一時的につくったブログです。
唐突にGO!GO!7188にはまった。とても声が好みです。
そう、おすすめってことで暁鐘に描いた『天眷御伽草子』読み返したら、え、やばい、何度でも泣けます(笑)。あ、わたしあと、めちゃくちゃ影響受けてるなぁ、と思った。ちょっとやばいんじゃない。もしかしたら、傍から見たら痛々しいと言われてしまうまでに、わたしは追随をしているような気がします。畜生、これがリスペクトってもんだぜ。大好き。冬季先生が大好き。
続き、とある本について。
いきなりですが、アインシュタインって、とにかく言うことが凄いですよね。
やっぱり、人の残す言葉は凄いと思う。偉人になりたいと願うのではなく、凄い言葉を残すのでもなく、せめて私の人生に恥じぬ言葉を紡げるひとになりたい。
イタリア文学はまったー、って言ってるレベッカです。そのうちの一冊をご紹介します。
イニャツィオ・シローネ著 斎藤ゆかり訳(1955、2000白水社) 『葡萄酒とパン』です。
ファシスト政権下のイタリアの田舎が舞台で、社会批判色の強いお話です。スイスに亡命しているときに手がけた『パンと葡萄酒』という作品もあって、それと登場人物等はほぼ変わらないけれど、この作品はイタリアに戻ってから手がけ直した作品で、シローネが、「同じタイトルをつけると旧作と混同される恐れがあるし、かといってまったく新しいタイトルをつけたら登場人物や大筋がほとんど変わらないからインチキになってしまう」と考えて、『葡萄酒とパン』となったそうだ。
個人的には、訳者の方の後書き等を読んで、『パンと葡萄酒』の方が読んでみたいなぁという印象を受けた。『葡萄酒とパン』はとかく淡々としているのがわたしの好みだったのだけど、『パンと葡萄酒』はより物語ちっくというかメロドラマというか、かなり熱い感じらしい。情状酌量の余地のないような悪党とかつまるところそういう奴が出てくるような。ある種面白いお話かもしれない。『葡萄酒とパン』は登場人物の誰もが人間味を帯びているために、一体この舞台において「悪」が何なのか、という観点から読むことは多分出来ないと思う。『葡萄酒とパン』は主題一直線で、やはりというか落ち着いて読める感じ。だけれども、『パンと葡萄酒』は偶発的なエピソードや政治の議論等がはいっていた、というにつけ、もしかしたら粗野な部分の目立つ作品かもしれないけど、可能だったら読んでみたい。・・・翻訳本、がどこかにあるかな。それとも、原本だったら手にはいるかな。・・・・・・言語をみにつけないとね(笑)。本を外国語で読むのって何というか、驚異的なことだと思います。
作中にこんなくだりがあります。
「・・・・・・宿屋と木の橋に挟まれた空き地では、少年たちが行進や予備訓練を繰り返していた。ところが、ある日、あまり頻繁に変わるので皆が文句を言っていた「敵」の定義をめぐり、その子たちのあいだで、口喧嘩が起きたのである。そして三人の少年が一同を代表してパオロ神父の部屋を訪れ、神父に質問した。
「今度の敵は誰なんですか?」
「敵?何の話だい?」神父はびっくりして問い返した。
「先祖代々の敵です」少年の一人が言った。
神父は、本当なのか、ふりを装っているだけなのか、キツネにつままれたような顔をした。
「演習では、二つのグループに分かれるんです」先ほどの子が説明した。「片方はイタリア軍でね、もう片方は先祖代々の敵なんです。学校の先生はずっと、その敵はフランスとユーゴスラヴィアだって言っていたんですが、そのうちそれがドイツになって、そのあと日本に変わったんです。ところが、今朝、また先生が『皆さん、先祖代々の敵は、今度はイギリスになりました』って言ったんです。だけど教科書には《イギリスとイタリアの何世紀にもわたる親交》っていう章がちゃんとあるんですよ。もう何がなんだかわかんなくなっちゃって。いったいどっちがまちがっているんですか?先生ですか、教科書ですか?」
