報告書 ヒグチ・ウイルスMC−A群について (その2) VI.「急性過剰依存」という症状についての仮説 一般的な流感ウイルスに対しても、脳が発熱による抵抗を行う場合には感染者が意識の混濁、全身倦怠感といった症状を見せる。 しかしヒグチ・ウイルスMC−A群に特徴的なのは、急速に進展する、感染者の批判的判断力の低下、異常行動である。 これらを説明する「急性過剰依存」という症状が、いかなるメカニズムで起こっているのかについては、専門家の間でも見解が分かれている。 その中で現在注目されているのは、ウイルスの脳内での活動活発化と、哺乳類の自己防衛本能・社会的習性とを合わせて説明しようとする、「自己決定プロセスの委託仮説」である。 a) ウイルスの増殖活動への抵抗が起こす、脳内情報の混乱 感染者の脳内に侵入したヒグチ・ウイルスは、大脳(主に前頭葉)、脳梁、視床下部等で分裂・自己増殖を行う。 脳細胞のエネルギー・代謝を利用して増殖していくのだが、それに抵抗しようとする細胞は、アレルギー反応として通常以上に脳内の信号をシナプスを通じて送り出す。 薬物濫用患者の脳内に見られるような、パニック状態が発生することになる。 大脳は神経系から送られてくる外部情報、海馬から引き出される記憶情報、視床下部が分泌する脳内物質からくる感情・情動の混乱に襲われることとなる。 この恐慌状態を沈静化させるために、脳内には大量の鎮静物質、快楽物質が分泌される。 ここまでは現象として観測される医学的事実と言える。 議論を呼んでいるのは、ここから脳がとる判断の原理である。 b) 恐慌状態を回避するための、自己判断停止と判断依存 脳が「現在自己では正確な外部情報の認識、記憶・自己規範との照らし合わせ判断、感情の把握が不可能な状態にある」と判断した時、どのような手段でパニック状態を回避するか、心理学的見地からは以下のように解釈されている。 即ち、誤った自己判断による危険行動を避けるため、集団または自分がいま接触している相手の判断に完全に委ねきる。 このメカニズムを「自己防衛のための依存」と呼ぶ。 自分の判断プロセス自体に強度の疑義が生じている場合、集団の構成員もしくは自分とその時点でコミュニケーションを取れている他者に、判断を(一部でなく)完全に委ねきる。 それを阻害しうる、通常の疑義システム(経験・信条・論理的思考・常識、規範との照らし合わせ)を全て緊急停止する。 他者の助言を批判的に分析し、自分に有効と思える情報を取捨選択して取り入れるという通常のプロセスを、深層意識の中で自ら完全放棄してしまうことで、他者からの庇護をより多く得ようという、恭順反応とも言える。 自分の批判的判断力自体の信頼性が失われていると脳が感じた時、集団のリーダー、他のメンバー、もしくは現在自分と意思疎通の可能な相手にいっそ任せきった方が生存確率が高まるという、自己防衛的判断を脳が行っているというのだ。 これが現在のところ心理学的解釈の通説とされている。 c) 依存状態の一部定着 一方で、こうした「脳の静かな恐慌状態」回避のための自己決定委託現象はあくまでも緊急避難的、短期的な現象であるとする見方も存在する。 しかしMC−A2の症状で見られるように、ヒグチ・ウイルスの感染者(特に発症者である若い女性の多くの場合)は、3週間程度も安定して特定もしくは不特定の他人からの示唆を全て受け入れてしまう状態が続く。 そして注目すべき点は、感染者によって、特定の相手の指示を優先して受け入れる「安定委託」パターンと、不特定多数の他人の指示を何でも受け入れる、「不特定恭順」パターンが存在する。 これらの現象の説明について、動物生態学者は「刷り込み」という現象を使って説明を試みている。 つまり感染者が自己決定委託現象を見せ始めた初期の段階で、一人または一定の小集団から、反復して何度も指示を受け取った感染者の場合は、一時停止していた疑義システムが再構築される中でも、「その者の言葉は今後も無条件に受け入れる」という判断がなされる。 鳥の雛が自己の疑義システムを構築する前に認識した対象を「親」と判断し、以降その対象を疑義システムの照らし合わせから除外するように、その特定の相手を「指示者」として持続的に認識してしまうということだ。 脳の「緊急避難的委託状態」と、「通常状態への復帰を模索する期間」のスムーズな統合という観点から、精神医学の立場からもこの説は支持されている。 「委託状態」のあいだの自分の思考、行動が、再び稼動しようとしている疑義システムの中にある本人の信条・常識・感情とあまりにも対立していた場合、本人の意識は統合プロセスのなかで大変なストレスを感じてしまう。 極度の対立は本人の人格乖離をも生み出してしまいかねない。 (実際に、発症期間の記憶を喪失してしまっている患者も存在する) この事態を回避するため、折衷案的なアプローチが深層意識の中でとられる。 