
折目正 49歳
海川商事の法務部勤務。勤続27年の大ベテラン。几帳面な性格で今まで無遅刻・無欠席。家族は妻と中学生の娘一人。髪が薄いことを娘にからかわれてショックを受けている。年頃の娘との接し方がわからず悶々とした日々を送る。
「私、お父さんみたいな人とは絶対結婚したくないし」
日曜日の夕食時、私は娘が唐突に発した一言に衝撃を受けた。隣では妻が慌てながら、「これでもお父さんは、若い頃は髪の毛がフサフサだったのよ」と、フォローとも慰めとも取れる言葉を繰り返している。
娘は見るからに寒々しい私の頭にチラっと視線をやり、「いっそのことスキンヘッドにしちゃえばいいのに」とつぶやいた。近頃の若い娘は容赦がない。
残りわずかな毛髪を伸ばし、薄くなった頭頂部を隠すように毛をのせるのが、ここ5年来の私のヘアスタイル。たしかに短髪も考えなくはないが、ますます薄毛が目立ちそうで踏み切れないのだ。返答に困り、
「親に向かって、なんだその言い草は」
と、声を上げて叱責するも「だって本当のことだもん」と娘にはまったく聞かない。
「だからさ、お父さん。絶っ対に私のシャンプー使わないでよ!」
「何をぬかすか。この前まで、お父さんと一緒にお風呂に入っていたくせに」
「チョー最悪!」
中学2年生の娘は、プイっと食卓を離れて自室へと戻っていく。思春期の娘に今の言葉はなかったか。妻からも「お父さん、女心をチョーわかっていないわね」とニラまれてしまった。
海川商事に勤務して30年以上が経つ。私が入社した時分は社員数も今の1/5程度しかおらず、社員は会社を成長させるべく一丸となって働いた。「愛社精神」などと言うと、時代遅れと笑われるであろうか……。家庭は妻に任せきりにしていたが、休日ともなれば一人娘の裕美子をよく動物園に連れて行ったものだ。
「ライオンさんは、おとうさんみたいに髪がたくさんあるね」
そんな娘の笑顔も私の髪の毛も、今となってはすっかり過去の話である。
翌朝は娘と一切会話することもなく、家を出た。妻は娘と仲がよく、多勢に無勢で立場は不利。近頃は、家庭より会社のほうが居心地がよいと感じてしまう。
「それはよくありませんね」
オフィスにひとり残って残業をしていると、外勤帰りのシステム課のイ毛メンと顔を合わせた。「取引先に頂きました」という差し入れの惣菜をもらい、世間話ついでに家族の愚痴をこぼすと、彼は思いのほか真剣になって話を聞いてくれ、うーんと首をひねったのである。
「わかってはいるんだけど、娘も難しい年頃でなぁ」
「ストレスは毛髪にもマイナスですよ」
ハッ! イ毛メンの言葉に、思わず私は頭を抑えた。イ毛メンは海川商事の伝説の男である。彼は20代後半にして薄毛と中年太りに悩まされていたが、ライフスタイルとやらを見直すことで増毛に成功、さらに贅肉までをすっきり落とした。そして我が社のマドンナと言われていた女性社員のハートを射止め、婚約に至ったのである。イ毛メンの話、大いに聞く価値あり。
「自宅でも気が休まらないとなると、仕事のストレスを発散する場所がありませんよね。オンとオフが切り替わらないと自律神経のバランスが崩れやすくなって、毛根にも悪影響を与えかねません。ストレスの蓄積が抜け毛を促進して、それを娘さんにからかわれて、またイライラしてしまう。悪循環になってしまいます」
イ毛メンの話は家族との関係にも繋がることだと、私はふと思った。家にいたくないのを理由に家族と距離をおくと、ますます親子間、夫婦間に溝が生まれる。溝は避ければ避けるほどに広がるから、気がつけば後戻りできなくなってしまうかもしれない。こちらも悪循環だ。
「よし、帰ることにするよ」
今日の仕事はとっくに終わっている。自宅に戻っても、娘は生意気で妻は私の味方にはなってはくれないだろう。それでも今なら、まだ修復可能だ。明日の仕事よりもやらなければならないのは、娘と妻の顔を見ることなのだ。
「ただいま!」
珍しくケーキを片手にする私の姿を見て、妻は「まぁ、お土産なんて珍しい」と笑顔になった。そうか、たったこんなことで妻は幸せな気分になれるのか。
「裕美子、お父さんがケーキを買ってきてくれたわよ」
箱の中身は娘が好きなモンブランばかり。「裕美子が小さいころも、こんな風にケーキを買ってきたわね」と苦笑いされた。
「お父さん、やるじゃん」と幼子のように、娘もはしゃぐ。平日に家族でひとつのテーブルに集まるのはずいぶん久しぶりだった。
「そうそう。おとうさんにシャンプー買ってきたのよ」
妻は頭皮によいという自然派シャンプーを風呂場から持ってくる。いつもの私なら、昨夜の話を思い出して「嫌味か」と機嫌を損ねていたことだろう。だが今日は、温かい雰囲気に包まれているせいか、思考にもトゲがない。「今までのものとはどう違うんだ?」などと言いながら、素直に受け取った。
「裕美子のシャンプーは香りばかりが強くて、頭皮にはあまりよくないんですって」
「知らなかったよ、ありがとう」
「それ、選んだのは私なんだよ。かっこいいお父さんになってよね」
娘は妻そっくりな顔をして微笑んでいた。家族が冷たいのではなく、娘の成長に戸惑って壁を作っていたのは私自身のほうだったかもしれない。
「裕美子」
「なに?」
「お父さんの髪がライオンみたいになったら……みんなで動物園に行こうな」