「教科書だね」パオロ神父は答えた。「教科書は去年印刷されたものだからね、書いてあることが古くなっちゃったんだよ」
「なるほどね。じゃ、先祖代々の敵、イギリスをやっつけることにしよう!」少年たちは言った。
「だけどね、イギリス人っていうのは陸じゃなくて水の上で戦うんだよ」神父はその子たちに忠告してやった。かくして、少年たちは小川で戦いを繰り広げることになった。パオロ神父はその模様を窓から観覧した。新しい先祖代々の敵は瞬く間に撃退された。が、イタリア軍にとってもずぶ濡れの凱旋だった。・・・・・・」
皮肉とユーモアをきかせつつ、決して「やりすぎない」と言えばいいのだろうか。こういうふうに小説を書くひとになりたいといつも思う部分です。わたしはまだまだ若いから難しいといえばそうだけれど。面白い、ものが書きたい。こけおどしではなくて、骨に響くような。
昨日、とある理由で世界地図を眺め、EUに加盟している国のリストを眺めながら、思ったこと。
わたしは何かを覚えるのが一概に嫌いではないけど、それは一体意味のあることだろうか。ふと、思った。いろんなことを覚えるが、今のことを知っているだろうか。知ることに、何の意味があるだろうか。意味があろうがなかろうが私は知りたがるけど。いつか何かの役に立つだろうか。錆びるだけの知識が欲しいわけではない。出来れば常にフルに使っていたいのだけど。
何事も、永遠は有り得ないのは当然だと思っていたけど、何故当然なのか、私はそれも知らない。ずっと続くものってあるだろうか。ある日何事もなかったようになくなってしまうことがある次元での知識が、無駄とは思わない。ただ、何の役に立つんだろう。どう役立てればいいだろう。
住み分け、っていえばいいんだろうか。よく分からないが、住み分けはかなり重要視されている気がする。苦しいのは、その境目での話だ。敷地と敷地の境目が一番苦しい。何処に身を委ねればいいか分からないとき。
人間は、皆違うし、どうしようもなく違う、それを互いに認め合うべきだけど、どれだけかかっても、必ず、その中に誰もにあてはまる人類普遍が見つかるはずだと、意気込んで高校の先生に言ったことがある。
つか、今年の六月だよ。あのときはそうっとうキテたな(笑)。いや、苦しかったんだよ。言ってる本人が、人類普遍の遠い光の点すら見つけられないで、どうにか自分自身に何らかの風穴をぶちあけるために言葉を吐いて、吐いて、吐いて自分の言葉に絡み取られて身動きがとれなかったから。でも、もしかしたら今の方がずっと苦しいかもしれない。
人類普遍は一つかもしれないけれど、物語は一つじゃない。あるひとの、まったく他愛のない朝の風景にも、たとえば、人類普遍を見つけるかも。
文学論を一緒にした、男友達と、話すのをやめようと、思った。
彼は聞いてくれないだろうと正直思った。それは彼が悪いわけではなく、確かに、彼に私の話を聞く義務はないから。ただ、押しつけたいわけでも受け入れて欲しいわけでもないのに、それでも言わねばならぬと確かに理性で判断することがある。
ある人たちに元気付けられ、結局約束を取り付けて、彼は、聞いてくれました。ごめんよみくびって(笑)。でも、聞いてもらえてよかった。本当に、よかった。
彼のことは、それこそわたしはオンオフ問わず容赦なく言ってやるかもしれませんが、それくらい信頼してる、っていうのはあります。
もしかしたらネットよりもわたしはオフの方がよっぽどどぎつい人間かもしれない。まぁ、さすがにネット上だったら発言には気をつかってますよ。オフのわたしはよっぽど容赦ない。だってこの身はどうしようもないもの。換えもない。その魂を、受け取ってくれるからこそ、文学論も出来るというものでしょうよ。彼は・・・しかし、いざ電話で喋ったら結局簡単に引き下がるので、なんだかこっちも調子が狂いますが。・・・あれですかねぇ、反発して喧嘩になったらそれこそ目も当てられないからですかね。冗談じゃないよね(笑)、私のことはどう思ってもいいけど、お前の文学はそんなに要領よくどうにかなっちゃうもんなのかい、と・・・否、私の大切な友人が、そんな適当な人なわけがない、と信じてみますけど。だからこそ、私の言葉を「認めて」くれたんだと、あつかましくも、喜びたいと。そう、思った。七月。