「今後、人の言うことは以下のフィルターを通さなければ受け入れてはいけない。しかし、これまでこの人の言うことを聞いてきた自分もまた、間違ってはいない。つまりこの人の言うことだけは、無条件に受け入れ、従ってもよいのだ。」 という、折衷案的認証がなされる。 これを精神医学では「疑義システムのバイパス」と呼ぶ。 もし感染者が脳内恐慌状態の時点で、特定の相手に反復的に指示を受けなければ、感染者は緩やかに「誰の指示でも受け入れる状態」から「誰の指示でも批判的に判断する」状態に復帰していく(発症後、1〜2週間程度)。 ヒグチ・ウイルスの症状については、未だ多くの謎が残されているが、現在のところ、 上記の発症→「脳内恐慌状態」→「決定プロセスの委託状態(疑義システムの緊急停止状態)」→「依存状態の一部定着(疑義システムのバイパス構築)」 という経緯をへて、感染者が急性過剰依存を見せるという仮説が、もっとも有力視されている。 ( 報告その3に続く ) 潤也の担任。4組の永友先生も、潤也の早退をすんなり受け入れてくれた。 「どうも他のクラスではこの時期に風邪が流行っているところもあるみたいだからな。体調が悪いと感じたら、早めに休んで体力を回復しろ。ただし、早退して家でゲームをやってたりしたら、承知せんからな。ちゃんと寝ておくように。」 放課時間に約束した通り、下駄箱の前で支倉真弓を待つ。 数分の待ち時間が、ものすごく長く感じられる。 ひょっとしたら、全部嘘だったりしないだろうか・・・。 角から大樹と圭吾が爆笑しながら出てきたりしないだろうか・・・。 真弓がそんな意地の悪い悪戯に加担するわけがないとわかっていても、不安な妄想はおさえつけることが出来ない。 何度も様子を見に、2組の教室まで様子を見に行こうかと思ったが、潤也は我慢して立っていた。 かかとを貧乏ゆすりのように一定のリズムで下駄箱に打ちつけ、気を紛らわせながら、不安な妄想と戦っていた。 潤也の心配をまるで知りもしない真弓は、先ほどと同じ柔らかい笑顔を見せながらやってきた。 「八木原く〜ん。お待たせ。部室の連絡板にも早退のこと書いてこようかと思ったんだけど、道に迷っちゃった。エヘへ。」 「部室?・・・部活一緒の友達とかに伝言頼めばよかったのに。」 「あっ・・・そうだった。ウッカリ。」 穏やかに微笑む支倉真弓。 まだ左耳の後ろは寝癖が髪の毛が跳ね上がっている。 おでこには、まるでオテンバ少女のように、ななめにバンドエイドが貼られたままだ。 手ぶらで帰ろうとする真弓に、ついつい潤也はあれこれと聞いてしまう。 まるで手のかかる子供のようだ。 「鞄は・・・今日は、教室に置いて帰るの?」 「鞄ねー、今朝、持ってくるの忘れちゃった。最初の授業が始まるまで、全然気がつかなかったよ。ドジだよね〜。うふふ。」 「それ・・・、相当だね。」 「うん〜。困っちゃった。」 ニッコリと八木原を見上げる真弓。 二人は並んで学校を出て、駅を目指した。 潤也にとっては一生の思い出になりそうな、幸せな時間だ。 駅まで徒歩で15分程度の道のりだが、何度かよろめいて転びそうになる真弓。 潤也の心配をよそに、能天気に鼻歌を歌っている。 駅のすぐ近く、賑やかな街並みの大通りに出ると、歩道がレンガ造りになる。 ついに真弓はそこで、つまずいて転んでしまった。 ドッテーンとマンガのような音がするような、派手な転び方だ。 「だっ、大丈夫?」 潤也が駆け寄る。 「いったーい・・・。うん、でも大丈夫。」 風邪でふらついていても、生まれ持った運動神経はこういう時には現れるのか、真弓は転び方に比べて、怪我はしていないようだった。 膝小僧だけ、少し擦りむいて皮膚が白くなっている。 「膝・・・、痛くない?血は・・・出てないみたいだけど。見せて・・・。あっ」 潤也は思わず声を出してしまった。 体の向きはそのままに、真弓が膝を立て、潤也が診やすいように彼の方向に向けたせいで、制服のスカートが捲れ上がってしまう。 色白の足の付け根と下着が露わになってしまった。 悪いと思っていても、どうしても、潤也の目は純白のパンツに行ってしまう。 ゴクリと生唾を飲み込んでしまった。 赤い顔で視線をチラチラと動かす潤也の様子も全く解さないで、真弓は手のひらと膝の頭に、フーフーと息を吹きかけて埃を飛ばした。 真弓が起き上がるのを、手をとって助ける潤也。 紳士ぶって行動しているが、頭の中ではさっきのパンツと脚線美が何度もリプレーされている。 直接真弓の手に触れても嫌がられなかったことで、さらに勇気が出た。 「あの、心配だから、手をつないで歩こうか?」 「う?・・・うん。八木原君がそうしたいんなら、いいよ。」 また潤也の心臓が、鷲掴みにされたような気がして息が止まる。 「い、いや、僕がそうしたいっていうか、また転ばないように、支倉のことを心配して言ってるんだよ。」 「あ・・・、そっかー。ありがとう。」 