北京五輪で金メダルを獲得した女子ソフトボールだが、エースの上野由岐子投手に連投させる監督・コーチら指導者と、それを美談とするマスメディアには疑問を感じた。こうした、いかにも日本的なスポーツ根性物語を良しとする風土は、日本のスポーツ界が世界レベルに達する障害にしかならないだろう。
8月20日に行われた北京オリンピック、対米国戦での上野由岐子投手。(Afro)
「北京オリンピック」という祭りの喧噪が、少し騒がしく感じ始めてきた開催13日目の8月20日のこと。
時々、テレビを付けると、ソフトボール中継ばかりが目についた。何故か、昼間から夜遅くまで、エースの上野由岐子の投球ばかりが映っていた。再放送かと思えば、「ライブ」とある。呆れて、途中で見るのを止めてしまった。
後で結果を聞けば、アメリカとの準決勝で、延長9回を投げ抜き、最後にホームランを打たれて敗れたものの、次のオーストラリア戦で今度はオーストラリア相手に延長12回をひとりで投げ抜き、4−3でサヨナラ勝ちしたそうだ。このことで、浮かれたキャスターは、自分のことのように大騒ぎだ。それにしても、この1日で行われた2試合21回で、上野が投げた318球をどう評価したらいいのか(翌日の決勝戦まで含めれば413球投げている)。
一度敗れたアメリカと決勝を行うというのも、承服しがたい奇妙なルールだ。だが、もっと変なのは、318球をひとりで投げさせるというソフトボール首脳陣の無神経だ。また日本のマスメディアが、この異常とも思える連投に好意的な報道をしているのも、いかにも日本的なスポーツ根性物語のようで、嫌な感覚がした。
交代する投手がいないはずはない。このひとりの才能に頼り切る無神経な采配を見ながら、高校野球のあえて真夏に開催される高校野球と同じ感性が働いているな、とつくづく感じた。
これは日本だけで許される感性だ。アメリカ人は、間違いなく「クレージー」とか「カミカゼ的」と感じるだろう。
今でも、高校野球で松坂が、連日200球近くを連投して、横浜高校を全国優勝に導いたことは高校球史に残る美談のように語られる。もしもこれで松坂の肩がどうにかなり、せっかくの逸材が、このためにダメになるようなことがあっても、日本の野球ファンは、あれはあれで良かったというのであろうか。
その松坂が、アメリカの大リーグに入り、徹底的に球数管理をされ、100球以上になると、5回だろうが、6回だろうが、たちまち松坂は代えられてしまうのである。
これはアメリカの文化と日本文化の違いと言って良い。まずアメリカは、投手の肩を消耗品と考える。そこで必要以上のボールを投げると、投手寿命を短くすることに通じるため、コーチ、監督は、投手の球数を計算し、ある種機械的に、どんなに良い投球をしていても、完封が目前だ、とかノーヒットノーランだ、というケースを除いて、情け容赦なく代えてしまうのである。
一方日本の考え方は、ひとりの才能ある人間が出ると、その人間にオンブに抱っこで頼り切る嫌いがある。またエースと言われるような人間は、練習などで、ひとりで投げ抜く根性と責任感を、刷り込まれて、そのような心情を自然に持つに至ってしまうのである。
はっきり言えば、今回の上野投手の318球を、美談と見るような文化である限り、(結果的に、今回は金メダルをとったが)ソフトボールに限らず、ベースボールに限らず、日本がアメリカに勝ち続けることは不可能である。このことを強く主張したい。
そもそも、ソフトや野球は団体競技というスポーツである。これは哲学でもなければ、根性比べでもない。もっと言えば、「318球の日本的美談」は、他国の人間(特にアメリカ人)から見れば、まったく理解の出来ないクレージーな采配としか、映らないことを肝に銘ずべきだ。そしてこのような偏狭な根性ものは、世界最高のレベルに到達するために無用の障害を作っていると言いたい。もっと指導者も、マスメディアも、多様性を持った視点で物事を判断してもらいたいものだ。
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