著者シローネが、読者にむけた言葉があります。
「・・・・・・年を重ねるにしたがって、私はあらゆるかたちのプロパガンダに対しても、ますます嫌悪感を覚えるようになった。芸術家の《アンガージュマン》をめぐって散々並べられた御託のうち、いったい何が残ったと言えるだろう?真に考慮に値する唯一の《アンガージュマン》は、芸術家が個人的な使命から生み出すものである。そもそも説得力を持たせるために芸術の尊厳を犠牲にするのが、説得力そのものを犠牲にしないかぎりは不可能なことは、万人が知るところだ。一方文体については、簡潔な語り口を心がけることが最高の知恵だと私には思われる。
はやったかと思う間もなく廃りつつある昨今の文学的な流行に、わたしが少しも適応しようとしなかったのは、片意地からではない。一人の作家がどのくらい現代的か、その人の用いる技巧的な意匠をもとに判断するのは愚かしいと考えるからだ。形式的な策略で文学を刷新できるものだと思いこむのは、昔から雄弁家たちが抱いてきた幻想である。大勢の悪趣味な三文文士ばかりでなく才能ある作家までが夢中になっている性的描写の流行については、なおのことだ。私に言わせれば、自由の名においてエロティシズムの文学的商品化を正当化することほど、でたらめな話はない。それが検閲やその他の官僚的な処置によって駆逐できるものだとは思わないものの、人生に対する切実で深い感情が抱かせる嫌悪感ゆえにそう信じるのである。」
おんなじ本を何度も書き直して一生を送れたらどれだけ幸せだろうと、彼は言った。他の本はすべてその破片に過ぎないような、たった一つの本。作家一人一人に宿っている本を、と。
これは。茨の道だ。と、思う。
シローネの言葉を見てもそう思うのだけど、わたしからするとわたしのことだ。
ただ、わたしの危惧は、どちらかといえば、シローネが言っているのに近い。わたしは、人の個性が駄目だとか、人の感性が駄目だとか、人がよいと思っているものが気に入らないとか、そんなどうでもいい個人的感情で「批判」を持ち出すような図太く可愛いお嬢さんではない。人の言葉を借りたくなかったし、日記としてしか書きたくなかったけど、どちらかというと、どうしても言いたいと思って言っているだけに、もっと本質的なことに踏み込む。こういうことを考えるのは、わたしだけではないんじゃなかろうか、とは思う。ただ、当然なんだけど、わたしよりも深い視野で、何かを見極めるひとはいるかもしれないし、あくまで今のわたしは世の中とか文壇、というよりは最終的に自分の身の置き場のことしか考えてないから、だからきっと今にも消滅しうる空気の上でせいぜい心の欠片を吐き出すくらいだろうけど。
上のシローネの言葉が、「エロは低俗だ」とかそんなもともこもないことを言っているわけではないことは、さすがに誰しもに分かると思うのだけど、例えば私がシローネのようにここで言っても、かなり誤解されそうだよなぁ、とは正直思う。そもそも何かを全否定することで批判が成立したら、とっくのとうに世界に悩みなんか存在しないと思う。
「自由の名において」、という言葉がわたしにとってはとても印象的な言葉でした。自由の名において、正当化されるものがあるという・・・確かに、自由も守られる必要があるからこそ、けっして横暴ではいけないなと思う。自由すら、守られるものなんだと。
まずいと思われるものとか、そういうものたちが、「表現の自由」によって正当化されうる。「それが検閲やその他の官僚的な処置によって駆逐できるものだとは思わない」という言葉は、個人的には印象的でした。