目をパチクリさせた真弓は、嬉しそうに自分から潤也の左手を握り締めた。 まるでカップルのように、二人は手をつないで歩いた。 今度は潤也は、自分が手に汗をかきすぎていないか心配する。 さっきから心配ごとが次から次へと現れる。 彼の心は今、大きくかき乱されていた。 そんな彼の気持ちを意に介さずに、真弓は上機嫌そうに、つないだ手をリズムにあわせて前後に振って歩く。 もともとはポーカーフェイス気味の支倉が、なぜこれほど陽気に振舞っているのか、潤也は理解できなかった。 それでもこの時間が、少しでも長く続けば・・・、なんてことを願っている。 「あっ・・・。」 不意に真弓が立ち止まる。 駅の近くに立ち並ぶ、雑居ビルの看板に注目している。 「支倉、どうしたの?」 「あの・・・カラオケ、行こうか?寄り道・・・、しちゃってもいい?」 展開が急すぎて、潤也はついていけない。 頭の中で何度か真弓の言葉を繰り返してみて、やっと彼女の言っていることを飲み込めた。 「カラオケ・・・行きたいの?風邪で早退してるのに?」 「あっ、潤也君が真っ直ぐ帰った方がいいって言うんだったら、私、言うとおりにするよ。やっぱりすぐ帰った方がいいかな?」 「い、いや・・・別にいいんだけど。・・・うん。いいよ。いこっか。」 「うんっ!」 首をたてに大きく振る、真弓の無邪気な笑顔がまぶしい。 潤也は正直、不安だらけだった。 この時間にカラオケボックスなんて男女2人で入って、補導にあったりしないか。 潤也はあまり歌が上手くない。流行の歌のレパートリーも少ない(これまでボックスには「西中トリオ」で行って、アニメソングや懐メロを歌う程度だった)。 支倉真弓がカラオケ好きだなんて、聞いたことがない。 大体優等生の真弓が学校帰りにこうした遊びを持ちかけるなんて、彼女の普段の行動からは想像が出来なかった。 それでも潤也は、断れなかった。 さっき手をつないで帰る時間を一秒でも長く伸ばして欲しいと神様に祈っていた潤也にとっては、憧れの美少女、支倉真弓と二人っきりで個室に入ってカラオケというオファーに抵抗出来るわけもなかった。 嬉しそうに雑居ビルに向かって歩きながら、看板から目を離さない真弓。 彼女の視線の先を追うと、カラフルな文字で宣伝がされている。 カラオケの機械自体に手足が生えて歌っている画のまわりを、音符が飛びかっていた。 「寄り道しちゃおー!歌っちゃおー! 通信カラオケのヒットステージ」 狭い階段を上がって3階のカラオケボックスに入ると、二人は茶髪の若い男性店員に、狭めの部屋に案内された。 とりあえずコーラとレモネードを頼んで、ソファーに腰掛ける。 店員がいなくなったあと、潤也はこんな狭くて暗い小部屋で、支倉真弓と二人っきりになってしまったという事実に狼狽した。 本当は毎日、学校や塾での退屈な時間に、真弓とデートする妄想は山ほどしてきた。 しかしそれは全て妄想と潤也がわりきって没頭してきたものであって、シミュレーションとしては全く機能しないことに、今やっと気がついた。 学校を早退してカラオケボックス。 こんなシチュエーションは、全く想定していなかった。 彼は去年の一年間と今年の二ヶ月間、完全に無駄な想像に遊んできたことを悔やんだ。 大体、突然身長180センチになってデートしている自分や、免許もとっていない大型自動二輪の後ろに真弓を乗せて走る自分を想像してきても、こんな状況で、気の利いた話題の一つもでてこない。 近い距離で真弓と目を合わせるのが恥かしい潤也は、とりあえず曲選びに没頭するふりをして、本のページをめくり続けた。 「私あんまり、流行の歌とかわかんないから、八木原君から歌ってくれる?頑張れーっ、寄り道しちゃおー、歌っちゃお〜。」 潤也の気も知らず、真弓は陽気にリクエストをしてくる。 何とかして、女子の前でも恥かしくない、軽快なJ−Popを一曲選んだ。 「えっと、下手だけど引かないでね。サマータイム・コースター・ラブって知ってる?・・・歌うよ。」 座ったまま、歌詞を間違えないように緊張しながら、潤也は歌い始める。 ボーカルとギタリストがハンサムで人気のある、ポップなバンドのアップビートなラブソング。 あまり潤也とは似合わないものを全て集めると、こういう曲になるかもしれない。 店員が飲み物を持って入ってくると、潤也の声は少し小さくなる。 恥かしそうに歌う潤也を、それでも真弓は楽しそうに応援してくれる。 少し体を左右に揺らして、頷くようにリズムをとりながら、手拍子をしてくれた。 少しだけ潤也がノッてくる。級友たちが勉強しているあいだに、こんな楽しい時間を過ごしていていいんだろうか。 「だからーっ 今こそ本気で 恋をしよーォよー二人でホットな 思い出を つーくろーォよー」 一生懸命熱唱していると、下手でも思いが伝わってくるのだろうか、なんとなく、潤也を応援してくれていた真弓の表情が、まるでファンが本物のアーティストのパフォーマンスを見るように真剣味をおびてくる。 