http://d.hatena.ne.jp/thir/20080827/p1
ゆとりで学力低下したか?って話なんだけど結果的に見ればしていると思う。ただ学力低下に関して何を持って低下したのかというのは色々と場合わけできるので、単純に知識がないからというわけでもないし、応用力がないからというわけでもないとは思う。偏差値などは同学年の同じ(多少一、二年のぶれは存在するが)教育を受けてきた人の中での位置しか示さないので偏差値が変化していないから学力が低下していないというのは早計だろう。
塾講をやめてからはめっきり教えることが少なくなったので最近がどうなのかはよくわからないが、学部の三年生のTAをしていたのでふーむと思うことは多少ある。僕自身学部の成績はかなりよくないほうだったので人のことは言えないのだが、十数人の学部三年生のTAをしていると素の頭の回転の速さの違いというのはわかるし,どの程度の知識量かというのもだいたい推し量れるようになる。しかし回転が速い子がよくできるとは限らないのが不思議だ。塾だとそういうことはなくておおよそ回転の速さと出来は比例しているのだが、大学ではそうではない。
さて、ではどこで差が出ているのか。
まず一つ目は知識が足りないタイプ。知らないことが多すぎるので何をしたらよいかわからない。きいてみたら大体準必修にあたる教科を落としている。大学一年時からの知識から欠けているひとから専門にはいってからの知識が抜けている人まで程度はさまざまだが、その場で聞いたことは理解できるし、その場で使えるようになるけれども、絶対量が足りないので足りない領域に来るとそこから動けなくなる。質問などは割りとポイントをきちんと押さえて聞いてくれるので聞かれるほうとしては楽。
僕もこの手のタイプだった(しかし一年次から欠けているので付け焼刃的な知識を得てもさっぱり運用できなかったが)が、体系的に自分で総復習(院試がちょうどいい機会になる)すればまぁなんとかなr…はず。
これがゆとり教育と何の関係があるんだって話なんですが(ただの怠慢ちゃうんかという)、まぁ怠慢な部分もあるが、高校で履修する範囲を大学の先生がよくわかっていないということも一因ではある。当然知っているだろうと必修の微積分、線形代数などをかなり飛ばされたんだけれども結構やってないこと多かったんだよなーという。なにそれ?から始まって追いつけないまま授業が進み結局最後の試験はシケプリに頼ったり解法を暗記していったりとかなって終わったら忘れてしまう。道具になってない。あの段差がもう少し低ければ…まぁ言い訳かもしれませんが。
ただ、大学の先生にきちんと伝達されてないなぁということは感じるわけで、講師もわからないんだよなーということはいっててどうにかならんのかとは思っていた。今になればわかるけれども、講師も少ない研究の時間を削って授業やって会議や学会やらにおわれながら追い立てられるように研究やってるし、よくあんなバイタリティがあるよなぁと思う。なのでもう少し丁寧にっていうのも酷なんだろうなと思ったりはする。成果出せないと研究費が出てこないしなあ。研究が最優先なはずなのに雑用が多すぎて本当に大変そうだ。いくら永久職のポストが得られたといっても優秀な人材をそういう雑用で忙殺するのはどうなのと思う。講師は講師で授業を最優先する講師というポストが存在すればまた違うんではないのか。でもないのかなぁ。わからないけれども。大学の先生は忙しすぎる。
二つ目は体系化が出来ていないタイプ。
この手のタイプはそれぞれ学習した科目に関してはきちんと理解できているしテストで点をとることもできるが、あの教科とこの教科の互換性がない。必要なところで必要な知識を自分がそうだと思っている領域以外から引き出してこれない。こういうタイプはわりと中高生あたりから顕著化してくるのだけれども、問題としては現れにくい。うちの妹がそのタイプだが、「今は物理をやっているのに何で数学がでてくるの?」という疑問をまず呈する。こちらとしては冗談で言ってると思うかもしくは意味がわからなくてえ?となるんだけれども能力はそれなりに高いのに知識の流用の仕方を知らないというのは割と今後困るんじゃないかなぁと思ったりする。訓練次第でどうとでもなりますが。
教えててわりと楽しいタイプではある。方程式を解くように、あるいは集合から集合への射影をしてみせるとおお!という反応が返ってくるので楽しい。しかし、そういう体験を今までしてこなかったのかなぁ、大学三年くらいになったらそろそろ自分で出来るようになっていてほしいものだが、とちょっと思ったりはした。まぁでも難しいか。僕も今でもおお!こんなところで!今まで気づかなかった!と思うことが結構あるので、自分でもしかして?と日々思う訓練をしとかないとだめですね。
今の大学三年生はゆとり世代(広義で捉えれば僕もゆとり世代なのだが)なので、このおお!と思う閾値が比較的低いような?と思うことがある。たまに高校レベルの知識まで戻らないといけなかったりするので(そしてそれを使えるようになっていなかったりする場合もあるので)あー時間数足りなかったんだろうなぁと思ったり。
最後が、うーん一概に言うのが難しいんだが敢えて言うなら、キャパシティが小さいタイプ。知識などを獲得する前の準備が出来てないというか。
