湯川秀樹の遺伝子(6)戦局急迫、綱渡りの核研究

 
              
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湯川秀樹の遺伝子(6)戦局急迫、綱渡りの核研究

2008/03/03配信

京都帝大時代の荒勝文策教授(左)と木村毅一助教授(中)
京都帝大時代の荒勝文策教授(左)と木村毅一助教授(中)

1936年8月、旧台北帝大教授・荒勝文策は台湾で矢継ぎ早に発表した原子核研究の成果が認められ、旧京都帝大教授に任命された。物理学第4講座教授・石野又吉の後任として13年ぶりの古巣復帰だった。

 物理学者の独創がきらめくのは20―30代といわれる。荒勝はこのとき46歳。だが物質を形づくる原子の実像が日々解明されつつあった当時、その波頭に立つ荒勝の情熱と覇気は衰えを知らなかった。

 着任早々、日本学術振興会の資金を得て、台湾時代と同型ながら能力(加速電圧)を3倍に増強した新型コッククロフト・ウォルトン加速器を建造する。研究の照準もリチウムなどの軽い元素から、ウランなど重元素の核分裂反応に移し、再び世界が注目する成果を上げていった。

 昭和初期の京都帝大物理学教室は仁科芳雄率いる理化学研究所に押され、精彩を欠いていた。それが荒勝の復帰でにわかに活気づく。39年5月、大阪帝大講師時代に「中間子論」を発表した湯川秀樹(当時32歳)を教授に呼び戻す。物理学教室は北部構内に新築された建物に移り、荒勝研は1階に、湯川研は2階に居を構えた。

 42年ごろ、荒勝は野心的な計画を決断する。その10年前、米カリフォルニア大の若き物理学者E・ローレンスらが発明した円形加速器「サイクロトロン」の建設である。

●タイミング最悪

 理研の仁科はこの加速器が原子核研究に必須の道具になるとみて素早く技術を導入し、37年に小規模ながら世界2番目のサイクロトロン(磁極径65センチ)を建造。2号機開発にも着手する。大阪帝大教授の菊池正士も中型装置(同71センチ)を試作していた。

 荒勝は磁極径100センチの大型サイクロトロンの青写真を描き、文部省の了承を得た。心臓部の電磁石部分だけで重量75トン。コッククロフト型より格段に大きな加速器である。

 しかし、建設のタイミングは最悪だった。泥沼化した日中戦争は太平洋戦争に拡大し、荒勝の計画に暗い影を落とし始めていた。

 新型加速器は電磁石に使う純鉄や銅線、コンクリートなど大量の資材が必要。だが主要物資が配給制となり、軍需省やメーカーとの調達交渉は綱渡りが続く。

 43年秋、文系学生の学徒出陣が始まり、荒勝研の学生も卒業と同時に召集されていく。台湾時代から右腕と頼る植村吉明(当時講師)も戦場に送られ、研究室は助手数人と3年生5、6人だけとなった。

 荒勝が旧海軍から原爆研究を受託したのはこの前後だ。当時鳥取農林専門学校(鳥取大の前身)の学生だった三男の豊(80=甲南大名誉教授)は帰省の折、荒勝からこんな話を聞いた。

●筋通した海軍

 「ある日、わが家に陸軍の将校2人が来て、『陸軍大臣(東条英機首相兼陸相)命令』なる書状を机上に示した。仁科博士に協力して原爆研究に従事せよ、と書いてある。あまりに高飛車なので、紙を突っ返して言ってやった。『私は陸軍大臣に命令されるいわれはない』。すると将校2人は『それで済むと思うなよ』と捨てぜりふを残し、帰った」

 「しばらくたったある日、今度は海軍の将校が京都帝大の羽田亨総長を訪ね、原爆研究への協力を頼んだ。総長から話が下りてきたから、今度は引き受けた。海軍は物事を頼む筋をわきまえている」

 荒勝は原爆研究を引き受ける見返りに、加速器建造で海軍の支援を取り付ける。京都帝大に海軍の出先として「技術員養成所」を設け、技官や学生らをそこで働かせて軍需工場に動員されないようにした。

 戦局が風雲急を告げる44年秋ごろ、豊は父の書斎で奇妙な物を目撃した。「戦闘機用だといわれたが、機関砲の砲弾や弾帯がごろごろ転がっていてね。大学で極秘に研究していたらしい」

 弾帯とは、弾道が曲がらぬように砲弾の底にはめる銅製の帯のことだ。ライフル銃と同様、砲身内側に彫ったらせん状の溝に帯をかみ合わせて、砲弾を旋回運動させる。資材不足で銅が底をつき、海軍が“代用金属”の開発を荒勝に指示したのだという。

 荒勝は手当たり次第に十数種類の金属粉を混ぜて焼き固め、海軍に送って実射試験をさせていた。荒勝は豊にこんな逸話を語っている。「実射では、最初は発射と同時に粉々。次のは硬すぎて、砲身が傷つくというので駄目だった。金属粉の粒径や温度、圧力を変えたら相当よくなった」

 戦時体制下で思うように資材が集まらず、部下が召集され、代用金属の研究にも忙殺される。敗戦の予感も胸に秘め、それでも荒勝はサイクロトロン建造に突き進んでいった。=敬称略

●陸軍も荒勝氏に協力要請?

 荒勝文策教授は生前、原爆研究を引き受けた経緯について「海軍から直接ではなく、理学部化学教室の堀場信吉教授(堀場雅夫・堀場製作所最高顧問の父)を通じて話があり、その後上京して正式に依頼された」と述べている。豊氏の「京都帝大総長から父に話が下りた」という証言はその状況とつじつまが合う。

 一方、「陸軍大臣の命令を断った」という逸話は、豊氏が初めて明らかにした。理研の仁科芳雄氏らが進めた陸軍の原爆研究「2号研究」には荒勝研OBの技術将校・佐治淑夫氏(後に東大助教授)が中心メンバーとして加わったことが分かっている。陸軍が荒勝教授に協力を要請したとしても不自然ではない。
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