潤んだ目で、両手を口に当てて、熱っぽく潤也を見る視線。 見とれるような、憧れるような、潤也を見上げる切ない目。 照れた潤也は、画面に集中して歌うことにした。 「あーついー 夏もふきとぶ キスをしよーォよー二人でこの夏 どこまでも コースタ・・ムグっ!!」 マイクが、潤也のくぐもった悲鳴を、エコーをかけて拾う。 テレビの画面を見て歌っていた潤也の、頭が横から突然抱え込まれ、開いた口が、何か、あたたかいもので急に塞がれてしまったのだ。 唇の端から、チッ、チゥッと断続的に空気が漏れる。 柔らかい感触。顔に当たる暖かい息。 シャンプーの匂いのするしなやかな髪の毛が頬をつつく感覚。 潤也の時間が止まった。伴奏も聞こえなくなった。 八木原潤也は今、支倉真弓と口づけをかわしていた。 張りがあって柔らかい、少女の瑞々しさに満ちた唇から、かすかに漏れる女らしい吐息。 高校生の真弓の、少しぎこちないけれど、とても情熱的な接吻は潤也を背筋から痺れさせた。 潤也も我を忘れてキスに熱中する。 もどかしげに顔の向きを少しずつ変えながら、唇を少しずらしたり真正面からとらえたり。 懸命に羨望のアイドルの、プルプルとしたあたたかい粘膜を味わいつくす。 真弓が、キスを続けながら手を潤也の耳もとにそわせる。 華奢な指が耳たぶに触れると、潤也はゾクッとして身震いした。 思わず両腕を真弓の背中に回して、ゆっくりと抱きしめる。 真弓はそれを受け入れるように優しく目を閉じて、さらに潤也の唇を、音を立てて強く吸った。 魔法がかかったような不思議な時間が少しずつ過ぎて、長く熱いキスが終わろうとしていた。 二人はまだ、チュッ、チュッと小さなキスを繰り返しながら、ゆっくりと体を離した。 興奮が少しずつ鎮まっていき、我に返ると二人はお互い顔を見合わせて赤面してしまう。 真弓が照れ笑いをしながら身だしなみを整え、テレビの画面を向いて姿勢よく座りなおす。 潤也は沈黙を作らないように、わざとらしい咳払いをしながらマイクをソファーに置いた。 思えば、マイクを握ったまま真弓を抱きしめ、キスをしていた。 「暑い・・・ねー。」 耳まで真っ赤な真弓は、顔の前で右手を扇いで風を送った。 「そだね・・・。あ・・・あの・・・、うん。その、・・・なんで?」 思い切って口に出した後、すぐに潤也は猛烈な後悔に襲われた。 自分からキスをしてくれた女の子に、なんでそんなことをしたか訊く・・・。 デート雑誌を読まなくても、それが男として減点材料ということぐらい、潤也にでもわかった。 それでも、潤也は純粋に、なぜ真弓がそんなことをしたのか疑問だったのだ。 クラスでも目立たず、去年は丸一年同じクラスにいても挨拶以上の会話をほとんどしなかった真弓が、なぜ今。 なぜ真弓のように多くの男子の羨望の的となっている美少女が、自分からキスを? 「それは・・・あのね、私、八木原君のこと、好きになっちゃったみたいなの。このあいだからドジばっかり踏んでる私だけど、その、もしよかったら、おつきあいして欲しいって思うの・・・、八木原君、今、好きな人とか、いますか?」 うつむき加減で、時々潤也の方を見上げながら、恥かしそうに、それでもどこか嬉しそうに告白をする真弓。 これまでの潤也の、どんな妄想よりも感動的な、奇跡の告白だった。 舞い上がって走り回りたくなる気持ちを抑えて、潤也は乾いた口の中を湿らせて、生唾を飲み込むと、やっと答える。 「好きな人?支倉さん、実は僕も支倉さんのことが・・・」 「Let’s Dance!」 演奏だけを2週目までかけていたスピーカーから、コーラスの合いの手が入った。 「はいっ!」 急に弾かれたように立ち上がった真弓が、口を開けたまま唖然と見上げる潤也を尻目に両手を振り上げ、ピョンピョンと跳ねながら軽快に踊りだす。 「もっともっとshake!」 「はいっ!」 ヒップホップを意識したような発音で、さらに合いの手が入ると、間奏に合わせて真弓の振り付けはさらに激しくなる。 腰を左右に振って、ソファーの上で跳ね回る。 落ち着いた雰囲気のいつもの真弓ではない、完全に、はじけて人が変わってしまったように、笑顔のダンサーは愉快に腰をクネらせていた。 時折、バランスを崩してふらつく真弓を心配しながらも、潤也は言いようのない脱力感に襲われた。 なぜこんなことになっているのか、おおよその見当がついてきた。 何かおかしいとは思っていた。 こんなに旨い話があるわけないと疑っていた。 それでもどこかで期待していた。 ひょっとしたら、真弓はずっと潤也の想いを知っていて、彼女の方でも彼のことを憎からず思っていたんではないだろうか。 風邪気味の彼女を気遣う潤也を見て、病気で弱気になっていた真弓は自分を守ろうとする彼の優しい行動に惚れたのではないだろうか。 そんな都合のいい、勝手な解釈を、無理矢理作ろうとしていた。 今ここで、はっきりとしたのは、真弓は本心から潤也にキスをしたわけでも、愛の告白をしたわけでもないということ。 