一気に知識なりその知識の使い方なりを言われるとフリーズしてしまうという。これは本当にゆとり教育といってキャパシティを広げてこなかった弊害だと思う。いやねぇ、小中学校ではいつも暇をもてあましていましたよ。てんぱるっつーことがなかった。んで僕は中学生のとき一瞬だけ塾にいったんだが、そこでやる量の多さに目を回しましてですね。キャパシティが全然小さかったのです。情報がはいってこなかった。びっくりした。途中から日本語が理解できなくなるという現象をはじめて知った。で、高校に入って、そのくらいの速度の授業なんだろうと思ったら全くそんなことはなくてのんびりとしていて拍子抜けした。その後予備校でもっかいびっくりすることになり、大学はそのつもりでいったら最初拍子抜けして余裕こいてたら、いつの間にか置いていかれたりとかしたので何ともいえないんですけれども。もともと僕もキャパシティがあまりないんだろうなぁ。たぶん。
かなり大目の情報量でも毎日流し込まれていれば取捨選択できるようになる。流せるようにもなるし、ポイントを押さえることもできるようになるし、必要なものと必要でないものを一瞬で見分けることも出来るようになる。でもその経験をしてきていない。じっくりと比較的満足するまでひとつの問題に取り組むことが出来るというのはよいことではあるけれども、キャパシティがまだそれほど広がってない年齢においては可能性を狭めるひとつの原因になる。
つうか前にちょうできる小学四年生の子を見ていたことがあるのだが,最初は一対一で見ていたら30分くらいして突然集中力が切れたらしく「先生やばいよ!頭はいんない!」とか言ってた。でもそのうち慣れてきて集中できる時間が延び、結局三年くらい見たんだけど年齢が上がったこともあるが80分しっかりと緩急はつけつつだが集中し続けていられるようになったからなぁ,あの子は。子供の適応力は大人が思ってるそれよりずっとある。
実験をざっと説明してじゃぁとりあえずここまでやったら呼んでくださいってしばらく放置しておくんだけれども(ある程度時間がたったら見に行く)、わからないところで躓いたらその場でいつまでも試行錯誤している人がいる。あるいはざっと説明されたことを覚えていられなくてなんだったっけといつまでも考えていたりする。まぁそれなりに能力はある人たちなのでどうにかこうにか進めはしているんだけれども、そうやっていつまでも考えてないで知ってる人に聞けと。メモを取れと。最初に説明されたときにフリーズしてもいいから、フリーズしたなと思ったら聞き直してくれと。キャパシティが小さいのは仕方がないので(その後はその個人に対応して説明の量や区切りなどを設定するが)がんばりましたを第一目標にしないでくれ。がんばりましたでも出来ませんでしたをいつまでもやってたらいかんのです。そして出来れば自分でキャパシティを広げるように努力はしたほうがよいと思う。ということを思っていた。たぶん世間的標準から見てもかなり小さいのではないかと思うので。僕もそんなに大きくないので人のことは言えないのだが、あれはキャパシティの問題なのかなぁ、集中力なのかなぁ。よくわからんけれどもそういうことを思ったりする。
まーこれも訓練次第でいくらかはどうにかなるんだろうけれどもどちらかというと後手にまわるか補償の方法を考える方向でいかないと不都合は出てくるだろうなぁ。
結果的にみてこの3タイプはそれぞれの足りない部分において世間的に求められる学力レベルというのを満たせていない場合があるのではないかと思う。これが学力低下と呼ばれていて、ゆとり教育が多かれ少なかれかかわっている。関係ない人は関係ないんですけどね。たぶん。ただトップがかわらなくても底が下がっているので分布としては分散が大きくなっているのではないかと思います。その分布のどこに位置するかはたぶん個人の能力や集中力やそういうもので決まってくるんだろうなぁと言う印象。そして平均値は下がり目になる、のかな。イメージ的に。底が上がれば分散も小さくなるので個人の資質というのは見えにくくなるし平均値も上がる。そういうことなんだろうなぁ。
追記:
私は何も考えずに与えられてしまうからだって思ってた。「もっと学校で、テクニックを教えてくれればよかったのに」という記事がその典型で、自分で何が足りないかを探すってことをしていないからだ、と。
まなめはうす
あーそれもあるなぁ。~してくれないという物言いは僕の世代でも結構いう人がいるので見落としてた。でもこれもねぇ、教えるほうに余裕があると黙ってる時間が多いのでついついあれやこれやと口を出してしまうっていうのもあると思うんだよね。そのほうが教えるほうも楽だし、教わるほうも楽だし、しかも時間はあるし、教える方と教えられるほうの比率も1に近いし、で。
独創性を最初から求められてるのでとりあえず型どおりにやるとかそういうことしない(やってはいけないと思っている場合もある)し、人数少ないからサンプルも少なくて比較も出来ないし、となると最初から全部わかってる人に提示してもらうのが最適解なんだよな。という。自分に何が足りないかを探すという概念自体がないというか。そこのレベルにまで達していないというか。基準がそもそもないんじゃないかなぁ。ここまであればとりあえず足りているという基準が。100%あるか、そうではないかのどちらかしかない。という気がする。
補記