆に雑誌の重要性を言います。また赤本や貸本のような第二の市場が欲しいとも。みんな日本のマンガ産業(=文化)の将来に対する危機感を持っての提言です。ベビー・ブーマー世代はもうじき老年に入るわけで、そのとき、マンガを購買し読む習慣が残っているかというのが著者の注目点です。わたしとしては、それより年少の読者が高度になりすぎたマンガ表現についていけず、マンガを読む能力がなくなりつつある、という指摘にぞっとしますが。ああ、上も下もキビシイなあ。

 平易なわかりやすい文章で、数字の多さはしょうがない、というかこれこそ必要な部分。ただ固有名詞も多いんですよね。1990年代以降の記述にはわたしが知らない作家、雑誌もいっぱい出てきます。この点は読者を選ぶかもしれません。たとえば、手塚治虫の功績は映画的手法の採用よりも複雑な物語の導入にある、という文章もあまりにあっさりしていて、他のいろんな人の論を合わせて読まないと意味が通じにくいんじゃないか。水野良太郎の本書の書評伊藤剛に批判されてましたが、水野良太郎は読んでないんじゃなくて、自分に意味がわかる部分だけをつなげていったらああいう論旨不明の文章になっちゃたんでしょう。

 いろんな人が言うように確かに必読の書だと思います。第三部にはまだ結論が出ていないことが書いてあります。10年後にはどんな結果が出ているでしょうか。(2004/8/11/水)