法律で規制出来ることだから批判する、とか、そういう『権力を盾に自分を守って成立する』ような根拠ではない。もっといえば外面的な問題ではなくて内面的な問題といえばいいんだろうか。ただ、「人生に対する切実で深い感情」が抱かせる「嫌悪感」がある。個人的には全面賛成、客観的には全面賛成とは言えないけれどでも説得力のある言葉だと思いました。自分と同じような考えを、自分を感動させてくれる作家が持っていた、ということが、わたしにはただ嬉しくてなりませんでした。
書けるようになりたい。シローネのように、書けるようになりたい。ミーハーかな、と思いながら、でもそう思った。この衝動ばっかりはどうしようもない。まだ思いだけかもしれないけれど、でもそういうふうに何かを書けるひとに、なりたいと思った。その上で、「説得力」を持って自分なりの文学への考え方も、批判も、言葉で織りなせるように。自信を、持って。
私にとって、一番『葡萄酒とパン』で好き、というか印象的なくだりがあります。
「・・・・・・「だったら、君たちはこの世の責め苦は永遠に続くものだと信じてるのかい?」神父は問いただした。「つまり、みんなの幸せを考えた法律を君たち自身が作る日が、いつかはやって来るかもしれないとは、考えないの?」
「それは、考えませんな」マガシャが答えた。「そんな幻想は全然抱かんですな」
一方、グラシャは、「おれの好きなようにできるもんなら、法律なんてもんは全部やめちまうでしょうな。すべての災いはそこから来るんだから」と言った。
「いい夢だよな」シャラップが言った。「すてきな夢だ」
「おれの好きなようにできるもんなら」とグラシャは続けた。「今ある法律を全部やめちまって、代わりに一つだけ定めてやりますぜ。イタリア人はだれでもよその国に行く権利があるっていうのを定めるんでっさ。そいつさえあれば、みんな文句を言わなくなるに決まってるもんね」
「そんな。無茶な話」とダニエーレ。「そんなことしたら、だれがこんな場所に残るもんか」
「いい夢だよな」シャラップが繰り返す。「すてきな夢だ。だけど、家畜小屋の扉をなくしちまうようなもんさ」
「さあ、飲めってば。で、こっちにもフィアスコをまわしてくれよ」マガシャが言った。
「もう空いちまったぜ。もう一本もらって来ますか?」シャラップが訊いた。
「いいや、もう遅いし、私はちょっと疲れたから」パオロ神父はそう言った。
彼は自室に戻ると、鞄の中から《貧農が政治を敬遠する理由について》と表題を記したノートを取りだして机の前に座った。そしてしばらくのあいだ、頭を抱えて考え込んだあげく、書き始めた。「おそらく、彼らが敬遠するのは、無理からぬことなのだ」」
このくだりのテンポのよさは、訳の方もすごいと思います。
情景が目に浮かぶようでした。耳に残る、といえばいいのだろうか。引用したもう少しまえから話は続いてるんですが・・・パオロ神父が、『よりよい世の中』の理想を考えないのか、ということをたずねるのに対して、農民達が自分たちの「夢物語」を語る、と言えばいいんだろうか、そういうシーンですね。
そうか、「人の望み」か、となんとなく考えたくだりです。舞台も時代背景も自分からは遠いので、共感という観点からこの作品を読まなかったけれど、作中では一番わたしの現実にはフィットしている場面でした。
この作品は、とても分かりやすいのにとても深い、なんだか不思議なお話です。
だけど日常だって確かに、難しい本よりずっと難しいことになったり、深い小説よりずっと深い精神世界を構築することを考えると、物語ってなんのためにあるのかなぁ、とかたまに考えることがあります。
起こる出来事よりは、作家の心の真実や人生が描かれているから、きっと「現実」を描けているのだろうと思う。
「自然主義はつまらないと思う」と言ったのはやっぱり文学論を交わした彼で、わたしは正反対の考えだが、でも彼のその言葉が聞けてよかったなぁ、と今は思う。