なぜそうなったかは見当もつかないが、彼女は今、単に外部から与えられた指示や申し出を、何でも受け入れるという、不思議な風邪にかかっている。 一緒に早退しようと言われれば早退し、寄り道しようという看板を見れば寄り道し、恋をしようと言われればそれが歌の歌詞でも突然の恋に落ち、キスをしようと言われれば、本来好きでもない相手に対してもキスをする。 踊ろうと言われれば、純情な男子が一世一代の告白をしようという途中でも、構わず踊りだす。 そんな風邪があるなんて、聞いたことがない。 もしかしたら、これは風邪ではなく、別の病気かもしれない、真弓の心の中の病かなにかかもしれない。 しかし、そんな病気があるなんてことを、信じられるのかと聞かれたら、答えは決まっている。 今、両手を腰に当てて、小さなお尻をプリプリとリズミカルに振って踊っている支倉真弓が、正気の彼女であるという話よりは信じられる。 陸上部の有名人で優等生のスーパー美少女が、本気で八木原潤也に恋をするという話よりは信じられると答える。 それはとても残酷な、悲しい判断だけど、正しい判断だと思える。 潤也は10センチほど、ソファーからずり下がってへたり込んだ。 天にも昇る思いをさせられて、地に叩きつけられた。 これは映画のヒーローだって、ヘコむだろう。 相手が大スター、支倉真弓だっただけに、この落差は大きかった。 「支倉、座って。」 「ん?いいよ。」 汗ばんだ彼女が、呼吸を整えながらソファーに腰を下ろす。 カラオケの演奏も停止させた潤也は、しばらく何を話すか思い悩んでから、ゆっくりと話し始めた。 「支倉さん。今日は色々連れまわしててゴメンね。いや、カラオケ行きたいって言ったのは支倉なんだけど、僕は君を無事に家まで送るよって約束したんだから、寄り道なんかさせちゃいけなかったんだ。君はすぐ家に帰って、部屋で休んでた方がいいんだよ。」 「うん・・・。そうする。でもね、さっき『寄り道しちゃおー、歌っちゃおー』って・・。」 「そう、それなんだ。今、君はなぜか、誰かに何かを言われると、多分、全部真に受けちゃう。全部信じちゃうし、従っちゃう状態なんだ。だから、出来るだけ家にいて、大人しく休んで、それで何日かして、まだその状態が治らなかったら、お医者さんに診てもらった方がいいと思う。」 「う・・ん、八木原君がそう言うなら、そうする。」 汗を吸った制服のシャツが、真弓の胸もとで肌に貼り付いている。 少し彼女の肌が透けて見える。 今の真弓は、きっと何でも言うことを聞いてくれる。 潤也は邪な欲望と必死に戦っていた。 「これから家に帰るまでの間、人の言うこと、書いてあることとか放送されてることを、何でも受け入れたりしちゃ駄目。それが出来ないようだったら、出来るだけ何も見ない、聞かないようにしながら帰ろうか。携帯番号を教えてくれたら、後でご両親が帰ってきた時に、僕から事情をなんとか説明するから、それまで、人の言うことをそのまま従ったりしちゃ駄目だよ。わかる?」 真弓は真面目に潤也の話を聞いていたが、少し首をかしげて、目をパチクリさせた。 「うん・・・、だいたいわかるけど・・・、あのね、私、今、ずいぶんお馬鹿になっちゃったみたいで、一つわかんないことがあるの。聞いてもいい?」 「うん。何でも答えてあげるよ。」 優しく、子供に諭すように真弓に応じる潤也。 出来る。自分には真弓を守ることが出来そうだ。 やっぱり支倉真弓の彼氏になんて、世界がひっくりかえってもなれないみたいだけど、それでも、大好きな彼女を守ることが出来る人間になれたら、それだけで満足出来る気がした。 「あの・・・、『誰の言うことも今はそのまま従っちゃ駄目』って言ってる・・・、八木原君の言うことは、従っていいの?従っちゃ駄目なの?貴方の言うとおりにするから、教えて。」 ・・・。 やはり、いくらボンヤリしていても支倉真弓の本来の地アタマの良さには、潤也はかなわなかった。 自分の言っていることの矛盾に、全く気がついていなかった。 「そっか、あの、ゴメン。ちょっとさっきの訂正ね。あの、僕の言うことは、聞いてくれていいよ。そうでないと、どんなアドバイスも意味ないか・・・。うん、しょうがない。僕とかご両親以外の人の言葉に、そのまま従っちゃ駄目。」 「わかった〜。八木原君と、お父さん、お母さん以外の人の言うことは、そのまま従わないように頑張るね。でも両親と、八木原君の言うことは、なんでもきくね。それでいい?」 大きな目で、嬉しそうに話す真弓。 八木原は、少しまた誘惑に負けそうになった。 彼女の、少し肌が透けて見える胸もと、さっき思わず見てしまった白い綿のパンツ。 キスしたときの唇の感触。心地よい匂い。しなやかな体の抱き心地。 八木原君の言うことは何でも聞く・・・。 今の言葉と数々の鮮烈な記憶が、潤也の頭の中を駆け巡る。 こんな誘惑と、これから潤也は戦わなければいけないのか。 