現実を、描く、本は、登場人物の誰も憎らしく思われない。
人間に対する信頼と愛を、余程感じる。愛。難しい言葉だな・・・人間を、信頼したい。信頼を、取り戻したい。信頼し直したい。
8月に入ってから、しばしば誰とも会いたくない、というか、誰にも拠り所が見いだせない、誰も信用ならない、みたいな心境にしばしばおちいることがあった。それは、具体的に誰がいやだとか誰が気にくわないということではなかった。原因はどこかにあるのだろうが、具体的な物事が気にくわないわけでもなかった。多分自分の中に答えはあるのに、見つけだせなかった。
ひとを、慈しむ力欲しいといつか願った・・・それはあくまで過去の言葉だ。だけどあの日のわたしが確かに抱いて進んだ言葉だ。今でも忘れない。あの日の日記のこと。決して忘れない。
今は、信頼したい。人間を信頼したい。そういうものを書きたい。周囲が自分に向けるベクトルより、わたしのそれが多分重要だ。そしたら、半歩かもしれないけれど、前には進めると思う。
本ってすごいなぁと思う。物語も凄いけど、やっぱり作家の言葉だって凄いんだよ。
全然関係ないけど、わたしはリボーンに同じものを感じることがあって、その傾向は、わたしは天野先生の人間に対する理解の深さかなぁ、と感じる。
いずれにせよわたしに、そういうものを呼び起こしてくれる作品が私は好きなんです。
芸術にいろんな考え方があるように、多分文壇にもいろんな考え方があるだろうと私は思う。だから、もちろん今のまま批判をすることも構わないと思うけど、もっと勉強が必要だとは、いつも思う。
一切、訓練も何もしないで絵を描くべきだという考え方のひとがいますよね。きっちりデッサンや色彩など勉強するべきだと考える人もいると思います。
対立したり閑散としたりいろいろだと思うけれど、自分なりの意識を持って文章に取り組むことは意義深いとやっぱり思います。くだらなくなったりあきたりするのも大事かも。それも含め、諦めてはいけないんだなと、思いました。
もっと誇りを持って、もっとストイックに、でももっと楽しく、自信を持って、何かを書きたいと、思いました。
あと、時間をおいて、文章を書き直すという作業も興味深いと、思った。
綿矢りささん。
彼女の作品のあの読後感がかなり好きなんですが、あと、心を揺すぶられるのがしばしば苦しい私は、彼女の淡々とした綺麗な語り口だと穏やかに読み進められるのですきなんですが、確かに、自分の人生を変えてくれるか、とか世界を変えてくれるか、とか、わたしにとってはそういう小説ではなかった。
お母さんが、わたしが買ってきた『蹴りたい背中』をとても気に入った。彼女は、絶対に背伸びをしない、と言った。19歳だったら、19歳を超えるようなものは絶対に書かないと、そう。
あまりに些細なことだ。まして中年女性のその言葉は、20歳のわたしにはあまりぴんと来ない。だけど、物凄く尊いことだ。よくよく考えたら。
沢田奈々さんが一話でツナに言ってましたが、「どう過ごしたって人生」、だと思ってみて。
私の、日々が?味気ない、味気ない、味気ない日々と考えてみて。国外に亡命したある作家がいて、私と比べて、彼とつりあうのは、私の左胸に埋め込まれているものだけに他ならない。命の重みは、絶対に誰にもはかれないんだと、本当に当たり前のことを思ったときに、どれだけ尊いことだと思う?20歳が20歳のままの物語を紡ぐことは。と、思って、だから綿矢りささんというひとを、私は尊敬する。私の人生も世界も変えてくれないし、きっと感動も与えてくれないかもしれない。しいていうなら、私は、あくまで「わたし」という読者は、その側面を心からまず尊いものと考えます。
なんだか、凄く小説が書きたい。もちろんドリームも、CPもだよ。でも、わたしの小説が、書きたい。そんな気持ちになる。
参考文献:イニャツィオ・シローネ著 斎藤ゆかり訳(1955、2000白水社) 『葡萄酒とパン』