潤也の前途は多難に思えた。 「はい、こちらお釣りです。ありがとうございましたー。」 茶髪のお兄さんは、お釣りを手渡す瞬間、カウンター越しに顔を伸ばして潤也の耳もとで囁いた。 「おいっ、少年。かっわいい彼女連れて、幸せだねー。他の部屋とか行き来するたびにドアのガラスから思わずチラ見しちゃったけど、ラブラブでノリノリのカラオケタイムだったみたいじゃん。あんまり細けぇこと言わないけど、学校サボってばっかじゃ駄目だぞ。彼女大事にしてあげてね。」 軽いノリの店員が、潤也の背中をポンと叩く。 しかし難問を抱えて足取り重く歩き出す潤也は、曖昧な笑みを浮かべて頷くしかなかった。 「わざわざおうちまで送り届けてくれて、ありがとう。八木原君、駅までの帰り方はわかる?」 都内にしてはずいぶん大きめの、洋式建築の一軒家の前で、真弓がお礼を言う。 真弓の私生活を少しでも理解できるだけで、今日のもともとの目的は達成したんだ。 当初の目的、それから比べたら信じられないぐらい、今日の収穫は多かったはず。 潤也は自分に言い聞かせる。うっかりアニメソングでも歌って、「目の前の敵を葬り去れ」とか言っていたらどうなっていたことか・・・。 自分はラッキーだったのだ。そう思おうとしていた。 「大丈夫だよ、それより、ちゃんと休んでね。出来るだけ寝ておいた方がいいと思うよ。」 「うん。そうするー。携帯に電話くれたら、たぶん起きると思うから、かけてねー。うちのお母さんもお父さんも、今日は帰り、遅いと思うけど・・・。どっちみち私は部活で遅くなると思ってるだろうし。遅い時間でよければ、電話ちょーだい。じゃーね。おやすみなさい。」 高級そうな樫のドアを、手を振りながら閉じる真弓。 ドアが閉まって、少しして門灯がつくと門の前には結局、正義の味方にも魅力的なワルにもなれなかった、エキストラが1人残された。 今の真弓の状態を利用して、よからぬお願いをしてみる。 そんな大それたことが出来ないのなら、潤也の指示からも真弓を解放してあげる方法を考え出す。 どちらでもない、今の中途半端な状況。 なんとかしなくちゃ・・・。 番号を登録したばかりの携帯を、両手で大切そうに握り締めた。 OA機器の営業、新井保が外回りの合間に一息つこうと入った喫茶店「エデュアール」は、どことなく、いつもよりも落ち着かない雰囲気だった。 彼が来店し、アイスコーヒーを注文してから今まで、10分程度しかたっていない。 その間に厨房で3回も、皿が割れる音がした。 これから暑くなってくるという五月中旬のこの時期、珍しく四方でクシャミや鼻をかむ音、すする音がする。 妙にそわそわする自分の気持ちを落ち着けようと、新井は洗面所で顔を洗うことにした。 ガチャッ 「キャーッ、入ってます!」 耳をつんざくような悲鳴が上がり、新井はおもわず飛び上がる。 洗面所のドアノブを持った手を急いで振り戻して、ドアを閉じる。 「すっ、スミマセンッ!」 新井は慌てて、閉じたドアから数歩離れると、頭を抱えてしゃがみこんだ。 うわーっ、やっちまった。 洋式の便器に座っていたのは、ストレートロングの髪の、かなり綺麗なお姉さん。 ブラウンのロングパンツを膝の下までおろして、用を足しておられた。 綺麗なお姉さんのあんな姿、滅多に見られるものではないけれど、後が怖い。ド叱られるかな?やっぱし。 ・・・ん? ドアを開けた瞬間に感じた違和感を思い出して、新井は少し冷静に、考えをまとめようとする。 何かがおかしい。 新井は立ち上がって、自分が開けようとしたドアをじっくり凝視する。 どう見ても、ドアにはシルクハットの紳士の横顔が描かれ、「GENTS」と洒落た筆記体で書いてある。 ここ「喫茶エデュアール」は、女性への気配りが売りで、若い女性に人気の店だ。男女兼用のトイレなんて有り得ない。 百歩譲って女性用が使用中だったために、止むを得ず女性が男性用トイレを使ったとしよう。 有り得ない話ではない。この時間帯、店内は見渡す限り女性客ばかりだ。 しかしそれでも、それでも中から鍵はちゃんとかけられるはずだ。 これは冤罪だ! 腹を立てた新井は、少し強い調子でドアをノックする。 「入ってまーす。」 ・・・ノックが帰ってくるのかと思ったら、声で返事が来た。 しかも、ついさっき男性にトイレ中にドアを開けられたばかりの女性にしては、ずいぶん呑気なトーンだった。 「いえ、入っているのはわかってるんです。さっきはノックもせずに開けてしまって申し訳なかったけれど、貴方は男性用のトイレに入っているんですよ。しかも鍵もかけていない。そちらのミスも多いんで、悪く思わないで下さいね。」 水を流す音がする。 少しして、トイレのドアが開く。 「はい。悪く思いません。あっ・・・本当に男性用でしたね。間違えてました。あと、鍵もかけるの忘れてました・・・アハ。これから気をつけます・・・。」 女の人が照れ笑いを浮かべながら、頷くように小さく頭を下げる。 新井が恐れたような事態にならずにすんで、彼もホッとする。 よく見ると、なかなかの美人だ。 黒いTシャツとローライズの七分丈パンツ。カジュアルな格好から見ると、近くに住んでいる若奥さんだろうか? つい先ほどの露わな太股を思い出して、彼も思わず赤くなる。 「い、いえ、いいんですよ。こちらこそ、ノックをしないですみませんでした。」 二人はお互いペコペコしながらすれ違う。 彼女が数歩、歩いた時、不思議なことはまた起きた。 ローライズのパンツが、どうもローライズ過ぎるように見える。 いや、歩くたびにズルズルと落ちてきて、お尻の谷間が露わになる。 完全に股下までベルトの位置が落ちてしまった。 それでも歩こうとする、美人の若奥様。 「ちょ、ちょっと。あのっ!ズボンっ!」 大声を出せば、彼女がとんでもない姿で、注目を集めてしまう。 声の大きさに注意をしながら、それでもうわずった声で彼女を制止した。 「キャッ、ヤダ、も〜。なんか歩きにくいと思ったら・・・。チャックを閉めるのとホックするのと、ベルトを締めるの、忘れてた・・・。」 彼女が慌ててズボンを引き上げて、そそくさと自分の席に戻っていく。 ・・・ノーパン? どうでもいいけど、なかなかキレイなお尻だった・・・。 彼女の前にいたら、どんな光景だったかな? また一段と赤くなる、新井保。 火照った顔を洗いに、トイレに入った。 「・・・。」 トイレに入った新井は呆れた。 洗面台のリンクでは、手を洗ったまま、水が出しっぱなしになっている。 そして鏡の前には、チャコール色の小型のハンドバッグが、置きっぱなしになっていた。 ウッカリにも・・・、忘れっぽいにも、ほどがある・・・。 少し注意すべきだと思って、蛇口を閉め、バッグを手に取るとさきほどの女性のテーブルまで足早に歩く。 しかし、そんな中、また新たな事件が発生した。 「わーっ、ゴメンなさい。」 まるで昭和の喜劇王のように、派手に転んだのは、黒い制服に身を固めたウェイトレスさん。 膝をさすりながら立ち上がった彼女は、なんと奇跡的にも頭の真上にきれいにイチゴサンデーをかぶっていた。 コントのような光景に、新井は思わず感心した。 「またやっちゃった・・・。ごめんなさい、作り直します。あ、コーヒーが、かかっちゃいました?ごめんなさい、クリーニング代を・・・、今すぐお洋服をお拭きします。」 コーヒーが服にかかった、メガネの若い女性はしかし、それほど怒っていないようだ。 ガラスが割れなかったのが不幸中の幸い。 店内のお客さんたちは、微笑んで彼女の謝罪を受け入れているようだ。 それでも新井一人は、そのまま納得出来ずにいた。 「またやっちゃった」って・・・、彼女、大丈夫だろうか? こんなこと、何度も起こっていいことなんだろうか? 厨房から先輩らしきウェイトレスが慌てて飛んでくる。 「申し訳ございません。今すぐお拭きいたします。あの、お召し物があまりにも濡れてしまっていましたら、申し訳ございませんが替わりの服が届くまで、今あるのは・・・すみません。当店の制服に着替えて頂けますでしょうか?」 先輩店員さんの申し出も、どこかピントが外れているように聞こえる。 新井はまるで目の前で不条理劇を見せられているような気がして、頭が痒くなった。 「着替える・・・。はい。いいですよ。」 ショートカットで眼鏡をかけた女性は、頷いて立ち上がった。 黒ぶちでファッショナブルなデザインの眼鏡。 スレンダーな体の線をきれいに見せたベージュのカジュアルスーツ。 近くにあるデザイナー学校の生徒のような雰囲気の、クールな女性。 その彼女が、あろうことかその場で、コーヒーのかかった服をおもむろに脱ぎ始めた。 ジャケットを脱いでタンクトップを捲り上げると、他のお客さんの前で、黒いブラジャーが露わになってしまう。 こんな光景を、至近距離で凝視していたら、周りにどう思われるかわからない。 いらぬ誤解を与えないうちに、新井はさきほどの女性のテーブルに向かった。 「あの・・・。何度もすいません。このハンドバッグ、あなたのものですか?洗面所の水も流しっぱなしだし、失礼ですが、何か問題でもあるんでしょうか?過労とか、心配事とか、さきほどから見ていて、あなたの行動がとても心配なんですが。」 「あっ、バッグ。私・・・バッグ忘れてました?すみません。・・・っていうか、私、バッグ持って来てたんですね。忘れてました。」 若奥様風の女性が、キューティクルの輝く黒髪を掻きながら、口をすぼめてバッグを凝視した。 開いた口がふさがらない新井の横で、ブシュンッと大きなクシャミの音がする。 振り返ると、隣のテーブルでは、マダム風の女性が、クシャミの勢いを止められずに、顔をショートケーキに突っ込ませていた。 ボンヤリと起き上がった彼女は、テーブルのナプキンに気がつかないまま、自分のスカートの裾で顔の生クリームを拭き始める。 豪華な花柄のパンツが丸見えになった。 新井保の冷静な思考力は、限界まで追いやられつつあった。 つきあいきれん。・・・戻るか。 ボンヤリと、しばらく席を空けている自分のテーブルに目をやる。 テーブルには、新井が注文したアイスコーヒーではなく、味噌煮込みうどんがドンと置かれて湯気を立てていた。 この店のメニューに、味噌煮込みうどんがあったことを、新井は初めて知った。 注文間違いにも・・・ほどがあるだろう。 息抜きのつもりで立ち寄った喫茶店で、ドッと疲れを感じた新井は、ハンドバッグを見つめながら遠い目をしている若奥様の前のイスに、倒れこむように腰を下ろした。 賑やかな店内のあちこちから飛び交う、様々な声や騒音が、保の疲れた頭に響く。 「あのー、お釣り、1万円多いですよ。」 「カルボナーラ、4人前も、私一人で頼んでましたっけ?あれ、どうでしたっけ?」 「クッシュン、ブッシュンッ!」 「キャー、またアイスがーっ。」 「お客様、申し訳ございません。とりあえず当店の制服に・・・。」 「パリーーンッ、ガッシャーン。」 バンッ!! 我慢出来なくなった新井保が、両手をテーブルに叩きつけた。 「静かにしてくれっ! コーヒーぐらい、落ち着いて飲ませてくれよっ!」 2秒ほどして、店内の女性客たちが全員声を揃えて答えた。 「はいっ。静かにします。」 その後の喫茶店は、急に水を打ったような静寂に包まれた。 BGMで店内にかかっていたシューベルトのピアノ曲まで、誰かに切られてしまったようだ。 いつの間にか半裸の女性が、忍び足で新井の隣にソロソロと歩み寄る。 先ほどの先輩ウェイトレスだ。 音を立てないように気をつけながら、新井の耳もとで小声で話す。 「大変失礼致します。あの、制服・・・、足りなくなりつつはあるのですが、お客様は、当店の制服に着替えるご必要はおありですか?」 「僕?制服?・・・ハ、ハハハッ、いいえ。・・・結構です。」 疲れた笑みを浮かべて首を横に振った新井保は、テーブルに突っ伏した。 頭が割れるように痛いので、今日は直帰することにした。 いつ真弓に電話をかけようか・・・、彼女のご両親が帰ってこないうちにかけては、何度もしつこく電話をかけるようなことになりかねない。 それだけは避けたい・・・。 潤也は携帯を前に正座で腕組みをして、悶々としていた。 突然、大樹から電話がかかってきたのは、そんな時だった。 景気のいいアニメの主題歌が大樹からの着信音だ。 「何?大樹。」 「おっ、なんかいつもより電話でんの早いじゃん。今日、潤也早退してたでしょ?大丈夫?」 「う、うん。大丈夫。何。わざわざお見舞いの電話?」 「いやさー、なんかね・・・。圭吾がまた自慢げに電話してきたから、面白いネタでもあるのかと思ったんだよ。でも珍しく空振り。なんか大ホラ吹かれちゃったよ。だから・・・、ちょっとがっかりだけど、今朝の話も、実は嘘なのかもしれない。だとするとさ、きっと西中トリオは今のところまだ、3人とも童貞だよ。潤也も元気出せよ。」 大樹は・・・、何かの理由で、潤也が落ち込んで早退したとでも思っているのだろうか? 長い付き合いにもかかわらず、相変わらず大樹の思考はよく理解できない。 潤也は体の力が抜けた。 「だってよ。あいつ、今林以外の女とも、今日ヤッたとかいってるんだぜ?なんでも圭吾を今林と同じような目で見る女がいたから、モーションかけたらすぐヤレただってさ。嘘クサ・・・。俺は無敵だとか、ふかしてたよ。それどころか、今日は早退しちゃったからチャンスなかったけど、明日、支倉真弓が来たら、あいつだって落とせるはずだとか、言ってたぜ。ほら、支倉って、あの陸上部の。お前も去年は同じクラスで、好きだとか言ってたじゃん。それでさ・・・。」 ダラダラと話し続ける大樹の声が途切れる。 潤也が、震える指で、いつのまにか通話を切るボタンを押していた。 携帯がカーペットの上に転がる。 圭吾が、何かに気がついた。 潤也と同じことに?それとも潤也の知っている以上のことに? 圭吾が・・・。 支倉真弓を狙っている。 しばらく俯いてうなだれていた潤也が、正座をしたまま、自分の太ももを強く、爪を立てて握り締める。 だったら、誰かに取られるぐらいだったら・・・。 裏面を上に向けて転がっている携帯に、再び飛びつく潤也。 考えがまとまらないうちに、つい支倉真弓の番号を押してしまう。 さきほどは自分のことをエキストラとすら思った潤也が、今、自分のなかで配役を書き換えようとしている。 スポットライトを浴びてきた舞台上の羨望のヒロインを、誰かに奪われるぐらいだったら、自分が・・・。 呼び出し音を聞きながら、潤也は心のどこかで、真弓が電話に出ないことを密かに祈った。 スピーカー部分を耳に押しつけすぎて、汗が携帯から手に伝う。 8回目の呼び出し音の後でしかし、真弓は無邪気な声で電話に出たのだった。
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